第四十九話 迂闊な言葉
「労咳…ですか……」
みそのは弘治の言葉を繰り返すだけで、次の言葉が出て来ない。
労咳とは今で言う肺結核である。
1882年にドイツ人医師ロベルト・コッホにより結核菌が発見され、抗菌剤による治療が確立するまでは、不治の病と呼ばれていた病気だ。
当然ながら江戸時代の結核も治療法は無く、自然治癒で治る者も稀にいたようだが、やはり人々からは不治の病として恐れられていた。
「ええ。間違いありませんね。
しかも残念ですが、私の見立てですとかなり労咳は進んでいますので、あと一月保つかと言ったところです」
「………」
弘治に言い切られたみそのは、益々返す言葉が出て来ない。
太平の様子を見ていたみそのは、薄々感じてはいた事だったが、直接言葉にして言われた衝撃は思いの外大きなものだった。
それに一月も保たないなど、千太とお千代の事を思うと、簡単には受け入れ難い事実だった。
その千太とお千代は、今は隣のおつたの店で眠っている。
弘治は二人がおつたの店へと移ってから、半刻(凡そ一時間)程で到着したのだった。
弘治は駆けつけるや、抱えて来た薬箱を広げ、手早く太平を診察していた。
そして四半刻(凡そ三十分)で診察を終え、太平に煎じ薬と白湯を飲ませると、太平は幾分楽になったのか、気づいた時には既に眠りについていた。
今は安らかに寝息を立てる。
みそのがそんな太平を見つめていると、
「この家にはお子さんがいらっしゃるのでしたね?」
弘治は薬箱を片付けながら問いかけた。
「ええ。未だ小さい男の子と女の子が一緒に暮らしています」
「労咳は側に居る者に感染しますので、かわいそうですが父親とは別にした方が良いですね。
それに、既に感染している恐れもありますので、後でその子達も診てみましょう」
弘治の言葉を聞き、みそのはゴクリと唾を飲み込む。
「いや、走ってみそのさんのところへ報せに来たのですよね?
念の為診ておくだけですので、そう心配なさらずに。
大丈夫だと思いますよ」
「……はい」
みそのは不安を隠しきれず、力無い返事になってしまう。
「きっとこの太平さんは、優先させて子供達に食べさせていたのでしょう。
これだけ痩せ細ってますからね…。
怪我をして身体が弱っていた上、食事も碌に摂らないんじゃ、病魔も入り込み易かったのでしょうね。
今はとにかく、そのおかげで子供達が健康でいられたと思いましょう?」
「千太さん達は大丈夫なんですか?」
弘治の励ますような言葉にも、心配なみそのは堪らずに聞いてしまう。
「安請け合いしてはいけませんが、みそのさんのお話を伺う限りは大丈夫でしょう。
私が診るのは念の為ですよ。
しかし、だからと言って気を抜いてはいけませんので、二人には滋養のある食べ物をしっかり食べさせてあげて、充分睡眠をとらせて下さい。
それと、みそのさんもそうですが、手洗いは欠かさずにして下さいね」
「はい!」
みそのは弘治の言葉に幾分か安心し、声音も力強いものになっていた。
*
「しっかし美味えもんだったな?」
永岡は上機嫌に隣の智蔵へ語りかけた。
「でしょ!?
最近噂になっていたのですよ、ええ。
私もあれを食す為に、町廻りの順路を随分と考えていたのですが、中々昼餉時に通れずに食べ損ねていたのですよう。
それに、どうせ食すならば美味しいものをと、ついつい、いつもの蕎麦屋や煮染め屋なんかに足が向いてしまいましてね?
これではいけないと思いつつ、私とした事が迂闊にも食の探求を怠っておりました。
いやいや、以後気をつけますので、平にご容赦を」
「ちっ」
北忠の割り込みに、永岡の機嫌が一気に悪くなる。
大かばやきに舌鼓を打った一行は、その余韻に浸りながら雑司ヶ谷村へと歩き出したところだ。
「しかしあのタレは格別でしたよねぇ?
ふわぁ〜と、ふっくら脂の乗った身と相性抜群でしたわぁ〜…。
甘辛い味付けは、日の本の心ですよ永岡さん!
日の本の心を食した我らは、今日は向かうところ敵無しです。ええ。
まあ、私の十手の技をもってすれば、食すまでの事もないのでございますがね?
そうだ翔太。お前は目の前で見ていたねぇ?
ほれ、松次に私の勇姿を語っておやりよ」
「い、いいんでやすかぃ?」
北忠に振られた翔太目を丸くして応える。
ありのままを話せば勇姿もクソも無い。
「……」
北忠の眠ったような細い目が、更に糸のように鋭く細められる。
「あれだろぃ?
お前があたふた逃げ惑ってる間に、あの亜門とか言う男が助太刀して、運良くお前の十手が、巳之吉に当たっちまったんだろい?
