第四十七話 悲鳴と呻き声と悲痛な叫び
ブワッと着物がはためく音とともに、白刃が振り下ろされる。
「ひゃっ!」「あががっ…」
北忠の悲鳴と賊の呻き声が重なった。
翔太の声で振り返った北忠が、白刃に驚いて持っていた丼をぶちまけたのだ。
頭から熱々の蕎麦を被った賊は、暴れるように蕎麦を振り払っている。
ただ、それでも合口を取り落としていなかった賊は、
「このドサンピンがぁっ!」
怒鳴りながら合口を腰だめに突っ込んで来た。
「旦那っ!」
翔太が叫ぶが、北忠は腰を抜かしていて、尻餅をついたまま起き上がれない。
「野郎っ!」
留吉が駆け寄り様十手を抜き、賊の合口を叩き落とそうとするも、賊は合口を引いてそれを躱し、直ぐ様手首を返して留吉の左腕を切りつけた。
「ぐっ」
留吉の短い呻き声とともに、十手が転がる金属音が暗闇に虚しく響く。
「お前は後で楽にしてやるぜ」
賊は嘲笑しながら留吉に一瞥をくれると、合口を握り直しながらゆっくりと北忠に歩み寄る。
北忠は尻もちをつきながら後退る。
翔太は留吉が斬られた事ですっかり動揺し、体が硬直して動けない。
「ふふ、町方ってぇのはどいつもこいつも情けねぇんだな?」
賊が北忠に卑下た笑みを浮かべると、合口をギラリと光らせながら振り上げた。
「ひぃっ!」
北忠が悲鳴をあげた時、男が仰け反りながら後退った。
「なっ! 誰でぇ!?」
男は合口を振り回しながら誰何する。
ビュンビュンと空を切る合口の音が響く。
「ほら旦那。今のうちに捕まえちまいなさいな?」
いつの間にか現れた男が、のんびりと北忠に声をかけた。
「ほぇ? あ、あぁ…」
北忠が声の主へ目を向け、間抜けな声を上げると、
「ああ、じゃないですって旦那ぁ。今のうちですぜ?」
と、男は戯けた口調で目配せしながら、尻もちをついた北忠に近づいて来る。
北忠は男の視線の先を良く見ると、件の賊が目を瞑りながら、闇雲に合口を振り回しているのがわかった。
どうやらこの男、何かしらで賊の目を潰したらしい。
「お前さんはさっきの?」
北忠が嬉しげに問いかけながら立ち上がるが、
「ほら旦那。そんな事ぁどうでもいいやぃ。早えとこ…」
と、男はすっかり賊に背を向けた北忠に呆れながら、捕縛を促す言葉を口にしかけ、手に持った巾着袋からバサッっと何かを投げつけた。
賊が視界を取り戻し、北忠の背中目掛けて合口を振り下ろしたのだ。
しかし男の投げた何かでまたもや目を潰され、間一髪、合口は北忠の二寸(凡そ六センチ)ほど手前の空を切る。
「今度こそお願えしやすよ旦那?」
「え? ああ、そ、そうだね…」
北忠は呆気にとられながら応え、勢い良く十手を抜いたのだが、手元が滑って賊の足元へ十手が飛んで行ってしまう。
「あら…」
「あらじゃねぇですって…」
男はほとほと呆れながらも、おもむろに巾着袋の中へ手を突っ込むと、再度バサッっと何かを賊に投げつけた。
細かい粒子が賊の顔を襲う。
どうやら巾着袋の中身は砂のようだ。
男は北忠へ顎をしゃくるようにして、十手を拾うように促す。
ゴクリと唾を飲み込んだ北忠は、ブンブンと合口を振り回す賊の足元へ近づき、這うようにして十手を拾い上げたが、
「この腐れ役人がっ!」
流石に足元まで近づいては、その気配に気づかれたのだろう、賊は北忠目掛けて一気に合口を振り下ろした。
「ひゃっ!」「うっ…」
再び北忠の悲鳴と賊の呻き声が重なった。
咄嗟に避けようとした北忠の十手が、見事カウンターで賊の鼻っ面を襲ったのだ。
余程いい所に当たったのか、賊はそのまま真後ろに倒れてピクリともしない。
なんとも哀れな最後である。
「お見事っ!」
砂男は戯けた声を上げ、手を叩いて笑っている。
留吉は左腕を庇いながらポカンとその様子を見ていた。
翔太は金縛りが解けたように走り出し、賊にお縄をかけていく。
北忠はその様子をニマニマ眺めながら、
「今の見たかぇ?」
と、自らの肩を十手で叩きつつ、自慢げに砂男へ声をかける。
「ええ、ええ。見ましたともっ。
旦那にゃ蕎麦の啜り方の指南を受けた上、馳走までしてもらいやしたのに、十手の指南までも受けちまいやしたね?」
「ふふ、だろう?
