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第七十一話 ツキが回る

 


 ゴリ、ゴリ、ゴリ、ゴリ……


あんちゃん、じょうずじょうずーっ」


「ほら、お千代ぉ〜。手を叩いてたらばちが安定しないだろぅ?

 しっかり押さえてないと駄目じゃないかぁ」


 千太せんたが呆れた声で楽しげに手を叩くお千代ちよを窘めている。


 みそのの仕舞屋しもたやでは、先程からゴリ、ゴリとの一定した鈍い音と共に、この様な遣り取りがなされている。

 お千代が擂り鉢を押さえ、千太が擂り粉木こぎで胡麻を擂っているのだ。

 みそのはそんな楽しげな音楽を聴きながら、裏打ちするようにトントンと包丁でリズムを取っていた。


「ふふ、本当に二人はいいコンビね?」


 思わず独り言ちるみその。

 そしてへっついにかけた鍋の蒸し器の蓋を開けると、湯煙りの向こうに顔を見せたものにニンマリさせた。

 みそのはそのまま蒸し器を下ろすと、今度は千太とお千代の二人の元へ近づいていく。


「本当に上手に擂れてるわねぇ〜」


 みそのが擂り鉢の中を覗きながら二人に声をかけた。


「うん、コツを掴んだら余り力も使わずに擂れたよ!」


「しっかり押さえたもんねーっ」


 みそのに褒められて嬉しかったのか、二人は声を弾ませる。

 二人ともニコニコと嬉しげな顔だ。が、千太の顔にはどっさりと汗が浮いていた。

 千太はコツを掴めば力は要らないとは言っていたが、やはり子供には重労働なのかも知れない。


「本当、助かったわ。ありがとね、二人とも」


「あとはなにするのー?」


 みそのに褒められたお千代は更にやる気になったらしい。

 次に何を頼まれるのかとワクワクしているようで、みそのを見上げる目はキラキラと輝いている。


「ふふ、じゃあこの鶏を裂いてもらおうかしらね?

 でも未だ蒸し上がったばかりで熱いから、冷めるまでお茶でも飲んで休憩しててちょうだい?」


 そう言ってみそのは先程淹れておいた急須を指差した。

 茶は程よく冷めた頃合いで、子供にはいい具合の温度になっている。

 たっぷり汗をかいた千太にとっては、まさに飲みごろの温度だろう。


「みそのお姉ちゃんも一緒に飲もうよ?」


「ふふ、そうね。お湯が沸くまでみんなで暫し休憩としましょうか?」


 みそのはそう千太に応えると竈の鍋に並々と水を足した。

 鶏肉を蒸した鍋で今度は饂飩うどんを茹でるのだ。


「どんなお饂飩になるか楽しみーっ!」


 お千代が元気な声をみそのの背中に投げかける。


「でもお昼もお饂飩だったんでしょ?

 お千代ちゃんは本当にお饂飩が好きねぇ?」


「だっておじさんのお饂飩美味しいもんっ!」


「ふふ、でも昨日のお昼も食べて、今日はお昼と夜ご飯がお饂飩なのよ?

 千太さんも忙しいからと言って……夜がお饂飩になるのわかってたのに……」


 みそのはお千代に目を細めながら、効率を優先させたであろう千太に目を向ける。


「でもみそのお姉ちゃんの饂飩は、饂飩は饂飩でもまた違うものになるんでしょ?

