第六十一話 伝わる気持ちと伝わらぬ思い
「偶にこんな趣向も一興よな?」
「……若、あくまで今日は尾行するだけで御座るぞ。約束は守ってくだされよ。白昼に拐おうものなれば、必ず人目に触れますからな…」
信秀の言葉に、大村は一瞬言葉を詰まらせつつ応えると、念を押すような目を向けた。
二人は見え隠れにお凛の後をつけている。
茶店で待ち伏せしていた武家とは、やはり信秀と大村の二人だったのだ。
昨夜遅く大村が帰ると、信秀が道場で酒を飲んでいた。
家族の手前なのだろう、信秀が屋敷で酒を飲む時は、決まって大村が寝起きする道場で飲んでいるのだ。
大村は信秀から何処へ行っていたか問われ、屋台で見かけたお凛の一件を語ったのだった。
そして、あろうことか話を聞いた信秀は、明日にでもお凛を拐うと言い出したのだ。
大村は信秀の量酒を考え、あくまで酒の勢いでの話だと本気にせず、その場限りの話として承知したのだが、信秀はしっかり覚えていたようで、今朝はいつになく早くに道場へ顔を出し、この尾行となったのだった。
ただし屋敷を出る前に、白昼に人を拐うなど危険極まりないと、今日のところは尾行に留める事を約束させていた。
お凛はそんな事など露知らず、道行くお凛贔屓の職人などに声をかけられながら、颯爽と歩いている。
「確かに誰にも見られずに拐うのは難儀しそうじゃな?
じゃが物は考えようじゃ。白昼堂々、人が拐われるなどとは誰も考えん。これは上手いこと行くかも知れんぞ」
「………」
信秀の言葉に大村は言葉をなくし立ち止まってしまう。
信秀は前を歩くお凛しか見えていないのか、お凛を見据えながらニタニタし、大村の事など気にせずに歩き続けている。
「病気だな…」
大村は呆れた声で呟くと、諦めたように首を振り、信秀の背中を追うのだった。
*
「おう、お千代坊に会えなくなるのは寂しいが、そんな事なりゃおっちゃんに任せておきねぇ。
いいか春坊。遠慮せずにいつでも来るんだぜ?」
大工の棟梁がニカリと笑って、木片を抱えた春吉に声をかけている。
ここは千太と春吉の住まう浅草今戸町の裏長屋からもほど近い、山谷浅草町のとある普請場だ。
大工の棟梁は名残惜しそうにお千代の頭を撫でている。
今まで余程この兄妹を可愛がり、贔屓にしていたのだろう。千太御用達職人と言ったところか。
「お千代坊、偶にはおっちゃんのとこへ顔見せるんだぜ?」
お千代は棟梁の言葉に元気よく「うん!」と答えると、ニコリと両手を広げる。
「おっ、やらせてくれんのかぇ?
ようし、待ってろよお千代坊、今日は特別豪勢な高い高いしてやっからな!」
棟梁は蕩けるような笑みで言い放つと、お千代を放り投げる勢いの高い高いを始めた。
普請場にキャッキャとお千代の喜ぶ声が響き渡る。
「なんか悪りぃな千太…」
春吉は高らかに上下するお千代から千太へ目を向けると、済まなそうに頭を掻きながら声をかける。
棟梁とお千代の仲睦まじい様子を目にして、自分が横入りしたようで、引け目を感じたのかも知れない。
「なに言ってんだい、普請場を掃除して回るのは春吉なんだよ?
それでお宝もらうんだから、春吉の力じゃないかぃ。何も悪い事じゃないよ。気にする事なんかないんだよぅ?
