第五十五話 昼餉のあと
「全く今日って言う日はどうなってやがんでぇ」
永岡が天を仰ぎながらぼやいている。
今は智蔵と二人、大川沿いを本所から向島方面に向けて歩いているところだ。
「まあ旦那。偶にゃこんな日もありまさぁ」
「玉でも枡でも迷惑にゃ変ぇりねぇやぃ」
永岡は智蔵の励ますような相槌に戯けた口調の軽口で返した。
永岡も自分で言っていて詮無い事だと分かっているのだろう、軽口の後には苦笑いを浮かべている。
あれから永岡達は、暫く戸板を運んで来るはずの番太郎を待っていた。
しかしいくら待っても番太郎は中々現れない。
半刻(凡そ一時間)を過ぎた頃には、流石に永岡も焦れて来て、入れ替わり集まる野次馬の一人に声をかけ、戸板を持って来させたのだった。
そして、その野次馬にそのまま手伝わさせて亡骸を番屋へ運んだのだが、丁度そこへ件の番太郎が「大変だ大変だ」と、大騒ぎで駆けつけ、
「ちょ、ちょうど良かった旦那、また死体が上がりやしたぜっ!」
と、肩で息をしながら告げて来たのだった。
番太郎の話では、東橋の手前の大川沿いで二体の骸が上がったとの事だった。
その二体の手首は手拭いでしっかり結ばれていたとの事で、おそらく心中による男女のものだろうと言う事だった。
死後大分時間が経っているようで、遺体の損傷が激しく、衣服も川に流されてしまったのか手拭い以外は身につけておらず、男女の区別すら難しい有様だったようだ。
永岡はその番太郎に運び込んだ亡骸の始末を頼み、とにかく智蔵と二人、骸が上がった現場へ急行する事にしたのだ。
永岡は立て続けに人死に遭遇し、周一郎の顔を見に行くどころでは無くなってしまった。
「あそこでやしょうね?」
黒い人集りを目にした智蔵が口を開く。
足の隙間から膨らみを帯びた筵が覗いている。
遺体がかなりの損傷だった為、見るに見兼ねた者が掛けてやったようだ。
確かに子供には見せたくない代物だ。流石に夢見が悪かろう。
「ちょいと通してくんな」
永岡は野次馬に声をかけながら人集りの中へと入って行く。
そして筵の前まで来てしゃがむと、周囲を見回して子供が居ない事を確認する。
「んじゃ、仏さんを拝むとするかぇ?」
永岡は誰に言うでもなく筵を捲る。
「うっ…」
隣にしゃがんでいた智蔵から呻きにも似た声が漏れる。
骸は川に流されて付いた傷なのか、魚や鳥に啄ばまれた跡なのか、肉が裂けたりえぐれたりと、所々骨が剥き出しになっている。そして、長く水に浸かっていたせいでふやけて膨らんでおり、顔も腫れ上がった皮膚が弾け、目も当てられない有様だ。
確かにこれでは男女の区別も難しい。
それに永岡が筵を捲った途端、濃厚な腐敗臭が一気に漂って来たのだった。
「確かに酷えな…」
永岡も流石に袖で鼻を塞いで顔を顰める。
そしてゴホゴホとむせ返るような咳をしながら、一旦筵を元に戻して立ち上がった。
「こりゃ検死も何もあったもんじゃねぇな?」
「へ、へい。あの傷みようでやすと、死因がなんだかなんて分かったもんじゃありやせんぜ…」
二人は大川のほとりまで歩きながら話し、懐から手拭いを取り出し川の水につける。
「しっかし、飯刻も過ぎて腹が減ってるっつーのに、こんなんじゃ何も食う気にもならねぇや…」
「確かにさっきの臭いが鼻について、飯どころの騒ぎじゃありやせんや…」
永岡達は話しながらも手拭いを絞り、それを鼻と口を覆うように巻いて後ろで結んだ。
二人はそう言いつつも亡骸を改めるらしい。
そして二人はゆるゆると亡骸に近づき、先ほどと同じ場所にしゃがむと、今度は筵を最後まで捲り上げた。
二体の骸の全身が露わになり、野次馬から小さな呻き声や悲鳴が上がる。
「しっかし、聞いた時からおかしいと思ってたんだが、やっぱりこいつぁおかしいな?」
永岡は十手を骸の下へ差し込み、地面に隠れている部分を覗きながら呟いた。
「そいつぁどう言うこって?
