第五十七話 夜の声
「……それで北山さんったら、亜門さんへの褒美だとか言ってたのに、結局みんなにお団子をご馳走してくれたんですよう。
まあ、松次さんは納得が行っていないようでしたがね?
ふふ。それにしても面白かったんですよ。千太さんもお千代ちゃんも、食べる前はお腹いっぱいだって言ってたのに、一口食べたら止まらなくなったみたいで、パクパクとあっという間に一皿平らげてしまったんですから。旦那にも見せてあげたかったですよ、本当。
確かに美食家の北山さんが贔屓にしているお団子なだけあって、とっても美味しかったのですけどね?
しかしこの子達、今日は沢山美味しいものが食べられたって、凄く喜んでたなぁ…。
本当、旦那からも北山さんにお礼を言っといてくださいね?」
みそのが千太とお千代の寝顔を見ながら嬉しそうに語っているところだ。
二人は小さく寝息を立てながら気持ち良さそうに眠っている。お千代などその寝顔に笑みまで浮かべているのだ。
美味しいものを食べている夢でも見ているのだろうか。
とにかく二人にとって楽しい一日だったと、その寝顔から伺える。
「ったく忠吾の野郎、道理で遅えと思ったんでぇ…」
「北山さんがどうかしました?」
「いや、何でもねぇやい。こっちの話でぇ。
とにかくあの野郎は、美食家なんて大層なもんじゃねぇやい。ただ単に食い意地が張ってる野郎で、要は自分が食いたかっただけの話さぁね。
んなもんだから礼には及ばねぇぜ」
「ふふ、まあ人一倍食べてましたから、そうかなぁとは思ってましたよう。
でもご馳走になったのは事実なのですから、お礼はしておいてくださいな」
「ちっ」
永岡はみそのの言葉に盛大に舌打ちする。
確かに舌打ちしたくもなるだろう。
永野は先輩同心の沢田へ繋ぎを付ける為に、北忠を走らせたのだが、北忠が番屋に戻ったのは日も暮れかけた暮れ六つ(凡そ午後六時)近く。しかも沢田とは入れ違いが重なり繋ぎが付かなかったとの事だった。
北忠が言うには、沢田が担当する町廻り内の番屋に顔を出す度、半刻から一刻前に顔を出した後だったようで、どうにも後手を踏み続けたそうだ。
勿論、このような事は無きにしも非ずな訳なのだが、まさかみその達と団子を食べていた事が、北忠が後手を踏んだ原因だとは思わなかった。
今思い返せば、報告している北忠の横で、松次が心底申し訳なさそうな顔をしていたのは、実はそこにあったのだろう。
そんな松次に免じたところもあっただけに、舌打ちの一つや二つ出ても仕方のない事だ。
「で、中西様は如何だったのですか?」
「ったく、お前がその話を折って忠吾の話をしだしたんだろうがよぅ…」
永岡はそう言いつつも、『そうだったかしら?』と書いてあるような、惚けたみそのの顔を見て笑ってしまう。
確かに永岡が言うように、「今日は久々に中西殿の顔を見て来たぜ」との永岡に対し、「そう言えば私も久々に北山さんとお会いしましてね…」と、みそのが語り始めたのだった。
永岡も毎度の事ながらの遣り取りに、可笑しくなってしまったのだろう。
永岡は当初の予定通りに北忠を待つ間、智蔵と二人で周一郎の長屋を訪れていた。
永岡と智蔵が到着した時に、周一郎も折良く出先から帰って来たところだったので、結果的には抜群のタイミングだったのだ。
「いや、あれだな?
