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第五十二話 新しい長屋と事件



「それにしても、あの朽ちかけた長屋が、良くもこんなに立派になるものですね…」


みそのは思わず出た自分の言葉に顔を顰めた。

みそののすぐ隣には、この長屋の持ち主である酔庵が立っているのだ。

しかし酔庵は、そんなみそのの失言をよそに、


「ふふ。そうでしょう、そうでしょう。

みーさんの言う通り、あれはちょいと酷すぎましたからな?

私が言うのもなんですが、あれは人が住まうにはちと酷でした。今まで放ったらかしにしてしまって、ここの店子たなこには本当に済まない事をしていましたよ。ええ。

もっと早くに気づいてやれれば良かったのですがね」


と、むしろみそのに同調して、後悔の念を口にする。


みそのと酔庵が眺めているのは、普請もほぼほぼ終わりかけている酔庵の長屋である。

残りの普請も残すところ道場と数軒の店の内装だけだ。

修繕に真っさらな新しい木材を使用しているせいか、外見は新築然とした佇まいである。

長屋の修繕と言えば、火事や建て替えなどで出る木材を再利用するのが普通だが、そこは倅の援助を見越した普請だ。費用の面では倅に負んぶに抱っこの酔庵は、これを機に贅沢な普請を行ったのだった。

倅で当代の豊島屋重右衛門は、きっと今度の晦日に自分の迂闊さを知ることになるのだろう。


「しかしあれですよ、みーさん。

みーさんが店を借りてくださったから、道場も程よく隔離されて、結果的に他の店子にも益が出たのですよ」


酔庵は満足げに真新しい長屋を眺めながら続けた。


酔庵所有の長屋は表店を入って左手に棟割長屋、右手に割長屋のニ棟ある。

棟割長屋とは書いて字の如く、屋根の棟を境に背中合わせで仕切られた、俗に言う九尺二間の裏長屋だ。

両隣りだけでは無く、背面にも薄い板壁を挟んで隣の住人がいる形である。

九尺二間とは、間口が九尺(約2.7m)で奥行きが二間(約3.6m)の事で、入ってすぐに三尺四方(半畳)の踏み込みの土間があり、片隅にかまどと流しに水瓶が置かれ、一段上がった奥の生活空間は四畳半となっている。三方向隣人に囲まれているだけに窓は無く、押し入れなどの収納スペースも無い。

一方、割長屋とは生活空間が六畳あり、梯子を使って上がる物置のような四畳程の中二階もついていて、棟割長屋と違って住人が背面に隣接していないので、部屋の奥に窓があったりもする。裏長屋の中では比較的裕福な者が住まう長屋だ。


「どう言う事です?」


みそのは酔庵の言葉の意味を問いただす。


「ほれ。そこがみーさんにお貸しする店でして、その背中合わせに中西様が住まわれる手筈になっているのですよ」


「あぁ、なるほど。そう言う事でしたか」


みそのは酔庵の説明ですぐにピンと来たようだ。


酔庵が指差したみそのの店は、棟割長屋の手前から二つ目の店で、一番手前は順太郎の為に棟割部分を突き抜いて作った、細長い道場になっている。

道場が長屋の端に位置するだけに、みそのと周一郎の店には隣接するも、反対側は部屋が無く、小さな稲荷と井戸などがある共有スペースになっており、多少の騒音があっても問題は無さそうなのだ。


「それにこちらのお店は、何を隠そうこの亜門さんのお店ですからね。亜門さんは剣術の方にも理解がお有りですから、尚更都合が良いのですよ?」


酔庵が道場の真向かいの割長屋を指差して笑う。


「え、そうなんですか!?」


みそのは思わず驚きの声を上げながら後ろを振り向いた。

後ろには先ほど出会った亜門が、他人事のように腕を組みながら長屋を眺めている。

その亜門がみそのと目が合うと、


「そうなんでやすよ、みそのさん。俺の住処はこの長屋だったんでやすよ…」


と、照れ臭そうに頭を掻きながら、その事実を認めた。


「だから着いて来ていたんですね…。

お千代ちゃんに絵を描いてもらえるんだとは思ってましたが、こんな所まで来ていただいて恐縮してたんですよ?

これで納得がいきましたよう」


思わぬ偶然に、みそのの顔からは笑みがこぼれ、


「じゃあ、これからはご近所さんですね?

