第五十六話 とんだ一日
あけましておめでとうございます。
元旦ですが、前回がクリスマス閑話でしたので、通常回でお送りさせていただきます。
2週間もあいてしまいましたのでお忘れですよね。
前話あらすじ
ーーーなんだっけ……??
書いている本人もなります。m(_ _)m
確か、永岡さんと智蔵さんは心中らしい水死体を確認したところで、みそのさん達一行は饂飩を食べてから、お凛さんの読売でも江戸の名店を載せてはどうかと言うお話をしていました。
そして、不穏な旗本の主従?と北忠さんと松次さんが居酒屋で出くわしていましたね。
薄っすらと思い出していただけたでしょうか。
では、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
「ほう、あれは上玉ではないか…」
立ち止まった信秀は、ニヤリと下卑た笑いを浮かべる。
信秀の視線の先には、楽しそうに話しながら道を行く二人の女子が居る。
いや、二人だけでは無さそうだ。
直ぐ後ろには小さな子供二人と老人二人、それに大道芸人のような男が一人、皆一様に楽しげに語らいながら歩いている。
そう。信秀がねっとりと見ている女子とは、まさにみそのとお凛である。
「わ、若、未だ陽も高こう御座る。自重なされませよ」
信秀の視線に気がついた大村が、信秀の耳元で囁く。
「分かっておるわい。
じゃが、陽があるからこそ、あのような上玉に巡り会えたのじゃ。
大村、あの二人のどちらでも良いで、あとをつけて住処を探ってまいれ」
「なっ…」
信秀は顎を振ってそう言い捨てると、すたすたと歩いて行ってしまった。
「………くっ」
信秀とみその達に視線を彷徨わせた大村は、歯噛みをするようにして歩き出した。
その視線の先には、楽しそうに話しながら歩むみそのとお凛が居た。
*
「そんな遠慮することないんだよう?」
「いやいや旦那。単純に昼餉食ったばかりなんで、別に食いたくもねぇって話でやして、遠慮もなにもあったもんじゃねぇんでやすよ」
「ふふ。昼餉は昼餉だろうに。だから今度は甘いものなんじゃないかぇ?
松次は本当に面白い男だねぇ?」
「………」
北忠と松次が戯れ合うようにして大川沿いを歩いている。
松次は『旦那にだけは言われたかねぇですぜ』との言葉を呑み込むのに必死なのか、そっぽを向き黙り込んでしまった。
この二人の向かっている先は、本所にある草餅屋だ。
北忠は居酒屋を出るや、本所に美味しい草餅屋があるからと、腹ごなしの散歩も兼ねて行こうと言い出したのだった。
まさに北忠の町廻りは食べ歩きのようだ。
松次も分かっていた事だろうが、流石に朝から甘味三昧をした上に昼餉を食べた後だ、もう付き合いきれぬと言ったところなのだろう。
「旦那、ありゃ永岡の旦那と親分ですぜ?」
松次がそっぽを向いた先には、永岡と智蔵の姿があったのだ。
その後ろには戸板を運ぶ職人風の者たちの姿も続いている。遠目にも遺体と分かる、膨らみをもった筵が乗っているのも見て取れた。
「ありゃ人死でやすぜ旦那。あっしらも合流しやしょうぜ」
「………」
「北山の旦那?」
松次は返事の無い北忠を訝しんで見てみると、北忠のじっとりと細められた目と目が合った。
元来目の細い北忠なので目を瞑っているようにも見えるが、付き合いの浅からぬ松次には、露骨に不満を表す北忠の黒目が見えている。
「い、いや旦那、これが旦那のお務めでやしょうが…」
「なんだい松次。それじゃあ、私がお務めを嫌がっているみたいじゃないかぇ?
全く、私ほどお務め大事な同心が何処にいると言うんだい?」
「いやいや…」
松次は人さし指で額をカリカリと掻きながら口ごもってしまう。
『良く言いやすぜ旦那。旦那ほどお務めより食い気が大事な同心様はいやせんぜ』との言葉を呑み込むのに、指に思いの外力が入っているようで、松次の額は薄っすら赤くなっている。
「でも松次。善は磯辺、急がば饅頭と言うじゃなかぇ。
饅頭は朝に食べた事だし、直ぐそこの草餅でも食べてから行こうかね?」
「………」
『旦那からしか聞いた事ねぇやぃ』との言葉を呑み込み、松次の額に薄っすら血が滲む。
北忠はそんな松次の額などお構い無しに、チラリと永岡達へ視線を向けるも、肩を竦めて
トコトコ歩みを速めてしまう。
確かにあと一町(凡そ109メートル)足らずで件の草餅屋に着くのだ。
なんとしても本懐を遂げたいのだろう。
「おう、忠吾と松次じゃねぇかぇ」
川辺に居る永岡が二人を見つけて声をかけて来た。
松次が気づいたのだ、流石に永岡も二人が目に入ったのだろう。
「北山の旦那っ」
松次が囁くように北忠を呼び止める。
永岡の声で北忠が更に足を速めたからだ。
「観念してくだせえよ旦那。草餅はまたの機会にしやしょうぜ」
「な、何を言ってるんだい松次ぃ。私は永岡さん達に手土産の一つでもと思ってだね…」
「何の手土産ってか?」
永岡が松次と北忠の会話に割って入る。
二人を見つけた永岡が駆けつけて来たのだ。その背後には小走りで駆けて来る智蔵が見える。
「い、いや…何でもないのでございますよ永岡さん。そ、それより、人死みたいですね?