その代わり、おとっつぁんが治るまでしっかりやるんだよ?」
千太はそう言うと、春吉の肩を叩いて励ました。
自分の父親も病に倒れているだけあり、その顔は心配と応援する気持ちが綯交ぜになり、言葉には心底からの実感がこもっていた。
「ありがとう、千太」
「うん。春吉は悪い事なんかしてないんだから、それでいいんだよ。
それにこういう時だからこそ、助け合うのが友達ってもんだろ?」
千太と春吉は顔を見合わせてニコリと笑う。
「千坊も時には顔を出すんだぜ?」
二人の様子を横目に見ていた棟梁が、お千代をそっと下ろしながら声をかける。
「うん、ありがとう! またお千代と一緒に来るよ。
これからはオイラの代わりに春吉をよろしくね」
千太の言葉にうんうん頷いた棟梁は、
「おうともさ。そう心配する事ぁねぇや。おっちゃんに任せときねぇ」
と、威勢良く言って胸を叩いてみせる。
そんな棟梁を頼もしげに見上げた千太は、春吉に大きく頷くと、棟梁へ深々と頭を下げた。それを見た春吉も、慌ててペコリと頭を下げている。
「じゃあ春吉、さっきの紙屑を田原町へ持ってくよ?」
頭を上げた千太は、そう言ってもう一度ペコリと棟梁へ頭を下げた。
先ほどは紙屑を拾い集めたり、商家へ貰いに行ったりしていたのだ。
そして田原町にある紙漉き業者のところへ行く途中、ばったりとこの棟梁と出会い、そのまま普請場まで同行したのだった。
千太と春吉の住まう裏長屋の近くには、浅草紙(漉き返して作る再生紙)絡みの業者が多数ある為、紙屑拾いはマスト。先ず最初に伝授したのだろう。
紙屑拾いは空いた時間にも出来るし、御用聞き中にも目を光らせていれば、お宝に巡り会える。
小銭稼ぎをする上で、最も重要で確実性のあるものなのかも知れない。
春吉も千太のように何事にも心を込めて働けば、きっと大人からも目をかけられ、何事も上手く行くだろう。
「おじちゃん、またねー」
お千代がチラチラと振り返りながら何度も叫んでいる。
何度も手を振るお千代に、棟梁はいつまでも目を蕩けさせていた。
*
「昨日の八丁堀の旦那じゃありませんかぇ」
「うふふ、また来ちゃったよぅ。
親爺さん、とりあえず昨日と同じの二つたのむよ?」
居酒屋の親爺が縄暖簾を掛けているところに、北忠と松次がやって来たところだ。
北忠は驚く親爺を嬉しそう見やりながら返すと、さっさと店の中へと入って行った。
北忠達は、手始めに昨日の居酒屋を当たろうと、奉行所から直接ここへ向かったのだ。
「いやいや北山の旦那、その前にやる事やりやしょうよっ」
松次は慌てて北忠に続きながら窘める。
「なんだい松次。お前、ここを何処だと思っているんだい?」
北忠は昨日と同じ席に座ると、店内を見回しながら言い返す。
「何処って旦那、確かにここぁ居酒屋でやすが…」
「分かってるんなら野暮を言うのはおよしよぅ。
料理屋に来て、料理をいただかないでどうすると言うのさぁ?」
松次が反論しようにも、北忠にピシャリと途中で切られてしまう。
「…だからって旦那、昼餉刻にゃあと半刻はあるんでやすよ?
ここはサクッと御用の筋を聞いちまいやし…」
「先ずは郷に入れば郷に従えですよ、松次。
料理屋に入れば親爺さんに従うものなのさぁ?
それにあれだよ、松次。ここの親爺さんには、お上の御用で貴重な時間を割いてもらうんだよ?
