第五話 取り調べの先にあるもの
「何やら賑やかな様なしめやかな様な…」
順太郎の父、中西周一郎が家に帰り着くと、二人の女子の前で頭を下げている息子、順太郎の姿を目の当たりにしたのだった。
「お帰りなさいませ父上…」
順太郎はほっとした様なバツが悪そうな顔をあげると、方向を変えて同じ様に恭しく頭を下げ、帰宅した父親に挨拶をした。
「うむ。だが、父は邪魔の様だな…」
周一郎は肩を竦めて言うと、そっと引き戸を閉めたのだった。
「お待ちください!」
みそのは慌てて立ち上がると、急いで草履を引っ掛けて周一郎を追った。
「あっ…」
みそのが息急き切って表へ出ると、周一郎は戸口の前で屈み、ずれたどぶ板の板を直しているところだった。
みそのに気づいた周一郎は、「おや?」と、人の良さそうな顔で見上げて来る。
「……子供が踏み抜くと危ないですからな」
周一郎はそう言うと、順太郎と良く似た整った鼻筋に皺を寄せて小さく笑う。
歳の頃はみそのより五つ六つ上だろうか。疎らに白髪の混じった総髪が印象的に映った。
生活に苦労しているのか、やけに思い悩んだ疲れた笑顔に見え、剣術家の体格の良さとは対照的な、涼やかに整った顔立ちもあってか、みそのはその哀愁漂う様子に何故か違和感を覚えるのであった。
「お優しいのですね?」
「いえ、少々几帳面が過ぎるところが御座ってな。
本当のところは、こうしてずれているのを性分的に放っては置けず、ただ自分の都合で直しているだけの事に御座るよ」
みそのが周一郎の手元を見ながら言うと、周一郎ははにかむ様に謙遜して見せる。
どぶ板では無いが、周一郎自体も放って置けなくなる様な心持ちになって来る。
みそのはそんな周一郎の物腰の柔らかい様子に、
「中西様は甘い物はお好きですか?」
と、頰を緩めながら自然と声をかけていた。
*
「旦那、あんなもんで良かったんでやすかぇ?」
伝馬町牢屋敷の裏手にある大番屋を出た智蔵は、振り返りざまに永岡へ声をかけた。
智蔵としては、もっと厳しく話しを聞き出しても良かったのではと感じていた様だ。
「まあ、今はこれと言った掛かりが有る訳じゃねぇんだし、焦る事ぁねぇやな。今日のところはあんなもんだろうよ。
それよか智蔵、お前は熊手の弥五郎って野郎について、何か知ってる事があるかぇ?」
智蔵の思いも分からない訳では無い永岡は、すまない気持ちをのんびりとした口調に乗せ、先ほど話に出て来た男の名前を出した。
「へい、詳しく知ってるってぇ程の事じゃありやせんが、何度か耳にした事ぁありやす」
「ほう、さすが地獄耳の智蔵親分さぁね。
そんで、どんな話を聞いてんでぇ?」
永岡は短躯の智蔵と肩を並べる様に、歩きながら少し体を縮こませる。
「あっしは地獄耳なんかじゃありやせんぜ、旦那。
まあ、あっしが聞いた話しでやすが、巾着切りの末吉ってぇ小悪党がいやしてね。そいつが昔弥五郎に弱みを握られて、いい様に使われてた事があるってぇ話しを小耳に挟んだ覚えがありやす。
それに政五郎の賭場で揉め事を起こして、政五郎にこっ酷くシメられたってぇ、話なんかもありやしたかねぇ」
「ほう、政五郎かぇ?
そいつぁまた面白ぇ名前が出て来やがったな。あいつぁ元気にしてるかぇ?」
永岡は思わぬところで古馴染みの名前を聞き、相好を崩して智蔵に聞き返す。
「へい、あっしもここんとこ会ってはござんせんが、風の噂では相変ぇらず達者にしてるみてぇですぜ」
「そうかぇそうかぇ。そりゃあ何よりだ。
そうとなりゃ、早速その達者な野郎の顔を拝みに行くとするかぇ?
で、その巾着切りのなんとかってぇ小悪党の所在は分かってるのかぇ?」
「末吉でやすね。へい、あの野郎は鎌倉河岸辺りをウロついてるはずでさぁ。
翔太は別としやして、他の者なら大抵知っておりやすぜ」
智蔵は後ろからついて来る、未だ手下としての日が浅い翔太をチラリと見ながら、そう永岡に返した。
「忠吾、聞いてたかぇ?」
永岡がおもむろに北忠に声をかけた。
奉行所から直接新田の取り調べに赴いた北忠は、今は永岡に同行していたのだった。
その北忠は、楽しげに翔太をからかいながら永岡達のすぐ後を歩いていたので、ちょこまかと小走りで近寄って来る。
「な、何でしょう永岡さん?」
「何でしょうじゃねぇだろうが、何でしょうじゃよぉ!