………ち、近いですよ永岡さん?」
応えている最中、永岡が北忠の肩に手を回して顔を寄せて来たのだ。
永岡は動揺する北忠にニヤリと笑い、
「ああ、人死さね。
悪りぃが今日んとこは草餅は諦めろい。
お前にゃ、沢田さんへ繋ぎを付けに走ってもらいてぇんでぇ」
永岡はこの先に北忠贔屓の草餅屋がある事を知っている。と言うより、北忠本人から嫌と言うほど聞いている。
北忠の顔色を見れば一目瞭然だったらしい。
「はて、く、草餅とは何のことやらですが……」
北忠は鼻腔をひくつかせながら応えると、
「沢田さんと言う事は、検屍をお頼みするのですかぇ?」
きりりと声音を変えて問い返す。
話題を変えたいだけのようだが。
沢田とは南町奉行所の同心である。この沢田家は代々検屍に明るく、当代の謙一郎もそれを受け継ぎ、検屍のエキスパートとして南北両町奉行所ではその名を知られている。
「まあ、そんなとこよ…。
丁度いい塩梅でお前らが通りかかって良かったぜ」
大袈裟に問い返す北忠に顔を顰めながらも、永岡がそれに応えてやると、
「永岡さん、沢田さんを呼ぶには及びませんよ。
何せここには、この北山忠吾が、あ、居るじゃあ、ござりませぬかぇ」
「やめといた方がいいぜ?」
大袈裟に見得を切る北忠に、永岡は面倒くさそうに吐き捨てる。
おしゃべり好きの北忠は、沢田とは茶飲み仲間のようなもので、同心控え部屋で茶飲話の傍ら、色々と検屍の手解きを受けているのだ。
「ええ、ええ。あっしも同感でやすぜ、北山の旦那」
追いついた智蔵も永岡に追従する。
松次は親分の登場ですっかり安心した様子だ。
「いやいや親分。この北山忠吾の隠された才能の一片、とくと御覧あれっ」
北忠は首を振りながら応えると、
「では永岡さん、早速拝見します」
やる気をみなぎらせた目を永岡へ向ける。
そして北忠は松次に目配せすると、厳かな雰囲気を装い川辺へ歩き出した。
松次は困った目を永岡と智蔵に残し、北忠の後を追う。
「どうれ。これからこの北山忠吾が検屍しますから、その戸板を一度下ろしておくれ」
なんだなんだと言った目を交わしながら、戸板を運んでいた職人衆は、北忠の言葉通りに戸板を地面に下ろす。
「じゃあ松次、筵を退けておくれ?」
「へ、へい旦那…」
松次も言われるがまま戸板の上の筵に手を掛け、一気に捲り上げた。
「うっ…」
思わず松次から呻き声が溢れた。
捲り上げた途端に濃厚な腐敗臭が広がったのだ。間近の松次は堪ったものじゃない。
「ぐぽっ…」
北忠は妙な音を洩らすと、一目散に川辺へ駆けて行った。
次の瞬間、オロロロロロロロと聞きたくない音が聞こえて来る。魚の餌付けだ。
朝から食べ歩いて来ただけに、かなりの量の餌がばらまかれている。
「だから言ったこっちゃねぇ…」
智蔵が顔を歪ませながらこぼす。
「ったく、益々食欲が萎えるぜ…」
永岡も顰めっ面でそれに応え、
「おう、松次。早えとこそいつ連れて沢田さんに繋ぎを頼まぁ」
と、北忠を顎で指しながら声を掛けた。
松次は「へい、合点でぇ」と筵を元へ戻しながら応えるや、川縁で蹲る北忠へ駆け寄り背中をさすった。
「だ、旦那、歩けやすかぃ?」
「うっ…」
松次に背中をさすられ、残りの餌をばらまく北忠。
「ったく、しっかりしてくだせえよ旦那ぁ」
松次は呆れながらも甲斐甲斐しく北忠の背中をさする。
そして『今日はとんだ一日だぜ』との言葉を呑み込む代わりに、目の前の光景に思わず吐き気を催すのだった。
*
「ったく、あの野郎は使えんだか使えねえんだか、さっぱり分からねぇ野郎だぜ…」
「へへ。今んとこぁ大事な時にゃ使える男になってやすから、あれも愛嬌ってこってすね?」
「おきゃあがれ、あんなんが愛嬌であってたまるかってぇの。
第一ゲロ臭え忠吾に付き合う松次の身になってみろぃ」
「確かに松次は堪ったもんじゃありやせんね。ふふ」
応えた智蔵が可笑しそうに笑うと、永岡もそれを見て苦笑する。
亡骸を番屋へ預けた永岡達は、北忠達に沢田を呼びに行かせている間に、当初の予定通りに周一郎の顔を見に行く事にした。
今は周一郎の長屋へ向け、ゆるりと歩いているところだ。