まあ私の方は作業場ですけど、宜しくお願いしますね、亜門さん」


と続け、改めて頭を下げる。


「いやいや、こんな嬉しいこたぁねぇや。こちらこそ宜しくおねげえしやすよ、みそのさん」


亜門は満面の笑みで応えるも、急に顔を引き締め、


「ただ酔庵さん。店賃たなちん据え置きって言うのは最初だけで、その内上げるんじゃないでしょうね?

そうなって来ると話は別ですぜ?」


と、腰を屈めて小柄な酔庵を覗き込む。


「ま、まあ、店賃の方は差配さんに任せてありますから、そこはほれ、上手いことやってくださいな?」


少々上擦った声で応える酔庵。

実は酔庵、差配からはこれを機に店賃の値上げを持ちかけられている。

店賃を回収する差配としては、それ相応の佇まいの長屋になるのであれば、相場通りに店賃を上げ、晦日晦日で滞りなく払ってくれる人物を新たに住まわせたいとの事らしい。

店賃は安ければ払ってもらえるとは限らず、あくまで住まう人の心掛け次第なのだ。

差配は店子の身元引受け人にもなったりするので、店子の為人には気を使わなければならない。要は今までと違い、ちゃんとした長屋になるのだから、稼ぎの良い、ちゃんとした人物を店子に招き入れようとの事だ。

店子と直接遣り取りする差配としては、尤もな事を言っているのだろう。


「俺は六百文までしか出さねぇんで、そのつもりで嘉平さんには言っといてくだせぇよ。

ねげぇしやすからね?!」


亜門は酔庵の様子に不信感を抱いたようで、目を逸らそうとする酔庵の視界に飛び込むようにして言い募る。嘉平とは差配の事だ。

事実、今回の普請が成った割長屋であれば、千文は取っても店子は入るだろう。


「あら、これで六百文は流石に家守やもりさんだって気の毒ってもんよう?

どうせあんたは独りもんでしょ?

だったらこっちの棟割の方に越せばいいんじゃない?」


そこへ横槍が入った。


お凛だ。


何故かお凛もこの場に着いて来ているのだ。

お凛は腕を組みながら、亜門へ可愛らしく尖った鼻を上に向ける。


「い、いや………。

ち、ちっとばかし店ん中でも作業するもんで、棟割じゃちょいと手狭なんでさぁ…」


「この世には相場ってもんがあんのよ?

そりゃあ、店で何をするかはあんたの自由さぁね。

ただし、広いとこに住みたいんなりゃ、それなりのお足が必要だって言ってんのよ!?」


「はぁ…」


お凛の遠慮の無い物言いに、亜門はタジタジになっている。


「まあまあ、お凛さん。

これは一応、私が差配さんを通して全ての店子に約束した事でもありますし、その辺で許してやってくださいな?

それに、空いてる店に入りたいって言う者が大勢集まれば、自然と店賃も相場に近づいて行くでしょうしね」


酔庵がお凛を窘めると、それを聞いた亜門が、


「やっぱり上げるつもりじゃねぇ…」


と、ボソリと愚痴をこぼしかけるが、お凛に睨まれて口籠ってしまう。


「ふふ。とにかくこれも縁ですから、お凛さんもこれから宜しくお願いしますね?」


みそのは二人の遣り取りに頰を緩め、可笑しそうにお凛と亜門を交互に見て言った。


「いえ、こちらこそ宜しくお願いします…」


お凛は亜門との対照的に、急にしおらしくなってみそのに頭を下げる。

実はお凛、先ほど酔庵からみそのが永岡と親しい間柄だと聞き、みそのが巷で噂されている商売繁盛の生き神様だとピンと来たのだ。

お凛は商売繁盛の生き神様との評判の金貸しの女が、町方の永岡と懇意にしている事は知っていたのだ。

お凛はそのネタをいつか読売に書こうと思っていたので、つい先ほど永岡に別件の取材をしていた事も相俟って、この偶然を幸いとばかりに、みそのに取り入る魂胆でついて来たのだった。


「あ、そうだ、お凛さん。

もし良かったら、道場を取材してもらえませんか?

それでお凛さんが面白いと思ったら、読売に載せてくださいよ。あ、亜門さんに挿絵を描いてもらうのも良いかも知れませんね?」


「はぁ…」「俺が挿絵でやすかぇ?」


みそのの提案に二人が顔を見合わせる。

お凛としては、恩を売るには願っても無い話でもあるが、何せ道場の事を読売に書いたところで売れる気がしない。

亜門は亜門で、読売の挿絵など考えた事が無かったので、急に自分へ話が振られて驚いている。

二人は各々微妙な思いで、暫し見つめ合いながら口籠る。


「まあ、道場もこれからですし、今すぐって事ではありませんので、とりあえず頭の隅に置いといてくださいな?」


みそのはそう言って二人の肩を叩くと、


「ささ、儀兵衛さん、荷物を店へ運び入れましょうか?