真面目が裏目に出ちまってるってとこだな…」
「どう言うことです?」
苦々しい顔で言う永岡に、みそのが心配そうに聞き返す。
永岡はそんな不安げなみそのから千太とお千代に視線を落とし、
「ここで話すのもあれさぁね…」
幾分声音を明るくして言うと、戯けたように猪口を傾ける仕草をしてみせる。
とにかく気分を変えたかったのだろうが、すっかり寝入っているとは言え、子供の前で話すには無粋だと思ったのかも知れない。
「ふふ、そうよね? すぐにお酒にしますね」
みそのは小さく笑うと、気を取り直すように言って立ち上がった。
重苦しくなりかけた空気が解けたせいか、酒の用意にかかるみそのの足も軽く見える。
「へっ、すぐに酒にしますってかぇ。
その言葉は帰った時に聞きたかったぜ」
永岡は嬉しそうに小声で言うと、いそいそとみそのの後を追うのだった。
*
「そうか、読売なぞを生業にしておったか…。
それがあの小柄な方の娘じゃな?」
「ま、まあそうなのでござりますが、あのお凛とか申す娘は、あの界隈では小町娘として中々評判の娘でござって、ちと人目につき過ぎるかと…」
「何を言っておる大村。人目のつかぬところへ連れ出すのがお主の役目じゃろうに。
それにどうせ町民じゃて、いざともなれば無礼討ちにでもすれば良かろう?」
「………」
何やら不穏な言葉を平然と口にする信秀に、大村は言葉を失ってしまう。
「そうじゃそうじゃ。たっぷり可愛がった後に、村正で嬲ってやるのも悪くないのう?」
信秀は黙り込んだ大村など気にもせず、自らの言葉で高らかに笑う。
周りに誰もいないとは言え、常軌を逸していると言えよう。
大村はがくりと首を垂れ、床板の隙間を眺めていた。
今二人が居るのは、本郷にある三千五百石の大身旗本、伊沢家の屋敷内にある武芸場だ。
武芸場と言っても、以前は物置小屋として使用されていた離れにある建物で、小さな百姓家ほどのこじんまりとしたものだ。大村はこの道場を寝ぐらとしている。
伊沢家剣術指南役と言った名目だが、ほぼ信秀の為だけに雇われたと言っても過言では無い。現に信秀の兄達や家来など、他の者は一度も顔を出していないのだ。
大村は一刀流の道場で師範代をしていたのだが、博打に手を出して身を崩し、道場を破門となった身だった。その後に賭場で顔見知りだった信秀に拾われ、今に至っている。
大村は師範代を務めていただけあり、少々素行が悪かったにせよ腕前は中々のもの。伊沢家としても、今まで信秀を数々の道場に入門させては、ことごとく破門されて来ただけに、大村が信秀の面倒を見てくれる事については万々歳であった。
何処まで息子の悪行を把握しているかは不明だが、これで少しは剣術に身を入れてくれるだろうと喜んでいるのだ。
「して、村正はいつ研ぎ上がるのじゃ?」
信秀は急に笑いを止めて真顔になり、大村へ問いかける。
大村は慌てて顔をあげると、
「余計に金子を掴ませました故、明後日には必ず仕上げると申しておりました」
務めて平静に研ぎ師の言葉を伝えた。
あれだけ刀身を血糊で曇らせていれば、研ぎ師なれば一目で人を切った刀だと知れよう。大村には裏仕事を頼める伝手もあったようだ。
何れにしても研ぎ代は通常の数倍はするのだろう。
「ではそれまでに策を練る事じゃな?」
「若…」
意味深に笑う信秀に、大村は半ば諦めた目を向けながら口ごもる。
「一番の稽古は実戦じゃと言うたのはお主じゃろうが?」
信秀は未だ賭場仲間だった頃に聞いた大村の言葉を、したり顔で言って高笑いする。
「楽しみじゃ楽しみじゃ…」
また急に高笑いを止めた信秀は、今度はほくそ笑むようにして酒を呷った。
大村はその杯に酒を注ぎ、自らも現実逃避するかのように杯を呷るのだった。
*
「そうかぁ。中西様らしいと言えば中西様らしいのですが、今度ばかりは信念を曲げてもらわないと困りますよね…」
みそのは永岡の猪口に酒を注ぎながら、ため息混じりに言葉を紡いだ。
永岡も指で顳顬を掻きながら小さく頷いている。
永岡は周一郎との会話で感じた自分なりの見解を語っていたのだ。
永岡は周一郎には切腹せぬよう言い聞かせ、これからを生きる約束をしていた。
しかし、やはり周一郎は根が真面目なだけに、時間の経過と共に自責の念にかられていたようなのだ。
この事はそもそも周一郎の顔を見た瞬間に感じた事で、その後の会話でも端々に感じ取れたのだと言う。
流石に切腹の二文字こそ口にはしなかったようだが、今日の周一郎の言動から察するに、息子の道場開きを無事見届けた後に、けじめをつけるつもりなのではないかと言うのが、周一郎と会話した永岡の推論のようだ。
今日のところは敢えて直接的な言葉を口にせず、長屋から引き上げて来たそうなのだが、永岡は時間が経つにつれ、心配が膨らむ一方だと言って話を終えたのだった。
みそのは周一郎がまさかそこまで思い詰めていたとは思っておらず、最近無沙汰していた自分を反省するのだった。
「私も明日にでも行って来ますよ。
何が出来ると言う訳ではありませんが、気分転換くらいにはなってくれるでしょうし、何よりみんながついてるんだって、少しでも感じてもらいたいですからね?」
「そうさな。オイラも今はそんくれぇがいいと思うぜ。あまり言い過ぎちまって、逆に意固地になられちまってもつまんねぇしな?
