第七十話 食い気の探索
書いていたものや資料のデータが消えてしまい更新が遅れました。m(_ _)m
思い出しつつ書き直したら、北忠さんの回になってしまいまして主人公のみそのさんが不在……。
そんな感じでお送りいたします。
「そろそろ機嫌なおしてくだせぇよ、北山の旦那〜。
それに一体何処ぇ向かってるんでやすかぇ……」
ほとほと疲れた顔の松次がプリプリと歩く北忠に歩調を合わせながら、北忠の顔を覗き込んでいる。
北忠はチラとだけ松次を見るも、直ぐにプイとそっぽを向いて歩みを早めてしまう。
ただ、言ってもそれは松次にとって早歩きのうちに入らない。難無く北忠の歩みに合わせながら、後ろを歩く左官職人の太郎松へ片手拝みに詫びてみせる。
太郎松はそんな遣り取りをすこぶる呆れた顔で見ている。
それと言うのも、この四半刻(凡そ30分)以上、こんな遣り取りが何度となく繰り返されていたからだ。
しかし今の松次の顔は先程までとはちと違うようだ。
疲れた顔に一言言ってやろうとの決意が見て取れる。
「あ〜あ〜、そりゃ辻売り屋台なんだから常に居るとは限らねぇよなぁ〜。
しかも夜鷹蕎麦がこんな真昼間にやってる訳ねぇのは、火を見るよりも明らかってなもんよ〜」
ピタリと北忠の足が止まる。
それに合わせて松次も立ち止まる。
そうなのだ。北忠が拗ねている原因はやはり食い気。
昨日お凛達と行った本郷の屋台へ行ったみたはいいが、そこにはお目当ての屋台が影も形もなかったのだ。
「松次ねぇ、それを言うなら刻が違うよ?
私があの蕎麦屋に行くって言い出した時に言うんならまだしも、今の今言う言葉じゃないよ?
私はねぇ、一歩一歩あの屋台へ歩みを進める毎に、あの香ばしい揚げ蕎麦の食感やら風味を思い起こして、フツフツと気持ちを盛り上げていたのだよ?
そりゃあもう胸一杯の期待と共に、あの揚げ蕎麦をお腹に迎え入れる準備を、それは完璧に整えていたのさぁ。
口が揚げ蕎麦の口になっていたって事さぁね? いや、口が揚げ蕎麦そのものになっていたと言ってもいいくらいだよ。それをなんだい、そんな初歩的な事を今更ながら言い立てるなんて。それでもお前は人間かい? 私の気持ちを弄んで楽しんでいるのかい? 蕎麦は蕎麦でも揚げ蕎麦なんてものはあの屋台でしか食べられないんだよ? 代わりが効かない代物だったんだよ? あ、なにかい、もしかして松次が揚げ蕎麦を作ってくれるのかい? 完璧に再現してくれるのかい? 出汁も再現しないと承知しないよ? 食べられないと分かって、逆に食べたい気持ちが膨れ上がってるんだからね? そこんところどうなんだいっ」
唾を飛ばしながら北忠がまくし立てる。
「勘弁してくだせぇよ旦那……。
蕎麦は今夜にでもまたお供しやすから、今は適当なもんを腹に入れてお勤めに励みやしょうよ?」
「今、適当なもんって言ったね?」
「…………」
糸のような北忠の細い目が更に細められる。
「言ったね松次?」
「へ、へぇ……?」
「食に関して適当などと……。
私は適当なものを口にするつもりは無いよ。
身体は食によって作られるんだよ? 武士は食わねど高楊枝って言うのは嘘なんだよ? 武士こそ食べて強靭な身体を作らなきゃいけないんだよ? ましてや私は南町の同心さぁ。極悪人を捕らえる大変なお勤めをしているんだよ? 言うなれば食べるところからお勤めは始まってるのさぁ。
それをお前は適当などと……そうかい、それなら教えてあげるよ。私は代えの効かない揚げ蕎麦に代わる食として、向島の『みよし屋』さんの草餅を選んだのさぁ。そりゃあもう悩んださぁ。もう思考をガラリと変えるしかなかったのさぁ。そのくらい……」
「ちょっ旦那っ……」
松次はグダグタ話し続ける北忠の袖を取り、側にあった用水桶の陰に太郎松も連れて隠れた。
「な、松次、私はまだ話の途中なん……」
「あれを見ておくんなせぇ」
松次は不満顔の北忠に声を潜ませながら指をさす。
松次の真剣な下っ引きの眼差しに、流石の北忠も同心のそれに戻らざるを得ない。
松次が指差す方へ細い目を向ける北忠。
「もしかして……?」
「へぇ、奴らに違ぇありやせん」
松次が指し示した先に件の武家、信秀と大村が歩いていたのだ。
信秀と大村は北忠達に気づくでも無く、こちらに向かってゆるりと歩いている。
二人との距離は凡そ半町(凡そ55m)ほどか。
「松次、私はこんな形してるから、お前と太郎松であの屋敷まで先行して歩いて行っておくれ?
