第五十四話 昼餉のひととき
「ほう。これがみーさん達を繋いだ饂飩ですかぇ?
これはこれは出汁の効いた良い香りがしますなぁ」
酔庵が鼻腔を目一杯広げ、ほんわり湯気の上がる饂飩の香りを楽しんでいる。
そんな酔庵の様子を見ていたお千代は、目を真ん丸とさせながら、
「なんかお鼻で饂飩を食べてるみたいー」
と、驚きの声を上げ、パチパチと小さな手を叩いて喜んでいる。
丼から上がる湯気が筋になって酔庵の鼻腔へ吸い込まれる様が、お千代には饂飩を鼻から啜っているように見えたようだ。
確かにそう見えなくも無く、みその達からもどっと笑いが起きた。
「こりゃ良いやぃ。酔庵さんもそんな芸があるんなりゃ俺と同じだけ稼げるぜ?
どうだい、今度ぁ境内に来て俺の隣でやってみるかぇ?」
亜門はお千代の一言が妙にツボにはまったようで、涙目になりながら軽口を言うと、
「ほっほっほ。まあそれも一興ですな?」
当の酔庵は照れ笑いを浮かべながらも、更に大きく鼻腔を広げてお千代に擦り寄ると、お千代はキャッキャと笑いながら、酔庵から逃げるようにみそのにしがみついた。
ここはみそのと亜門が贔屓にする関西風の饂飩屋、『大阪屋』だ。
長屋で一頻り搬入と見学を終えた一行は、昼餉の時刻も近いと言う事で、みそのと亜門が知り合うきっかけとなった、例の饂飩を食べに行こうとの事になったのだった。
この日何度か話題に上がっていた事もあり、お千代が口に出した事で満場一致で決まったのだった。
みそのとしても願っても無い事だ。
年がら年中閑古鳥が鳴いている店に、新たな客を紹介出来るのだ。
しかも、その人物は江戸でも名の知れた『豊島屋』の御隠居だ。それに読売屋のお凛も居る。
食わず嫌いなだけの江戸っ子も、この二人が認めたとなれば、多少なりとも耳を傾けるかも知れないと考えたのだ。
亜門は亜門で、どうやら今日はここの饂飩を食べるつもりだったようで、お凛と出会い頭にぶつかった時は、店が開くまで散歩していたところだったらしい。
亜門は『大阪屋』行きが決まるや、結果的に良い時間潰しになったと、暫くクスクスと笑いが止まらなかった。
お凛も『大阪屋』の存在は知っていたが、未だに食した事は無かったようで、この機会を大層喜んでいた。
やはりお凛もちゃきちゃきの江戸っ子だ。気にはなっていても江戸っ子気質が邪魔をして、他の江戸者同様、食わず嫌いを決め込んでいたようだ。
それに儀兵衛は儀兵衛で、店に入るや商売っ気を出して唐辛子の営業をしていた。
福々しい儀兵衛に営業されては、どの店主も断り切れない。
そんな訳で、昼餉に『大阪屋』を選んだのは、皆にとって最良の選択だったようだ。
「色は薄いけど、案外しっかりした味付けなのねぇ…」
お凛が一口饂飩を啜って独り言ちている。
その口角は上がっており、ちゃきちゃきの江戸っ子にも通用するお味と知れる。
「ね? 美味しいでしょ?」
みそのがお凛に笑いかけると、江戸っ子の負けず嫌いなのか、
「ふん、まあまあね!」
と、いつもの調子で突っぱねるように言い放つ。
ただ、言葉とは裏腹にお凛の箸は止まらない。
ふうふうやりながらズルズルと饂飩を啜ると口角を上げ、みそのがニヤニヤ見ているのに気づくと下げ、を繰り返している。
みそのはそんなお凛に可笑しくなりながらも、
「お凛さんの読売も、偶にこう言う隠れた名店、みたいなお店を紹介すると存外に売れるかも知れませんよ?」
と、思いついた事を口にする。
するとお凛は、ゴホゴホと饂飩にむせ返りながら顔を上げ、
「それって商売繁盛指南から出る言葉ですか?!」
と、その顔を見る見る喜色満面にさせた。
「いや、特にそんなつもりじゃ無いのよう?
さっき、最近じゃ心中ものの取り締まりが煩いから、売れ筋が書けなくて、読売の売れ行きが悪いって言ってたじゃないですか?
