第五十一話 散々な旦那
「お瑠花…」
「はぁあ?
あんた何寝ぼけた事言ってんだいっ!
人にぶつかっといて、居るかって言い草は何なのさっ!
あ〜もうっ! どうだっていいけど謝るのが先でしょうがっ、このすっとこどっこい!!」
お凛は尻餅をついたまま、相手の男を挑むように見上げて啖呵を切る。
お凛の中では自分がよそ見をしながら歩いていた事など、すっかり飛んでしまっているのだろう。
相手の男の方は、最初に発した言葉を最後に固まってしまっている。
そんな反応の無い男に焦れたお凛は、「痛たたた」と顔を歪めながら立ち上がり、
「ほらっ、何とか言いなさいよ!」
と、男の目の前で凄んでみせる。
尖り気味の鼻が男に刺さりそうな勢いだ。
男は漸く状況を把握したのか、眼前に迫るお凛に驚きながら後退り、
「ーーーす、すまなかった…」
と、深々と頭を下げて詫びる。
すっかりお凛の迫力に呑み込まれてしまったようだ。
やはり物事は声の大きさがものを言うのだろうか。
お凛は男を見下ろしながら満足げに腕を組む。
「よっ! そこのあんたは幸せもんだぁ!」
いつの間にか集まっていた野次馬の中から、頭を下げている男に声が飛ぶ。
「俺っちも一度は言ってみてぇぜ。なぁ銀の字?」
「へへ、全くだ源の字。お凛ちゃんからきついお叱りを受けてからの『すまなかった』だもんな?
くぅ〜、なんとも贅沢だぜ!」
先程の大工仲間だ。
二人は道具箱に腰をかけ、楽しげに話している。
どうやら本格的に観戦していたようだ。
「あんたら未だそんなとこに居たのかい!
いつまでも油売ってないで、早く仕事に行きやがれ!
あぁ。働かない亭主に愛想を尽かして、女房が間男と一緒に心中……なんてのも悪くないねぇ?
あちきが読売にしてやるから精々油でも糸瓜でも何でも売って、女房から愛想尽かれるがいいさ!」
言われた大工達はゴクリと生唾を呑み込むと、道具箱を抱えてそそくさと退散する。
しかし、何故か鼻の下を伸ばしてニヤついているのだが。
「あら、どうしたの亜門さん?」
人集りの切れ目から女の声が上がった。
男は相変わらず頭を下げたままである。
「あ、え…?
あぁ、みそのさんでは御座らぬか…」
大工が退散した隙間から、通りがかったみそのが顔を出したのだ。
「御座らぬかって…。
言葉遣いまでお武家様みたいになっちゃって、一体どうしたんですか?」
お凛がぶつかった男は、まさに先日の捕物で北忠を手助けした亜門だった。
実はみそのと亜門は、饂飩屋の『大阪屋』の常連客で顔見知りなのだ。
閑古鳥の鳴く店でお互い良く見かけていた為、自然と話をするようになっていたのだ。
「みそのお姉ちゃん、この人誰?」
みそのの後ろからお千代の可愛らしい声が上がった。
お千代の手は千太がしっかりと握っている。
その後ろからは、酔庵、唐辛子売りの儀兵衛も続いて来た。
「この人はねぇ。亜門さんと言って、とっても絵が上手なのよ。あとでお千代ちゃんの好きなものを書いてもらいましょうかね?」
「うん。やったー」
「おや? あなたは確か鳴海屋のお凛さんでしたな?」
みそのがお千代に応えている間、酔庵がお凛に気づいて声をかけた。
「あ、豊島屋さんのご隠居様……。
その節はありがとうございました」
お凛も酔庵に気がづくと、そう言って深々と頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそウチの田楽を上手いこと書いてくれて、あの時は大助かりでしたよ。またお願いしますよ? ふふふ」
どうやら酔庵は店の宣伝を読売に書かせていたらしい。
読売屋としても、こう言った収入は必要なのだ。特に豊島屋などは偽りを書く必要も無いので、読売屋としては願っても無い客筋である。
「おじさん、なんか悪い事でもしたのかぃ?」
千太は亜門が頭を下げていた理由が気になったようだ。
「い、あ……俺か……?」
亜門は急に子供から話を振られて口籠もってしまう。
それはそうだろう。当たり屋に当たられたようなものだ。
気づいた時にはお凛が転がっていたのだ。
改めて考えても、何が悪かったのかわからないのだろう。
「でも、こうして謝ってたんだから、もうお姉ちゃんも許してあげてよ?」
千太はお凛へ顔を向けてそう言うと、「オイラからも頼むよ」と続け、ちょこんと頭を下げた。
千太が全てを察したのかどうかは分からないが、亜門が悪い人間には見えなかったのだろう。
「ふふ、これは千坊に免じて、お凛さんも矛を収めねばなりませんな?」
「ま、まあ、矛を収めるも何もないんですがね…」
良く良く考えれば自分が悪い。
そう気付いたお凛は、一瞬バツの悪い顔をするも、しおらしく亜門に頭を下げた。
亜門はお凛のその姿を言葉無くぼうっと眺めている。
*
「で、北山の旦那。なんでまたこんな所へ?」
「なんだい松次。お前、こう言う賑やかな所は嫌いかぇ?