私はここで奴らをやり過ごしてから、十二分に距離をとって後に続くとするよ」
北忠は唾を飛ばしまくっていた先程までとは打って変わり、声を潜めながら冷静に指示を出す。
「ほら、今出ないと奴らに気取られるよ、早くお行き」
「へ、へぇ……」
北忠に煽られて目を白黒させる松次。
「とにかくそう言うこった、太郎松。悪りぃが俺と一緒に来てくんな」
気を取り直した松次は早口でそう言うと、太郎松の肩を借りるような形でヨロヨロと歩き出した。
酒を飲み過ぎて用水桶の陰で介抱されていた態をとったのだろう。
「しっかりしてくだせぇよ、兄ぃ……」
太郎松も松次の演技にピンと来たのか、兄貴分を弟分が介抱している態のセリフを口にする。
中々機転が利くようだ。
「で、大丈夫でぇ! 吐くもの吐いたらすっきりしたぜぇ!」
千鳥足の松次が叫ぶように答える。
北忠はそんな二人を眺めつつ、身を小さくさせて用水桶の陰で息を潜める。
「全く町人めが忌々しい。夜であれば斬って捨てるところよ」
「若、左様な事を申されるな。何処に人目があるか知れたものではござらんぞ……」
北忠が隠れている用水桶を避けるように、遠くで信秀と大村の声が通り過ぎる。
流石に二人も人の吐瀉物から出来るだけ離れて通りたかったようだ。
「さながら私は松次のゲロって事かね? うふふ」
北忠はそんな事を呟きながら細い目を信秀と大村の背中に貼り付ける。
「しかし物騒な事を言う御仁だねぇ……」
北忠は二人が辻を曲がって見えなくなっても動かない。
行き先がわかっている分、用心に用心を重ねて十分距離をとって尾行するつもりらしい。
北忠は何事か考えるように眠ったような細い目を更に細めるのだった。
*
「やっぱり間違ぇありやせんでしたね?」
「ああ。しっかりこの目に刻んだぜ」
川縁で松次と太郎松が話している。
話しながらも二人の視線は先程訪れた三千五百石の旗本、伊沢忠信の屋敷に向けられている。
二人はあの調子で歩き続け、屋敷近くの川縁で休む態で、信秀と大村の二人が件の屋敷へ入って行くところを見届けていたのだ。
「それにしても今日は悪かったな?
でもお前のお陰で助かったぜ。こいつぁ少ねえが俺からの気持ちでぇ」
「へへ、ありがとうごぜぇやす……って、本当に少ねぇなっ」
太郎松はチャリンと手に載せられた銭を見て、思わず本音を口走ってしまう。
「煩えやぃ、少ねえのは初めに言ったじゃねぇかぇ!」
「それにしやしても六文じゃ酒どころか甘酒も飲めやせんぜ?」
「なら返しやがれっ!」
「い、いや、一度貰ったからにはいただきやすよ。ありがとうごぜぇやす……」
急いで袂に落とし込む太郎松。
今日の太郎松にとっては無いよりマシなのだろう。
酒は格安で提供している豊島屋ですら八文。甘酒だってどこも八文くらいだろう。もっと言えば、かけ蕎麦十六文に天ぷら蕎麦が三十二文、稲荷寿司が六文に団子ひと串四文くらいだろうか。
確かに六文では酒代にもならない。
ちょいと稲荷を摘むか団子のひと串がせいぜいだ。
ただ、六文と言えば真田家の家紋、六文銭。それに三途の川の渡り賃としても知られている。
金のない松次はそんな意味合いを込めつつ、智蔵や永岡を真似て格好つけたのだろう。
「ま、あれだ。小遣い程度の銭なら、後で北山の旦那から貰えんだろうよ」
「おっ、そりゃ本当でやすかぃ?
