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第七十七話 裏腹

 


「ではひろ先生、また明日にでも顔を見せますので、二人をよろしくお願いしますね?」


「ええ。お任せください。とは言ってもこの調子では、逆に私の方が二人の世話になりそうですがね?」


 弘治ひろはるがみそのに応えながら肩を竦めている。

 その視線の先にはせかせかと動き回る千太せんたとお千代ちよ

 二人は先程から養生所の拭き掃除をしているのだ。


 見舞いとは言え、父親の太平たへいは末期の労咳を患っているだけに、感染を考えればそう長い間は一緒に過ごせない。

 それに加えて太平の体力を考慮すると、一日の面会は長くても四半刻(凡そ三十分)が限度だと、先程茶を飲みながら弘治が二人に告げていたのだった。

 それを聞いた千太とお千代は、それならばせめて二、三日は養生所に滞在したいと言い出した訳だ。

 そこでみそのは別の用事を済ませた後、今日のところは一旦呉服町の仕舞屋へ戻り、また明日顔を見せる事となったのだった。


「せめてここに居る間は、べったり父親の側に居させてあげたいものですが……」


 弘治が二人を眺めながらボソリと溢す。


「そうですね……」


 みそのもボソリと返しながらも、二人の張り切る姿に胸が熱くなってくる。

 そんなみそのの視線が気になったのか、床を拭いていたお千代が顔を上げた。

 ツンと鼻の奥を刺激する何かを振り払うように、すぐさま笑みを作るみその。

 笑みで返したお千代はトコトコとみそのの側へ近寄ってくる。

 そしてそのままみそのの胸に飛び込むように抱きつくと、


「お千代、あんちゃんの言うこと聞いてちゃんと良い子にしてるから、みそのお姉ちゃんは心配しないでね?」


 顔を埋めながら元気な声をあげる。

 しかし声とは裏腹に、背中に回されたお千代の手は、ギュッと力一杯みそのの着物を握り締めている。


「うん、そうよね。お千代ちゃんは良い子だもんね……」


 みそのはお千代の強がりを背中に感じながら、そう優しく言ってお千代の背中をさする。

 さすりながら千太へ目を向けると、千太は口を真一文字に結び、みそのに力強く頷いていた。

 みそのは千太へゆっくり頷き返し、


『あまり無理しないでね』


 と、胸の内で呟いた。

 そして胸の中のお千代に目線を合わせる。


「じゃあお千代ちゃん。お父様には元気で可愛いそのお顔を見せてあげるのよ?」


「うんっ!」


 お千代は花が咲いたような笑顔で元気に頷いてみせる。

 幼いながらもその目には決意が伺えるのが良く分かる。

 そう確信したみそのは、もう一度千太に頷いてみせる。


「みそのお姉ちゃん、行ってらっしゃいっ」


「はい。行ってきます、お千代ちゃん。明日はなるべく早く顔を出しますからね?」


「無理しちゃダメだよ、みそのお姉ちゃん。オイラたちは大丈夫だから、明日だって来なくてもいいんだからね?」


「ありがとね、千太さん。でも大丈夫よ。それに、なんてったってここへ来れば、千太さんとお千代ちゃんの顔を見れるんですから、それだけでも来る価値があるわよ?」


 みそのが戯けたように言うと、千太の顔に久しく見られなかった柔らかい笑みがこぼれた。


「ではみそのさん、道中お気をつけて」


「はい、ありがとうございます」


 みそのは『二人をよろしくお願いします』との思いで、改めて深々と頭を下げる。


「じゃあお千代、拭き掃除の続きだよっ!」


「うんっ!」


 みそのは二人の元気な声を背中に養生所を後にした。



 *



「しっかし凄えババァに当たっちまったぜ……」


 屋敷を出た永岡はブルリと一つ身震いすると、思わずボソリとボヤいてしまう。


「ふふ、朝からアレはちょいと堪えやすね?