 それに、何食続いたって美味しいものを食べられるんだから、オイラたちには贅沢過ぎるくらいだよ?」


 貧乏長屋に住んでいた千太達にとって、三度の飯が食べられるだけでも十分過ぎるのだろう。

 千太はそう言うとゴクゴクと湯呑みを傾ける。

 やはり張り切って胡麻を擂っていただけに喉が渇いていたようだ。


『そうか、こんなものでも贅沢なのよね……』


 みそのは胸の内で呟く。

 千太が父親の代わりとなって活計たつきを立てていたのを知るだけに、千太の口から出た言葉の重さがひしひしと伝わってくる。

 そして、


『本当はお父さんの事も心配でしょうに……』


 心の内で呟いてしまう。

 二人はあえてなのか、みそのの前では父親の話題を持ち出さない。それどころか顔にも出さないだけに、二人の事を想うと胸が苦しくなってくるのだ。


「そしたら一緒に頑張って、美味しいものに仕上げましょうね?」


「うんっ!」「お千代もがんばるーっ!」


 みそのが努めて声を弾ませると、二人の元気な声が返ってきた。

 二人の弾けるような笑顔を見て、重くなりかけた気持ちが霧散する。

 しかし次の瞬間、何故か二人の父親の苦しむ顔が、ふっと脳裏に浮かんでしまう。


『嫌だ、私ったら……』


 みそのは浮かんだ映像を打ち消すようにブンブンと首を振り、気を落ち着かせるように茶を啜る。


「みそのお姉ちゃん、お湯が沸いたみたいだよ?」


「あ、本当ね……」


 みそのは千太の声で立ち上がると、心の内の動揺を悟られぬようポンっと手を叩き、


「じゃあ、もうひと頑張りしましょっか!」


 と、明るい声を出して饂飩の束を手に取った。


「これからお饂飩茹でるから、お千代ちゃんも一緒に美味しくなぁれって言ってくれる?」


「うんっ!」


 みそのがちょこちょこ寄って来たお千代に声をかけると、お千代は満面の笑みで元気に応えた。


「じゃあ入れるわよ〜?」


 白い饂飩がみそのの手から離れ、グツグツと沸騰している鍋に落ちて行く。


「美味しくなぁれっ!」「おいしくなーれーっ!」


 二人の声を聞いた饂飩は次第に熱湯の中で踊り出す。

 お千代はまるで生きているかのように身をくねらせる饂飩を楽しそうに見ている。

 みそのは先程浮かんだ映像の意味を考えつつ、お千代の横顔を少し複雑な思いで眺めるのだった。



 *



「いや〜、ちったぁ期待してたんだがな?」


「まあ、今朝までのかんげぇやすと、今日のところはあれで上出来でさぁ」


 永岡と智蔵が肩を並べて歩いている。


 すっかり傾いた日は夕暮れの顔に変え、二人の顔を薄っすらと赤く染めていた。

 一見、酒焼けしているのかと間違えられそうだが、二人が酒を飲むのはこれからなのだ。


 二人は弁天一家へ聞き込みに行った帰りで、これからが報告を兼ねた宴の時間と言う訳だ。

 二人の足は今、智蔵が女房のおふじにやらせている居酒屋、『豆藤まめふじ』へと向かっているのだ。


「それもそうだな? 今回こんけぇこたぁ奉行所出るめぇなんも見えてなかったんだから、上出来っちゃ上出来さぁね?」


「そうでさ、旦那。こう言うこたぁ欲をかいちゃいけやせんぜ?

 それにそう易々と事が運んじまったら、広太こうた伸哉しんや達の仕事が無くなっちまうじゃねぇですかぇ?」


「ハハ、ちげぇねぇや。

 ま、何れにしても明日からってこったな?

 今日はツキがめえって来たってことで、豆藤で一杯いっぺぇやるとするかぇ?

