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第五十話 思い浮かぶもの



「永岡の旦那もやっぱり子供は可愛いのよね…」


 みそのは兄妹の寝顔を見ながら独り言ちた。


 千太もお千代も慣れない布団にくるまりながら、すやすや寝息を立てている。

 普段よりも熟睡しているのではないだろうか。


 千太の長屋にあった敷布団と言えば、継ぎ接ぎだらけのペラペラな布だった。

 掛け布団などは勿論なく、夜着(掛け布団代わりに寝る時に上に掛けた綿入りの着物)の中綿は、拾って来た屑紙を詰めたボロを使用していた。

 それも太平の喀血で汚れてしまっていた事もあり、それらは全て長屋に置いて来ている。

 千太達はほぼ着の身着のままで、みそのの仕舞屋へと来ていた。


「ふふ…」


 ムニャムニャと何やら寝言を言っているお千代に、みそのから暖かい笑みがこぼれた。


「それがどうしたんでぇ?

 実のところオイラは子供が苦手なのさぁ」


 あの日の永岡の言葉が蘇ってくる。

 みそのが自分は子供を産めない身体だと告白した時の言葉だ。

 勿論みそのは、その言葉を額面通りには受け取っていない。

 自分に気を使っての言葉なのだと充分に理解している。

 永岡が町場で見かけた子供に対して、優しく接していたところを何度か見ていたし、そもそも情に厚い永岡らしからぬ言葉だったからだ。


 ただ、分かっていても嬉しかったのだ。


 告白してから間髪入れずに出て来た言葉。

 それでも自分を大切に想ってくれる安堵感。

 そこにはみそのを孤独にさせない、優しい愛が詰まっていた。


 この時代に子を産めない女の辛さは、みそのも理解している。

 実際、現代でその辛さを味わって来た。

 姑には事ある毎に孫の催促をされ、いよいよ子供が絶望的と見るや、遠回しに身を引く事を勧められていた。


「やっぱり希美さんは、家庭に入るよりもキャリアウーマンとして、自立して生きて行った方がいいわね」


「あの子は男だから未だ間に合うと思うのよ」


「希美さんは綺麗だから、再婚しようと思ったらいつでも出来るわね」


 数々の言葉が蘇る。


 今思えば、同居していないだけ耐えられたのかも知れない。

 最初は夫にも言えなかった。

 責任を感じていた事もある。

 しかし三年程前、夫の実家へお正月の挨拶へ行った時の事。

 希美はいよいよ我慢が出来ずに大泣きしてしまった。

 そして夫にどうしたのかと聞かれた希美は、今までの義母の言葉を吐き出し、泣きながらどうすればいいのかを訴えた。


「ーーーあまり気にするなよ。

 母さんも悪気は無いんだから、希美が大人になって上手くやってくれよ」


 散々間をおいてからの夫の言葉だ。


 孤独。


 そんな言葉が浮かんだ。

 今までそれなりに仲良くやって来た夫婦だと思っていたが、所詮他人なのだと思ってしまった。


 しかし、それからは夫の言葉通り「気にしない」、無機質な壁を作る事により、それからも続いた義母の言葉を遮っていた。

 そのうち夫も滅多に家に帰らなくなり、自然、義母との接触も減ったのだが、義母がメールを覚えてからがまた辛かった。

 返信に困る内容な上、返信しないと次々と同じ内容の文面が送られて来る。

 義母は届いていないと思っての事らしかったが、堪ったものではなかった。


 どう返せば当たり障りがないのだろうか。


 日々そんな事を考えながら暮らしていた。

 直接言葉をかけられていた日々が、ましに思えたくらいだ。


「どうせ母さんは暇なんだから、適当に返しておけばいいんだよ」


 夫に相談しても仕方がない。

 そう諦めたものだ。


 そんな時にお園さんと出会い、江戸への縁が繋がった。

 希美にとってお園さんは、理想の義母だったのかも知れない。

 ちょっとした現実逃避にもなっていた。

 事実、お園さんと触れ合うようになってからは、義母の事など小さな事だと思えるくらい、日々の生活に張りが出ていた。


 そして、江戸である。


