第六十話 親馬鹿の傷痕
相出憩さまよりイラストをいただきました!
素敵な贈り物、ありがとうございました!
「ごめんください」
みそのが腰高障子の前で訪いを入れている。
崩れかけと言ってもおかしくない裏長屋、順太郎と周一郎の住まう裏店だ。
「その声は…みそのさんですかな?
ーーふふ。開いてますのでお入りくだされ」
中から周一郎の声が聞こえて来た。
昨日が永岡で今日はみその訪いだ。周一郎も何か思うところがあるのか、柔らかく笑う声音には哀愁を感じさせる。
「こんにちは中西様。
順太郎さんはいらっしゃらないのですか?」
みそのは腰高障子を開けると先ず周一郎へ挨拶し、部屋を見回すようにして来意が順太郎にある事を匂わせた。
部屋は墨汁の匂いが充満し、文机に向かいながら対応する周一郎の手には筆。
どうやら写本の最中だったらしい。
「順太郎は例の道場で稽古すると言って、お百合さんと出かけていますよ。
ふふ。みそのさんにとっても、その方が都合が良いのでは?」
みそのの素振りが明らかに白々しかったのか、周一郎はそう言って微笑んだ。
「中西様にはお見通しって事ですね?」
みそのは悪戯っぽく応え、先ほど道中で購った饅頭を差し出した。
「おっ、これはこれは。今、茶を淹れますでな?」
周一郎は筆を置き、いそいそと湯を沸かしにかかる。
「それにしても永岡殿といい、みそのさんといい、この歳でこんな素晴らしい知己を得るとは、某には何とも勿体ない事で御座るよ…」
茶葉を急須に入れながらしみじみと呟く。
その背中には昨日永岡が感じたであろう、ある種の覚悟がみそのにも見てとれた。
「私の方こそ、お百合さん順太郎さんと繋がり、中西様とこうして親交が出来て、とても嬉しく思っているんですよ?
それに今度の私のお店と道場はお隣さんですし、中西様も裏にお住まいになるじゃないですか?
ご近所さん同士で助け合って、より親交を深めて行きましょうね?」
「それに」とみそのは、周一郎へ悪戯っぽい目を向けると、
「何事も最初が肝心と言いますが、初心忘るべからずとも言いますでしょ?
要は何事もずっとずっと肝心なんですから、最初だけ助けてあげれば良いだなんて考えは、甘い考えですからね?
あのお二人にも私にも、ずっと中西様のお力が必要なんですから」
と続けて微笑んでみせた。
「みそのさんも某が必要ですか…。
ふふ、嬉しい事を言ってくれますな?
しかしながら順太郎に関しては、手助けし過ぎるのも悪手と言うもの。親なれば尚更、その辺りを弁えねばなりませぬ」
みそのにつられたように微笑みながらも、周一郎は決然と応える。
「中西様、お忘れですか?」
みそのがニンマリと問いかけた。
そんな漠然としたみそのの問いに、「はて?」と、周一郎の眉が上がる。
「中西様は順太郎さんには剣の才があるから、剣の道へ進ませたいと仰っていましたよね?」
「まあ、そうでしたな?」
周一郎は訝しみながらもみそのへ応える。
「その際に中西様はご自分を親馬鹿と仰っていました。
お忘れではありませんよね?」
「確かにそのような事を言いましたな?」
周一郎はそう応えつつ、詰め寄るような物言いのみそのを更に訝しむ。
「親馬鹿ですよね?」
「ぐぬ…そう単刀直入に言われますと、何やらこそばゆい感じで御座るな…」
周一郎は戯けてみせるも、殊の外みそのの表情が真剣であった為、「確かに某は親馬鹿で御座る…」と居住まいを正して真摯に答えた。
その言葉を聞いたみそのは、ぱっと満面に笑みを浮かべ、
「なら、もっと馬鹿になってくださいましよ?」
と言って、覗き込むように周一郎を見やる。
「なにもご自分をご自分で罰するだけが、けじめをつける事にはならないと思います。更に言えば、それは新たな罪にもなり兼ねません。
ご自分では考え抜かれて納得した答えなのかも知れませんが、周りの人は全く別の答えを持ち合わせているのですよ?