ったく、そんな事ぁ周知の事実だぜ、忠吾。
これからは運任せにならねぇように、飯の事ばっかじゃねぇで、日頃っから十手の腕を磨いとくんだな?」
翔太が口籠もったところで、永岡が事実と言う名の助け船を出す。
「ちょいと永岡さん。そんな風に言ってしまったら、夢が無くなるじゃないですかぇ…」
「忠吾、こいつぁ夢と同じだぜ?
あんな事ぁそうそう起こらねぇ。夢だって見てぇ時に都合よく見られるもんじゃねぇだろぃ?
そもそも死んじまったら夢だって見られねぇや。そうならねぇ為にも日々の精進は忘れるなって事よ。
そうだな、こいつが済んだら暇にならぁ。近ぇうち、特別にオイラが稽古をつけてやるぜ?」
「はぁ…」
北忠は顔を歪めさせながら生返事をする。
翔太と松次は顔を背けてクスクスと笑い、智蔵に睨まれるのだった。
こうして一行はゆるりとした雰囲気で、雑司ヶ谷村へと歩みを進めていた。
*
「口を開けてごらん?」
弘治の言葉に、お千代が「あぁ〜」と声に出しながら大きく口を開けている。
「良く出来たな、お千代。偉かったぞ」
お千代は木べらを口へ入れられ嘔吐きながらも、そんな千太の声で嬉しそうに涙目を綻ばせた。
「良し。
みそのさん、二人とも問題ありません。
あとは先程の事を守って養生させてください」
弘治は膝を打つと、先程から心配顔で見つめるみそのへ声をかけた。
みそのと一緒におつたの店へと移動した弘治は、早速千太とお千代を診察していた。
少し寝たせいか、二人とも先程よりも顔色が良く見える。
「ありがとうございます、弘治先生」
「二人には私から説明しましょうか?」
頭を下げたみそのに近づき、弘治は小声で囁いた。
未だ二人には太平の病状を伝えていないのだ。
「……」
逡巡したみそのに弘治は、
「何れにしても、外で話しましょう」
と小声で続け、
「では私達はこれで失礼します。
ご面倒をおかけしましたね」
振り返り様におつたへ声をかけた。
「いいんですよぅ。困った時はお互い様ですからねぇ」
おつたは人の良さそうな顔で応え、千太達には「またいつでもおいでよ?」と笑ってみせる。
「ありがとう、おつたさん。
父ちゃんが良くなったら、快気祝いに呼ぶからね」
千太が嬉しそうにおつたに応え、お千代に頭を下げさせながら、自分も深々と頭を下げている。
みそのはその様子を複雑な思いで眺めていた。
「近所に労咳が出たと知れると厄介ですから、周りには暫く病状は伏せておきましょう」
弘治が千太達を眺めているみそのに耳打ちした。
この当時、労咳は空気感染するとは考えられておらず、暴飲暴食による消化不良の結果だとか、精神疲労や房事過多(性行為のし過ぎ)が原因だとか言われていた。
しかし、当然ながら家族内感染が多かった為、発病には家系的(遺伝的)なものではないかと言う考えもあり、労咳患者が出た家は「労咳の家筋」と、血筋のせいにもされていた。
その為、それが社会的な差別を生む事になり、患者を良く知る者達には同情されても、知らぬ者達は感染を恐れ、悪質な嫌がらせによる追い出しなど、あからさまな差別の目を向けられていた。
よって労咳患者やその一族への差別を恐れ、患者を遠隔地に避難させたり、家の中でも見えないところに隔離したりして、その存在を秘匿する事が多かったのだ。
弘治はそれを危惧して、おつたに知られまいと外へ出てから話す事にしたのだった。
未だ小さい千太とお千代が、周囲から差別の目に晒されるのは居たたまれない。
現在の知識には遠く及ばなくとも、労咳は必ずしも血筋で掛かる病では無いと、蘭方医である弘治は経験上理解しているので、尚更知られたくなかったのだ。
弘治に頷いたみそのは、おつたの店から出て来た千太とお千代の前にしゃがみ、
「二人に大事なお話があるの」
と、優しくも厳しい顔で語りかける。
あどけない目をパチクリさせるお千代とは対照的に、千太は状況を察したようで、下唇を噛みながら覚悟を持った目で頷いた。
「今、お父様はとっても悪い病気にかかっているの。
その病気は側に居るとうつってしまう病気だから、これから二人は、お父様とは離れて暮らさなければならないの」
「じゃあ、お父ちゃんは一人ぽっちになっちゃうの?」
お千代が不安げな顔を傾がせて口を開いた。
弘治はそんなお千代の頭を撫でながら、
「お千代ちゃん。お父ちゃんはおじさんが連れて帰って看病するから、一人ぽっちじゃないんだよ?」
と言い聞かせながら、みそのに頷いてみせた。
太平は任せろとの事だろう。
「お千代ちゃん、弘治先生は将軍様が作った養生所の先生なのよ?