 それより旦那、品川に千住、内藤新宿と出て来やしたが、どっから手ぇ付けやしょうかぇ?」


「そうさね……何処も確実に居るって訳じゃねぇし、一日で全てめぇるのも無理があらぁ。今日んところは品川にでも繰り出すかぇ?」


 智蔵ともぞうに応えた永岡の顔が歪む。

 前方の辻から最近よく見る顔が現れたからだ。


「あっ、居た居た居た居た居た居たーっ!」


 よく通る鈴のような声でいて、勝気な性格が頗る前に出た口調。


 言わずもがなだが、読売屋、鳴海屋なるみやのおりんだ。


 今日のお凛はいつもと違い、黒地の掛け襟のついた黄八丈を緩りと打ち合わせ、緋色の帯を腰で締めている。

 黄八丈と言えば時代劇で良く見るチャキチャキの町娘の衣装だが、この頃は高価なだけあり着用するのは主に武家であった。

 ただ、お凛が身に纏っている黄八丈はかなり草臥れている。質に出た着物を着古し、更に古着屋に売られたような代物だ。

 良く見ると所々掛け接ぎをしている跡がわかる。掛け接ぎの粗さを見るとお凛が自分で直したのだろう。

 しかしそうは言っても着ているのは小町娘のお凛だ。

 草臥れてやや色褪せた黄八丈も、お凛が着れば不思議と鮮やかな黄色に見えて来る。

 町行く男たちは皆、そんなお凛を見返り羨望の眼差しを寄せていた。


「ちっ、今度ぁ違った意味で凄えのが来たぜ……」


 永岡が疲れたように首を振る。

 そんな永岡と裏腹にお凛の顔はぱぁっと花が咲いたようだ。


「ちょいと鹿の旦那、こっちこっち。こっちだってさぁ」


 一度辻に引っ込んだお凛が亜門あもんの袖を引っ張りながら現れた。

 どうやらお凛、今日は亜門と出掛けるが故にめかし込んでいるのかも知れない。

 二人はドタドタと駆け寄って来る。


「ほぉう。未だ未だ陽も高えってぇのに、逢い引きたぁ羨ましい限りだぜ?」


 ニヤニヤとニヤついた永岡が、駆け寄って来た二人を舐めるように見ながら茶化す。


「いや、旦那、そんなんじゃねぇんでやすよ。ちょいと旦那の耳に入れた方がいい情報が掴みやして、こうしてお凛殿と旦那を探しめぇってたんで」


 亜門が永岡の戯れに乗らず真剣な顔で告げる。

 永岡は亜門の隣で真っ赤な顔をしているお凛を揶揄いたいところをグッと抑え、ニヤケた顔を引っ込める。


「そいつぁどう言うこってぇ?」


「あっしらみそのさんに助言されたもんで、二人で組んで読売を書いてみようって事になったんでやすがね。取りえず、弥平やへいの野郎と親しくしてた奴を思い出したんで、朝一から二人でそいつんとこへ行って来たんでやす」


「ほう。そいつが見つかって話が聞けたって事かぇ?」


「へぇ、その通りで」


 亜門がニヤリと頷く。


「ちょいとこの先の茶店で聞くとするかぇ?」


 永岡の言葉に智蔵が留吉とめきちへ目配せをすると、留吉は短く答えて走り出す。

 留吉は茶店へ先乗りして注文を済ませるのだろう。


「それにしてもお凛、今日は滅法めかし込んでんじゃねぇかぇ。どう言う風の吹きめぇしなんでぇ?」


 堪えられなかったのか、留吉を見送った永岡は途端にお凛を弄り始めた。


「べ、べらぼうめっ! な、何言ってんだい、あ、あちきが着りゃあ、何だって良く見えるんだよっ」


 お凛が吠え立てる。

 しかしキレがない。


「へへ、そうだったそうだった。お前さんが江戸でも指折りの小町娘だった事を忘れてたぜぇ?