本当、遠くまでありがとうございます」


と、ラー油の材料を届けに来てくれた儀兵衛に声を掛けた。

儀兵衛は大きな袋を抱え直しながら、


「あいよぅ」


と、福々しい笑みで応えると、真新しい店に入るのが嬉しいのか、嬉々として袋を店に運んで行く。

その後ろから目を輝かせた千太とお千代が、嬉しそうにちょこまかとついて行く。

みそのはその様子を見ながら、


「ふふ、なんだか幸先がいいわね」


と、可笑しそうに呟いた。

その光景がなんとも福々しく、まるで小さな客を連れた福の神が、店に入って行くように見えたのだ。

既に売り先が決まった商いとは言え、みそのは商売繁盛が約束された心地になるのだった。





「旦那、辻斬りでやすぜ!」


人集りから顔を出した智蔵が声を張り上げた。


「やっぱりそうかぇ…」


永岡は首を回しながら呟くと、顔を引き締めて人集りの方へと歩き出した。


今日の永岡は別段掛かりの事件も無く、智蔵と二人、気ままに町廻りをしながら周一郎の店へと向かっていた。

この度終着した泥沼の加平事件の概要を聞かせてやろうとの事だ。

この件は周一郎の投げ文から始まり、当の周一郎も犯行に絡んでいたからだ。

手下達は薄々気づいているのだろうが、周一郎の目溢しは永岡の一存で、智蔵しか知らぬ事になっている。

永岡は腹を切る覚悟だった周一郎と、今後の人生についてもう一度話しておきたかったのだろう。


しかし、周一郎の長屋を目前に人死があっては仕方がない。

永岡は今までの緩んだ目を厳しいそれに変え、遣り手町方同心の顔に戻った。


「こいつぁ試し斬りだろうなぁ…」


亡骸を検めた永岡は苦虫を潰したように言い捨てる。


「試し斬りってぇと、大名か旗本、何れにしても武家が絡んでやがるってこってすかぇ…」


「まあ、そうなるさぁね」


智蔵も顔を顰めながら応えると、永岡は詰まらなそうな口調で返し、亡骸の着物を元に戻した。


亡骸には鎖骨の辺りに一撃、背中には斜めに刀痕が走り、とどめであろう刺し傷もあった。

ただ、鎖骨の一撃は骨の途中で止まり、斜めに走った刀痕は醜く歪んでいた。

犯人の拙い腕前がありありと伝わって来る刀痕なのだ。


永岡の見立てはこうだ。

犯人の初太刀は手の内の甘さからか、鎖骨を断ち切れずに途中で太刀が止まり、初太刀を受けて逃げ惑う男を背後から斬りつけた。だが、その太刀筋も定まっておらず、刀痕は一筋に切り裂くでも無く、ぐにゃりぐにゃりと二回曲がっている。ただ、流石にそこまでされれば男も立ってはいられなかったのだろう、地面に突っ伏したところに、犯人が太刀を突き立ててとどめを刺した。と、言ったところだ。


「厄介な辻斬りでやすね…」


「ああ。武家相手じゃ中々調べも覚束ねぇかんな。

まあ、何れにしても現行犯じゃねぇ限り、捕らえんのは難しいだろうな?」


永岡達町方同心は、主に町方の治安維持が務めであって、その権限は武家以外の町民に限られる。

要は管轄が違うのだ。

ただ、役人には変わりない為、諸大名家や旗本では、町場での揉め事を穏便に済ませる為にも、付け届けなどをして交流を持ってもいるが、裏では町方同心は罪人を扱う汚れ仕事をしていると、武家からは不浄役人と蔑まれてもいる。

なので、あからさまに無下にはしないが、家の情報を明かすような協力などは考えられない。

寧ろ、そもそも身分が違うので話しかけてくれるな、と言ったところが、武家が町方に対して持っている正直な心情なのだろう。


「しかし、ひでえ事しやがんな…」


永岡は抜いた十手で自らの肩を叩きながら呟く。


「へえ、全くで。どうせどっかの馬鹿な若様の仕業なんでやしょうが、とにかくこれが続かねぇ事を祈りまさぁ」


「続くようなりゃ、旗本だろうが大名だろうが容赦はしねぇがな?」


智蔵の言葉に応えながら、永岡は静かに見開かれた亡骸の目を閉じた。



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