そこんとこはお前の塩梅に任せるぜ。
まあ、ひとつ宜しく頼まぁ」
永岡はみそのにそう言って笑ってみせる。
永岡もみそのと話す事によって、少し胸のもやつきが晴れたようだ。
「んじゃ、オイラの方は太平の様子見に、誰かを走らせとくぜ」
一つ胸のもやつきが晴れたからか、永岡はもう一つの心配事を口にした。
千太とお千代の最大の心配の種、二人の父親の容態についてである。
「ありがとうございます。やっぱり安定しているとは聞いてても、日々変化してそうで心配ですからね…」
みそのは心配顔で応えるも、直ぐにその目に笑みが溢れてくる。
みそのも気になっていた事だっただけに、永岡の気遣いが嬉しかったようだ。
「旦那、労咳はやっぱり不治の病なんですよね……?」
また心配顔に戻ったみそのは、永岡を覗き込むようにして問いかける。
「まぁな…。弘治の話じゃ、あっこまで進行してっと難しいってこったから、不治の病っちゃ不治の病だろうな?
あいつらにそれをいつ打ち明けるかが問題さぁね…」
永岡もみそのと同じように、二人に知らせるタイミングで頭を悩ませていたようだ。
「そうなんですよね…。
でも、もう直ぐ死んでしまうのであれば、太平さんとは少しでも長く一緒に居させてあげたいけど、現実は隔離されてる訳だから会いたくても会えなし、そうすると更に辛い思いをさせてしまう気もするし…。
最後の時間を有効に使わせてあげたい気持ちが、なんか堂々巡りになってしまうんですよ…」
「そりゃそうさね。オイラもお前と一緒でぇ。
何せ親のこったし、千太が幾ら聡いとは言え、子供にゃ変えりねぇや。
そりゃあんだけ小せえと余計に考ぇちまうってもんよ。
ま、そこんとこも明日弘次に聞いとくとするかぇ?
知りたかねぇが、どんくれぇ保つのかによっても、考ぇが変えって来るのかも知れねぇしな?
何れにしても情報仕入れてから、また二人で考ぇてやるとしようや?」
「そうね……。
ありがとう旦那」
みそのは永岡の存在を改めて心強く思うと同時に、二人で考えられる幸せに胸を熱くするのだった。
*
「全く彼奴は狂っておるとしか言えんな…。
しかし、もう引き返せぬところまで踏み込んでしまったのは確かな事……。
ぁああっ、考えても詮無い事じゃ。もう行くとこまで行って、手に入れるものを手に入れるだけじゃな………」
男がブツブツと呟きながら夜の町を歩いている。
六尺(凡そ180㎝)近い大男で、がっしりとした体躯の男は、先ほどまで旗本屋敷の武道場に居た大村だ。
大村は信秀が自室に戻るや、憂さ晴らしに屋敷を出ていたのだった。
早くに信秀から解放された日には、こうして一人で夜の町へと繰り出しているのだ。
日々を信秀の太鼓持ちのように過ごしているだけに、それなりにストレスも溜まるのだろう。
「あぁ…しかしワシも落ちたものよ…」
大村が溜め息混じりに独り言を吐いた時、ぼんやり淡く灯った提灯が見えて来た。
「やっとるやっとる」
思わず大村の頬が緩む。
更に近づくと、その提灯には『天麩羅・蕎麦』との文字も見えて来た。
どうやらこの屋台が目的地だったようだ。
大村は酒を飲んだ帰りに寄って以来、ここの屋台を贔屓にしているのだ。
「今夜は先客ありじゃな…」
凡そ三間(凡そ5.5m)ほどの距離まで屋台に近づいた大村が、独り言と共に一瞬立ち止まった。
そしてそのまま屋台を素通りするや、直ぐ先の辻を曲がり、塀に隠れるようにして屋台を覗き見る。
「やはり…。
さてこの偶然、如何するかのう…」
大村の視線の先には昼間見たばかりのお凛が居た。
お凛は四人ほど居る客に混じって、美味そうに天麩羅を齧っているところだ。
「蕎麦まで天麩羅にしちゃうなんて、中々突飛な発想よね?」
「突飛で終わらずにお味も中々じゃありませんかぇ?