背中に何かあるんでやすかぇ?」
智蔵はそう言いながら、永岡と一緒に持ち上げられた部分を覗き込む。
「いや、背中は関係ねぇやな。お前、この手拭いを見て何も思わなねぇかぇ?」
「手拭いでやすかぇ?」
永岡は骸から十手を引き抜くと、そのまま十手の先を茶色に変色した手拭いに向けた。
手拭いは骸と骸を繋ぐように、手首のところで縛られている。
何も身に纏っていない二人が唯一身に付けている布。言わば心中の証拠のようなものだ。
「こいつだけ残ってるってぇのは、ちょいとおかしかねぇかぇ?」
「あぁ、そうでやすね。
手首で繋がってりゃあ、お互いの着物がここで引っかかってるはずでやすからね?」
「そうだ。だが、案外川の流れってぇのは思いもよらねぇ力があるかんな?
ま、杭やら何かに引っかかって、着物が破けちまうってぇことも考ぇられらぁ。だから着物が流れちまってもおかしかねぇや」
「するってぇと、何がおかしいんでやすかぇ?」
「ほれ、良く見てみろこの縛り方」
永岡は十手の先で手拭いの結び目を指し示す。
そして更にその手首を持ち上げるようにして、裏側を智蔵に見せた。
手拭いは見えている側で一回、裏側で二回、どちらもしっかりと結ばれていた。
「はぁあ、しっかりと結んでやがりやすね…」
「だろぃ?」
ピンと来た目をした智蔵に、こちらも目だけ見えてる永岡のそれが綻んだ。
「こんだけしっかりと結んでりゃあ、切れねぇ事にゃ解けたりはしねぇわな?
でもオイラは心中でここまでやってるのを見た事ねぇのさ。
ま、よっぽどあの世へ行っても離れたくねぇって、そんな思いがさせたもんかも知れねぇがな?」
「へえ、確かに言われてみやすと、こんなしっかり結んでんのは見た事ありやせんね?
そもそも身投げでの心中ってぇのは、対の亡骸の手首に痣があるんで、縛ってたのが分かったってぇのも多ごぜぇやすし、手首が繋がったままってぇのは、それこそ死んでから直ぐに発見された亡骸くれぇでやすからね」
智蔵はそう言うと、永岡へ「これは殺しでやすかぇ?」との目を向ける。
「分からねぇが、心中と決めつけるにゃ早急ってなもんさね?
まあ、沢田さんにでもじっくり見てもらおうかぇ?」
「そうでやすね。旦那の勘は侮れやせんや。沢田の旦那に足を運んでもらいやしょう」
永岡は智蔵が同意したところで立ち上がり、
「しっかし、また戸板の手配りまでしなきゃいけねぇのかよ…」
と、ぼやきながら野次馬へ目を向けるのだった。
*
「まあ、お凛さん。あの雁助さんは頑固なだけで、根はいい人なんですよ?
きっと江戸へはそれ相応の覚悟で出て来ているのでしょうから、今回は急な話で戸惑ってしまったのですよ…
それに亀吉さんがゆっくり説得してくれますから、長い目で見てあげてくださいな?」
みそのがプリプリと歩き出したお凛に声をかけた。
お凛はみそのの言葉に納得が行かないのか、憤怒の形相で立ち止まり、
「でもあのクソ親爺と来たら、碌に話を聞かない内から鼻で笑いやがって…。しかも挙げ句の果てにゃ、ちったぁ味が分かるようになってから来やがれと来たもんだいっ。あちきを小娘扱いしやがって…ああ、思い出したらまた腹が立って来た!」
手に持ったままの筆が折れそうな勢いで捲し立てる。
美味しく昼餉を終えたみその達だったが、帰り際にお凛が『大阪屋』の取材を始めたところ、みそのと談笑していた雁助の顔色が変わり、けんもほろろに取材を断ったのだった。
それでも粘るお凛に対し、雁助はお凛を上から下まで舐めるように見なから、
「せめて味のわかる年頃になってから来なはれ」
と、憎まれ口を叩いてお凛を激怒させたのだった。
一触即発。少々大袈裟だが、まさにお凛は今にも雁助に掴みかかる勢いだったのだ。
「まあまあ。あの親爺さんにゃ俺からも言っておくさね。
ああいうのは余り性急に事を運ぼうとすると、余計に臍を曲げる口なんで、ゆるゆるやって行くと…」
「あんたに言われっと余計腹が立つんだよ!