だから離れてしまうけど、お父様にとってはここに居るよりずっと良い事なのよ。
そうだ。お千代ちゃんも千太さんと一緒に、私のお家に来るのはどうかな?」
みそのはお千代に語りかけながら、千太に目配せをする。
お千代も返事の代わりに隣の兄を見上げ、不安げに千太の反応を待っている。
「お千代、みそのお姉ちゃんのところへ行っても、我儘言わずに良い子にするんだよ?」
千太は悪戯っぽく言うと、お千代を安心させるように笑った。
そして、不安げな目をみそのへ向け、
「よろしくお願いします」
と、お千代の頭を押さえながら深々と頭を下げた。
「二人とも、お父ちゃんの事は心配だと思うけど、みそのさんの言う事を良く聞いて、しっかり食べて沢山寝るんだよ?」
弘治が頭を下げている兄弟に声をかけると、千太は大きく頷き、お千代は元気いっぱいに「うん!」と応える。
お千代はみそのが将軍の名前を出した事で、随分と安心したのかも知れない。
嬉しげなお千代の様子を見ていると、みそのは後ろめたい気持ちで心が騒ついてしまう。
「私は人を出してもらいに番屋へ行って来ますので、みそのさんは荷物など纏めたりと、出立の準備をお願いします。
それが終わりましたら、手洗いうがいをしっかりしてくださいね」
みそのの思いを知ってか知らずか、弘治は殊更明るく言うと、医者とも思えぬ速さで駆けて行った。
*
「ほぅ、そんな事があったのかぇ?
こいつらも気の毒にな…」
永岡はすやすやと寝息を立てている兄妹を見ながら呟いた。
永岡は雑司ヶ谷村で無事隠し金を回収し、その金を奉行所へ届けた帰りに、みそのの仕舞屋に寄ったのだった。
今日はこれから『豆藤』で打ち上げをする事になっており、一番の功労者のみそのも呼ぶようにと、智蔵達から頼まれての訪いだった。
「ええ。でも、今は幸せそうな顔で眠っているわ」
早めの夕飯を食べた二人は、みそのが夜具を敷いてやると直ぐに寝息を立てたのだった。
千太も相当疲れが溜まっていたのだろう。
しかし、そんな二人の寝顔は、自然にみそのの目を細めてしまう。
「まあな。夢の中くれぇ幸せでいさせてやりてぇもんだな?
小石川の方は、明日にでもオイラが様子を見て来てやらぁな。お前はこいつらの面倒を見なきゃいけねぇかんな」
「ありがとうございます…」
「礼には及ばねぇぜ。さっきも言ったように、多少言いてぇ事はあるが、今回もお前の手柄で事件が解決したようなもんさ。
そんくれぇはやらねぇと、バチが当たっちまわぁ」
永岡はそう言って笑い、二人の寝顔をまじましと眺める。
「しっかし、子供ってぇのは寝顔が可愛いもんさね?」
「……ええ…」
みそのが申し訳無さそうに言葉を詰まらせる。
永岡は自分の失言に気づき、
「ほら、他人の子供は可愛く見えるって言うじゃねぇかぇ? 言わねぇかぇ? ま、そんな事ぁいいやな?
いや、話は戻るが明日は任せてくんな。
それと、この調子だと寝るとこもねぇみてぇだから、今夜は役宅へ帰るとするぜ。
まあ明日の朝に顔を出すんで、そん時にでも改めてこいつらと引き合わせてくんな」
と、矢継ぎ早に続け、そそくさと腰を上げた。
「そんじゃ、お前も無理するんじゃねぇぜ?」
永岡は玄関口まで見送りに出て来たみそのに声をかけると、薄暗くなりつつある町へと歩き出した。
「ごめんなさい…」
みそののか細い声を背中に聞いた永岡は、振り返る事なく目を瞑る。
みそのとは夫婦約束をしている永岡だが、晴れて祝言を挙げられない訳があった。
それはみそのが町の出と言う、身分の話ではない。
みそのは永岡へ返事をする際に、自分が子供が出来ない身体だと打ち明けていた。
この時代、女が嫁いで子が産めぬとあれば、現代のようにはいかない。
武家やある程度の商家は、妾を作ってでも世継ぎを産ませなければならない。
子が出来ないとの理由だけで、離縁が成立してしまう時代なのだ。
永岡はその事に関しては鷹揚で、みそのから打ち明けられた時も、然して気にせずにいたのだが、一代限りの町方同心と言え、代々世襲するのが常。
それを聞いた永岡の母親がこの縁談に待ったをかけ、猛反対していたのだった。
そのせいで二人は祝言を挙げる事も出来ず、中途半端な状態を続けていたのだった。
「迂闊だったぜ…」
永岡の力無い呟きが、薄暗い町並みに寂しく響いた。




