第四十八話 新顔と心配顔
「それにしてもこれで分かるって、ほんと超人よね…」
みそのがまじまじと手元を見ながら呟いた。
その手には例の気の抜けた風のような音しかしない、真鍮製の笛が握られている。
超人とは源次郎の事なのだろう。
みそのは千太を居間へ案内すると、自分は茶の用意をすると言い置き、湯を沸かしている合間に例の笛を吹いて、源次郎を呼び出そうとしていたのだった。
自分は千太に付き添うつもりなので、誰かに弘治のところまで報せに走ってもらいたかったのだ。
いつもなら未だ永岡が居る時刻なので、永岡に頼めたのだが、今日に限ってその永岡がいない。
みそのは他に頼める者として、真っ先に源次郎の顔が浮かんだのだった。
源次郎が御庭番なのは心得ているが、みそのも取り乱した千太を見た後では、そんな悠長な事を言ってられなかったのだ。
弘治と言えば、幕府肝煎りで設置を急ぐ小石川養生所の医師である。
元々貧病民救済を目的としていただけに、先日千太の父親を見たみそのは、千太にこの話を聞かせていたのだった。
千太はそれをしっかり覚えていて、必死に駆けつけたのだろう。
湯が沸くのを見たみそのは、茶葉を入れた急須に熱湯を注いで行く。
ほのかに広がる茶葉の香りが、知らずに騒ついていた心に、幾分かの落ち着きを取り戻させる。
「私が落ち着かなきゃね…」
みそのは改めてそう独り言ちると、小さく深呼吸をして立ち上がった。
「千太さん、お待たせ。
お父様の事を思うと、急いで戻りたいのでしょうけど、今お医者様へ連絡してくれる人を呼んでるから、その人が来るまでは少し休んでてね…」
みそのが部屋へ入って行くと、こちらに背を向けた千太は、俯いたまま肩を震わせていた。
それを見たみそのは、
「ここにお茶を置いておきますよ。
ちょいと様子を見てくるから、このお茶を飲んで待っててね?」
と、湯呑みを盆に乗せたまま千太の側へ滑らせ、部屋を後にしたのだった。
「……りがと…」
千太は涙を見せまいと、みそのに背を向けたまま礼を言うが、鼻にかかった声は思いの外その言葉を詰まらせていた。
*
「それにしやしても、あっという間でやしたねぇ?」
「そりゃそうさ。新田さんの手にかかりゃあ、あのくれぇの野郎じゃそう保つめぇ。
新田さんにとっては、それこそ朝飯前ってこったな」
「それですよ、永岡さん!」
「なんでぇ忠吾。いきなりでけぇ声出すんじゃねぇやい!」
北忠が智蔵と永岡の話に大声で割って入り、永岡からどやしつけられている。
北忠は一瞬肩を竦めるも、
「いやいや永岡さん。そりゃ声も大きくなりますって。
だって私達は、未だ朝餉も摂っていないので御座いますよ?
それこそ朝飯前だなんて言われたら、ここまで我慢していた私の胃の腑が、ここぞとばかりに叫び出すのは当然ですよぅ。
永岡さんだって、私が目でずっと訴えていたのをご存知だったのでしょ? ずっと素知らぬふりをされてた私の身にもなってくださいよねぇ。
よって、私はいきなり大声を出したのでは無くてですね、敢えて言いますと永岡さんが出させたので御座います!
そして肝心なのは現場へ向かう前に、朝餉に向かわねばならないと言う一事ですよ!
もう限界です!!」
と、ぐだぐだと反論し、途中から盛り上がって来たようで、最後は中々の迫力で言い放った。
「ちっ…」
「腹が減ってはなんとやらって言いやすし、ちょいと腹に詰めてから行きやしょうかぇ?」
永岡の舌打ちに、智蔵が可笑しそうに言葉を重ねた。
北忠は智蔵の言葉を聞き、嬉しそうにニンマリしながら大きく頷いている。
「智蔵、そんなに忠吾を甘やかしちゃいけねぇぜ?
