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第七十四話 夜の音

 


「すっかり長居してもうたで……。

 千太せんた坊も眠いのやろうし、わてらもそろそろお暇せなあかんな?」


「そやな、お父ちゃん。千太はん、遅うまで付き合わせてもうて、ほんま堪忍な」


 雁助がんすけの言葉を受けた亀吉かめきちが千太に手を合わせた。

 千太は丁度あくびを噛み殺していたところで、涙目になりながらもブンブンと顔を振っている。


 今から四半刻(凡そ30分)ほど前には、三つの捨て鐘に続き、五つの鐘の音が鳴り響いていた。

 時刻は夜五つ(凡そ20時)。

 夜五つと言えば、子供ならばとっくに眠りにつく時刻だ。千太にあくびが出るのも頷ける。

 お千代などは食事を終えるやうとうとし出し、そのコックリコックリする姿で皆を笑顔にさせていた。

 そして夜五つの鐘の音が聞こえた頃には、既に寝床に運ばれ、すっかり夢の中であった。

 新之助が寝入ってしまったお千代を自分の娘の如く抱き上げ、甲斐甲斐しく寝床へ運んだのだ。

 最後にお千代の寝顔で癒された新之助は、すっかり満足した面持ちで上機嫌に帰って行ったのだった。



「みそのはん、今夜はほんまおおきにな。この教わった料理は、お父ちゃんと一緒に必ずモノにしてみせるさかい、楽しみに待っといてな?」


「ええ。お二人の傑作を食べられる日が今から凄く楽しみです」


 みそのが亀吉の言葉に満面の笑みで返す。


「みそのはんらには最初に食べてもらうさかいな?」


 雁助が嬉しそうに言いながらポキポキと指を鳴らす。

 何か試してみたいアイデアでも浮かんでいるのかも知れない。


「ふふ、最初だなんて光栄だわ。ね、千太さん?」


 みそのがそう言って千太を見ると、千太の頭がカクンと後ろに倒れるところだった。

 千太の眠気もそろそろ限界まで来ているようだ。


「ふふ、千太坊も本格的にしんどそうや。そろそろほんまにお暇せんとな?」


「そやな。ほなみそのはん、わてらはこれで……」


 亀吉が言いながら立ち上がった時、勝手口からガタガタと戸の開く音が聞こえて来た。


「ふふ。あの音はきっと永岡の旦那よ?」


 思わず笑みがこぼれるみその。

 千太は永岡の名前が聞こえたせいか、眠気を振り払うようにブルブルと首を振り、しゃんと背筋を伸ばす。

 いつも世話になっている永岡へ、しっかり挨拶をしようとの事だろう。

 今朝は友達の父親の件で願い事をしていたから尚更なのかも知れない。


「おう、おめぇらも来てたのかぇ?

 それにしても随分と楽しそうにしてやがんな? おめぇが笑ってるとこ初めて見たぜぇ」


 顔を出した永岡は、予期せぬ二人に驚きながらも戯けた口調で雁助に声をかける。


「旦那、お勤めご苦労さんで。ええ、ええ。今夜はえらいご馳走になりましてね。ま、それだけでのうて商売繁盛に繋がる秘策も伝授していただきましたんや。みそのはんにはほんまえらい世話になりましたわっ」