「なんだか腹が減って来たぜ…」
「おっ、旦那もでやすかい。あっしもでやすよ。
そんじゃ、蕎麦でも腹に入れてからにしやしょうかぇ?」
智蔵が目に入った蕎麦屋に目配せしながら、嬉しそうに応えた。
食欲が失せたとは言え、昼八つ(凡そ午後二時)も遠に過ぎた頃合いだ、流石に腹も減るのだろう。
二人は漸く昼餉にありつけるようだ。
ーー同じ頃。
「いやいや旦那、沢田の旦那が先ですって…」
「分かってるよ松次、私はただ見てただけじゃないかぇ」
松次と北忠が何やら言い合いをしていた。
胃の中の物を全て吐き出した北忠は、先ほどから飯屋を見かける度に立ち止まっていたのだ。
今も一膳飯屋の前で松次が北忠の袖を引っ張っている。
「だ、旦那、あれを見ておくんなせぇ」
急に松次が真剣な眼差しで北忠に呼びかけた。
「おや、あれはみそのさんじゃないかぇ?」
「へぇ。その後ろに歩いているあの武家でやすが、ちっとばかし怪しくはありやせんかぇ?」
松次が指差したのは、みその一行の跡をつけるようにして歩く一人の武士であった。
信秀に命ぜられて跡をつけている大村である。
「怪しいっちゃ怪しいねぇ。みそのさん達の跡をつけてるみたいにも見えるものねぇ」
流石の北忠も真面目な顔で応え、ゆっくりと後を追うように歩き出した。
「しかしみそのさん達をつけてるのだとしては、あからさま過ぎやしないかぇ?」
「ま、まあ、あからさまっちゃあからさまでやすが、それの何が引っかかるんでやすかぇ?」
「いや、あれだよ松次。みそのさんと一緒にいる娘さんも中々器量好しだろう?
あんな二人を町場で見かけたら、幾ら武士とは言え、寂しい中年にとっては堪え切れないものがあると思うんだよ。
少しでも長く目にしていたいって思ってしまうのは、当然と言えば当然じゃないかぇ?」
「はぁ…」
松次は北忠が何を言いたいのか計り兼ね、曖昧に相槌を打つ。
「はぁじゃないよはぁじゃ。
これだから松次は無粋だと言われるんだよぅ。
あんな中年の武士だって儚い想いを抱いてしまうんだよ。でも、武士はぐっと堪えて自分を律しなければならないのさぁ。
きっとみそのさん達を目に焼き付けてるだけさね。
夢を見るだけならば罪にはならない訳だから、このまま見逃してあげようって言ってるのさぁ」
大村が身なりの良い武士だったからか、北忠はそんな持論を述べている。
松次は首を傾げながら聞いている。
「しかし旦那、万が一って事もありやすんで、見逃すにしてもこのまま放って置く訳にゃ行きやせんぜ?」
「それもそうだねぇ。確かに堪えられずに飛びつきでもされたら、それを知って見逃した私がえらい目に遭うねぇ…」
北忠は永岡の顔が脳裏に浮かび、思わず首を縮こませる。
「じゃあ、あの人には可愛そうだけど、そろそろ見物も終わりにしてもらおうかぇ…」
北忠はそう言うと、ちょこまかと足を速めた。
「あら、北山さんと松次さんじゃありませんか?」
「お久しぶりです、みそのさん。ちょうど町廻りで見かけたものですから、思わず声をかけてしまいましたよぅ」
北忠が件の武士を追い越しざまに、みそのに声を掛けたのだ。
北忠は一目で八丁堀と知れる身形なだけに、武士、大村は一瞬目を丸くするも、平静を装いながら通り過ぎて行く。
北忠はそれを横目に申し訳無さそうにニヤリとする。
「今日はどう言った集まりなんです?」
「ああ、今度商いを始めるんですが、そのお店を見学したついでに食事して来たのですよ。
こちらは豊島屋さんのご隠居様で酔庵さん、そしてこちらが読売屋のお凛さんで…」
みそのが一人一人北忠に紹介して行く。
北忠はお凛の紹介から先は全く頭に入っていないようで、ぽうっとお凛の顔に釘付けになっている。
お凛を間近に見た北忠、余程好みだったらしい。
お凛はそんな北忠の視線にも気づかず、
「あら、松次さん。この旦那の岡っ引きになったの?」
と、北忠の横に居る松次に声をかけた。
「へへ、お凛ちゃんだったのかぃ。暫く見ねぇ内にやけに別嬪になったじゃねぇかぇ?」
「なに寝ぼけた事言ってんだい、別嬪は今に始まった事じゃないってぇのさっ!