 お園さんが亡くなってから、江戸と現代を往き来するようになり、また違う張りが希美に生きる力を与えていた。

 お菊やお若、お静の裏店のおかみさん達に始まり、お加奈や甚右衛門、甚平の『丸甚』の面々、搗き米屋の善兵衛に、棒手振りの辰二郎、お秋、お春の一家。

 皆自分を頼りにしてくれ、暖かく受け入れてくれた。

 永岡もその一人だ。

 新之助や源次郎、智蔵や松次などの下っぴき、北忠や新田など皆、快く希美を輪の中へと迎え入れてくれた。


 勿論、江戸時代と言う有り得ない環境が、希美に幻想を抱かせ、現実を凌駕させていたのかも知れない。

 ただ、希美はこの江戸の町が、人々が、心地良かった。

 自分の生きる意味を見出せた思いだった。


 永岡に恋をしたのも、そんな現実を凌駕した幻想を見ていたからかも知れない。

 しかし、いつしかその幻想も希美にとっては現実に見えて来た。

 幻想も凌駕して、それが現実と思えて来たのかも知れない。


 永岡と結ばれ、江戸に腰を据えよう。


 お園さんが “最後は江戸で” と覚悟を決めたように、みそのも覚悟を決めたのだった。


 しかし、


「子を産めぬ女子は、永岡家の嫁と認める訳にはいきませぬ」


 永岡の母、志乃しのの言葉だ。


 やはり江戸でも痼りを作る原因は一緒だった。

 一時期、パラレルワールドがあるとすれば、自分が居る現代には影響しないのではないか。

 そんな思いにもなっていたが、江戸での生活は見事に自分の生活に影響を与え、今度は江戸でも現代と同じ影響を受けるのだと改めて思ったものだ。


 やはりこの宿命からは逃れられないのだと、改めて腹を決めたのだった。

 永岡の母親には、あれから一度も会ってはいない。

 一月ほど前、妾と言う考えは無いのか、との内容の手紙を貰ったのが最後だ。

 ここは現代ではなく江戸時代。

 それを思えば、彼女なりに考えてくれた好意だと思っている。

 だが、永岡は互いが夫婦だと思えば良い事で、妾云々など考える必要は無いと言った。

 事実、永岡はみその以外を妻帯するつもりは無いと断言している。


「私だって産みたいのに…」


 ボソリと呟いたみそのの目から、涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。


「…みそのお姉ちゃん、泣いてるの?」


 お千代が目をこすりながら聞いて来た。

 みそのの涙がお千代の目元に落ちたようで、どうやらその刺激で起こしてしまったらしい。


「ん? 泣いてなんかないわよ?」


「お父ちゃん、死んじゃうの?」


 涙目のみそのを見て父親を連想したようで、お千代は泣き出しそうな顔で声を震わせる。


「この涙は眠くなってあくびしただけなの。そんな事考えちゃ駄目よ?

 ほら、もっと良い夢を見ましょうね。一緒に寝てもいい?」


 みそのは軽く目元を拭いながら悪戯っぽく言うと、お千代の布団へと潜り込んだ。


「弘治先生にも言われたでしょ?

 たぁくさん寝ないと駄目だからね?」


「うん…」


 お千代は既に眠りに落ちたのか、夢の中からのような返事を最後に、直ぐに可愛らしい寝息を立てる。

 みそのはその寝息を聴きながら、お千代の頭に顔を埋め、子供の芳ばしく甘い香りを嗅いだ。

 そして、いつの間にか眠りに落ちていた。



 *



「ほう。千太、お前さんは中々筋が良いですな?」


 酔庵が満面の笑みを浮かべ、千太の手元を眺めている。

 千太は照れ笑いを浮かべながらも、シャカシャカと手だけは動かし続けている。


あんちゃん、持って来たよー」


 お千代がよろよろ危なっかしく、小振りの盥に水を張って持って来た。


「偉いぞ、お千代。今度はこれを裏の芥溜ごみために捨てておいで。でも紙は捨てちゃいけないよ」


「うん!」


 お千代は元気に返事をすると、和紙に乗った塵を慎重な手つきで持ち、てとてと歩いて行く。

 千太はそれを嬉しそうに見送ると、盥の水で布巾を絞り、タッタカ柱や床の拭き掃除にかかった。


「あの子はウチに丁稚に来ても、難なくやっていけそうですな?