それにあれだぜ、こいつは奉行所で握り飯を二つも食ってるからな?」
「ちょ、ちょっと永岡さん。握り飯二つじゃ朝餉と言えませんよ?」
「おきゃあがれっ!
お前って野郎は…」
「まあまあ旦那。翔太も腹空かせてるみてぇだし、雑司ヶ谷村まではかなり距離もありまさぁ。
ちょいと腹に入れてからの方がようござんすよ」
智蔵が永岡の言葉を遮りながら窘める。
永岡も同じく思っていただけに、北忠をひと睨みするも直ぐに矛を収めたのだった。
永岡達は先程、巳之吉と英二を伝馬町牢屋敷から新田の待つ八丁堀の大番屋へ連れて行き、金の隠し場所を吐かせていたのだった。
とは言え、最初に智蔵が口にしていたように、巳之吉は新田の拷問責めにより、早々に口を割っていた。
結局金の隠し場所は、昨夜英二を捕らえた百姓家の裏手の稲荷に隠してあるとの事で、これからその裏を取るべく、永岡と北忠、智蔵と松次に翔太と言った面子で、その金を回収しに行くところなのだ。
ここに居ない面子、伸哉には怪我を負った留吉の様子を見に行かせ、広太は新田について巳之吉と英二を伝馬町へ連行している。
智蔵に助け船を出してもらった北忠は、
「ふぅ〜。さぁ翔太。お前、何か食べたいものはあるかぇ?」
と、早速話題を切り替え、嬉しそうに翔太に話しかけている。
風向きが変わらない内に、何とか飯屋へ向けて出航したいのだろう。
「あっしは何でも構いやせんので、通り道にある店へでも入って、ささっといただいちまいやしょうよ」
自分に話を振ってくれるなとばかりに、翔太は露骨に顔を顰めながら応えると、
「ほうほう、翔太も言うようになったんだね?」
と、北忠がニヤリとやり、
「永岡さん、翔太がそこの大かばやきが食べたいみたいですよぅ。
しょうがないから早速腹拵えとしましょうかぇ?」
と、永岡へ進言する。
どうやら北忠は既に匂いでやられていたようで、翔太に聞くまでも無く、端から決めていたらしい。
大かばやきとは鰻の蒲焼きだ。
因みに蒲焼きとは、鰻をぶつ切りにして串刺しにして焼く様が、蒲の穂に似ていた事からついたとも言われている。
なので今までは鰻をぶつ切りにしたり、小さめの鰻を丸のまま串刺しにし、味噌や酢で味付けして食べられていたのだが、最近では現在のように鰻を割いて骨を取り、串を打って出す店がちらほらと増えている。
この製法は京から入って来たとの事だが、味付けも山椒みそや、醤油と酒だったりと、工夫されて来ていた。
この当時の酒が現在の清酒と違い、糖度の高い精製されていない酒が多かった事から考えると、醤油と酒の味付けも、現在のタレの味とほとんど変わらない、醤油と味醂に近いものなのだろう。
醤油と味醂にたっぷり浸された鰻が、炭火で焼かれているのだ。
北忠でなくとも匂いでやられてしまうだろう。
「まぁ、確かに唆る匂いをさせてやがるかんな…。
取り敢えず、あっこで腹拵えするかぇ?」
永岡も醤油と味醂の焼ける匂いには勝てないのか、智蔵にそう言うや、行灯に「大かばやき」と大きく書かれた露店へと足早に入って行った。
*
「如何した?」
みそのが表へ出て暫くすると、源次郎が何処からともなく現れ、訝しそうに聞いて来た。
「急に呼び出してしまってごめんなさい」
みそのは音も無く現れた源次郎に驚きつつ、まずは源次郎に詫びを入れ、
「千太さんのお父様が血を吐いたそうなんです。
それで弘治さんに診てもらいたいのですが、私は千太さんに付いていてあげたいので、源次郎さんに報せに行ってもらいたいと思い立ちまして…お願い出来ますか?」
と、早口になりながらも縋るように事情を伝えた。
「あの父親か…」
源次郎は遠くを見ながら呟いた。
源次郎も今回の下調べを行った際に、病んだ父親を見ていたのだろう。