あ、そうだ亜門、あれを出しておくれ?」
お凛に応えた北忠が何かを思い出したようで、隣に座る亜門へ声をかけている。
「いけね。せっかく購って来たのに忘れちまうとこだったぜ…」
「なんかすいやせんね、亜門の旦那」
亜門が砂袋と一緒にぶら下がっている巾着袋から柚子を取り出すと、松次が片手拝みに小さく頭を下げた。
屋台の客とは、お凛と北忠に亜門、そして松次の四人だったのだ。
これは昼間の団子屋で、北忠と亜門が美味いもの談義をしている内に、北忠が面白い屋台があると語り出したのがきっかけで、それならば今夜にでも連れて行ってくれと、亜門が持ちかけた事で急遽決まった事だった。
そこにお凛が乗っかり、夜の屋台ツアーと相成ったのだった。
お凛は美味しい料理屋の記事を読売に載せてみてはと、みそのから勧められたばかりだった事もあり、そちらの見聞を広める良い機会だと思ったようだ。
松次はと言うと、今晩は愛妻との約束で役宅での夕餉が決まっていた北忠の為、夕餉を終えた頃合いを見計らい、事件での呼び出しと言う体で、迎えに行く役を請け負う羽目となったのだ。実に気の毒な話である。
なので北忠は常の町廻り同様の黒羽織姿で、八丁堀のそれと分かる格好をしている。
仕事へ行くのに妻に柚子を所望する訳にもいかない。
その為、最初は松次に柚子を持って来るように頼んだが、松次が家に柚子など置いているはずもなく、ましてや今は沢田に繋ぎをつけに行く途中で、これ以上のんびり買い物などしてられるはずもない。
松次がにべもなく断り、北忠が口を尖らせて拗ねたところで、亜門がその役を買って出てくれたのだった。
「どうれ。
ほう、中々香りがいいじゃないかぇ?」
北忠は亜門から柚子を受け取り、香りを確かめると、
「親爺さんや、これを小指の爪ほどの大きさに薄く削いでおくれ?」
屋台の親爺に柚子を手渡した。
親爺は「こりゃあ良い柚子でやすね。へいへい、今やりやすんでちょいとお待ちくだせぇ」と言いながら包丁を取り出し、小皿に削ぎ落として行く。
「うふふ。い〜い香りだよぅ」
北忠は小皿から一片摘み入れると、丼に顔を突っ込むようにして香りを楽しんでいる。
そして一口汁を啜りうんうんと頷きながら、
「ほ〜ら、味わいに深みを与えているじゃないかぇ」
嬉しそうに解説すると、皆にも入れるように目配せした。
「確かに持って来た甲斐がありやしたぜ」
亜門も早速試したようで、驚いたように言って頬を緩める。
それに松次とお凛も続き、同じようなニンマリ顔で唸り声をあげた。
「少しこれで楽しんでから、お好みで七味を入れるのもいいからねぇ?」
北忠は上機嫌で言うと、親爺に蕎麦の天麩羅の追加を頼み、後は黙々と食べに徹し始めた。
それを見た亜門と松次が北忠に倣って注文すると、お凛までもが追加の声を上げる。
注文が終わるとぱたりと人の声が無くなり、一気に静かな夜となる。
親爺は後ろ向きにしゃがむと、団扇で七輪の火力を上げている。
注文の天麩羅にかかるようだ。
茄子や南瓜などの野菜も次々に揚げて行く。
それから暫くの間、この静かな夜には天麩羅を揚げる音に齧る音、蕎麦を啜る音が幾重にも重なり、時折、男女の幸福な唸り声が、その合いの手として響き渡るのだった。
そして先ほどの辻の陰には、いつのまにか男の姿が消えていた。