本当なりゃお前は見習ぇなんかじゃねぇで、独り立ちしててもおかしかねぇんだぜ?
そんなんだからお前は、陰で同僚に笑われちまってるんでぇ。
しっかりしろよ、ったくよぉ」
「いえ、お言葉ですが永岡さん。私は地道にじっくりと道を踏みしめながら歩む性分でして、人は人、笑いたい者は笑わせておけば良いので御座いますよ。それに私は永岡さんの美味しい背中を、未だ当分は見ていたいのですから、これからも末長く宜しくお願いしますよ?」
「末長くって勘弁しろよ、ったくよぉ。
それにお前、今 美味しい背中って言ったか?」
「いえ、頼もしい背中と…はい…」
「ちっ…」
北忠の見当違いの反論に、永岡はうんざり顔だ。
すっかり日課になった舌打ちをすると、智蔵に助けを求める様な目を向ける。
「まあ、いいじゃ御座ぇやせんかぇ。
永岡の旦那に付いていりゃあ間違ぇねぇってぇのは、この智蔵が保証しやすぜ?」
苦笑交じりに何時もの二人の遣り取りを見ていた智蔵は、永岡の視線を受け面白がる様に応える。
「おきゃあがれ、忠吾が調子ん乗んたろうがっ!」
智蔵の思わぬ肯定の軽口に、永岡は智蔵から飛び退る様に離れて口を尖らせる。
「まあいいやぃ。とにかく忠吾、お前は翔太と二人で広太んとこへ行って、誰か一人借りて、巾着切りの末吉って野郎の調べに当たってくんな」
智蔵に抗議の目を向けるも、当の智蔵はおかそうにニタついているだけなので、永岡は諦めて話しを続けた。
「承知しました…が、これからすぐ…ですか?」
北忠が歯切れ悪く上目遣いで永岡の顔色を伺う。
「何だ忠吾、これからだと都合が悪りぃのかぇ?!」
「い、いえ、都合が悪いとかそんな…」
永岡のひと睨みを据えた怒号に、北忠は狼狽えながらモゴモゴと応える。
「まあ、そう急ぐ事もあるめぇ、行きがけに何か腹に入れてから行くんだな?」
「は、はひ、承知しました!
ほら翔太、永岡さんからの言い付けだよ。ぐずぐずしないで行きますよ!」
そろそろ飯時、普段なら飯だ飯だと北忠が煩くなる頃合いである。
そんな煩わしい行事が体内時計に入っている永岡は、北忠のおかしな様子を察して、用事の前に昼餉を済ませる様に言ってやったのだ。
北忠はスイッチが入った様に、動きまできびきびして翔太を急き立てている。
「あとどんだけ面倒見にゃならねぇんだよ、ったく…」
飯屋へ、いや、広太達の居る両国界隈へと、ちょこまかとした足取りで向かう北忠の背中を見送りながら、永岡は弱々しく智蔵にぼやく。
「面白ぇ旦那に執心されちまいやしたねぇ?
ふふ、北山の旦那は案外役に立つお人じゃねぇでやすかぇ。そんな事ぁ言わずに仲良くやって行きやしょう?」
「へっ、良く言うぜ。あいつぁオイラに執心してんじゃねぇぞ。どちらかってぇと、お前の女房の料理にご執心でぇ。
そうだ智蔵、お前が忠吾と組んだら丸く収まるんじゃねえかぇ?」
「そいつぁ無理だ旦那ぁ。あっしが旦那から離れる時ゃあ、お上に十手をお返しする時ってぇ、そう心に決めてるんでさぁ」
「良く言うぜぇ。
まあ、そう言う事にしておくかぇ?
じゃあ、オイラ達も鯔背な野郎を拝みに参るとするかぇ?」
智蔵に妙な言い回しで断られた永岡は、呆れる様に言って歩みを早めるのだった。
*
「こんな美味い菓子は今まで口にした事が御座らん…」
周一郎は白湯を片手にカステラに舌鼓を打っている。
みそのが遠慮する周一郎を半ば強引に中へ引き込み、手土産のカステラを食べながら話しているところだ。
「父上…」
「いや、すまなかった。恋路の話しだったな?