だから代わりに何か売れ筋を作れたらと思って」
みそのはお凛に爛々とした目を向けられ、慌てて言い訳をする。
ここまでの道すがら、お凛が亜門に愚痴をこぼしていたのだ。
亜門に挿絵を描く話が持ち上がった事から、お凛は今の読売の現状を語っていたのだ。
みそのは何気に聞き耳を立てていたらしい。
江戸幕府は徳川吉宗が八代将軍を継いだ時から、主に幕府の財政再建が目的の幕政改革(享保の改革)を推し進めている。そして、その一環として町場の風紀の乱れを一掃しようと、私娼(公許の場である吉原遊廓以外での売春)や賭博などの風俗取締りを行っていた。
その一つとして、風紀の乱れを煽り兼ねない戯作(娯楽小説など)や読売などの出版統制も行われている。
これはこの当時、色恋沙汰から起こる心中が、偽作や読売で美談として面白おかしく書かれた事により、庶民の間では何かと持て囃され、それを真似た心中や無理心中が多発するようになった事が、取り締まりを強化した原因の一つとされる。
現代のような娯楽が溢れている世と違い、神社仏閣に詣でたり、季節の花見くらいしか娯楽らしい娯楽の無いこの時代では、庶民にとってはこうした戯作や読売は格好の娯楽なのだ。
ちなみに花見に関しては、近年吉宗によって飛鳥山に植樹された桜が評判を呼び、庶民の花見文化により潤いを与えている。
これは後に、歌川広重の『名所江戸百景』にも「飛鳥山北の眺望」として描かれる事になるのだが、吉宗の粋な計らいにより飛鳥山は江戸の新たな名所となりつつある。
しかし、こうした経緯での出版統制だが、幕政の批判や風刺などを取り締まる意味合いの方が強いのだろう。
戯作作家やお凛のような読売屋や版元などは、そのしわ寄せを受ける形で商いを制限されている。全く良い迷惑なのだ。
「って事はやっぱり、みそのさんはそれが売れ筋になるって感じたのですよね?!」
お凛は更に喜色を強めて聞き返す。
「い、いえ…。でもアレでしょ?
色恋も良いけど、やっぱり人は美味しい物も好きでしょ?
だったらそんな情報を読売にしたら、江戸の人もそうだけど、他国から来てる方々にも重宝されると思うんだけど」
「ほっほっほ。みーさんは色気より食い気と言ったところですかな?」
酔庵が横から茶々を入れる。
「もう、すーさんは…」
みそのは頰をぷっくり膨らませ、
「色気が駄目なら食い気ならばどうかって事ですよう。
それに、実際こうして食わず嫌いなだけで美味しいお店もあるのですし、読売で紹介しているお店に行ってみたら凄く美味しかった、なんて事になったら、次の読売で紹介されるお店も気になるから、自然に読売を買うようになるでしょ?」
と、続ける。
すると隣で聞いていた亜門が、
「確かに毎回じゃなくても時々そんな情報を入れてくれると、読んでる方としても嬉しいやね?」
と、追従するように口を挟んで来た。
「でしょ! やっぱりそう思うわよね?
流石、亜門さん。伊達に毎日のように食べ歩きしてないわよね!」
「おうよ。稼いだ金で美味いもん食うのが俺の生き甲斐ってもんさぁね。へへ」
みそのの反応に気を良くした亜門は、見得を切るように胸を張り、
「とは言っても、中々美味いもんに出会えねえのが現実さぁね。
んなもんだから、俺みてぇなもんにとっては、みそのさんが言ってるような読売なりゃ、絶対ぇ買って読むはずだぜ?」
と、少しばかり芝居掛かった語り口調で続け、チラリとお凛を見やる。が、その瞬間、
「あんたみたいな道楽者がどんだけ居ると思ってんのよ!」
と、お凛にバッサリ切り捨てられた亜門は、
「はは、違えねぇや…」
弱々しく笑いながら素直に認め、小さくなってしまう。
「とは言いつつ、みそのさんが言うんならやってみる価値があるわね!」
お凛は形の良い尖り気味の鼻をツンと上に向け、にっと悪い笑みを浮かべた。
亜門はさて置き、商売繁盛の生き神様との噂のみそのの意見は取り入れるようだ。
亜門はポリポリ頭を掻きながら、そんなお凛を物欲しそうに眺めている。
「そうですぞ、お凛さん。なんでも試してみない事には物事は始まりませんからな?