そういやあの旦那、ああ見えてやる時ぁやるお人なんでやすね?」
太郎松は北忠が瞬時に同心の顔となり、冷静に指示を出した事を言っているのだろう。
食い気を拗らせた残念な旦那だと思っていただけに、あれしきの事で随分と北忠の株が上がったらしい。
「まぁ、やるやらねぇは置いといて、決して悪い旦那じゃねぇって事は確かだな……」
「へへ、そいつぁ違ぇねぇや。
それにしやしてもあの旦那、随分とかかりやすね?」
「確かに遅えな……」
信秀と大村が屋敷に消えてから四半刻は経たないまでも、それに近い時間が経過している。
「もしかして飯屋にでも入ってるんじゃ?」
「まさかそれはねぇだろ……」
松次は言いながらも不安になってくる。
煮しめを摘みながらどんぶり飯を搔っ食らっている北忠の姿が容易に想像出来たからだ。
「ちょいと聞き込みに行ってくらぁ。お前はここで北山の旦那を待っててくんな?」
松次は早口で言うと身軽に駆け出した。
伊沢屋敷の向かいの武家屋敷から、使用人らしき老爺が出てきたのを見逃さなかったのだ。
「しっかし今日は本当についてねぇや……」
太郎松は松次の背中を眺めつつ、チャリンと袂を鳴らすのだった。
*
「…………旦那、北山の旦那、起きてくだせぇよ北山の旦那!」
「もうお腹一杯だよお藤さん……ふぇっ!!
と、留吉じゃないかぇ。お前、こんなところで何やってるんだい?」
「ったく、こっちのセリフでやすよ北山の旦那。
旦那の方こそ、こんな用水桶の陰で眠りこけるなんて普通じゃねぇですぜ。何かあったんでやすかぇ?」
「あ……」
北忠が周りを見回しながら口籠る。
辺りはすっかり陽も傾き夕暮れのそれを感じさせている。
北忠はかなりの時間眠りこけていたらしい。
「いや、子供らがここに集って、やいのやいの盛り上がってやしたんで、ちょいと覗いてみたら旦那だったんでびっくりしやしたよ……。
襲われたとかじゃ…………なさそうでやすね?」
「ま、まぁ……」
北忠はバツの悪い顔でポリポリと鬢を掻いている。
「こ、この際、私の事は置いておこう。いや、忘れておくれ? 見てないんだよ、留吉。お前はなんにも見ていない。いいね?」
「はぁ……」
ポカンと口を開けながら小さく頷く留吉。
まさか隠れている内に眠りこけてしまうなんて事は無いと思ったが、どうやら図星だった事に驚きを隠せない。
「ところで留吉、お前はどうしてこんなところにいるんだぃ?」
自分の事は棚の上に放り投げた北忠が、留吉に眠ったような細く鋭い目を向ける。
留吉は『あっしはなんも見てねぇって事でお暇してぇんでやすがね』との言葉を呑み込み、
「へぇ、ちょいとみそのさんとお会いしやして、その際に読売屋のお凛をつけ回している武家がいるってぇんで、あっしはその後を追っていたんでやすよ。
ただ、途中でその武家に気取られやして、まんまと撒かれちまったんでさぁ。へぇ。
それから一刻(凡そ2時間)以上もこうして探し回ってたんでやす」
と、掻い摘んで説明した。
「そうかぇ。もしかしてその武家って言うのは、一人は岩みたいな顔した大柄な男で、もう一人は浅黒くて人相の悪いひょろりとした男かぇ?」
「へぇ、まさにそんな風貌の武家でやす。どうしてそれを?」
「私が探していた武家もその男達なんだよぅ。
撒かれたみたいだけど、屋敷は突き止めてあるから安心するといいよ?」
「そうなんで?」
留吉は北忠から思いもよらぬ言葉が出てきて目を白黒させている。
こんな所で眠りこけていた男から出てくる言葉とは思えない。
どうやら留吉は、北忠達が信秀と大村を見かける少し前に尾行に気づかれ、撒かれてしまったようだ。
「二人を見かける前には屋敷を突き止めていたんだけど、念の為、あの二人が屋敷へ入るところを松次に見に行かせてるんだよ。
私はこんな形だから目立ってしょうがないだろぅ?」
「そう言うこってすかぇ。って、噂をすれば、帰ってきやしたぜ?」
留吉が顎で示した先に松次と太郎松の姿があった。
「あ、居た居た!」
「まだそんなとこいなすったんでやすかいっ!」
太郎松が嬉しそうに指差しながら声を上げ、松次が呆れたように大声を上げながら走って来る。
「留吉、私は留吉とここらを見廻りしてたんだからね。いいねっ」
北忠は早口で留吉に告げると、すっくと立ち上がり、
「お前達こそ遅かったじゃないかぇ。すっかり待ちくたびれたよぅ」
と、口を尖らせながら非難するのだった。