そこのところをもう少しお考えください。そして良い意味で馬鹿になってください。
ご自分を罰するつもりで自分を律し、人の為に生きてこそ、償いにもけじめにもなり得るはずです」
みそのの真剣な、そして優しい声音が周一郎の耳朶を打つ。
「みそのさん…」
「真の親馬鹿を見せてくださいね!」
みそのは揶揄うように言うと、「ほらほら、お湯が沸いてるじゃないですか?」と、周一郎の代わりにお茶の用意にかかる。
周一郎は下を向いたまま声を詰まらせ、ただみそのの手が動く気配だけを感じていた。
*
「ほう…。永岡、こいつを見てみろぃ」
永岡は沢田の呼びかけに応じ、沢田の隣にしゃがみ込んだ。後ろには智蔵が控えている。
三人の前には、昨日最初に出くわした亡骸が寝かされている。
永岡達は今しがた本所の番屋に着いたところだった。
永岡が亡骸の刺し傷に並べるように懐紙をかざし、
「傷痕は酷似してますね?」
と沢田へ問いかける。
「ああ。それもそうだが、そこじゃねぇんだ永岡。
こいつを見てみろぃ」
沢田は亡骸を半分持ち上げ、永岡に背中の傷を見せてやる。
「ここだ永岡」
沢田はぐにゃりぐにゃりと二度曲がりくねった傷痕の一部分を指さした。
「ぁああ、ここですかぇ」
傷痕に顔を近づけた永岡が呆れたように声をあげる。
傷痕の下側部分、二度目に曲がりくねったところに、腹側と同じくらいの大きさの刀痕が重なっていたのだ。
「どう言うこってす?」
智蔵が永岡と同じように顔を近づけ、疑問を口にする。
「こいつぁあれだ。昨日のオイラの見立てでは、前から後ろからと斬りつけられた挙句、力尽きて倒れたところをブスリってぇ話だっただろい?」
「へぇ。確かにそう仰ってやしたが、そいつが変ってくるんでやすかぇ?」
智蔵の目が傷痕から永岡へと向けられる。
「そう言うこったな。こいつの大きさぁ切っ先どころの話じゃねぇや。鍔元までとは言わねぇが、深々と突き刺されたからこその大きささぁね。転がってたんじゃ、ここまで深く突き刺せねぇって訳さ。
要は倒れる前に刺されたって話でな。きっとこいつぁ二人以上で殺ったに違ぇねぇのさ」
「二人以上でやすかぇ?」
智蔵は永岡の言葉に首を傾げ、隣に居る沢田に目を向ける。
「永岡が言いてえのは、逃げた先にもう一人居て、そいつにブスリと殺られたって事さな」
沢田が智蔵に応えてやると、永岡はその言葉に頷きながら、
「またはもう一人が倒れたこの仏さんを立たせて、とどめを刺させてやったってところさぁね。
拙ぇ腕前の奴に試し斬りさせたんなりゃ、こっちの方がしっくり来るわな」
と、もう一つの見解を語った。
「するってぇと、どっかの殿様とご家来衆ってところでやすねぇ…」
智蔵が苦虫を噛み潰したような表情で呟く。
非道な行いもそうだが、相手が管轄外の大名や旗本とあって、探索の難しさを憂いての事だろう。
「そうと決まった訳じゃねぇが、十中八九そんな主従の仕業だろうな?
ま、何れにしても現場を押さえねぇ事にゃ、どうにもならねぇってこった」
永岡は面白くなさそうに応えると、顎に手をやって考え込んでいる沢田に目をやり、
「沢田さんの方との関連がありそうなんですかぇ?」
と、問いかけた。
「ああ。下手人が複数って考ぇなりゃ、例の件もすっきりすると思ってな?
それに、こいつぁ同一犯って線でも考ぇられるとな」
沢田は永岡へ顔を向けると静かに答えた。
「しかし何れにしても武家相手じゃ難しいこってすぜ」
二人の会話を聞いていた智蔵がボソリと呟くと、
「そいつは言いっこなしだぜ?
