第七十八話 みそのの用事
「ごめんくださーい」
みそのが訪いの声をあげると、すぐに奥から軽快な足音が聞こえてきた。
「ああ、いつぞや杉田先生とご一緒された……確かみその様で御座いますね?」
「はい、呉服町のみそのです。その節は大変お世話になりました」
みそのが出迎えた若侍に笑顔で頭を下げると、若侍は途端に頬を染めてしまう。
頭を下げるみそののうなじに見惚れているのだ。
日頃女性に接していない事が容易に想像出来る。
「今日は特に約束はしていないのですが、辻先生とお会い出来ますでしょうか?」
「…………」
若侍は続くみそのの問いにも気付かずに、顔を赤らめぽぉっとしている。
どうやらみそのが訪れた先は、無外流剣術道場、辻月丹の道場だったようだ。
「もしかして辻先生はご不在でしたか?」
みそのは上の空な若侍に問いを重ねる。
「へ? あ、いや、先生は不在ではありませぬっ!」
漸く話しかけられていた事に気付いた若侍は、みそのがビクリとしてしまうくらいの大きな声で答える。
「お、驚かせてしまい申し訳御座いません……。
先生は庭で薪割りをしているところで御座いますので、今でしたらお会いになれると思います」
肩を竦めて固まるみそのに恐縮しながら続ける若侍。
「薪割りですか?」
みそのは思わず聞き返してしまう。
「はい。我等がすべきだと思うのですが、先生は楽しみを奪うなと言って聞かないのです……」
「ふふ、辻先生らしいですね?」
若侍は困り顔で頷きながら、
「ささ、どうぞこちらへ」
と、下駄を突っかけて自らみそのの案内に立った。
一度玄関を出て裏へと回るようだ。
みそのが若侍に案内されて庭へ回ると、みすぼらしい程に草臥れた着流し姿の老人が、背中を丸めた姿勢で小さくしゃがんでいた。
いや、その老人こそ辻月丹資持だ。
『ふふ、兵さんったら相変わらずね……』
みそのの胸の内の声が聞こえたのか、おもむろに月丹か顔を上げる。
そしてその顔が見る見る綻んで行く。
「先生、お客人で御座います」
若侍にうんうんと頷いた月丹は、嬉しそうにみそのへ手招きする。
一度剣を握れば泣く子も黙る剣豪なのだが、今の月丹は何処にでも居る好々爺にしか見えない。
みすぼらしいのを除けばの話であるが。
「よう来たな、みーさん。もう見限られたのかと思っていたところじゃよ」
「ふふ、そんな訳ないじゃないですか兵さん。まあ、流石に毎日顔を出す訳には行きませんが、私はちゃんと約束を守る質ですから安心してくださいな」
みそのがそう言って月丹の軽口に目を細める。
そんなみそのに月丹もうんうんと頷きながら目を細める。
「もう少しで終わるところじゃて、そこへ座って待ってておくれ」
月丹は薪に目配せしながらみそのへ告げる。
若侍の言う通り、本当に薪割りをしていたようだ。
「あの……」
「こんなところで油売っとらんで、さっさと稽古に戻らんかっ」
「ひゃっ……」
手持ち無沙汰の若侍が口を開きかけたところで、月丹の大音声が鳴り響く。
剣の達人が腹から出す声だ。真剣を突きつけられた心地なのかも知れない。
若侍はビクリと身体を縮こませると、這々の体で転げるように駆けて行った。
「もう、兵さんったらあんな言い方して……。
親切に案内してくれたんですよ?」
「ふふ、良いのじゃよ。それに、みーさんはこれを取りに来たのじゃろ? だったら他に目が無い方が良いじゃろうに」
月丹はそう言って懐から巾着袋を取り出した。
そしてその巾着袋をひょいとみそのへ差し出す。
「あ……」
受け取った巾着袋を開けたみそのは、思わず固まってしまう。
中には縞柄の着物地で覆われた筒が入っていたのだ。
みそのが作った専用カバーに入れてある催涙スプレーだ。
ただ、実はみそのが月丹を訪ねた理由はこの忘れ物。
取りに来なければと思いつつ、何かと用事が立て込んで今まで取りに来られなかったのだ。
「もしかして中身みちゃいました?」
みそのが恐る恐る月丹に問いかける。
「うむ。悪いが検めさせてもらったわい。
南蛮渡来の品のようじゃが、南蛮の武器か何かかのう?」
「ま、まあ……武器と言えば武器なのですが……。
これ、兵さんの他に誰か目にしちゃいました?」
抜け荷=死罪
みそのの脳裏に不吉な文字が浮かぶ。
「ワシしか見ておらん……いや、見所に落ちていたのを弟子が手に取ろうとしたのじゃが、その前にワシが拾って懐へ入れたのじゃ。遠目で目にした者はおっても、こうして間近で見た者はおらんぞ」
明らかに抜け荷の可能性の高い南蛮渡来の品だとバレている様子だ。
しかしながら月丹はそれと知りつつ、内密に事を済ませようとしてくれている節がある。
「みーさんの仕事道具なんじゃろ?