それに、もしそれで読売が余計に売れるのであれば、宣伝してもらう店からも感謝される事ですし、商売としてこれ程やり甲斐のある事はありませんぞ?」
暫く黙って饂飩を啜っていた酔庵だったが、話はしっかり聞いていたようだ。
しかし、そう言って目を細めると、またズルズルと饂飩を啜り始める。すっかり饂飩が気に入ったらしい。
「ふふ、すーさんのこの様子を見る限り、先ずは『大阪屋』が最初のお店かしらね?」
「はい。恥ずかしながらあたしも毛嫌いしてた分、この美味しさにびっくりしましたからね…。
先ずは大阪屋さんの饂飩で決まりです!」
お凛の返事を聞いたみそのは、調理場の前に立っている亀吉にニコリと笑ってみせた。
亀吉は「おおきに」との口の形とともにペコリと頭を下げる。
父親の雁助も気になって調理場の陰から覗いていたようだが、みそのと目が合うと、仏頂面を歪ませて隠れてしまった。
この雁助と言う男は頑固なだけに、こうした宣伝で客を呼ぶ事に納得が行かないのかも知れない。
今度は「すんまへん」との口の形を残し、亀吉は調理場へと引っ込んで行く。
「ふふ、上手いこと説得してくださいな」
みそのは亀吉を見送りながら独り言ちると、
「お千代ちゃん、どうしたの?
お口に合わなかったかしら?」
と、やっと饂飩に口を付けていたお千代に声をかけた。
お千代は熱々の饂飩を小皿に移して冷ましていたのだ。
みそのはお千代が食べ始めるのを見て、先ほど酔庵と戯れ合っていた時とは打って変わり、急に元気がなくなったように見えたのだった。
「うううん、すごーく美味しいよ。みそのお姉ちゃん」
お千代はぶんぶん首を振りながら応えるが、明らかに浮かない顔をしている。それに饂飩も然程減っていない。
「あのね、みそのお姉ちゃん。このうどん、すごーく美味しいから、残りをおとっちゃんに持ってってあげたいの…」
「無茶な事言っちゃ駄目だよ、お千代。
みそのお姉ちゃんも困っちゃうだろう?」
千太が慌ててお千代を咎めると、
「だって、おとっちゃんにも食べさせてあげたいんだもん!
これ食べたら元気になるかもしれないもん!」
お千代は口を尖らせながら千太を睨みつける。
千太を見上げるお千代の目に、見る見る涙が溜まって行く。
「そうね、心配よね…。
でもお千代ちゃん。お父様に持って行く時は、別にお土産用のがあるから、それを持って行く事にしましょ?
その場で茹でてあげた方が美味しいじゃない?
ね? そうしましょ?」
みそのはお千代の頭を撫でながら言うと、
「うん!」
と、お千代は嬉しそうに元気に応える。
お千代なりに納得したのか、浮かない顔が元のニコニコした笑顔に戻っていた。
「じゃあこのお饂飩は、美味しい内にお千代ちゃんが食べてあげてね?」
お千代はみそのの言葉に大きく頷き、嬉しそうに饂飩を啜り始めた。
「ありがとう、みそのお姉ちゃん…」
千太は小声で礼を言うと、自らも勢い良く饂飩を啜り始めた。
先ほどから箸が進んでいなかった事を考えると、千太もお千代と同じ思いでいたのかも知れない。
やはり千太も父親が心配でならないのだろう。
千太はしっかりしているとは言え、まだまだ子供である。そんな子供が、妹を気遣いながら親元を離れて暮らしているのだ。
お千代もそうだが、千太だって相当なストレスを抱えているのだろう。
急場凌ぎで二人を引き取った事もあり、環境の変わった二人を動揺させない為にも、まだ父親の病気については何も明らかにしていない。
こんな二人の様子を見ると、このまま黙っていてはいけない気がして来る。
今は安定しているそうだが、父親が死病を患っている事には変わらないのだ。
みそのはそんな事を考えながら、二人が美味しそうに饂飩を食べている様子を眺めていた。
*
「どうだい松次、そろそろお腹空いたんじゃないかぇ?」
「いやいや旦那、朝から団子やら甘酒やら饅頭三昧で、小腹も空いてやせんぜ…」
「またまたぁ。それは甘い方のでしょうが。
私が聞いてるのはしょっぱい方のお腹の話ですよぅ。幾ら甘いもの好きの私でも、そろそろしょっぱいものを口にしない事には、流石に次には行けませんからねぇ?