そんなんじゃお前、世の女子を喜ばせてあげられないよ?
全く、だからお前はいつまでたっても女日照りなんだよう?」
「いや、そう言う意味じゃねぇんでさぁ…」
松次は自分の顔を撫でながら、既に人で賑わう深川八幡の境内を見回した。
深川八幡と言えば富岡八幡宮である。当時は永代嶋八幡宮と呼ばれ、八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも[深川の八幡様』として親しまれていた。
広い美麗な庭園は江戸でも人気の名所の一つで、ここで行われる深川八幡祭りは、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と表され、神田祭(神田神社)、山王祭(日枝神社)と並び、江戸三大祭りの一つに数えられている。
この深川祭は「わっしょい、わっしょい」との掛け声とともに、観衆から神輿の担ぎ手へ清めの水が浴びせられる事から、「水かけ祭り」と別称され、江戸でも一二の盛り上がりを見せる祭りなのだ。
今日は久しぶりに北忠の独立に向けての町廻りの日だ。
今日の相棒は松次。犠牲者と言ってもいい。
事件もひと段落ついた事で、昨夜『豆藤』で永岡が決めた事だった。
手下達にとっては堪ったものではないのだろう。
その後の宴は暗闘が繰り返されたに違いない。
とにかく、当の北忠は呑気なもので、今日は朝から永岡達とは別行動と言う事で、いつもに増して北忠の機嫌は上々である。
北忠は朝餉を軽く済ませて来たらしく、奉行所を出立するや、すぐさま西本願寺の茶店に立ち寄り、先ずは団子を頬張りながら、今日の予定を松次に語って聞かせていた。
確かにその時の話でも深川八幡に寄るとの事だったが、何せ奉行所を出て四半刻(凡そ三十分)も経たずに茶店に入り、半刻(凡そ一時間)以上も団子を食べながら、女将やらと世間話に花を咲かせていたのだ。
松次は北忠がやっと腰を上げて歩き出したかと思えば、またもや茶店やらで賑わう深川八幡へ足を運んだので、その意図を確かめたかったのだ。
北忠は楽しそうに目を細め、周りを見渡している。
「まあ、偶にはこんな町廻りでもいいんでやすがね…」
松次は楽しそうな北忠の横顔を見ながらボソリとこぼす。
そんな松次をよそに、暫く露店を冷やかしながら歩いた北忠は、首を傾げながら茶店に入って行く。
そして長椅子に腰掛けながら、
「甘酒を二つもらえるかぇ?」
と、出てきた娘に注文するや、
「ちょいとそこのお若いの」
と、隣の長椅子に腰を掛けていた若い男に声をかけた。
小柄だが如何にも俊敏そうな勇み肌な若者だ。
涼しげな目元に太い鼻筋が男らしい、中々の伊達男である。
「へ、へい。あっしでやすかぇ?」
若者は相手が町方だと気付いていたようで、素早く飲んでいた茶を置くと、腰を屈めながら北忠の元へとやって来た。
「なんでござんしょう? 御用の筋でやすかぇ?」
男は片膝をついて改めて聞いてくる。
「いや、御用の筋って事ではないのだけれどね。
ところでお前、名前はなんて言うんだい?」
「あっしは弁天一家の正吉ってもんでやす。へい」
若い男は弁天一家の正吉だった。
正吉はその涼しげな目に警戒の色を宿す。
「やっぱりそうかぇ。弁天一家と言えば、ここを仕切っているんだよね?」
北忠の目が細められる。
「へ、へえ。まあウチの縄張りでやすから、色々と仕切らせていただいておりやす。
しかし旦那、あっしらは決して悪どい仕切りはしてやせんぜ?」
いきなり疑いの目を向けられた正吉は、そう言いながら北忠の袖に小粒を落とした。
偶に難癖をつけて来る御用聞きや役人には、こうしてご機嫌取りをしているのだ。
常にある事なのか、正吉の動きは流れるように自然なものになっている。
「おっ、この私にお小遣いをくれるのかい?これはちゃあんとここで使うからね。うんうん」
北忠はニンマリしながらチャリチャリと袖の重みを確かめる。
「それより正吉、ここに亜門と言う男が居るはずなんだけどね。ぶらりと見回った限りでは見当たらないんだよ。お前、亜門の行き先は知らないかぇ?」
北忠はどうやら亜門を探しにやって来たようだ。
「亜門でやすかぇ…」
正吉は北忠のペースに肩透かしにあいながらも、腕を組みながら首を傾げる。
そして、亜門、亜門と呟きながら考えていた正吉は、やはり思い当たらなかったようで、
「いやぁ、そんな野郎に聞き覚えはありやせんねぇ」
と、首を竦めながら応えた。
「そんなはず無いよぅ。だって亜門本人からここらで仕事してるって聞いて来たんだよ?