流石に将軍様の側に仕える忍びは持つ物が違うのう?」
「忍び……?」
みそのの声が裏返る。
どうやら月丹は、みそのが新之助付きの忍びと勘違いしているようだ。
「違うのかぇ?
幕府絡みの伝手でも無ければ容易く持てんじゃろうに。まさか抜け荷の品って事は無かろう?」
「ま、まさかっ!」
「抜け荷=死罪」との不吉な文字がみそのの脳裏を埋め尽くし、思わず大声を出してしまう。
月丹が思わぬみそのの大声に目を丸くする。
「ここだけの話なんですが、これは新さんからもらった護身用の南蛮渡来の道具なんです。
確かに幕府絡みの品と言えばそうなのですが、私が忍びと言う訳ではないんですよ?」
気を取り直したみそのは月丹に乗っかる形で言い訳をする。
そして身振り手振りを使いながら、
「これはその先端を指で押すと、唐辛子などを練り込んだ液体が噴出して、一時的に相手の目を潰すんです。
武器と言えば武器なのですが、どちらかと言えばその隙に逃げる為の道具なんですよ」
と、催涙スプレーの説明をした。
「ほう。しかし護身用とは言え、使いようによっては……」
「頼もうっ!」
月丹の声が突然の大音声でかき消された。
「某、無外流の高名を聞いて参った斎藤承太郎と申す! そこに御座すは辻月丹先生とお見受けする! 是非とも一手ご教示願いたいっ!」
みそのが声のする方へと目を向けると、そこには如何にも流浪の民といった、無精髭に覆われた古武士然とした男が立っていた。
『それにしてもなんか聞いたことがある名前よね……』
みそのがそんな事を思っていると、
「お主、見て分からんか? 今ワシは大事な話をしとるところなのじゃ。無粋を言うでない。そんなに棒振りしたいのなら他を当たれ」
月丹が面倒臭そうに言い放ち、追い払うように手を振って見せる。
「いや、そこを何とかご教示を! 時間は取らせぬし、庭が不味いとあれば道場でお待ちし申す! 是非にご教示願いたい!」
古武士然とした武芸者がしつこく言い募る。
月丹は「やれやれ」とでも言いたげな表情をみそのに向けると、ひょいっと傍らに落ちていた薪を手に取り歩きだす。
歩き出したかと思ったらそのまま男に向かって一躍し、男の頭上から手に持った薪を一閃させた。
「…………」
ガゴッとの鈍い音とともに武芸者が昏倒する。
「これが無外流じゃ。立ち合いの場所や時間を選ぶなど以ての外じゃ。暫くそこで寝ておれ、全く……」
月丹はブツブツ言いながらみそののところへ戻って来る。
みそのは齢七十三歳になる老人とも思えぬ超人的な動きに驚愕してしまう。
「すまんの、みーさん。ワシのところには偶にああした輩が現れるのじゃ。せっかく遊びに来てくれたと言うに、詰まらん物を見せてしもうたな?
口直しに座敷で茶でも飲むとするかぇ?」
すっかり好々爺の笑みに変わった月丹に、みそのは唖然としながら頷くしかなかった。
お読みいただきありがとうございました。
今回のお話は辻月丹の逸話にあるお話を元に書いたお話です。
と言うよりも、この逸話があった事で辻月丹と言う剣豪をこの物語に登場させたと言っても過言ではありません。
月丹の剣理、為人が良く現れたエピソードだと思っております。
ま、さらっと流してますがね。
お付き合いいただきありがとうございましたm(_ _)m




