第七十二話 宴の前にしんみりと
「そうかぇ……」
永岡は溜息混じりに言うと、沈鬱な表情で天井を見上げた。
まだ客足もまばらな『豆藤』の入れ込みでの光景だ。
永岡と智蔵が四半刻(凡そ30分)ほど前に『豆藤』に到着すると、既に小松川の養生所へ走っていた伸哉と翔太が待っていたので、永岡は皆が揃う前に伸哉から首尾を聞いていたのだ。
「間違ぇねえんだな?」
「へい、弘治先生から直に聞きやしたんで間違ぇありやせん」
天井から視線を戻した永岡の問いに、伸哉も同じく沈鬱な面持ちで答える。
伸哉達は小松川養生所へ千太の父親の様子を見に行くついでに、千太の友達の春吉の父親も診てもらえないか頼みに行ったのだった。
弘治が春吉の父親は診れないなどと言うはずはない。
恐らく千太の父親の具合が芳しくないのだろう。しかも二人の沈鬱な表情を見る限り、容態はかなり悪そうだ。
「遠いとこご苦労だったな?
ま、この事ぁオイラに任せろぃ。忠吾達が揃って話が済んだら、オイラがみそのんとこへ報せに走らぁ」
気分を変えるようにポンっと手を打った永岡が伸哉達に労いの言葉を口にした時、
「いやいやいやいや、足が棒になるとはこう言うのを言うんだねぇ〜。あ、お藤さん、今日の私は見ての通りくったくた。ええええ、存分に疲れているんですよぅ〜。このままでは明日からのお勤めに障ります……いや、それどころではありません、更に言えばこの江戸の安寧が脅かされます!
しかしご安心あれ! この私に再び英気を漲らせるのはお藤さん、あなたなのです! あなたの鍋が江戸を救うのです! いやぁ〜、今から言っておきます、あっぱれ! あっぱれお藤さん!
え? 近い? アハハ、失礼、近過ぎましたね?
えー、そう言う訳ですのでお藤さん、明日からの江戸の安寧の為にも、今夜も存分に腕を振るってくださいよぉ〜」
騒がしい男の声が聞こえて来た。
言わずもがな、北忠こと北山忠吾だ。
永岡の盛大な舌打ちが聞こえる。
「あ、永岡さん、お早いお戻りで……。
北山忠吾、重大なお役を終え只今戻りました!」
しかめ面で自分を見ている永岡に気づいた北忠は、一瞬バツの悪い顔をするも、背筋を正して声を張り上げる。
それなりの成果があったからか、いつもに増してのアピールだ。
「煩えよ、見りゃわかるってなもんだろうよ……」
苦虫を噛み潰したような顔で答える永岡。
「おや? その顔はもしかして何も成果が上がらなかったのですかな?
いやいやいやいや、永岡さん。いくら永岡さんでも、そう毎回上手く行くことなんて有り得ないのですよ?
そうそう。永岡さんでもそんな日もありましょう。だからこそ腕っこきの私がいるのです! 永岡さんの穴はこの北山忠吾が埋めていますのでご安心あれっ!」
そう言って誇らしげに鼻腔を膨らませる北忠。
永岡の舌打ちも聞こえていないようだ。
「そいつぁ誰なんでぇ?」
永岡は北忠を無視すると、北忠の後ろに控える松次に声をかけた。
松次の隣に左官職人の太郎松がいたのだ。その後ろには留吉の姿も認められる。
「そうそう、永岡さん。これは左官職人の太郎松と言いまして、今日の探索に多大なる貢献をしましたので、褒美としてここの鍋を食べさせてやろうと連れて来た次第なのですよぅ」
口が開きかけた松次を押し留めるように、北忠がしゃしゃり出る。
実は北忠、『豆藤』での飲み食いを太郎松への褒美の代わりにしようとしていたのだ。
太郎松は小遣い程度の褒美なら北忠から貰えると松次に聞き、早速北忠に貰ってとっとと帰ろうとしたのだが、北忠の「後であげるからついておいで」との言葉に、渋々ながらついて来たのだった。
「銭じゃねぇんでやすかぇ……」「問題ありませんよね!?」
思わずポロリと呟いてしまう太郎松に大音量で被せる北忠。
「ちっ」
永岡は舌打ちともに立ち上がり、太郎松の元へと歩み寄る。
「今日は一日付き合わせちまったみてぇだな?