心配していた事が現実になったとばかりに、眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。
みそのは源次郎の様子に、
「御庭番の源次郎さんにこんな事を頼んで申し訳ないのですが、今日は永岡の旦那が留守でして、源次郎さんしか思い当たらなかったんです…」
申し訳無さそうに眉を下げ、懇願するように源次郎の顔を見上げる。
「承知した。
そも、千太に関しては上様からの下知があっての事で御座る。
これも御庭番としての務めで御座れば、みそのさんはそう気になさるな。
小川殿をお連れするのは、千太の長屋で良いので御座るな?」
「あ、はい。ありがとうございます…」
みそのは、あっさり引き受けてくれた源次郎に驚きながらも、深々と頭を下げて礼を言う。
源次郎が難しい顔をしていただけに、断られると思っていたようだ。
「然らば、早速報せに走りましょう」
との源次郎の言葉を聞き、みそのが頭を上げた時には、源次郎の姿は何処にも見当たらなかった。
「しかし源次郎さんって、凄すぎるんですけど…」
みそのは周りを見回しながら独り言ち、
「でも、ほんと頼りになるわ…。
これで弘治さんの方は安心ね…」
と、感心しながら一安心すると、千太の待つ居間へと向かった。
*
「おや?
お前さん、亜門じゃないかぇ?」
大かばやきの注文を済ませた北忠が、店の奥で煙草を燻らしている男に気がつき、すかさず声をかけた。
昨夜は暗くてあまり容姿に目が行かなかったが、それでも夜目でもボサボサに広がった総髪が特徴的で、大きな巾着を五つも帯から吊るしているので、北忠はすぐにそれと分かったようだ。
「ああ、昨日の旦那じゃねぇですかぇ?
こいつぁどうも。へい、亜門でやすよ。
フフ、旦那もこの匂いに釣られた口でやすね?」
男はやはり亜門だったようで、相変わらずの戯けた口調で応え、ニヤニヤと笑っている。
頭はボサボサだが亜門は中々洒落者のようで、大股を開いて座る亜門の銀鼠の着物から覗く裏地は紅葉柄に染め抜かれ、細めの黒い帯からぶら下がった巾着は、紅赤(鮮やかな赤)、萌黄色(緑色)、柿色(濃い橙色)、浅葱色(薄い藍色)、朱鷺色(淡い桃色)と、色鮮やかに目を惹いている。
また、それらを留め付けている根付けも風変わりなもので、小太刀を咥えてた鹿が見事に彫られている。
大道芸人と言う事もあるのか、中々派手な出で立ちである。
「おう、お前さんが亜門かぇ?
昨夜は忠吾を助けてくれてありがとうよ。
お前さんにはオイラからも礼を言いたかったのさ。ちょうど良かったぜ」
永岡も北忠の後ろから顔を出して、亜門に声をかけた。
「いや、俺は見てただけで何もしてねぇんでやすよ?
俺なんか居なくったって、この北山の旦那は難無く賊を退治してやしたぜ?
まさに十手の達人ってやつでさぁね。俺なんか最後にパパっと砂を撒いただけでさぁ。
フフ、旦那にも見ていただきたかったでやすよ。ねぇ、北山の旦那?」
「お、おうさ…ね…。
そ、それなんだけどね…」
バツが悪そうに北忠は亜門に耳打ちをする。
どうやら口裏合わせでもしていたようだ。
「そんじゃ旦那は買いに来てくれねぇってこってすかぇ?」
「いやいや、それはそれでちゃあんと贖いに行きますよ。それに、蕎麦や饅頭だって私の奢りで馳走するし、ただあの話は無かった事にするだけだよぅ…」
亜門と北忠が何やら小声で遣り取りしている。
永岡はその遣り取りで大体の事を察し、
「まあ、こいつにはせいぜい吹っ掛けて売るんだな?
とにかく、何かあったらまた宜しく頼むぜ?」
と、呆れながらも亜門へそう言うと、そっと小粒を置いて智蔵達の元へ戻って行った。
「おっ、こりゃ運が回って来やがったか?