 あの身のこなしを見れば分かります。将来の番頭候補ですよ。うむうむ」


 みそのが酔庵の隣に座ると、酔庵は千太から目を離さずに語りながら頷いている。

 お千代にも無理なく仕事を与えているところが、酔庵的にも好感が持てているのだろう。


「すーさんの所の番頭さんだったら、千太さんもやり甲斐があるでしょうね?」


 みそのは「しごとくれ」との千太の目安状を思い浮かべ、鎌倉河岸の豊島屋も候補の一つと考えた。

 ただ、丁稚となれば住込みで働く事になる。

 千太の環境を考えると、働き口以外の手助けをしてあげねばならない。

 みそのは暫く千太の適性を見てから、千太に合いそうな仕事を紹介しようと考えていたのだ。


「まあ、どんな仕事にもやり甲斐はあると思いますが、例えこき使われても、ウチはそれなりの給金が出ますからな?」


 酔庵がニヤリと悪戯っぽく笑ってみせる。


「ちょっとすーさん!

 私は千太さん達をこき使ってる訳ではないのですからね!」


 みそのが口を尖らせる。

 先程から二人が忙しなく掃除しているので、みそのとしてはどうも決まりが悪かったのだ。


 二人がみそのの仕舞屋に来てから、今日で四日目になる。

 二人が泊まりに来た翌日から、日課のように行われている光景であるのだが、みそのとしては常に申し訳ない気持ちになってしまう。


 然して汚れている訳ではないのだが、二人は遊びの一つのように、くるくると家の中を回り、瞬く間にピカピカにしてしまうのだ。


 永岡の話だと父親の太平の病状も落ち着いていて、今のところ喀血する事も少なく、安らかに療養しているとの事だった。

 きっとそんな話が、二人に元気を与えているのかも知れない。


「今日は長屋を見に行くのでしたね?」


「そうそう、そうでした。素晴らしい働きっぷりに、すっかり忘れるところでしたよ。

 道場の方はあと少しですが、例の店は出来上がりましたからね」


 酔庵はニヤリとしながら、みそのに視線を向けた。


「本当、無理言ってすみません」


「何を仰いますか、みーさん。

 こちらこそ空いた店が埋まって、大助かりなのでございますよ?」


 みそのはラー油製造の為の作業場として、例の順太郎の道場が入る長屋の一つを借り受ける約束をしていたのだった。

 これには酔庵も喜び、大工が入っているのをいい事に、ラー油製造専用に手を加えてくれていたのだった。

 今日はその店の改装が成ったと言う事で、様子を見に行く事になっていたのだ。


「みそのお姉ちゃん、お客様だよ」


 お千代の可愛らしい声へ目を向けると、その後ろから、唐辛子売りの儀兵衛の福々しい顔が覗いていた。

 頼んでいたラー油の材料が揃ったようだ。

 なんともタイミングが良い。


「みそのさん、遅くなりやしてすいやせん。

 それに、なんだか間の悪りぃ時分でごぜぇやすね?