ったく、すっこんでろってぇの!」
見兼ねた亜門が声をかけるも、言い切らぬ内に瞬殺される。
亜門は「と」の口で固まったままゆっくりと振り返り、酔庵と目が合うと、やっと肩を竦めてみせた。
「ほっほっほっほっほ。まあ、お凛さん。
あの饂飩屋のご主人が頑固で臍曲がり者なのは、お凛さんにとって喜ばしい事ではありませんかな?」
選手交代とばかり、亜門とすれ違うようにして歩み寄った酔庵が、笑いながらお凛に語りかけた。
「ど、どう言うこってす、ご隠居様?」
「ふふ。分かりませんかな?」
酔庵はキョトンとしたお凛の顔に可笑しくなり、悪戯っぽく焦らすように言う。
「ああ! そう言うこってすかぃ!」
「だからあんたはすっこんでろってぇの!」
ピンと来た亜門が手を叩きながら声をあげるも、またもやピシャリと瞬殺される。
亜門は叩いた手を所在無さげに揉み手に変え、「い」の口のまま助けを求めるように周りを見回している。
お千代だけそれに反応してやり、亜門の腰を優しく叩いてくれた。
「ふふ。簡単な事ですよ、お凛さん。
あれだけの頑固者に臍を曲げられたら、余程の事がない限り、読売に載せるなんて事は考えられませんよね?
しかし逆を言えば、もし他の読売屋が目を付けたとしても、結果は同じ事、目に見えてるではありませんか?
こう言う事は直ぐに真似して来ますからね。競争相手の事も頭に入れておかねばなりません。
ですから、もしお凛さんがあのご主人を口説き落とす事が出来ましたら、この江戸で初めて読売に書く事が出来るのです。競争相手を出し抜いて書けるのですよ?
ふふ。商売は勝機を見据えて、諦めずにじっくりやらねばなりませんぞ」
「そんなもんですかねぇ…。分からなくはないんですが、あのクソ親爺の店に、そんなにこだわる必要は無いんじゃありませんか?」
それでも先ほどの不満が残っているのか、お凛は口を尖らせながら返した。
「まあ、それはお凛さんが決める事と言えば決める事。
ただ、お凛さんもあの饂飩が美味しいと思ったのでございましょう?
それに、あの饂飩屋は商売繁盛の神様が勧めたお店ですぞ。それを考えますと、答えは自ずと見えているではありませんかぇ?
ねぇ、みーさん?」
酔庵は惚けた口調でみそのに同意を求める。
「もう、すーさんったら。商売繁盛の神様は忘れてくださいな…。
でも、お凛さん。あんなに美味しくて余り人に知られていないお店って、この江戸の町にそうあるとは思えませんよ?
すーさんが言ったように、こう言うものは直ぐに真似されてしまいますから、取材が難しいお店ほど根気良くやって行くのが、他の読売との差を生む秘訣だと思うんです。
私も亜門さんも協力しますから、ゆっくりやって行きましょ?」
「みそのさんがそう言ってくれるんなら…」
お凛が恐縮しながら応えると、
「オイラもお手伝いするよ!」「お手伝いするー!」
と、お凛の袖を引っ張りながら千太とお千代が元気な声をあげた。
千太は鼻をひくつかせながらみそのを見上げ、自らの胸を叩いている。
千太なりに何か考えがあるのかも知れない。
「ほら、お凛さん。小さな援軍が増えたわよ?
これでもう雁助さんを口説き落としたも当然ね!」
「あははは。そうね。これならもう、あのクソ親爺なんかに負ける気しないわっ!」
お凛はみそのの言葉に笑いながら応えると、
「じゃあ、お願いするわねっ」
千太とお千代に目線を合わせてしゃがみ、二人の頭を撫でるのだった。
*
「しかし若、町場ではあのような言動は避けて貰わねばなりませぬぞ?」
「それはさっきも聞いたぞ、大村。
お主の方こそ、先ほどからチクチクとその話を引き摺っておるではないか?」
「それはそうで御座いますが、現に町方が現れたのですぞ?
それは引き摺りたくもなりまする。こう言う事は、何処から足が付くか分かったものではござらんのですぞ」
「まあ、どうせ何も聞かれてなかろう?
