第六十九話 綻ぶ顔
「おっ、いいところにいやがったぜ」
永岡の顔がぱっと綻んだ。
そんな永岡の歩く先には小柄な男が歩いている。
先ほどお凛の話の裏取りをする為に別れた智蔵だ。
「おう、こんなとこでどうしてぇ?」
「あ、永岡の旦那じゃねぇですかぇ。旦那こそお一人のようでやすが、どうしなすったんでぇ?」
後ろから肩を叩かれた智蔵は、永岡と一緒のはずのお凛が見当たらないので、辺りを見回しながら聞き返す。
「ちょいといい報せがあってな? 思いの外早くあの跳ねっ返りから解放されたんでぇ」
永岡が嬉しそうな笑みを浮かべながら悪戯っぽく笑う。
そして、みその達と出会って聞いた事を簡潔に語ると、
「こいつがその人相書きでぇ」
懐から亜門が書いた信秀と大村の人相書きを取り出して見せた。
「はぁ〜、こいつぁ良く描けていやすねぇ?
しっかし、あの辻斬りの骸の名前も分かっちまうたぁ、流石みそのさんでやすね?」
「そいつぁ絶対みそのの前では言うんじゃねぇぜ?
これ以上アイツを調子に乗せちまったら、何をしでかすか分かったもんじゃねぇ」
「まったくでぇ」
二人はお互いの真顔に声もなく笑ってしまう。
「で、例の裏取りは終わったのかぇ?」
永岡はそう言うと、歩きながら話そうとばかりに顎先を振って歩き出す。
「へい、裏取りはこれからってところでやす。
留吉を連れてこうと思い直しやして、弁天一家へ寄るところだったんでやすよ」
智蔵は永岡に歩みを合わせながら答えると、「すいやせん」と小さく頭を下げる。
「お前が謝る事ぁねぇや。それにあれからそう刻も経ってねぇやな。
オイラの言い方が悪かったみてぇだな? 要はみその達の話を聞く限り、あの裏取りはしねぇでいいって思ったまでよ。それより物乞いの弥平が気にならぁ。
とにかく、これからは弥平に的を絞って調べを進めて行こうじゃねぇかぇ?」
「へい。その弥平が死ぬ前に語ってたって言う、纏まった金ってぇのが、かなり胡散臭ぇ話でやすからね?
あの人相書きの二人も捨て置けねぇが、先ずは弥平がその話を他の誰かに話してねぇか探ってみやしょう」
智蔵は永岡に答えると、合点がいったようにパチリと手を叩き、
「するってぇと、行き先はこのままでやすね?」
声音を弾ませる。
「ああ。その手始めに弁天一家で聞き込みでぇ」
永岡もそれに語気を強めて答えると、微かに笑みを浮かべながら歩みを早めた。
二人は俄か見えて来た手掛かりで気が昂っているようだ。
なにせ未だ進展のなかった今回の辻斬りが、思わぬ形で北の掛かりだった心中騒ぎと繋がりを見せたのだ。
二人の足の運びが軽やかになっているのも頷ける。
*
ズズ、ズズズズッ、ズズッ、ズズズッ……
幼い兄妹が仲良く饂飩を啜っている音だ。
ガランとした店内には二人の饂飩を啜る音だけが鳴り響いている。
並んで饂飩を啜る兄妹の前には、厳しい顔に薄っすら笑みを浮かべた男が、そんな二人を黙って眺めながら座っている。
千太とお千代、それに『大阪屋』の主人、雁助だ。
「おじさんのお饂飩は本当に美味しいね?」
お千代が目の前に座る雁助に話しかけた。
お千代は黙って見られているのが気になり、先ほどからチラチラと雁助を見ていたのだが、それでも話しかけてくる訳でもない雁助に、何か言わねばとでも思ったのかも知れない。
「そんなん当たり前やないかい。客がおらんだけで、おいちゃんの饂飩は大阪でもそれと知られた評判の饂飩なんやで?」
自分から話しかけたお千代だが、まくし立てるように喋り出した雁助にキョトンとしてしまう。
雁助は目を丸くするお千代に、
「大阪言うのは商人の町言うくらいなもんでな、商人がぎょうさんおるとこなんや。
この商人ちゅうんが江戸もんと違ごうて口が肥えてるさかい、その分口煩うてそら敵わん連中や。
そやからほんまもんの仕事せえへんと、評判どころかボロカスに言われてまうんやで。えらい町やろ?