私は感謝の印として、こうして商売に貢献してあげようって心意気なのさぁ。お前はこんな私を同心の鏡だと思わないのかぇ?」
めげずに松次が進言するも同じ事。
北忠はああ言えばこう言うで、また松次が言い切らぬ内に妙竹林な持論をひけらかす。
松次はそんな北忠の勝ち誇った顔を見ながら、
『そいつぁ、心意気と食い意地の食い違ぇでやすぜ』
との言葉を呑み込むが、額に浮かぶ血管は隠せない。
そこへ店の親爺がやって来て、
「えーと、暖簾出しといて大変申し上げ難いんですが八丁堀の旦那。実は未だ飯が炊けてないんですよ…」
と、申し訳なさそうに切り出した。
「な、なに言ってるんだい親爺! 飯屋で飯がないって有り得ないでしょうよ!」
唾を飛ばしながら声を荒げる北忠。
親爺はへこへこと謝りつつ、いつも昼餉刻に合わせて炊くのだと言い訳をする。
「まあまあ、北山の旦那。料理屋に入れば親爺さんに従うんでやしょう? それにあっしらの目的は…」
「誰がそんな事言ったんだいっ! こんな飯も用意してない料理屋なんて、こっちから願い下げだよ! 松次、帰るよ!」
「………」
松次が北忠の怒声に息を呑む。
普段がおっとりしているだけに、中々の迫力だったらしい。
北忠は松次が呆気にとられている隙に、すっと席を立ってしまう。
「いやいや旦那…」
松次がプリプリと店を出て行く北忠を慌てて追う。
「………」
親爺は何のことやらポカンと口を開け、ただそれを見ていた。
*
「あれはお凛さんね…」
みそのは二十間(凡そ36m)ほど先を歩く娘をお凛と確信し、思わず眉をひそめてしまう。
何故ならば、その手前を歩く武家二人が、お凛を尾行しているように見えているからだ。
「どう言う事かしら…」
お凛と確信したみそのは歩みを緩め、男達との距離を少し開ける。
距離を開けながら誰か知り合いが居ないか周りを見回すも、あいにく見知った顔は見当たらない。
ひょっこり源次郎でも現れてくれれば最高なのだろうが、毎回そう上手くは事が運ばない。
「お凛さんは小町娘として有名だからな……こんな事は良くある事なのかしらね…」
お凛には町民武家問わず、ファンが多いと聞いていたので、お江戸流の追っかけかとも思ってしまう。
しかしそれにしても二人は、余りに不穏な空気を醸し出している。
みそのは先ほど周一郎の裏店を出たばかりで、今は両国の『丸甚』へ向かっているところだ。一町(凡そ109m)ほど先の次の辻を左に折れれば、両国橋も見えて来る。
「やっぱりね…」
みそのが確信したように独り言ちる。
お凛が辻を左へ折れた時、件の武家が見失わんと歩みを速めたので、みそのはいよいよ尾行と確信したようだ。
二人の武家が辻から見えなくなると、みそのも小走りとなり後を追う。
みそのは曲がり角で一旦身を潜め、そっと通りに顔を覗かせる。
「ひゃっ!」
次の瞬間、みそのは目の前の大男に思わず悲鳴を上げた。
尾行に気づいた大村が立っていたのだ。
その後ろには、ニタニタと下卑た笑みを浮かべた信秀が懐手に立っている。
「………」
みそのは大村を見上げながら後退るも、何も言葉が思いつかない。
大村も無言でジリジリとにじり寄って来る。
「おやっ?! 姐さんじゃねぇですかぇ?」
そこへ両袖に手を突っ込みながら、小走りに通り過ぎようとした男が声をかけて来た。
弁天一家の正吉だ。
この先の竪川を渡ると弁天一家はすぐそこである。両国辺りに使いにでも行っていたのだろう。
「どうかしなすったんで?」
「あ、いや、曲がったところにお武家様が居たのでびっくりしちゃって…」
みそのは正吉の問いに、大村を警戒しながら応える。
大村はチラリと睨むように正吉を見るや、
「以後気をつけよ」
と無愛想にみそのへ言って歩き出す。
ここは面倒ごとを起こさず、やり過ごすつもりのようだ。
「待て。この女子はお主の刀に触れたのであろう? 無礼極まりない行いではないか。許してはおけぬ」
しかし、信秀は早々に立ち去ろうとする大村へ声をかけるや、みそのへにじり寄りながら、
「お主、これは無礼討ちにあっても文句は言えんぞ」
と、目を細めて凄んでみせた。
線が細くて身長もみそのと変わらぬくらいだが、信秀の目は狂人染みた凄味がある為、みそのは蛇に睨まれた蛙のそれで、恐怖で立ち竦んでしまう。
「なに言ってやがんでぇ! 姐さんは何処も触れちゃいねぇじゃねぇかぇ? 俺ぁこの目で見てたんだぜ?!」
すかさず横から正吉がしゃしゃり出て来た。
勇み肌な正吉らしい度胸と瞬発力だ。
信秀はギロリと正吉へ目を向けると、躊躇いなく刀の鯉口を切った。
「おう? この町中でその長ぇのを抜く気かぃ? けっ、こいつぁ驚きでぇ。ここが将軍様のお膝元だってぇのを知らねぇのかよ。これだから田舎侍はいやだねぇ」
「こ、この外道が…」
正吉の売り言葉で信秀の額には青筋が立ち、今にも斬りかかりそうな形相だ。
「へっ、抜くなら抜いてみろぃ。その代ぇり、ここらはウチの縄張りだってぇのを言っとくぜ。あっつう間に大勢が駆けつけるぜ?