 遅れた上に、なんとも気の利かねぇこって…」


 儀兵衛は申し訳なさそうに言うと、周囲を見回しながら白い髭を弄る。

 人を雇って大掃除でもしているのかと思われたのかも知れない。

 相変わらず千太の手は止まらずに動いているし、儀兵衛を案内したお千代も兄を真似て、柱を拭き始めているからだ。


「いいえ、間が悪いなんて事はありませんよ。逆に凄く間が良くてびっくりですよ、本当」


 みそのがそう言うと、


「間が良くてびっくりですかぇ?」


 と、儀兵衛は細い目をほのかに大きくし、不思議そうに聞き返す。


「ふふ、ええ。

 実はその材料を使う店が出来上がりまして、これからみんなでそこへ行く所なんです」


「そう言う訳でごぜぇやすかぇ。

 そりゃあ確かに間の良いこって」


 みそのの言葉に納得した儀兵衛は、そう言って破顔する。

 真っ白い総髪と髭を蓄えた儀兵衛は、大きな福耳も相まって、笑うと益々福々しく見え、さながら恵比寿様や大黒様のように見える。

 手には大きな袋を抱えているので、今日のところは大黒様と言ったところか。

 こんな福々しい儀兵衛が元は盗賊だったと知れば、それこそみそのはびっくりするのだろう。


「そうしやしたら、あっしもこのままご同行願ねげえやすかぇ?

 いやなに、今後の為にもお届け先を頭に入れておけやすからね」


 大黒様のような笑顔で言われたら、遠慮するのもバチが当たりそうだ。


「わざわざ遠くから来ていただいているのにすみません…。

 ではお茶を淹れますので、少しみんなで休んでから行きましょうかね」


 みそのはそう言って儀兵衛を座らせると、いそいそとお茶の用意にかかった。



 *



「ねぇ旦那〜、本当のところを教えてくださいましよぅ?」


 若い娘が永岡にしなだれかかる。

 やや丸みを帯びた輪郭に整った眉の下の涼しげな目が、見るものに知的な印象を与えている。化粧っ気は無いが中々の美形だ。


「本当も犬の糞もねぇやな。

 おめぇらにオイラから話せる事なんかねぇやぃ」


 永岡が面倒くさそうに言うと、隣の智蔵に目配せして歩速を上げた。


「旦那ったら〜」


 永岡の速度について行けなくなった娘が、鼻にかけた甘え声を上げる。


「ふん、全くケチ臭い旦那だよっ!

 あちきをナメんじゃないのさっ!」


 娘は追うのを諦めて立ち止まり、先程とは一転して口調を変えて毒を吐くと、プリプリと永岡と逆へ歩き出した。

 娘の手には矢立(筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具)と巻紙が握られている。


「ったく、これじゃ次の読売に間に合わないじゃないかいっ!

 今度は紅でも塗ってドギマギさせてやるんだからね!」


 この娘、どうやら町方同心である永岡に、読売の取材をしていたようだ。

 先程の永岡の態度を思い浮かべ、整った顔が台無しになるほど顔を歪めて悪態を吐く。

 次は本格的に色仕掛けで攻めるらしい。


「おっ、おりんちゃんじゃねぇかぇ、そんなこええ顔してどうしなすった?」


 通りがかりの大工が声をかけるが、


「どうもこうもあんたの知ったこっちゃないのさっ!

 今のあちきは機嫌が悪いんだから、暇人は気安く話しかけんじゃないよ!

 このすっとこどっこい!!」


 と、にべもないどころの騒ぎではない。

 心配して声をかけた大工が哀れな程の言われようだ。


 しかし、


「おっ、銀の字、おめぇお凛ちゃんに良いの貰ったな」


「へへ、全くだ源の字。こいつで今日の仕事にも精が出るってもんよぅ」


 などと、当の大工は嬉しそうに仲間同士で語り合っている。


 このお凛と言う娘、この辺りではちょいと有名なのだ。

 整った容姿から繰り出される啖呵が気持ちいいと、仕事を休んでまでお凛の啖呵を聞きに来る男もいるくらいで、読売屋の鳴海屋のお凛と言えば、この辺りの男達で知らぬ者はいない。

 啖呵が名物と言う、ちょいと風変わりな小町娘なのだ。


 その小町娘のお凛が、唾でも吐きそうな勢いで大工達を睨みつけた次の瞬間、


「あ痛ーっ!」


 大袈裟な声を上げながら見事なまでに地面を転がっていた。



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