 それに奇抜な亜門の隣を歩くんなりゃ、そのくれえの方がしっくりくらぁ。全く似合いの二人だぜぇ」


 今日は完全に永岡に軍配が上がったようだ。

 お凛は益々顔を赤らめ俯いてしまう。

 亜門は苦笑いを浮かべながら顳顬をポリポリと掻いている。


「ふふ、旦那、そのくれぇにしてはええとこ茶店へへえりやしょう?」


「へへ、そうさぁね。これであのババァの声も薄らいだぜ。んじゃとっとと行くかぇ?」


 窘める智蔵に可笑しそうに笑いながら返す永岡。

 あの老婆の嗄れ声が耳に残っていたようだ。余程後味が悪かったのだろう。


 永岡は一気に歩みを速めて先を行く。


「ったく、何だってぇんだぃ……」


 お凛はその背中に向かって力無く吠えたてるのだった。



 *



【本郷の一膳飯屋】


「いやいやいやいや、平六へいろくっ、お前の情報は本当に間違いないねぇ〜。この鯵の干し具合もそうだし焼き加減も抜群だよぅ。この脂が堪らないねぇ?そしてこのお米の炊き加減も最高。いい具合にお櫃が水分を吸ってくれて見た目もキリリと引き締まり、口の中では憎いほどの演出を見せてるねぇ〜。こんなご飯はいつまででも噛んでいたいねぇ? とは言え飲み込まなければ次に控えている鯵が拗ねてしまうだろぅ? そこでこのしじみ汁の出番さぁ! って地震かぇ!?」


 ガタガタと揺れ出した折敷の器を見て北忠が味噌汁のお椀を手に立ち上がる。


「なんだぃ、松次しょうじの仕業かえ……」


 松次の貧乏揺すりだ。


「なんだいじゃねぇでやすよ、旦那。あっしらは飯を食いに来たんじゃねぇんでやすよ?

 ったく、いつになったら本題にへえるんでやすかぇ?」


 今回ばかりは堪らず言葉に出たようだ。

 それはそうだろう。この飯屋へ入ってかれこれ半刻(凡そ一時間)は経つが、北忠は一向に本題に入らない。

 それどころか北忠は、店に入るや店の親爺と話し込み、今日のお勧めの鯵の開きを自分で一枚一枚吟味して選び、尚且つ新たに飯を焚かせていたのだ。

 なので一膳飯屋とは言え、飯はお櫃で用意されている始末。


「そいつは違うよ松次。ここは飯屋なんだから食べるのが道理ってものだろう? それにこれからちゃあんと話を聞くんだから安心をし? そんな風に焦ってもいい仕事が出来ないんだからね? それに松次、見なさいよこのお米の艶っ! これは搗き米屋の腕もいいんだよ。こう言う仕事をよぉく観察するのも我らのお務めに役立つんだからねぇ? それに何よりも美味しいって事……」


「へぇへぇ、分かりやしたから早く食っちまってくだせぇよ。こうなったら店のもん食い尽くすまででも待ちまさぁ。ほら、喋ってねぇでどんどん行っちまってくだせぇ。あっしはその間ちょいと横にならせてもらいやすよっ」


「あらそうかぇ。それじゃ遠慮なく……」


 背を向けてゴロンと横になる松次を尻目に、北忠はいそいそと箸を動かし始める。

 重要な情報を持つ平六はというと、二人のやり取りをただポカンと眺めていた。



【本所の茶店】


「ほう。そいつが本当なりゃ、辻斬りはあの旗本の仕業に間違まちげぇねぇな?

