第七十六話 呑み込む言葉
「……全く、爺さんが死んだ途端にあれだよ……。爺さんはそれはそれはいい腕してたんだよぅ?
何処ぞの大身旗本や名の知れた剣術家なんぞも研ぎに出して来たくらいだからねぇ。あの子も爺さん譲りで腕は確かなのに、どうしてこうも違ってきちまったんだろうねぇ?」
小井平左衛門なる貧乏御家人の屋敷へと上がり込んだ永岡とその一行は今、件の死んだ振りをしていた老婆から話を聞いている。いや、聞かされていると言ってもいいだろう。
その証拠に縁側に腰掛けながら聞く永岡の顔は、苦虫を噛み潰したように歪んでいる。
この死んだ振りをしていた老婆は、突然現れた永岡達に大いに驚いたものの、掛け取りでなかった事に気を良くしたのか、久しく人と話していなかったからなのか、同じ事を何度も何度も話し、かれこれ四半刻(凡そ30分)以上も聞いてもない事まで喋りまくっているのだ。
流石にこれには永岡も付き合い切れぬ。
永岡は先程から苛々しながらも、話を切り上げるタイミングを見計らっていたのだ。
『ったく、さっきまで死人だったくせしやがって、いい加減喋り過ぎだぜ……』
そんな言葉を呑み込みつつ、永岡は歪んだ顔を庭で控えている智蔵へと向ける。
智蔵はと言うと、お手上げとでも言いたげに首を振りながら両手を広げてみせる。
「分かった分かった。そりゃさっきも聞いた話さぁね……。
とにかく息子は品川か千住に居るんだな?」
永岡が辟易しながら老婆の話を切る。
「だからあの子の行き先なんか知らないよっ。どうせ品川か内藤新宿で飯盛女でも抱いてるんだろうよって事さぁ」
永岡は『内藤新宿も増えやがったぜ……さっきは品川か千住って言ってたじゃねぇかぇ』との思いを呑み込み、大きな舌打ちを吐き出した。
「あ、そうだ。あの子の居所を教えてあげたんだから、心付けは奮発してくれるんだろうね?
それにあれだよ、お前さん達は無断で屋敷に上がり込んで来たんだから、その詫び料もそれなりに上乗せしてくれないとねぇ?
それとも……私を抱いてくれてもいいだよぅ?」
「…………」
永岡が呆れ顔を庭の智蔵へ向けると、智蔵は下を向いて肩を揺らしていた。
留吉などは背を向けて走り出す始末。
ただ、永岡の耳には「ぶふぁっ」との笑いの破裂音が届いているが。
永岡はそんな二人を見ながらポリポリと頰を掻く。
そして、
「悪りぃがオイラにゃ大事な女がいるんでぇ、今日んところはこいつで勘弁してくんな」
と、紙に包んだ心付けを老婆の膝元へ滑らせた。
「へっ、私を知ったらそんな女なんてどうでも良くなるだけどねぇ……」
老婆は色目を使いながら言いつつも、あざとく紙の中身を手で探り、満足気に皺を寄せる。
永岡はそんな老婆の視線に思わずブルリと身震いしてしまう。
「そんじゃ、ご協力ありがとうごぜぇやした。旦那、次がありやすからそろそろ帰るとしやしょうかぇ?」
とっとと礼を言った智蔵が永岡を促す。
永岡は助かったとばかりに智蔵へ大仰に頷くと、
「すまねぇな。もう少し話を聞いてやりてぇが、こう見えてオイラ達ぁ忙しいんでぇ。南町にゃあ北山忠吾ってぇいい男がいっから、今度ぁ話し相手でも何でもさせに顔出させらぁ」
老婆に背を向けた永岡が言い捨てる。
「北山……忠吾かぇ。ふふ、そいつは楽しみだねぇ……」
老婆は永岡の背中を見送りつつ、下腹部を押さえながらボソリと呟くのだった。
*
「ふぇ、ふぇっ、ふぇっくしょんっ!!
あ、ごめんよ。唾飛んじゃったねぇ? 私ゃ人気者だから誰かさんが噂してるのかも知れないねぇ。恨むんならそのお人を恨むんだよぅ?