それよか聞いた事に答えろってぇの」
「ふふ。まだまだ俺は智蔵親分の下っぴきよう。それにこの旦那も未だ見習ぇなんで、岡っ引きと組むのは先の話ってなもんさ。今日は偶々供をしてるだけさぁね。
ふふ、しかし相変ぇらず喋ると台無しだなぁ?」
「けっ、そっちこそ相変わらず一言多いってぇのさっ!」
松次の軽口にお凛が口を尖らせる。
どうやらこの二人は顔馴染みのようだ。
「あら、松次さんとはお知り合いだったのね?」
「ええ。家が近所でして、お父っつぁん同士仲がいいんですよ。
ふふ、一時なんか夫婦話まであがった事もあるんですよ? 本当、子の気持ちも考えないで迷惑な話でしたよっ」
どうやら顔馴染みどころの話では無かったらしい。
お凛の父親は家が近所と言う事もあり、松次の父親の猪牙舟にも良く乗っていた。
お凛の父親は、実直でいて腕の良い漕ぎ手の松次の父親が気に入り、こんな男の息子ならば間違いないとばかりに、勝手に婚儀の構想を練っていたのだった。
言うまでもなく、その話はお凛が激怒した事により流れたのだが、少しは互いを意識した事は間違いないだろう。
「なんでぇお凛ちゃん。みそのさんにゃ猫っかぶりじゃねぇかえ?
それにあれだぞ、俺だって傍迷惑な話だったんだかんな?
俺はやっぱ嫁はピーチク煩えのじゃねぇで、淑やかな優し〜い女子がいいかんなぁ?」
「おきゃあがれっ! このすっとこどっこいっ!」
お凛が怒声をあげながら松次に摑みかかる。
松次は予期していた事のようで、お凛をすっと躱すと、戯けたように白目を剥いて舌を出す。
お凛は地団駄を踏んで悔しがり、側に居た亜門に松次を取り押さえるよう命令する。
「ふふ。本当、仲の良い事ね…」
みそのは思わず笑みを浮かべてポツリとこぼす。
渋々ながらもお凛に加勢した亜門が難なく松次を後ろ手に捕え、その前でお凛が腕を組みながらニヤニヤしているのだ。
「お凛ちゃん、汚ねぇぞ!
旦那も旦那でぇ、あんな小娘の言いなりになんかならねぇでくだせぇよっ」
松次がジタバタと足掻く姿が可笑しいのか、お千代がころころと笑い声を上げる。
「これ亜門。もちっとキツ目に捻りあげるといいよぅ」
「な、なんで北山の旦那までっ」
「ふっ、それは己の胸に聞くんだね。
ほら亜門、やっておしまいっ」
北忠が顎をしゃくるようにして亜門に指示を出す。
流れたとは言え、お凛と夫婦話まで出ていた松次が気に食わなかったのかも知れない。
「同心様がこんな悪業を放っておいていいんでやすかぇ!?」
「ふっ、どうせ私ゃ見習いですからね?」
そっちの恨みもあったようだ。
お凛の前で同心見習いと明かされた事を根に持っていたらしい。
そして北忠が冷徹な笑みを浮かべた瞬間、
「あ痛てててててぇ」
との松次の悲鳴が上がる。
お凛が松次の頬ペタを力一杯捻るように引っ張っているのだ。
そんな松次の変形した顔に、千吉までもがお千代と一緒にころころ笑っている。
みそのも酔庵と目を合わせて顔を綻ばせている。
北忠達の登場で、場は一気に笑い声で溢れかえっていた。
ただ、その様子を物陰に隠れて見ている男が居た。
「読売屋のお凛とな…」
そう言ってほくそ笑む男の姿には、誰も気づいてはいなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次話は来週の月曜日に更新する予定です。
よろしくお願いいたします。