心配し過ぎじゃ、大村。それに町方とて所詮不浄役人、我等旗本には手出し出来んて。どっしり構えて居れば良いのじゃ」
「………」
居酒屋を後にした三千五百石の旗本の次男坊、伊沢信秀と大村なる男が道々歩きながら話している。
大村はいくら言っても響かない信秀に、最後は困り果てたように口を噤んでしまう。
居酒屋では北忠と松次が現れてからと言うもの、二人は大人しく様子を伺いながら北忠達が帰るのを待っていた。
これは大村が言い出した事で、町方が自分達の事を疑っていないか確かめる為と、店の主人が何か耳にしていて、自分達が帰った後に町方に報せてしまわないかと、心配になっての事だった。
しかし、存外北忠達は長居した。
やはりしじみ汁が美味いだの、二杯目は飯にぶっかけて食べるのが乙なのだと言って、お代わりお代わりで中々帰らない。
最初は大村の話に乗って待つ事にしていた信秀だったが、これには流石に焦れてしまい、北忠達が帰るのを待ち切れずに、さっさと出て来てしまったのだった。
そんな事もあり、大村は心配事を残して来た気分で、どうしても心中穏やかではいられなかったのだ。
「それに、あの町方が来るまでは他の客は追い出したで、話は誰にも聞かれておらん。
店の者とて我等に恐れをなしてずっと引っ込んだままだったじゃろうが。そう心配するでない」
「分かり申した。ですが…」
「くどい、もう終わりじゃ!」
「………」
信秀は機嫌を損ねたようで、急に歩調が荒々しくなり、道行く人々を蹴散らすように歩いて行く。肩でもぶつかろうものならば、手討ちにされ兼ねない勢いだ。
こんな男にも切捨御免、すなわち無礼討ちの殺人特権があるのだ。健全な庶民にとっては堪ったものではない。
道行く人々は、そんな信秀に大仰なほど距離を開けてすれ違って行く。
「ふん、どいつもこいつも情け無いゴミが」
頭を下げて道を開ける商人に毒を吐きつつ、信秀は傲慢な笑みを浮かべながら、荒々しく歩いて行くのだった。
*
「いや、旦那。せっかく来た客を追い出しちまうわ、店ん中で急に刀を抜いたりしてたんですよう」
「それは大変だったねぇ。ならちょうど私達が来て本当良かったじゃないかぇ?」
「ええ、そりゃまぁ…」
「で、それだけなんだね?
他に何か金品を強請られたり、物騒な企み事をしてたとかないんだね?」
「いやぁ、強請られる事はなかったのですが…。
何せ、おっかなかったもんで、極力関わらない方が良いと思いまして、私らはずっと調理場に引っ込んでいましたから、何も聞いてません…と言うより、聞かないようにしていたのですよ…」
北忠の問いに、居酒屋の主人が忌々しげに応えている。
北忠が食事を終えて銭を支払う際、店主から先ほどの武家について聞いているところだ。
実は北忠、すっかり腹が満たされたせいか、先ほどの武家の事などすっかり忘れていた。
そんな北忠の心境を察した松次の進言あっての話である。
「まあ、武家と言っても、ああ言った露骨に偉そうにしてる輩だけではないんだよ?
私のように日々を安らかに過ごし、その実、民の為に命をかけて働いている者も居る事、決っして忘れてはいけないよう?」
大袈裟に抑揚をつけた口調で見得を切る仕草の北忠に、
「へ、へぇ。そ、そりゃもう…」
と、店主はどう答えて良いかと言った調子で口籠もり、松次へ「なんですかぃ、この旦那は?」と言った目を向けて来る。
「で、親爺、あの武家はちょくちょく来るのかぇ?」
そんな店主に応えるかのように、松次が堪らず口を挟んだ。
「へぃ。ちょくちょくって程ではありませんが、ふた月ほど前からちらほらと言った具合でしょうか?
今日で三度か四度目くらいですかね…」
「ほう。で、いつも今日みてぇな感じかぇ?」
「まあ、大抵はそうでしたね。
刀を抜くのは今日初めて見ましたが、いつもあの小上がりに陣取って、他の客に無言で圧力をかけて追い出してしまうんですよ…。
いつだったか、左官職人の太郎松が挑んで行った事があったのでございますが、あの従者のような武家に胸ぐらを掴まれて、店の外に放り出されたのでございますよ。その力と来たら尋常じゃありませんでね。太郎松もそれなりに大男なのですが、そんな太郎松が子供のように投げ捨てられたものですから、それからは他の者もあの武家を避けるようになりまして、あの武家と居合わせれば、店を出て行くようになっていましたよ。
まあ、そんな事もありましたから、無言で追い出してくれる分には良いのですがね…」
主人は困惑した顔で語る。
「しかしまあアレだよぅ。そんなんだったら尚更、これからは私に任せておくれよ?
こう見えて私も元は旗本なのさぁ。ちょっとやそっとの脅しなんか、私の実家に一言口添えしておけば、大抵の旗本ならば抑える事が出来るんだからね?
そう言う事だから、今後はこの北山忠吾を存分に頼ると、あ、いぃいさぁ〜」
再び見得を切る仕草をする北忠。
松次は、先ほどより長めに見得を切る北忠を苦々しく眺めながら、
『旦那、そう言うのが虎の威を借る狐って言うんでやすぜ?』
との言葉をぐっと呑み込むのだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次話は来週の月曜日に更新する予定です。
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