 へへ、ま、飲みながらゆっくりかんげぇようぜ?」


「へへ。そうしやしょう」


 二人の歩みが自然と早くなる。

 お互いの夕日に照らされた顔を見て喉が鳴ったのかも知れない。


 二人は辻斬りの遺体が物乞いの弥平やへいとわかり、弥平が贔屓にしていた弁天一家に聞き込みに行ったものの望んだ情報は得られなかった。

 ただ、北の掛かりだった心中騒ぎに、この弥平が絡んでいたかも知れないとの情報は、二人を景気つけるには十分だった。

 永岡ぎ勇み立つのも頷ける。


 とにかく二人の思考はたった今、事件から酒に切り替わったようだ。



 *



「みそのお姉ちゃん、本当に終わりでいいの?」


 小首を傾げたお千代がみそのへ問いかけている。

 その視線の先には、笊や皿の上に載った食材がずらりと並んでいる。


 お千代が見ている食材とは、茹でた饂飩に蒸した鶏、刻んだ長葱に小松菜や人参の青物、細く切った油揚げ、豆腐に鰹節、カラッと揚がったじゃこもある。

 蒸し鶏は胸とももの二種類あって、胸肉は細く手で裂かれ、もも肉は包丁で切り分けられている。

 千太達が擂った胡麻は、更に胡麻油を垂らして根気強く撹拌し、ペースト状になっている。

 この胡麻ペーストは醤油や砂糖と言った調味料の横に置いてある。


「ええ。お千代ちゃん達が頑張ってくれたおかげで、もう準備万端よ。

 続きはみんなが揃ってからやるから、それまで休憩しましょうね?」


 みそのがお千代の頭を撫でながら応える。

 みその達は粗方準備を終え、茶を飲み始めたところだった。


「ふふ、早速すーさんがいらしたみたいね……」


 玄関からカタコトと戸の開く音が聞こえたのだ。

 小柄な酔庵すいあんが更に身を小さくし、こっそり中へ入って来る映像が浮かんだのだ。


「二人はゆっくりしててね?」


 みそのはそう言って立ち上がり、小走りで玄関へと向かう。


「あら、すーさんかと思ったら……」


 みそのが迎えに出てみると、そこには小柄な酔庵でなく、大柄な男が腰を下ろして足の泥を払っていた。


「おう、何やら美味いもんが食える予感がしたでな?」


「したでな、じゃないですよ新さん……」


 呆れて目を細めるみその。

 どうやら大柄な男とは新之助しんのすけだったようだ。

 新之助は江戸幕府第八代将軍、徳川吉宗だ。

 将軍にこんな口の聞き方が出来るのは、恐らくこの江戸ではみそのくらいなものだろう。


「ウチは居酒屋じゃないんだから、そんな風にふらりと寄られてもほいほい料理が出せるとは限らないんですよ?

 来るんだったら来るで、源次郎げんじろうさんなりに先触れさせてくださいよね?」


「すまんすまん。そう何度も息抜きさせてもらえんでな?

 今日は源次郎にも黙って出て来てしまったのだ。ハハ……」


 新之助は言い訳しながら誤魔化すように笑う。


「もう……。

 とにかく今日は人数分しか用意してないんですから、料理の方はあまり期待しないでくださいねっ」


 とは言いつつも、みそのはニコニコと新之助の足を洗っている。

 確かに新之助の顔に疲れの色を見たからだ。

 それに将軍様の疲れを癒す場所が自分のところだと思うと、可笑しくもあり誇らしくもある。

 日頃の疲れが少しでも癒されるよう、今夜は楽しんでもらおうとの気持ちに変わっていた。


 みそのが笑顔で新之助の足を拭いていると、


「ごめんください」


 と、何やらやたらと沈んだ声が背後から聞こえた。

 振り返って見ると、酔庵のお供の幸吉こうきちが戸口から顔を出していた。


「もしかして、すーさんに何かありましたか?」


 みそのが心配顔で幸吉に問いかける。

 幸吉の沈んだ声もそうだが、何より幸吉の後ろに酔庵が見当たらなかったからだ。


「いえ、大旦那様は変わらずお元気なのですが、今夜は寄り合いの方々との宴会に出ていただくと旦那様が仰せでして、残念ながら大旦那様はこちらには来られないのです。

 私はその事を報せに参りました」


 心底残念そうに答える幸吉。

 幸吉も酔庵の供で相伴にあずかれると思っていただけに、きっと今夜を楽しみにしていたのだろう。


「あら残念ねぇ……。

 幸吉さんだけでも食べて行けないの?」


 みそのの言葉を聞いた幸吉は一瞬だけ顔を明るくするも、すぐにどんより曇ってしまう。


「ありがとうございます。

 しかし大旦那様から抜け駆けしないよう、キツく言われておりますし、旦那様にも早く大旦那様の元へ戻るよう命じられておりますので……」


 最後は消え入りそうな声で答える幸吉。

 余程楽しみにしていたようだ。


「この度はお約束していましたのに、誠に申し訳ございませんでした」


「いえ、いいのよ。それにまた次がありますしね?

 すーさんにはそうお伝えください。それに、その時は幸吉さんも楽しみにしていてくださいね?」


 みそのは頭を下げる幸吉に優しく声をかける。


「はいっ!」


 頭を上げた幸吉の顔にはすっかり笑みが浮かんでいる。

 偶にこうした楽しみがあると、奉公にも張りが出ると言うものだ。

 これから幸吉は拗ねた酔庵の世話するはずだ。

 きっとそれも頑張れるのだろう。


「では、失礼いたします!」


 来た時とは別人のように元気な声で頭を下げる幸吉。

 そして、みそのの「気をつけてくださいね」との言葉に満面の笑みで頷くと、跳ねるように仕舞屋を後にした。


「これでワシの分は問題なさそうじゃの?」


「新さんったら……」


 みそのは自分を覗き込むようにして笑う新之助に呆れてしまう。

 新之助が幸吉の話を聞きながらニヤついているのを見ていたので尚更だ。


「今宵はツイておるぞっ!」


 呆れ顔のみそのなど御構い無しに、新之助は嬉しげに声を弾ませる。

 そして、


「苦労して抜け出して来た甲斐があると言うものじゃ」


 ぐるぐる手を回しながら奥へと入って行く新之助。


「もう……。

 でもすーさんは気の毒だけど確かにツイてるわよね……」


 みそのは子供のようにはしゃぐ新之助の背中に独り言ちると、肩を揺らしながら声もなく笑うのだった。



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