余りにも美味くて、思わず声を出してしまっていた様じゃ…」
順太郎が土下座に至った経緯をみそのが話していたところ、周一郎が断ち切る様に声をあげたので、思わず当の順太郎も眉をひそめる。
「ふふ、やっぱり親子ですね。先ほど順太郎さんも産まれて初めて食べたとか、大袈裟な事を言っていたのですよ?」
話しの腰を折られたみそのも、そんな二人の遣り取りに破顔する。
「いや、順太郎が言ったのも決して大袈裟では御座らんよ。
こんな暮らしをさせてしまっているからでは御座らんが、この様な菓子は今まで巷でも見た事も御座らん。そもそもこの菓子は、そうそう民草の口に入る代物では無いのでは?」
「まあ、珍しいと言えば珍しい食べ物なのですが…。
それは良いとして、そうよ、恋路の話しですよ!」
みそのは説明が苦しくなりそうなので、強引に話しを戻す事にした様だ。
これには居住まいを正したお百合も、困惑した表情を浮かべている。
それはそうであろう。
なにせ今日のお百合の訪いは、みそのに一度順太郎に会ってもらい、自分の事を順太郎がどう思っているか、みそのから見た意見を後で聞く為の物だった。
それがいきなり順太郎に恋心を寄せている事を暴露され、それについてどうも思わなかったのかと、順太郎を詰問する形になり、終いには順太郎の父親までも巻き込み、その話しに決着をつけようとの流れになっているからだ。
「中西様はどう思われます?」
「いや、拙者もその辺の話しには疎い方で御座ってな。
今は亡き妻を娶ったのも、拙者が三十を越えてからになるもので、それまでは剣術しか見えていない、汗臭い詰まらん人生を送っていたので御座るよ…」
「え、今三十を越えてからって仰いましたか?」
「ええ、左様で御座るよ。三十一で妻を娶って、この順太郎が産まれたのも三十一の歳になりますな。お恥ずかしい話しで御座るが、それまでは女子とは無縁で御座ったので、若い恋路について、意見出来る程の素養は無いので御座る」
みそのは周一郎を、自分より一つ二つ年上なのだろうと思っていたので、変なところに食いついてしまう。
順太郎は十八と聞いているので、周一郎は両国の古着屋『丸甚』の甚右衛門と同じか、もしかしたら一つ年嵩かも知れない。
そう思うとこの周一郎、めっぽう若く見えるのだった。
「そんな訳で御座って、拙者の口から言える言葉は無いので御座る。
まあ、二人が良ければそれはそれで良いとしか…」
周一郎の話しを聞いて、お百合の目が強く希望に満ちて光る。
しかし、次に周一郎が口にした言葉でその目の光も曇ってしまった。
「強いて言えば、お百合さんは立派な家の一人娘で御座る。見ての通り貧乏浪人の家に嫁ぐには些か無理が生じるので御座らんか。
だからと言って、仮にお百合さんのご両親が許して順太郎が養子に行くのも、貧乏浪人とは言え武士として生きて来た拙者には、それは承知し兼ねます。
それに親馬鹿ながら拙者は、順太郎には剣術の才があると見て御座ってな。勝手な事を言う様で何で御座るが、順太郎には剣術の道を進んで欲しいと、切に願っているので御座るよ」
「父上、私もそのつもりで御座います」
父親の思いに応える様に、順太郎が迷い無く声をあげる。
今まで生活が苦しいながらも父子二人で生きて来た、親子にしか分からぬ思いがあるのだろう。
お百合は益々下を向いてしまっている。
「順太郎さんはお百合さんの事を、憎からず思っているのですよね?」
お百合が消沈していると、みそのが飄々と口を開いた。
「え……?」
話しの流れを無視したみそのの物言いに、意表を突かれた形の順太郎が、丸い目をみそのに向ける。
「どうなんですか?」
「え、えぇ。まあ…先ほど申し上げた様に、今までは剣術の事で頭が…」
「そうなんですね?!」
「は、はいっ! いえ、何と言うか今考えますとその様な…」
「お百合が好きなんですね?!」
「…………」
みそのの誘導尋問の様な強引な詰問に、順太郎がしどろもどろになり、最後は黙って下を向いてしまう。
「は、はは、はっはははは、わっはっはははははっ」
一瞬しんと静まり返った部屋に、周一郎の笑い声が次第に大きくなりながら響いた。
「いや、失礼した。あまりにも愉快でな?」
一頻り笑った周一郎が、目尻の涙を拭いながら居住まいを正して詫びる。
「順太郎、お前、今このみそのさんにバッサリと斬られおったぞ?
その迷いが命取りだ。剣術家なら、いや、男なら迷い無く在らねばならんの?」
父親が突然笑い出した事に目を丸くしていた順太郎は、その父の言葉に無言で小さく頭を下げた。
「では決まりですね?」
「は?」「ん?」「え?」
父子の遣り取りを見届けたみそのが、嬉しげな声音で言って皆を見回すと、順太郎と周一郎、それにお百合までも間の抜けた声で聞き返す。
「いえ、順太郎さんがお百合さんの事が好きであれば、あとは順太郎さんが剣術家として、お百合さんと二人で食べて行ける様になる事を考えれば良いのですよね?」
「ほう、そう来ましたか?」
みそのの言葉に周一郎が面白がる様に関心する。
「それで一つ相談なのですが…」
「何ですかな?」
眉をひそめたみそのが周一郎に問いかけると、周一郎は身を乗り出して聞き耳をたてる。
「剣術家と偏に言いましても、剣術家とは一体何をやるのですか?」
「ふ、ふはははははははっ」
神妙に語り出したみそのの質問に、周一郎は再度腹を抱えて笑うのだった。