ほら松次、あれを見てごらん?」
北忠が嬉しそうに指をさす。
松次は心底呆れながらも北忠が指差す先を見ると、一軒の縄暖簾の掛かった居酒屋が見えた。
「旦那、昼間っから居酒屋でやすかぇ?」
「おっ、松次、何やら乗り気だねぇ?」
「いやいや旦那、乗り気って訳じゃねぇんでやすよ…」
どうやら松次、北忠がああ言った時には、いつもの展開だと駄目押しの甘味屋だったりするので、北忠の指差した先が居酒屋たった事で、幾分顔に喜色が浮いたようだ。
腹は減っていないが、ちょいと何かを摘んでキュッと一杯も悪くない。
そんな思いが顔に出たのかも知れない。
今の甘ったるい口を酒でサッパリさせたい気分でもあるのだ。
「松次あそこはね。お酒は大した事無いけど、煮染めが意外といけるんだよぅ。
お酒の肴だから味付けもちょいと濃い目で、これがまたご飯が進む進む。生姜を刻んでもらって、汁ごとご飯に掛けたりなんかしたらもう!
うふふ、思い出したら涎が出て来ちゃったじゃないかぇ?」
手拭いて涎を拭いながら、にちゃりと笑う北忠。
松次は「はあ…」と、今一ついて行けずに曖昧に頷いてみせる。
「なんだい松次、その顔は?
まあ、お酒は今夜『豆藤』でたんまり飲めばいいじゃないかぇ?
そりゃ『豆藤』に比べれば料理の味だって落ちますよ? でもそんな事を言ってたら飢えてしまうじゃないかぇ? 贅沢はいけないよう松次。腹が減っては戦は出来ぬと言うだろぅ?
ささ、入った入った!」
北忠は松次の背中をぐいぐいと押し、無理矢理居酒屋に押し込んでしまう。
「親父さん、煮染めに大盛りのご飯二つお願いね!
それにお酒を一つだけつけておくれ」
「………」
店に入るや、北忠が慣れた様子で注文するが、何やら店の中は静まり返っている。
「おや? ここの店の者は留守ですかね?」
「ちっ」
北忠が小上がりで酒を飲んでいた二人に声をかけるも、一人が舌打ちで返すだけで何も返事がない。
北忠が男のぞんざいな扱いに眉を寄せた時、
「あぁあぁ、これはこれはすみませんねぇ。仕込みでちょいと取り込んでまして…」
笑顔を取り繕った親父が顔を出した。
「そうかぇ、取り込み中だったのかぇ。それはごめんよう。
煮染めと大盛りご飯なんだけど…」
「はいはい、聞こえていましたよ“八丁堀の旦那”。それと酒を一つつけるんでしたね?
ちょいとお待ち下さいな」
親父はそう言うと、そそくさと調理場へ戻って行く。
やけに「八丁堀の旦那」を強調した言い回しだ。
「こりゃなんかありやすぜ、北山の旦那」
松次は声を落としながら言うと、チラリと例の二人に目を向ける。
「松次も気づいちゃったかぇ?」
「へぇ、そりゃ」
松次は視線を北忠に戻し、更に声を潜めた。
ここは居酒屋とは言え昼時は飯を出すので、この時刻に客が二人しか居ないのはおかしい。しかも胡乱な武家が二人だ。親父の様子といい、明らかにおかしな空気になっている。
松次は北忠と話しながら、二人に聞き耳を立てる。
ただ、入り口近くの入れ込みに座っている松次には、奥の小上がりに居る二人の声は聞こえて来ない。
「あの〜! 親父さ〜ん」
「へいへい、なんでござんしょう?」
北忠の大声に慌てて店主が顔を見せる。
「やっぱりしじみ汁も二つ追加でお願いするよう。
このお兄さんが目敏く見つけちゃったんだよう」
北忠は出て来た親父に「しじみ汁」の品書きを指差し、観念したように言い放った。
「お足を持つのは私なんだから、少しは遠慮して欲しいものなんだけどねぇ。ここのしじみ汁は居酒屋だけあって絶品じゃないかぇ?
うふふ、これで知らん顔でもしたら、陰で何言われるか分かったものじゃないからね。
ここは私も腹を決めて頼む事にしたんだから、親父さんもそのつもりで、今日は特別美味しいのを頼むよう?」
嬉しげに話す北忠をよそに、親父は伝わらない思いに顔を引きつらせ、松次は明からさまに頭を抱えるのだった。