もしかしてお前、私が嘘を言ってるって言うのかぇ?」
「いえいえ旦那、そんな滅相もねぇこって…。
ではその亜門ってぇのは、どんな野郎なんでやすかぇ?」
正吉は面倒くさい旦那に捕まったとばかりに、顔を引きつらせながら聞き返す。
「えーとだね。中々食の趣味も私と合う男なんだよぅ」
「………へ?
それだけでやすかえ?」
「それだけってお前、私だって二度ほど会っただけなんだから、それだけも何もあったものじゃないよぅ。なんならお前が説明しておくれよ?」
「いやいや旦那。それが出来ていやしたら、何もこんな問答の前に居場所をお教えしてやしたよ…」
「ふふ、それもそうだね?
でも亜門を知らないって言う事はお前、実は弁天一家を騙って、人から金をせしめようって輩じゃないんだろうねぇ?」
「いやいや旦那、勘弁してくだせぇよ。それに今さっき旦那の袖に金を落としたのはあっしの方ですぜ?
そんな真似するもんが、騙るも何もねぇじゃござんせんかぇ…」
正吉はそう言いながらも、縋るような目を松次に向けてくる。
この旦那じゃ話にならないと言ったところだろう。
暫く遣り取りを静観して楽しんでいた松次は、流石に可哀想になり、
「正吉、その亜門ってぇ男は頭はボサボサなんだが、身なりはちょいと洒落ててよぅ。この境内では、砂絵で客寄せして小間物売ってるみてぇなんだが、そんな男に心当たりはねぇかぇ?」
と、初めて声を発した。
「あぁ、そいつぁ鹿の旦那だぁ」
松次の説明で直ぐにピンと来た正吉は、膝を叩いて声高に答えた。
「鹿の旦那?」
「へぇ。何せ紅葉の裏地に鹿の根付けなもんで、ここらじゃ皆、あの旦那の事ぁそう呼んでまさぁ。
鹿の旦那ってぇのは、亜門って名前だったんでやすね?
そう言やぁ今日んところは鹿の旦那は見てねぇな…。
いつもだったらあの辺りに陣取ってるんでやすがね?」
合点が行った正吉は、嬉しそうに境内の隅を指さす。
正吉が指差した場所は、露店と露店の間に、丁度一間分(畳一枚分)強の土地がぽっかりと空いていた。
「しかし旦那。この刻限で顔見せてねぇってなると、今日は休んじまってるんじゃねぇですかね?
鹿の旦那は気まぐれでやすんで、来ねえ時ぁ、幾ら晴れてようが何日も顔出さねぇ時もあるんでさぁ」
「そうなのかぇ。そんなんで良く活計がたつねぇ?」
北忠が残念そうな顔で呟く。
「いや、あの鹿の旦那は、あれで大したもんで、一日の上がりは中々のもんなんでさぁ。
あっしも一度だけ見た事があるんでやすが、砂絵も大したもんなんでやすが、それ以外でもあの鹿の旦那、居合術もかなりなもんで、砂絵に食いつかねぇ武家なんかにゃ、その居合術を見せて稼いでいるんでやすよ」
「ほう。居合ねぇ…。そんな事まで出来るのかぇ……」
「ええ。中々腕っ節のたつ旦那でさぁ。
あっしらが見廻ってねぇ時に、時折タチの悪りぃ輩が現れるんでやすが、そんな時ぁ、あの鹿の旦那が上手こと追い払ってくれるんでやすよ。
んなもんだから、鹿の旦那がちょいと金に困ったとしても、仲間内からいつもの礼ってなもんで、幾ばくかの援助があるんでさぁ」
「あのボサボサの飄々とした男が、ここらじゃ中々人望があるって事かぇ?」
北忠は何故か面白く無さそうな顔で呟く。
「へえ、まあ…。
旦那、もしかして鹿の旦那が何かやばい事をやったんでやすかぇ?」
正吉は北忠の反応に眉をひそめながら聞き返す。
家族でも何でも無いが、この場を仕切っている香具師としては、その中から罪人を出せば当然お上からお咎めがある。
そんな輩を出さない為にも、しっかりと身元を確認して管理をしているのだ。
「まあ、そんなとこだね」
「………」
北忠の返事に正吉は言葉を失う。
そんな正吉をよそに、北忠はのんびりとした口調で、
「でも今日は居ないんじゃしょうがないねぇ。
じゃ松次、さっさとこれ飲んで行くとするかね?」
と、先程運ばれて来た甘酒に口をつける。
ずぼらな男だと思っていた亜門が、中々のやり手で周囲からも人気があった。
何となく同じ匂いを感じていた北忠にとっては、何とも面白く無かったのかも知れない。
「で、旦那。鹿の旦那は何をやらかしちまったんでやすかぇ?」
正吉が声を落として問いかける。
北忠は美味そうに甘酒を啜りながら、
「それはお前なんかに容易く教えられないよぅ。
まあ言えるのは、その何かをやらかす前に私が出張って来たって事だね?
だから正吉、お前がもし亜門を見かけたら、直ぐにこの北山忠吾へ繋ぎを付けるんだよ?」
「へ、へい!」
北忠は厳かに正吉に頷くと、後ろの松次に舌を出してみせた。