へへ。オイラにゃ腕っこきの岡っ引きが付いてんのを忘れたのかぇ。なあ、智蔵親分さんよ?」
永岡が揶揄うような口調で智蔵を覗き込む。
すると智蔵は照れ笑いを浮かべながら、
「ったく、やめてくだせぇよ旦那。
まあ、確かに今から泣き言もありやせんでしたぜ。こいつぁ気合い入れて探索しねぇと…」
と言いかけて、
「そう言や旦那、北山の旦那と松次に探らせてやすのも武家ですぜ?」
先ほど奉行所の前で、急遽二人に頼んだ一件を口にする。
「そう言やそうさね。
案外そいつらが下手人だったりするかも知れねぇな?
ま、それならそれで糸口は掴めたようなもんさね?」
永岡も思い出したようで、戯けたように言って笑った。
「取り敢ぇず、新たな聞き込みは、あっしらとあと一人二人で当たるとして、北山の旦那達にゃ二、三、人を増やしやしょうかぇ?」
「それもそうだな。武家を調べるったって、今のところぁ雲を掴むようなもんだしな?
まあ探索は夜回りを重点的にするとして、聞き込みの方はそんなもんでいいだろうな?」
永岡はそう智蔵に返すと沢田へ振り返り、
「んじゃ次行きますかぇ?」
と、苦笑混じりに言って腰を上げた。
先輩同心との遺体巡りの行軍に、改めておかしみを覚えたようだ。
*
「そうは言うけどよう。どうにかその前に心中もんを出せねぇもんかねぇ?」
「だからおとっつぁん。今は心中もんにゃ、お上が目を光らせてるじゃないのさぁ。
何度言ったら分かるんだぃ…」
お凛がうんざり気味に応えている。
お凛は先程から、父親とぐるぐる同じような問答を交わしていたのだ。
「だってよう。先だっての読売なんか、てんで売れなかったじゃねぇかぇ? やっぱり心中もんを二、三回に分けて売り出さねぇ事にゃ、赤字を取り戻せねぇだろぃ?
それに、他所の読売も載せられねぇ今だからこそだぜ?
なあ、お凛。一月ほど前に起きた心中騒ぎのネタは拾ってあんだろぃ? なあなあ。このままじゃこの鳴海屋が立ち行かなくなっちまうんだぜ?
聞いてんのかお前? なあ、お凛。頼むよぅ…」
うんざり顔のお凛にはお構い無しに、父親は最後は縋るように粘り続ける。
幕政改革(享保の改革)の一環として、町場の風俗取り締まりが厳しくなっている昨今、読売屋『鳴海屋』の商いにも、少なからず影響を及ぼしているようだ。
一番の売りであった心中物が書けないとあれば、経営者としては頭が痛い。まさに死活問題である。
「諦めが悪いねぇ、おとっつぁんは…。
まあ、ネタは拾ってあるんだけんどさぁ。あれは未だ死因がはっきりしないんだよう?」
お凛が根負けしたように語り出す。
「死因なんかどうだっていいじゃねぇかぇ。そんな事より、みんなは色恋沙汰が読みてぇんだぜ? そこんとこを気にする奴ぁ居ねぇやな。死因なんざ身投げでも何でもいいから、ちょちょいってなもんで書いちまえばいいのよう」
「おとっつぁん! あちきだって色恋沙汰が喜ばれる事くらい、分かってんのさぁ。でも死因をでっち上げでもすりゃ、物語に真実味が無くなっちまうだろぅ? こちとら戯作書いてる訳じゃないんだぃ。これは何度も言ってるじゃないのさぁ」
お凛は呆れたように言い返す。
お凛なりに書き手としてのこだわりがあるようだ。
父親としては尊重してやりたいところなのだろうが、この状況下なだけに、経営者としては是非ともそこを曲げて欲しい。
そんな訳でお凛の父親は、このところ如何ともし難い状態が続いていた。
「そりゃあ俺だって分かってるよ? 重々分かっているともさぁ。それにお前の筆にゃあ、人様を楽しませる才ってぇのがあらあな。俺ぁお前のそんな才を疑っちゃいねえ。だがな、お凛。このままだと本当にこの鳴海屋が立ち行かなくなっちまう。そんな事になっちまったら、折角のお前の才も宝の持ち腐れじゃねぇかぇ? お前だって書くのが好きなんだろう? 書けねぇのは辛えぞ? 心中もんは鳴海屋の為にもお前の為にもなるのさぁ。