 そんでその平六ってぇのは身元は確かなのかぇ?」


 話を聞き終えた永岡の目が鋭く光る。


「身元と言われちまうと胸張って言えやせんが、数年の付き合いなんで嘘を言ってりゃ分かりやすし、こんなこって嘘はつかねぇでしょうよ?」


「そりゃそうさぁね。

 それにしてもおめぇさんは顔が広いって言うか、妙なとこに知りえがいるんだなぁ?」


 手下が苦労して雲をも掴むような思いで探索をしている中、あっという間にそれをしてのけた亜門に関心する永岡。


「まあ、今回ばかりは食い道楽が偶々吉と出たってもんで……」


「ふふ、ウチの食い道楽に聞かせてやりてぇよ……」


 亜門にも同じ人物が浮かんだようで、永岡と目を合わせながらクスリと笑う。


「それとお凛。こいつぁ暫く読売には書くんじゃねぇぞ。いやなに、心配しんぺぇするねぇ。あの旗本を捕らえた後なりゃ、幾らでも色を付けて書いていいぜ?

 なんなら心中もん仕立てで書いても構わねぇ」


「そいつぁ本当かい、旦那っ」


 お凛の顔がぱぁっと明るくなる。


「ああ。最後にゃ極悪旗本の辻斬りってぇオチが付いてりゃ、お上もそう煩えこたぁ言わねぇさ。なにより紛れもねぇ事実なんだしよ?」


「だったら捕物の詳細も教えておくれよ?」


「ああ、話せる範囲で話してやらぁ。おめぇらだけにな?」


 お凛は一瞬少し不服そうな顔をするも、永岡が最後に付け足した言葉で笑みに変わった。


「亜門の旦那、もう一度確認ようござんすかぇ?」


「おう、何度でも聞いてくれぃ」


 亜門が智蔵にポンと胸を叩いてみせる。


「一月ほどめえの心中が、実はあの伊沢ってぇ旗本の辻斬りの絡繰りで、そいつを偶々目撃していた弥平が、それをネタに金を強請ろうとして逆に斬り捨てられた。

 平六ってぇ男は万が一の為に見届け人として弥平から頼まれ、その一部始終を見届けていたと。そういうこって間違まちげえありやせんかぇ?」


「ああそうだ。平六は着物を用立てした見返りに五両出すと言われてたみてぇだ。まあ、自分も殺されちまうと思ったみてぇで、この件は知らぬ存ぜぬを通すつもりだったらしいんでぇ。

 未だに怯えてやがるんで、やはり読売に書くめえにお上の耳に入れとこうと思ったまでよ」


 智蔵の鋭く細められた目が永岡へと向かう。


「ああ、伊沢屋敷は忠吾と松次が見張ってるはずでぇ。弥平の物乞い仲間を当たってる面々は、即刻引き上げさせて、品川、千住、内藤新宿へ向かい、小井こい平左衛門へいざえもんの探索に切り替える」


「留吉っ」


「合点でぇ」


 智蔵に被せるように応えた留吉がすぐ様走り出した。

 留吉は弥平の物乞い仲間へ聞き込みをしている広太こうた伸哉しんや、そして翔太しょうたを呼び戻しに行ったのだ。


「いいかお凛。こっからはオイラ達に任せておきねぇ。おめぇはその旗本に目ぇ付けられてるのを忘れるんじゃねぇぜ?」


 永岡はお凛へ厳しい口調で言うと、亜門へ鋭い目を向ける。

 亜門は静かに頷き、永岡の言わんとした言葉に応えるのだった。



【本郷の一膳飯屋の外】


「ったく、付き合ってられねぇやぃ。鹿の旦那にゃ話しちまったが、これ以上喋っちまったら本当に見つけ出されて殺されちまうぜ……」


 平六がブツブツ言いながらキョロキョロと背後を気にして歩いている。

 平六は先程一膳飯屋から抜け出して来たのだ。

 松次が居眠りした事で、もしやと思って脱走を試みたのである。

 その試みは見事成功。

 北忠は食べるのに夢中で気づかなかったようだ。


「どうせ旦那の心付けは六文だろうし、こればっかりはどうにも割が合わねぇや……」


 そうボヤいた平六が辻を曲がると、その姿はすっかり見えなくなった。



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