第七十五話 珍客と貧乏屋敷
「ありがとね、みそのお姉ちゃん」
先を歩いていた千太が振り返り、みそのに頭を下げている。
今し方みそのの仕舞屋を出たところだ。
お千代もみそのと手を繋いで並んで歩いている。
「いいのよ千太さん。それにさっきも言ったけど本当に小石川には他にも用事があるのよ?
親子水入らずでお話してる間にその用事を済ませようと思ってたくらいなんだから、本当に気にしなくていいのよ?」
「ほんと?」
千太は出立するまでみそのが同行するとは思ってもいなく、仕舞屋を出る際、しきりに遠慮していたのだ。
「本当よ。それにこれからは千太さんとお千代ちゃんを二人っきりになんてさせないわ」
そう言った時、みそのはお千代の手にぐっと力がこもるのを感じた。
お千代は朝起きると、先ず千太に厠へ連れて行ってもらうのだが、今朝は厠からなかなか戻って来なかった。
千太から父親の話を聞かされていたのだろう。
それは泣きはらした目で朝餉に現れたお千代を見れば一目瞭然だった。みそのはそれと同時に、お千代が幼いながらも今の状況をしっかり理解したのだと、容易に見て取れたのだった。
それからのお千代はいつになく無口で、朝餉もあまり喉が通らない様子だった。
ただ、だからと言って泣く訳でもなく、むしろ笑顔の練習の様に何度もみそのに笑って見せていた。
みそのはそんなお千代に敢えて言葉をかける事もなく、ただ無言で優しい笑みを返すにとどめていた。
お千代は今、その笑みが言葉となった事で、嬉しさと安堵感を覚えたのだろう。
「行きましょ」
「うん……」
コクリと頷いた千太は素早く振り向くと、上を向いて歩き出す。その目には薄っすら光るものが見える。
朝から気を張っていた千太だったが、みそのの言葉で思わず気が緩んだようだ。
やはり千太も子供だ。お千代の手前、平静を装うにも限度がある。千太の内心はお千代以上に心細かったのだろう。
そんな千太が歩き出して直ぐ、「あっ」っと小さな声を上げて立ち止まった。
齢五十ほどだろうか、年の割には美麗な婦人が向こうから歩いて来ていたのだ。
「志乃さまっ、おはようございます」
ペコリと頭を下げる千太。
みそのも千太と同じ言葉を口にしながら慌てて頭を下げる。
何を隠そうこの婦人、あの永岡の母である。
「もしかして私を訪ねてくださったのですか?」
みそのは頭を上げると、微かな笑みを返す志乃に尋ねる。
「ええ。まあ……特に用と言うほどの事でも無いのですがね?」
志乃はそう言ってみそのと手を繋いでいるお千代に目を向ける。
「あなたがお千代ちゃんかしら?」
みそのに隠れる様にしてお千代が頷くと、志乃の顔にたちまち優しい笑みが溢れて行く。
『子を産めぬ女子は、永岡家の嫁と認める訳にはいきませぬ』
みそのはそう告げられた時の志乃の顔を思い出してしまう。
あの時とは別人の様な顔だ。
しかしみそのは志乃の本来の顔はこちらである事を知っている。
「いやね。最近梅太郎の口から二人の名前を良く聞いていましたので、どのような子なのか気になっていたところへ、昨日この子が顔を見せたものですから、妹の方の顔も見てみたくなったのですよ……」
みそのの視線に気づいた志乃が、言い訳する様に千太の頭を撫でながら言う。
昨日は千太が春吉を伴い永岡へ願い事をしに行っていた。
その際に千太を迎え、最初に対応をしたのが志乃だったのだ。
「梅太郎から聞いていた以上に千太ちゃんがしっかりしていたものですから、お千代ちゃんにも俄然興味が湧いてしまいましてね?