それにしてもそうかい、そいつはいい事聞いたよぅ。では早速今日の昼餉にでもそのお店へ行ってみるとするよ?」
ボロを着た乞食相手に北忠が何やら話し込んでいる。
「この旦那の考ぇてる事ぁさっぱり分からねぇや……。
ったく、なんで俺ばかりが旦那の供なんでぇ……」
「なんか言ったかぇ、松次?」
思わず心の内を口にしてしいた松次が慌てて口を押さえる。
「いや、あっしゃ何も言ってやしやせんぜ。それより北山の旦那、そろそろ行かねぇと不味いですぜ。奴らと入れ違ぇにでもなったら大変でさぁ」
惚けて強引に話を変える松次。
「いいかい、松次。私はその入れ違いになった時の為に、こうして聞き込みをしてるんだよぅ?」
『乞食に飯屋の情報を聞く聞き込みなんて聞いた事ぁねぇやいっ』との言葉を咄嗟に呑み込む松次。
ただ、その思いは顔に出ていたようで、松次の顔は不信感で溢れている。
「なんだい松次その顔は。お前は私の気遣いが全く分かってないんだねぇ。
あれだよ、あんな武家屋敷ばかりの所で空振りにでもあってみなさいよ。しかもそれが昼餉刻。当然ながらお腹も空くだろうよ。私は空くね。しかし何かお腹に入れようにも、周りは無粋な武家屋敷ときてる。何か食べようにも食べ物を出すお店すらないじゃないかぇ? それはそれは侘しい思いになるだろう? いや、下手したらひもじくて死んでしまうよ? 私は死ぬね。それに空振りした張り込みなんてものは、美味しいものでも食べなきゃやってられないよ? ひもじい時の不味い物なしなんて事を言うけど、私に言わせればあれはまやかしだね。ひもじい時こそ美味しいものをより美味しく食べられる最高の機会なんだよ。私はそれをお前に分かってもらいたいんだよ。実感してもらいたいんだよ?」
「…………」
松次は『何が言いたいのかさっぱりなんでやすが』との思いでポカンとしている。
ただ、北忠がお務めを棚に上げ、食い意地を正当化したいのは分かる。
「で、こいつから聞けば美味いもんが食えると?」
「その通りさ松次。飯屋って言うのはゴミの出し方ひとつで、凡その味の良し悪しが分かるんだよぅ?
ゴミの状態や量を見れば、ある程度の客足も知れるし、こうした平六みたいな者にどんな施しをするかでも、そのお店の器や技量が知れるって訳さぁ。だから美味い飯屋を探すには、この平六みたいなのに聞くのが打って付けなんだよ。しかも平六は今までにハズレが無かったから間違いないよ。こんな所で平六を見かけたら、そりゃあここらの情報を聞くだろうよ?」
ぷっくり鼻腔を膨らませてドヤ顔で答える北忠。
どうやらこの乞食の平六とは顔見知りだったようだ。
平六も満更でもない顔で北忠の話をうんうんと頷きながら聞いている。
「うふふ、こうして一歩先を読んで行動するのが私流なのさぁ」
松次は『こうして油を売ってる間に入れ違ぇになっちまったら、元も子もねぇじゃねぇでやすかい。本末転倒ってぇのは、まさにこの事でさぁ』との思いを胸の奥底へと追いやり、
「さ、早えとこ行きやしょ?」
と、うんざり気味に言って歩き出す。
「あ、ちょいとお待ちよ松次っ」
慌てて松次を追いかけようとした北忠の袖を平六が掴む。
「えー、旦那。今日の駄賃は……」
「あ、そうだね、そうだったね……」
北忠は懐から巾着を出して銭を取り出し、チャリチャリと平六の手の上に載せていく。
「へい、毎度ありがとうごぜぇやす」
平六は六文銭を握りしめてニンマリ笑う。
「ハズレだったらそのお宝は返してもらうからね?」
「へ? で、大丈夫でさぁ旦那。それよりお連れさんは大分急いでるみてぇでやすが、これからどちらへ?」
平六は慌てて銭を懐に仕舞い込み、遠去かる松次を見ながら話を変える。
「ああ。小川町にある伊沢って旗本の屋敷へ行くんだけど、これがまた……」
「い、伊沢っ……!」
北忠から出てきた名前に過剰な反応を示す平六。
「なんだい平六、お前は伊沢家を知ってるのかぇ?」
「い、いやいや、滅相もねぇや旦那。知りやせん知りやせん、あっしがあんな大身旗本の事なんざ知る由もありやせんや」
平六の慌てように細い目を更に目を細める北忠。
「良く言うよ、だったら伊沢家が大身旗本だなんてなんで分かるのさぁ? 私はそんな事、一言も言ってないんだよ?
知ってる事があるのなら、今ここで正直に洗いざらい話さないと承知しないからねぇ? いくら隠しても調べれば直に分かる事なんだよ? 後からポロポロ出てきたらお前をしょっ引く事になるんだからね?」
北忠は細めた目で睨めつけながら平六に詰め寄る。
平六が北忠と話す時は専ら飯屋の話だ。それ故に平六は涎を垂らさんばかりのだらしない顔をした北忠しか知らない。そのギャップからか、平六は完全に北忠の迫力に気圧されている。
「しょしょ……えぇ? う、あぁ…………へ?」
「そんな異国の言葉で話されたって分かる訳ないじゃないかぇ? 私にも分かる言葉でお話しっ」
北忠は叱りつけるように言い放つ。
言葉とは裏腹に全く戯れている様子はない。
そんな北忠に思わずゴクリと喉を鳴らす平六。
「いや……か、勘弁してくだせぇよ旦那。あっしゃ未だ死にたかねぇんでやすよ……」
「ほぉう。お前、面白い事言うねぇ? なんで旗本の話をするだけなのにお前の生死が絡んでくるんだぃ?」
北忠の目が糸のように細くなる。
「だから旦那、そいつは薮蛇ってなもんで、あっしゃ弥平みてぇに死にたかねぇんでやす……」
「ほぇ? 今お前、弥平って言ったかぇ?