おいちゃんの饂飩は、そんな大阪で評判の饂飩ちゅう話や。そら美味いに決まっとるがな」
と、幼いお千代が大阪を知らないとみたのか、噛んで含めるように続けた。
それでもお千代はポカンと口を開けている。
のを見て、千太が可笑しそうに笑っている。
「おじさん、もっと素直になった方がいいと思うよ?」
「うん?」
千太の言葉に、雁助は「なんの話や?」とばかりに首を傾げる。
「美味しいって言われてるんだから、ありがとうでいいんじゃない?
まだお千代には難しい事はわからないしね?」
「ハハ、そらそやな?」
「そうだよ。それに美味しいものに大阪も江戸もないんだから、大阪の話をしたところで詮無い事だよ?
ここは江戸だし、オイラたちは江戸しか知らないんだしね?」
「ぷっ、その通りやでお父ちゃん。
小さいながらも江戸においては千太はんの方が先輩や。先達の言葉は聞かなあかんで?」
可笑しそうに笑いながら亀吉が奥から出て来た。
手には土産の饂飩が入った竹籠を持っている。
千太がみそのに頼まれていた代物だ。
今夜は酔庵を労う宴を開く事になっていたので、みそのは千太にお使いを頼んでいたのだ。
また、みそのは何処かで昼餉を済ませて来るよう、千太には別に銭を渡していたのだが、春吉に稼ぎ先を紹介するのに忙しかった千太は、昼餉とお使いを一箇所に纏めたのだった。
「それにしても千太はん、これって今晩の分やろ?
昨日もやし、昼餉もうちの饂飩で良かったのかいな?」
「うん、ここの饂飩は美味しいからね?
それにオイラ、今日はちょいと忙しかったから、最初からここで食べようと決めてたんだ?
頼まれた用事も済むし、他所で食べるより美味しいし、一石二鳥でしょ?」
千太はそう言うと、「ありがとう」と亀吉から饂飩を受け取る。
「それに、みそのお姉ちゃんの話だと、今夜の饂飩はまた違った食べ方をするみたいなんだよ?」
「ほう、どんな食い方するんや?」
興味を持ったようで、雁助が口を挟んで来た。
「ごめんよ、おじさん。オイラもまだわからないんだよ……」
「そうなんか……」
雁助が残念そうに呟く。
亀吉が父親の様子に苦笑しながらも、
「あ、熱いうちに食べなあかんのに、いらん事聞いてもうたわ。ささ、わてらの事は気にせんでええから早よお食べ」
と、手を止めさせていた事に気づいて二人に食べるよう促した。
二人は嬉しそうに頷くと、ズズ、ズズズズっとまた饂飩を啜る音を立て始める。
雁助も厳しい顔に薄っすら笑みを浮かべながら、美味そうに饂飩を啜る二人を眺めるのだった。
*
「おおきに。ほな、また食べ来るんやで?」
「うん、今度はお凛さんの読売の取材について来るよ?」
「あれかいな……」
雁助が千太の頭を撫でながらあからさまに嫌な顔をする。
「おじさん、もっと素直になった方がいいと思うよ?」
「またそれかいな……」
雁助は続く千太の言葉に苦笑いを浮かべ、顳顬を指で掻いている。
「オイラ達が美味しいって思うんだから、きっと他の人も美味しいって思うはずだよ?