つい足を運んでしまったのですよ?」
志乃は言いながら腰を折り、目線を合わせるようにしてお千代の頭を撫でる。
お千代は戸惑った様子で助けを求める様にチラチラとみそのを見ながらも、されるがまま頭を撫でられている。
「お千代ちゃん、こちらのお方は永岡の旦那のお母様よ。安心してご挨拶なさい?」
「お千代です。永岡さまにはいつも良くしてもらってます。
お父ちゃんのことも…………ありがとうございす……」
みそのに言われたお千代はしっかり挨拶して頭を下げるも、父親の事を口にした途端、目に我慢していた涙が薄っすらと浮かんでしまう。
志乃もある程度は二人の境遇は知っている。
お千代の様子にピンと来たのか、今度はみそのへ視線を移す。
「これから三人でお父様の様子を見に、小石川の弘治先生の所へ行くところなんです……」
みそのはそう言って目配せするように頷いてみせる。
「そうなのね……。
そうしましたら早く父の顔を見たいでしょうね? 私と話している場合では無いわね。お千代ちゃん、また今度ゆっくりお話しましょうね?」
志乃はみそのの頷きで全てを察した様で、お千代へ優しく語りかける。
そしてみそのへ向き直り、
「ではみそのさん、道中気をつけるのですよ?」
と、みそのへ告げ、最後にお千代と千太の頭を順番に撫で、あっさりと踵を返す。
「ありがとうございます」
みそのは志乃の背中へ深々と頭を下げる。
みそのが志乃と面と合わせて会話をするのは、例の言葉を聞いた日以来だ。
頭を下げるみそのの心中は、久々に志乃と言葉を交わした事で何処か騒ついていた。
*
「永岡の旦那、例の貧乏屋敷ってぇのがあっこでさぁ」
留吉が瓢箪がぶら下がった門を指差しながら告げる。
永岡は小井平左衛門なる貧乏御家人を訪ねる為、留吉の案内で本所北割下水まで来ていた。
永岡の傍らには智蔵の顔も見える。
「こいつぁ酷ぇや。まさに貧乏屋敷の手本ってなもんさぁね……」
屋敷を眺めながら苦笑いで応える永岡。
しかし永岡が苦笑いするのも頷ける。
屋敷の門は片側が傾いる上、扉が下半分腐食していて無くなっている。
カサカサに乾いた木は全体的に朽ちかけていて、ここ何年も手入れどころか拭き掃除すらしていないのは明白だ。
因みに門にぶら下がった瓢箪には砂が入っていて、瓢箪を落とす事でその重みで扉が開く絡繰りになっている。
これは門番を雇えぬ貧乏御家人の知恵と言うべきか、武家の体裁を取り繕う苦肉の策である。
貧乏ながらも武家である証を立てておきたいのかも知れない。
ただ、この屋敷の瓢箪は門同様に腐食が激しく、今は底が抜けていて砂すら入っていない。現にゆらゆらと風に揺れている有様だ。
「とにかく中へ入って話を聞いてみるかぇ?」
「へい」
永岡の言葉を受け、智蔵が留吉に目配せすると、留吉がギギギと朽ちかけた戸を押し開けた。その振動で件の瓢箪は大きく揺れている。
永岡は揺れる瓢箪を指で弾くと、肩を竦めながら智蔵に続いて門を潜った。
ドンドン、ドンドン
「御免くだせぇ、御免くだせぇ……」
留吉が屋敷の戸を叩きながら何度も声をかけているのだが、屋敷は静まりかえっていて中からの応答が全く無い。
留吉の戸を叩く力も遠慮がなくなっている。
「ちっ、留守に当たっちまったかぇ……」
永岡苦虫を潰したような顔でこぼす。
智蔵が留吉に目配せすると「へぃ、合点でぇ」と、留吉が庭を回って屋敷の中へと入って行った。
「こんだけ静かなりゃ流石に誰もいねぇだろぃ?」
「それもそうなんでやすが、あっしらを掛け取りと間違ぇて死んだふりでもしてるかも知れやせんからね?
金に困ってりゃあ、武家も町民もやる事ぁ一緒でさぁ」
「ふふ、違えねぇ」
永岡は智蔵の言葉に小さく笑って肯定する。
聞き込みの際、永岡もそうして居留守を使う町場の輩を腐る程見ている。
「しっかし、屋敷の手入れくれぇしろってぇんでぇ。どうせ暇してんだろうによう……」
そう言いながら建て付けの悪い扉をガタガタと揺らす永岡。
「だ、旦那っ」
智蔵が慌てて永岡に駆け寄り扉を支えた。
永岡が面白がって揺らし続けたせいで、ゴトンと扉が外れて手前に倒れて来たのだ。
「ちっ、これくれぇで外れちまう戸なんか取っ払っちまえってぇのっ」
「旦那、親分、屋敷ん中に婆さんが死んだふりしてやしたぜ……って、こいつぁ討ち入りでも始まるんでやすかぇ?」
永岡が愚痴った時、庭へ回っていた留吉が帰って来た。
留吉は報告しながらも、扉を支える二人の姿が滑稽に見えたようで、ついつい軽口が出てしまう。
「まあそんなとこでぇ……。
ところでその婆さんから話は聞けたのかぇ?」
永岡は扉を元に戻そうとガタガタやりながら返す。
「へぇ、それが未だ何も……と言うのもその婆さんなんでやすが、死んだふりしたまま何も応えねぇんでさぁ。いや、息はあるんでやすよ?」
「ふふ、そんじゃあ手当が必要だな?
人助けに行くとするかぇ?」
永岡は扉を元に戻すのを諦めニヤリと笑う。
貧乏御家人とは言え歴とした武家だ。
町方の永岡にとっては管轄外である。
町場の様にあまり無理に事を進められないのだ。
「奥方、何やら火急のご様子と聞き申した! 只今助けに参りますぞっ」
永岡は少々芝居掛かった口調で言うや、嬉々として屋敷の中へと入って行った。