弥平ってのは、本所深川を根城に物乞いしていた、あの弥平かぇ?」
北忠は鳩が豆鉄砲を食ったように目を見開く。
確かに思いもよらぬ名前が出てきたものだ。
平六は自らの口を押さえながら目を泳がせている。
と、その時。
「ったく、未だこんなとこにいなすったんで……いい加減にしてくだせぇよ北山の旦那ぁ」
先を行った松次が引き返してきた。
「一体何をもたもたしてるんでやすかぇ。流石にこいつぁ油の売り過ぎでさぁ。早く行かねぇと……」
北忠は人差し指を立て、小言を言いながら近づいて来た松次の口をそれで塞ぎ、
「ちょいと松次、私は何も油を売っていた訳じゃあないんだよぅ」
芝居掛かった口調で首を回しながら見得を切る。
大いに鼻腔を膨らませたそれは流石に松次の癇に障ったようで、ピクピクと額に青筋が浮かんでいる。
「いや、旦那、そろそろ真面目にやらねぇと永岡の旦那からお叱りを受けやすぜ? あっしだって親分から大目玉喰らっちまいやすよぅ」
松次は北忠の指を退かしながら顰めっ面で返す。
「うふふ。それは逆だよ松次。お前さんは私のお陰で親分さんには褒められる事になるのさぁ。
お前さんは私と組めて本当に幸せ者だねぇ?」
松次は北忠の言葉で更に顔を顰める。
「平六っ、ちょいとお待ちっ!」
北忠の大音声が響き、平六がびくんと肩を竦めて立ち止まる。
平六はこの隙に踵を返して逃げようとしていたのだ。
「松次、この平六はね、あの物乞いの弥平からあれこれ話を聞いてるはずだよ?」
「そりゃ本当で?」
「本当も本当さぁ。未だ詳しい話はこれからなんだけど、先ず間違いないねぇ。逃げられないように捕まえといておくれ?
うふふ。それにしても私の勘は相変わらず冴え渡っているねぇ。うんうん。もしやと思って突いてみたら大当たりさぁ。ピンと来たんだよねぇ。いや、こう言うのが凄腕同心と噂される謂れなんだねぇ。松次もそう思うだろぅ?」
松次は『全く思いやせん』との即答を胸に秘め、とりあえず平六の首根っこを掴む。
「こうなったら伊沢家の見張りは後回しにするしかないねぇ?
ちょいと昼餉には早いけど……仕方ないから平六のお勧めのお店で話を聞くとするかぇ?」
言うなり歩き出す北忠。
その足は頗る軽やかだ。
「本当に弥平から話を聞いてんだろうな?」
「い、いや、そいつぁ……勘弁してくだせぇよ……」
ドスの効いた松次の問いに目を泳がせる平六。
松次は強ち間違いではないと見て、平六の襟首を握り直す。
「こんだけ道草食ってりゃ、今から屋敷へ行ったところできっと空振りさぁね……」
松次はぼやくように呟いき、渋々ながら北忠の後を追うのだった。
*
「おや、みそのさんもお越しでしたか?」
養生所の奥から姿を現した弘治が目を丸くする。
「ええ。流石に二人だけでは道中心配ですし、小石川に他用もあったので付き添って来ました」
みそのはそう返しつつ、探りを入れるような目を弘治へ向ける。
そんなみそのに気づいてか、弘治は千太とお千代に気づかれぬよう微かに首を振り、暗に太平の状況を知らせる。
「とにかくお上りください。千太とお千代ちゃんもお上り。早くお父ちゃんに会いたいだろうが、一先ずお茶でも飲んで休むといい。ささ」
弘治が三人を促すも、弘治から「お父ちゃん」との言葉が出た途端、お千代の目に涙が溢れてきてしまう。
「おと……」「お千代、久しぶりに会うお父ちゃんに、泣き顔なんか見せたくないだろぅ?」
お千代の言葉を遮った千太は、にっこりとお千代に笑ってみせる。
「それにお千代……」
続けて口を開いた千太が口ごもる。
『お父ちゃんは大丈夫だよ』
との言葉を呑み込んだのだ。
「お父ちゃんはお千代の笑った顔が大好きなんだよ?」
千太はそう続けてしゃがむと、お千代が履いていた草履を脱がしにかかった。
そうして千太は下を向いたまま、普段より時間をかけてお千代の足を洗うのだった。