今夜はちょいと大事な話があるんで、悪りぃが今日のところは他で一杯やってくんな」
永岡はそう言って和紙に包んだ心づけを太郎松に渡す。
「へ、へぇ、ありがとうごぜぇやす!」
心づけを握りしめた太郎松の声が弾む。
和紙の中身の角ばりで一朱と見たようだ。
左官などの職人の日当は二百文から三百文強、一朱銀は二百五十文なので、ほぼ丸一日付き合わされた太郎松にとっては嬉しい限りだ。
永岡もその辺は承知している。
一日分の手当てとして渡してやったのだろう。
「では、あっしはこれでっ」
ペコリと頭を下げていそいそと出て行く太郎松。
結果的に北忠の言葉通りになり、足取りが軽くなっている。
「太郎松って野郎が店から出て来たんでやすが、俺の顔見て逃げるように帰って行きやしたが、あの野郎なんかやったんでやすかぇ?」
太郎松と入れ替わるように広太が入って来た。
どうやら太郎松とは顔見知りのようだ。
「ふふ、今日のところは、もうお前らとは関わりたくねぇんだろうよ?
とにかくこれでみんな揃ったようだな。智蔵、お藤に酒を頼んでくんなっ」
永岡は広太に笑いながら答えると、智蔵へ喉を鳴らさんばかりに告げた。
ポカンとする広太をよそに北忠は喜色満面で小躍りしている。
「みんな、今日は忠吾の奢りでぇ。たっぷり飲み食いしてくんな!」
「へい、ご馳走になりやす北山の旦那っ」
永岡の声に伸哉の声が続く。
それを受けて次々と皆から伸哉同様の声があがる。
皆の声を浴びた北忠は完全に色を失い、小躍りの格好のまま固まっている。
「あらあら、北山の旦那ったらこんなとこで邪魔ですよぅ。うふふ、後で存分に腕を振るった鍋をお持ちしますから、楽しみにしててくださいな?」
盆に徳利とお猪口を載せたお藤がやって来た。
「はい、今日は北山の旦那の椀飯振舞いですよぉ〜。店の酒樽を空にするくらい、みんなじゃんじゃんやってくださいなっ」
徳利やお猪口を置きながら戯けた声をあげるお藤。
どうやらお藤にも永岡の声が聞こえていたらしい。
そんなお藤の声を受け、手下達からは歓声が上がる。
今宵の宴はいつもにも増して盛り上がりを見せているようだ。
未だに固まったままの北忠を除いてだが。
*
「みそのお姉ちゃん、これでいーい?」
「いいわいいわ。上手に出来たわねぇ?
うん、あとは綺麗に盛り付けましょうね?」
みそのに褒められたお千代が満面の笑みで頷いている。
みそのの仕舞屋には既に客人も揃い、先程から料理の仕上げにかかっていたのだ。
「ふふ、雁助さんもお客さんなんだから、あちらでゆっくりしててくださいな」
「わてかて料理人やさかい、黙って客人面してられへんがなぁ。
それに人様の作り方を見るのも勉強やさかい、遠慮せんでこき使うてや」
雁助は客間に通されるも、腰を落ち着かせる事なくみそのの手伝いを買って出ていたのだ。
息子の亀吉は、千太と一緒に客間で新之助の相手をしている。
とりあえずの酒の当てには、いつもの佃煮に加え、カラッと揚がったじゃこが載った奴豆腐が出されている。
「しょうがないわねぇ……。では、そこのお味噌とお醤油、それとゆずぽんとお饂飩の茹で汁をこの擂り鉢に入れて、よおく掻き混ぜてもらえますか?」
みそのは胡麻ペーストの入った擂り鉢を雁助に渡す。
これは今し方お千代が和えていたものの残りだ。
お千代は細く裂かれた蒸し鶏の胸肉にこの胡麻ペーストに醤油を適量垂らして和えていたのだ。
お千代は今、それを小鉢に取り分けているところだ。
「ゆずぽんとはどれかいな?」
雁助が小鉢に用意してある調味料を見ながら聞いてきた。
一見醤油に見えなくもない。
「これですよ。ちょいと味見してみます?」