抜くなら覚悟して抜きやがれっ!
二本差しが怖くて田楽が食えるかってぇんでぇ!」
正吉の大音声の啖呵に、ぞろぞろと遠巻きに人が集まって来る。
江戸名物と言えば、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」との流行り言葉になるくらい、江戸の至る所にそれらはあるが、それと同様「火事に喧嘩にちゅうっぱら(侠客・勇み肌)」とも言われ、町場での喧嘩は日常茶飯事で、江戸っ子の大好物でもある。
「なんでぇなんでぇ、何が始まるんでぇ?」
「おっ、二本差しと喧嘩かぇ? こりゃあ仕事なんかしてる場合じゃねぇな?」
「もったいぶってねぇで、いいから抜いちまえってぇんでぇ!」
「若えの、そんな侍なんかに負けんじゃねぇぞっ!」
ぞろぞろ集まって来た野次馬連中から、やんやと言葉が飛んで来る。どうやら本格的に楽しみ始めたようだ。
「若、ここは引きますぞ」
大村が信秀に駆け寄り窘める。
人が集まり出した事で、流石に大村も慌てた様子だ。
「お、覚えておれっ」
信秀は怒りに声を引き攣らせながら吐き捨てる。
流石に信秀もこの大衆の面前では分が悪いと見たようで、怒りを露わにしながらも逃げるように立ち去って行く。
「へっ、一昨日来やがれってぇんでぇ!」
正吉は慣れた様子で信秀の背中に浴びせると、
「姐さん、大丈夫でやすかぇ?」
心底心配そうにみそのの顔を覗き込む。
みそのの顔は青ざめ、薄っすら鳥肌が立っている。
「え、あ…うん。ありがとう、正吉さん。
なんだか気持ち悪い人だったんで…」
みそのはそう言うと、ブルリと身震いさせる。余程生理的に受け付けない何かがあったのだろう。
みそのは気を取り直すように、ブンブンと首を振り、
「でも本当助かったわ、正吉さん。ありがとうございました」
ほっとしたように言い、深々と頭を下げた。
「ところであいつらぁ何なんでやすかぇ?
この辺じゃ見ねえ顔でやしたが、姐さんはご存知でやすかぇ?」
正吉の問いにブンブンと首を振り、知らない二人だが、二人がお凛の後を尾行していた事を伝えた。
「お凛ってぇと、鳴海屋のお凛ちゃんでやすかぇ?」
「ええ。読売屋さんのお凛さんよ。やっぱり正吉さんも知っているようね?」
みそのは揶揄うような目で聞き返す。
やはり正吉も男だ。お凛のような小町娘が気にならない訳がない。
「そんな目で見ねぇでくだせぇよ。あっしぁどちらかってぇと、姐さんみてぇな様子のいい、大人っぽい女子が好みでさぁ。
姐さんがあっしの嫁に来てくれんだったら、死んでも構いやせんぜ」
「あらあら、お上手なこと。
でも正吉さんは弁天一家の伊達男。モテモテですもんね?
私なんかが嫁ぎでもしたら、町中の娘さんに恨まれてしまいますよう。怖い怖い。ふふ、死んでもお嫁に行きませんから、正吉さんは死なないで大丈夫ですよ?」
みそのは正吉の軽口に冗談めかして応え、楽しそうに笑っている。
「本当に死んでも構わねぇんだがなぁ…」
正吉の呟く声が、みそのの笑い声にかき消される。
どうやら正吉の軽口は本心でもあったようだ。
侍に歯向かう勇気を見せた正吉は、その気持ちの昂ぶりのまま、思わず口から出たのだろう。
しかしそんな正吉の告白も、みそのには軽口にしか聞こえず、敢え無く拒否されてしまう。
正吉は楽しそうに笑うみそのを恨めしそうに眺めている。
先ほどまでの勇み肌の男は何処にもいない。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
次話は来週の月曜日に更新する予定です。
と言いたいところですが、また無理そうなので、再来週の月曜目標と下方修正させていただきます。
よろしくお願いいたします。