おじさんだって沢山の人に食べてもらいたいんでしょ?」
「そらそうなんやがな……」
「ふふ。忘れたんか、お父ちゃん。先達の言葉は聞かなあかんよ?」
「ふふ、そやな?」
亀吉の言葉に珍しく頷く雁助。
流石に千太達の前では癇癪を起こせないのだろう。
それに、二人が自分の饂飩を美味そうに食べていた様が嬉しくて、雁助を素直にさせたのかも知れない。
「あら、千太さんとお千代ちゃんじゃないの」
ちょうど通りかかったみそのが独り言ちる。
大阪屋の店先で、二人が雁助と亀吉に見送られているところに出くわしたのだ。
「あ、みそのお姉ちゃんっ!」
みそのに気づいたお千代が声を弾ませる。
その声に小走りで駆け寄ったみそのは、
「もしかしてって思って寄ってみたんだけど、ちょうど良かったわね?」
と、お千代の前でかがみながら笑いかけた。
「いつも贔屓にしてもろてすんまへんな?」
「何言ってるんですか亀吉さん。こちらこそ色々頼みを聞いてもらって助かってるんですよ?」
みそのは饂飩の入った竹籠をかざして言う亀吉に笑いかける。
そして、
「大将が笑ってるって珍しいじゃないですか?」
薄っすらと笑みを浮かべている雁助にも声をかけた。
「そらわてかて笑うがな」
「いつも辛気くさい顔しとる証拠やな?」
惚けたように言って笑う雁助に亀吉が茶々を入れる。
「ふふ、ごめんなさい。なんか楽しそうでしたんでね……。
一体なにを話していたんですか?」
「お凛さんの読売に書いてもらう事になったんだよ?」
千太が嬉しそうに答える。
雁助はそんな千太に苦笑いを浮かべながら、ポリポリと顳顬を掻いている。
「あら、やっと素直になれたんですね?」
「みそのはんまでそれかいな……。
それよりみそのはん、このうちの饂飩はどないな食べ方すんのかいな?」
雁助は照れ隠しなのか、話を先ほど千太が言っていた話にすり替える。
「ああ、千太さんから聞いたんですね?
ふふ、じゃあ雁助さんと亀吉さんも食べに来てくださいな?」
「わてらが?」
「ええ。どうせなら食べるまでのお楽しみにしといた方がいいですしね?」
みそのが悪戯っぽく笑う。
「そやかて、そんなん悪いがな」
「たまにはいいじゃないですか?
それに、大将に怒られるような食べ方かも知れませんし、それを確かめる為に来るのも一興ですよ?」
「なんやそれ、益々気になるやないかぃ……」
雁助は俄然興味が唆られたようだ。
亀吉はそんな雁助にニコニコしながら頷いてみせる。
「じゃあ決まりね! そしたら店を閉めたらウチに寄ってくださいな。その時に二人前のお饂飩も忘れないで下さいね?」
みそのはそう言うと、パシリと手を打ち、
「じゃあ私達は先に帰って準備しましょうかね?」
と、千太とお千代に声をかけた。
嬉しそうに頷く二人。
みそのはそんな二人に笑みを返すと、
「ではお待ちしてますよ」
と、最後に雁助と亀吉に頭を下げて歩き出した。
「あとでねー」
みそのと手を繋いだお千代が振り返りながら手を振っている。
「なんやあれ……。いつの間にか読売に書かれる事にも飯食い行く事にもなっとるやないか……」
雁助が楽しげな三人を見送りながらポツリとぼやく。
「お父ちゃん、先達の言葉は聞かなあかんで?」
「またそれかいな……」
雁助は呆れたように返しながらも、その顔は言葉とは裏腹に柔らかく綻んでいる。
『そうやでお父ちゃん。そろそろ店もしんどいさかい、頭をやらこうせなあかんで……』
亀吉は父親の横顔をニマニマ眺めながら、そっと心のうちで呟くのだった。