みそのは小鉢を手に取って教えると、奥から壺を出して来た。
雁助の興味津々な顔を見ての事だ。
「ゆずの絞り汁にお醤油、味醂にお酒、昆布が入っているんです」
そう言いながら少量をお玉で掬い、雁助の手にちょこんと垂らす。
ペロリと舐めた雁助の顔に笑みがこぼれる。
「ほぉう、こら美味い。えらい爽やかな風味や?」
「お気に召しました? 後で配分をお教えしますね?」
「ほんまかいな……」
簡単に言うみそのに雁助が目を白黒させる。
料理人としては聞きたいような聞いてはいけないような複雑な思いになるのだろう。
お千代はその間にも取り分けた小鉢にパラパラと炒り胡麻を振っている。
「では掻き混ぜ、お願いしますね?」
みそのはそう雁助に声をかけると、油を敷いた鉄鍋に刻んだ長葱に小松菜、人参、細切りの油揚げを入れて炒めて行く。
野菜がしんなりして来たところで饂飩を入れ、醤油、酒、だし汁を合わせておいたタレも投入。
ジャ、ジャ、ジャ、ジャっとの音を立てながら饂飩を解しながら炒めて行くみその。
辺りには香ばしい醤油の匂いが充満して行く。
「雁助さん、手が止まってますよ?」
「あ……」
匂いにやられたのか、みそのの手際に見惚れていたのか、ぼーっとみそのを見ていた雁助がみそのの声で慌てて手を動かす。
みそのはそんな雁助の姿を見ながら、たっぷり鰹節を掴んで鍋に入れる。
これまた鰹節のいい香りが部屋に広がって行く。
みそのが作っているのは言わずもがな。
そう、焼き饂飩だ。
「饂飩を焼いてまうとはな……」
思わずボソリとこぼす雁助。
聞こえているのかいないのか、みそのは最後の仕上げにパラパラと塩胡椒をしている。
「さてと、混ざりました?」
鍋を上げたみそのは雁助の手にある擂り鉢を覗き込む。
流石料理人と言うべきか、みそのが料理する姿をチラチラ見ていた雁助だが、手はしっかり動かしていたようで、みそのの顔に笑みが浮かぶ。
「あとはここにお饂飩を入れて和えたら出来上がりです。
盛り付けの時にこの鶏肉と白髪葱を載せて完成ですよ?」
みそのは擂り鉢に茹で上げていた饂飩を入れると、和えるのは雁助に任せ、蒸した鶏のもも肉と白髪葱の載った皿を持って来た。
白髪葱はお千代が用意していた小鉢にも載せて行く。
「ふう、これで完成ねっ!」
鶏胸肉の胡麻ペースト和えに焼き饂飩、鶏もも肉の胡麻味噌ぶっかけ饂飩だ。
「ほぉう、こら美味そうやなっ?」
「ぜったい美味しーもんっ!」
お千代が雁助に口を尖らせる。
最初からお手伝いしていただけに、美味しいと言い切らなければ気が済まないようだ。
「そやな。悪い悪い。美味そうやのうて絶対に美味い、やったな?」
雁助が素直に詫びて笑みを浮かべる。
「ほんなら、早速運ぶとするかいな?」
「うんっ!」
お千代の顔が笑みで弾ける。
お千代は自分が和えた小鉢を盆に載せ、プルプルしながら慎重に運んで行く。
「おおきにな、みそのはん」
お千代の背中を目を細めながら眺めていた雁助が、しみじみとした声を口にする。
「あら、まだ召し上がってもいないし、今は未だお手伝いさせてただけじゃないですか?」
「いや、久々に料理がえろう楽しく思えたんや。
お千代坊の顔見ててもわかるやろ? 料理はこうでないとあかんわ……」
いつになく真剣な眼差しの雁助に、みそのは何も言わずに小さく頷いてみせる。
「おおきにな……」
心に染み入るような雁助の声に、みそのは胸を熱くさせる。
みそのは少し捨て鉢になっていた雁助に、もっと自信を持って楽しく仕事をしてもらいたいと願っていたので尚更だ。
『きっと直ぐに笑顔で料理が出来ますよ』
みそのはそう心の内で呟くと、雁助の丸い背中を優しくさするのだった。