 揶揄い半分でニヤついている永岡に、満面に笑みを浮かべて興奮気味に答える雁助。

 亀吉はそんな父親を嬉しそうに見ている。


「そ、そうかぇ。そりゃ良かったな……」


 てっきり憎まれ口が返ってくると思っていた永岡は、すっかり調子が狂ったようで、虚をつかれたような顔をみそのに向ける。


「旦那、もしかしてご飯食べてません?」


 そんな永岡の顔に疲労を見て取れたのか、みそのは別の心配を口にする。

 確かに永岡はざっと皆の報告を受けると直ぐに豆藤を出て来たので、豆藤では料理を碌に腹に入れていなかった。

 事実永岡は、みそのへ例の話をした後、役宅へ戻って湯漬けでも啜ろうと思っていたのだ。


「ま、まあそんなとこでぇ。もしかしてなんかあるのかぇ?」


 期待していなかっただけに、永岡の顔がぱぁっと明るくなる。


「ええ。お千代ちゃんが永岡さまにも食べてもらうのって言って、少し取り置いてるんですよ。お千代ちゃんに感謝しなきゃですね?」


 みそのはそう言って立ち上がり、小鉢に入った鶏胸肉の胡麻ペースト和えと胡麻味噌のぶっかけ饂飩、焼き饂飩をお盆ごと持って来た。


「旦那、美味すぎて顎が外れるさかい、気ぃつけて食べなあかんでぇ〜」


 雁助がそれぞれの小鉢を指差しながら戯けた声を上げる。

 しかし顔はいたって真顔で、どこか勝ち誇ったような顔で永岡を見ている。


「なんか食いづれぇなおい……」


「では旦那、みそのはん、わてらはこの辺で」


 気を利かせた亀吉が挑むように永岡を見ている雁助の袖を引く。

 みそのは冷酒を注ぎながら「あ、では表まで……千太さん、これを旦那に」と、千太に徳利と猪口を渡して立ち上がる。


「いやいや、そのまま。そのまま。

 わてらは勝手に帰るさかい、みそのはんは旦那のお相手をしてあげてくださいな」


 亀吉がみそのを押し留めると、父親の袖を引っ張りながら深々と頭を下げる。


「ではここでごめんなさいね。雁助さん、また遊びに来てくださいよ?」


 みそのの言葉にほろ酔いの雁助の顔が綻ぶ。


「気ぃつけてけえるんだぜっ」


 永岡が少し千鳥足の雁助の背中へ投げかける。

 雁助は上機嫌に手を振り回して答えるも、その勢いでふらりとヨタつき亀吉に支えられている。


「へへ、あの顰めっ面の親爺が別人みてぇだぜ。

 するってぇと、こいつぁ相当美味えってこったな?」


 ガタリと戸の閉まる音を聞いた永岡が可笑しそうに呟くと、小鉢の鶏胸肉の胡麻ペースト和えを箸で摘み上げた。


「んまいっ!」


 永岡の唸るような声で千太の顔にも笑みが浮かぶ。


「ふふ。本当良かったわね、旦那。これもお千代ちゃんのおかげよ?」


 みそのはそう言うと、この取り置きはずっと新之助が狙っていて、お千代が最後まで死守していたのだと可笑しそうに語った。


「そうかぇ。そいつぁお千代に感謝しなきゃだな?」


 話を聞いた永岡はそう言うと嬉しそうに酒を飲む。

 が、千太の視線に心なし痛みを覚えてしまう。


「オイラ達の方が感謝しなきゃだよ。それに、今日はオイラの友達の口利きをしてもらったんだし、感謝してもし切れないよ。本当にありがとうございます、永岡さま」


 千太が居住まいを正して永岡に頭を下げる。


「お、おう……。んなこたぁ気にするねぇ」


 永岡が一瞬戸惑いの色を見せつつ、戯けた口調で言い放つ。

 みそのはここで初めて普段と違う永岡の様子に気づいた。

 そして伺うように永岡の目を見てしまう。

 永岡もみそのの視線に気づき、思わず目を逸らしてしまう。


「永岡さま、オイラ、大丈夫だよ?」


 一瞬の沈黙を埋めるように千太が口を開いた。


「な、なんでぇ急に……」


 永岡が恐る恐る千太に顔を向ける。


「オイラの父ちゃん、あんまり良くないんでしょ?」


「…………」


「オイラ、わかってるよ? 父ちゃんは労咳なんでしょ?」


「…………」


 永岡は真っ直ぐ見てくる千太に言葉が出ない。

 千太の目には薄っすらと涙が浮かんでいる。


「労咳は死病だもん。もしかしたら…とは思ってたけど、オイラ、覚悟はしていたんだ……」


 千太はそう言うと無理に笑ってみせる。

 ただ、その表情の変化のせいで溜まっていた涙が目からこぼれ落ちてしまう。

 千太は今夜の永岡がどこかいつもと違うと感じていたようだ。


「そうだな、おめぇも男だ。先ずはみそのに話してからと思っていたが、こいつぁおめぇにちゃんと話さねぇといけねぇな?」


 永岡はそう言うと居住まいを正して顔を引き締める。

 千太を子供扱いせず、一人の男として対応する事にしたようだ。


「千太、良く聞け。おめぇの父ちゃんだがな……」


 意を決して口を開いた永岡だが、それでもやはり言い淀んでしまう。

 千太は真っ直ぐに永岡を見つめ、覚悟を決めたように大きく頷いた。

 だが、頷いた拍子で涙がポトリと床に落ちてしまう。

 それを見た永岡は一瞬目を背けてしまうも、いよいよ覚悟を決める。


「養生所の先生の話では、おめぇの父ちゃんはあと四、五日保てば良いとの事だ。

 だからおめぇとお千代には、早々に顔を出すようにとの言付けがあったんでぇ。つれぇだろうが、明日にでも小石川へ行くんだな」


「ありがとうございます……」


 そう言って頭を下げる千太の肩は小刻みに震えていた。


「おう、礼には及ばねぇぜ」


 永岡は敢えてぶっきら棒に答えると、みそのへ目を向け頷いた。

 みそのは目尻を指で拭いながらも力強く頷いてみせる。


「二人とも明日は早起きすんだろうし、とっととけえった方がいいのかも知れねぇが、せっかくお千代が取り置きしてくれたんでぇ。こいつだけは食っちまうかっ」


 永岡はことさら声を弾ませた。


「千太、先に休め。オイラに気ぃ使うこたぁねぇぜ」


 頭を下げたままの千太に投げかける。

 そしてそのままふいっと背を向け、無言でみそのに酌を所望する。

 みそのは『千太さん、しっかりね』との思いを込めて優しく千太の肩を叩き、千太の泣き顔を見ないように永岡に並んで酒を注ぐ。



「辛えな……」


 千太の気配がなくなると、永岡がボソリと呟いた。


「あんな小せえのに兄妹二人っきりになっちまうのか……」


 永岡は投げやりに言って荒っぽく酒を呷る。


「二人きりじゃないわ……」


「だな……」


 永岡はみそのの絞り出すよな呟きに優しく返す。

 それを最後に二人の会話が途切れ、その夜は永岡の酒を啜る音とみそのの鼻をすする音だけが部屋に小さく響いていた。


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