だからお凛、頼むから書いておくれよぅ。こいつぁお前の為にもなるんだし、何よりお前の才を無駄にしちゃいけねぇんだよ」
父親は改めて縋るような目で訴える。
お凛はそんないつになく食い下がる父親に苦笑すると、
「全くおとっつぁんたら、諦めが悪い上に親馬鹿なんだから…。
ったく、鳴海屋の事はあちきだって考えてるのさぁ」
と言って立ち上がる。
そして見上げる形になった父親に、
「でもありがとね、おとっつぁん。
そんじゃ、あちきは行って来るよ?」
と照れ臭そうに言うや、ぷいっと踵を返して部屋を出て行った。
「行って来るってお前、急に何処ぇ行きやがるんでぇ?」
ぽつんと残された父親が慌てた声で投げかけると、
「八丁堀の旦那との逢い引きに決まってるじゃないかぇ! 早く孫の顔を拝ませてあげたいからねぇ?!」
と、遠くからお凛が怒鳴り返して来る。
なんだかんだ言って、父親の願いを聞き入れたのだろう。
お凛は一月ほど前に起きた心中騒ぎの際、月番だった北町の同心に聞き込みをしていたのだが、けんもほろろな対応で、全く情報を仕入れる事が出来なかったのだ。
その時はお凛も、いよいよ取り締まりも厳しくなって来たのだと諦めたものだが、読売の売れ行きが優れず憔悴して行く父親を見るにつれ、見兼ねたお凛はくだけた旦那と評判の南町の同心、永岡に狙いを定め、聞き込みを再開していたのだった。
とは言え、期待しつつ聞き込みに当たったお凛だったが、永岡も北町の同心同様、心中関係の問いには全く答えてくれなかったのだ。
その直後に亜門と出会い頭に衝突し、みその達とも出会ったと言う訳だ。
お凛は父親の為にも心中ものを書こうとしていたようだ。
「よう宗さん。たった今、お凛ちゃんとすれ違ったんだが、なんだかウキウキして出て行ったぜ?
もしやお凛ちゃん。やっと本腰入れてくれたのかぃ?」
お凛と入れ違いに白髪頭の男が入って来た。
気安げな口調から、お凛の父親とは相当懇意にしているのが伺える。
「おうよ、金さん。これで鳴海屋も救われるし、金さんへのツケもチャラになるってなもんよう」
「ったく、酷え親父だよなぁ宗さんは」
「なに言ってやがんでぇ。お前さんが自分でお凛の心中もん読ませてくれりゃあ、借金をチャラにするって言ったんじゃねぇかぇ? 酷えも何もあったもんじゃねぇやぃ」
「馬鹿言っちゃいけないよ、宗さん。そいつが酷えってなもんなのさぁ。
読売が売れねぇ売れねぇ言いやがって、ツケを延ばしてたのは何処のどいつよぅ?
金ねぇのが分かってっから、商売も上向く訳だし提案してやっただけじゃねぇかぇ?
親の賭け将棋のツケを払わされる娘の身になってみろってぇの。全く酷え父親だよ」
どうやらお凛の知らないところで、胡乱な話になっていたようだ。
これがお凛に知られでもしたら、ただでは済まされないだろう。酷い父親は本当に酷い事になりそうだ。
「まあ、金さんが楽しみにしてたお凛の心中もんが読めて、俺も借金が無くなる。これぞ一挙両得、いい話じゃねぇかぇ?」
お凛の父親はご満悦だ。
そして「そんじゃ早速…」と言いながら、そそくさと文机の下から将棋盤を取り出す。
「全く懲りない男だねぇ?」
金さんと呼ばれた男もそのつもりだったのか、そう言いながらもニタニタと盤の前に座る。
そんな風に二人が将棋盤を挟んで向かい合ったその時。
「ーー現れましたぞ」
「全く待たせおってからに。お陰で茶腹になってしもうたわ」
鳴海屋の斜向かいにある茶店では、この辺りでは見かけぬ武家が二人、床几に腰掛けながら言葉を交わしていた。
二人はねっとりした視線を表通りへ向けている。
その視線の先には意気揚々と歩く、お凛の姿があった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次話は来週の月曜日に更新する予定です。
また遅れるかも知れませんが、よろしくお願いいたします。