北山の旦那、旦那は運を運んで来てくれるみてぇだ。近ぇうちにきっと来てくだせぇよ?」
小粒を掲げた亜門は、戯けて小躍りしながら言うのだった。
*
「父ちゃん、もうすぐお医者さんが来てくれるから、それまでの辛抱だよ?」
苦しそうに咳き込む父親の胸を撫でながら、千太は努めて明るく声をかけている。
あれから千太は、みそのから弘治に繋ぎを付けたと聞いて、ほっとしたのも束の間、茶を一気に飲み干すと、慌てて長屋へ引き返して来たのだった。
勿論みそのも同行しているのだが、吐血で血だらけになった夜具が生々しく、到着してからと言うもの、気の利いた言葉の一つも出ないでいた。
「そ、そんな…俺に、金、使う事ぁねぇんだ…ぞ…」
父親は咳き込みながらも息子に応える。
「お金の事は心配しないでください。
これから診てくださる先生は養生所の先生でして、そこは太平さんのような困っている人たちを、無料で診てくださる所なんですよ」
「いや…俺は、もう長くねぇ…んでぇ…診てもらわなく…いいんでやす…よ…」
千太の父親の太平は、みそのに笑みを作りながら途切れ途切れに応えた。
「おとっちゃん…」
お千代が涙声で囁く。
みそのはそんなお千代の肩を抱き、
「今からそんな事を言わないでください!
千太さんやお千代ちゃんがこんなに頑張ってるんですよ?!
太平さんが頑張らないでどうするんですか」
と、思わず声を震わせながら叫んでいた。
「ご、ごめんなさい…。
でも、本当に諦めるのは未だ早いですからね?」
みそのは気を落ち着かせように努めて優しく言うと、太平は咳き込みながらもうんうんと頷いた。
みそのはそんな太平にほっとしながらも、内心では、
『しかし、ここに千太さんとお千代ちゃんが、ずっと一緒に居るのもどうかしらね…』
と、いくら父親とは言え、二人が明らかに何かに感染していそうな病人と、この狭い長屋に一緒に居る事を案じている。
みそのが到着してからは、病人に障るとは思いつつ、腰高障子を開け放ち、風を入れて空気が循環するようにしていた。
実は太平の事も心配だが、それ以上に千太やお千代が感染していないか、心配でならないのだ。
みそのはさり気なく抱き寄せたお千代の額に手を翳し、熱が無い事にほっとするも、その心配は募る一方なのだ。
「千太さん、この長屋で空いてるお店は無いのですか?」
思わずみそのの口からそんな言葉がこぼれ落ちる。
「ここは全部埋まってるけど…どうして?」
「うぅうん。もし空いてたら、千太さん達はそこで休んでた方がいいと思って…」
「そ、そうだ…千太。
お前達ぁ、ろ…碌に寝てねぇんだから…隣のおつたさんとこで…休ませてもらえ…」
太平もみそのの言わんとした事を理解したのか、咳き込みながらも千太に隣人の店へ行く事を勧める。
「父ちゃん…」
弱々しい声とは裏腹に、有無を言わさぬ厳しい目で言われた千太は、涙を溜めながら口籠もってしまう。
「そうよ、千太さん。
せめてお医者様が来るまで、お父様の言いつけ通りにして休んでてくださいな。
その間、私がちゃんとお父様を診ててあげますから。
お千代ちゃんもそれでいいわね?」
声は優しいが、みそのの目も厳しいものになっていた。
そして、
「お願い、千太さん」
と、みそのが懇願するように千太を見つめると、千太はみそのと父親を交互に見ながら小さく頷き、
「お千代、おつたさんとこへ行くから、みそのお姉ちゃんに父ちゃんをよろしくって、ちゃんとお願いするんだよ?」
と、やおら立ち上がった千太は、お千代の手を握りながら努めて明るく言う。
無理に笑ったその顔には、子供に似つかわしく無い眼下のクマが見て取れる。
太平の言うように寝ずの看病の跡が伺える。
みそのはそんな千太を安心させるべく、慈愛に満ちた笑みで大きく頷いてみせた。