お前さんは確か亜門とか言ったね?
こんな捕物劇を見られるなんて、お前さんはツイてるよぅ?
そうそう、今度また、例の蕎麦の啜り方も見てあげるからね。勿論その時だって馳走してあげるよう。
あ、もしかして今度は甘いものがいいかぇ?
お前さんは甘党かぇ?」
どうやら先ほど、一緒に夜鷹蕎麦を食べた仲らしい。
しかし北忠、随分と上からの物言いである。
助けられた事実など、全く無かったようだ。
「おっ、そいつぁいいですな旦那っ。
俺はなんでもござれの両刀遣いでさぁ。
へへ、でもあっちの方はこっちだけですぜ?」
この亜門と言う男も男で、何も無かったかのように北忠の話に乗っかり、小指を立てながら軽口を飛ばしている。
「げっ! こいつ、巳之吉でやすよ!」
外の騒ぎを聞きつけた佐吉が出てきて、お縄になった賊を指差しながら驚きの声をあげた。
「おうおう、オイラの出番は無かったみてぇだな?」
佐吉の驚きの声の直ぐ後に、松次と一緒に現れた新田の戯けた声が響いた。
*
「……そこで私がすかさず持っていた熱々の蕎麦を、丼ごと巳之吉に放り投げたのですよ!
はぁ〜、永岡さんにも見せてあげたかったですよ本当。
私の機転に巳之吉の奴はもう大慌てでしてね? もう蕎麦を拭うのに必死で、なんとも哀れな狼狽ぶりでしたよぅ。うふふふ。
しかし巳之吉も中々なものでして、それを見て私が油断してましたら、猛虎のように襲いかかって来たのですよ!
そこへ留吉が助けに入ってくれたのですけど、敢え無く返り討ちに遭ってしまいましてね。それで私の武士の魂に火が付きまして、するりと十手を抜いた瞬間、巳之吉の合口を擦り上げて、ガツンと彼奴の鼻っ面に叩きつけてやったのですよぅ!?
もう一撃でしたね。ええ。
まあ、巳之吉もまさかこんな凄腕の同心がいるなんて、思ってもいなかったのでしょうよ?
言ってはなんですが、運が無かったって事ですな?」
朝の同心詰所で、北忠が永岡相手に熱弁をふるっている。
永岡は面倒臭そうに聞きながら、不味そうに茶を啜る。
昨夜は北忠達が巳之吉、永岡達が英二をお縄にし、二人とも伝馬町牢屋敷へ連行したのだった。
その後は夜更けと言うこともあって、永岡と北忠はそのまま南町奉行所で仮眠をとっていたのだ。
北忠は先ほど目を覚ますと、既に起きていた永岡に手早く茶を淹れ、昨夜の武勇伝を語っていたのだった。
茶を啜った永岡は辟易しながら、
「で、亜門とか言う男は何処に出て来るんでぇ?」
「へ?」
ボソリと返すと、北忠は目を丸くして間抜けな声を上げる。
永岡が奉行所に戻って来た時には北忠は既に夢の中で、代わりに報告待ちしていた翔太から、昨夜の仔細を聞いていたのだった。
留吉は幸いにも深傷では無かった為、奉行所で簡単な手当てをして先に帰っていた。
「夜鷹蕎麦を食った仲なんだろぃ?
そんな奴を忘れちまったら可哀想じゃねぇかぇ?」
「い、いや、やだなぁ永岡さんは…。
忘れた訳では無くてですね、これから登場するところだったのですよぅ?
私が巳之吉の鼻っ面を見事に打ち抜いた時にですね、その亜門が…」
「おきゃあがれっ!
ったく、お前って奴ぁ…。
こっちぁ粗方聞いてんでぇ。正確に報告しやがれってぇんでぇ!」
北忠がびくっと肩を竦めた時、
「あぁに朝から怒鳴ってんでぇ?」
と、新田があくびを噛み殺しながら現れた。
昨夜急遽呼び出された新田は、あの後は一通り話を聞いてから、自分の役宅へと帰っていたのだった。
「くだらねぇこってすよ…。
それより昨日は急に出張ってもらっちまって、申し訳ありませんでした」
永岡は呆れ顔で言い捨てると、新田に深々と頭を下げる。
「いいって事よ。んな事ぁ気にするねぇ」
新田は目で茶の催促をしながら腰を下ろすと、北忠はホッとした笑みを浮かべて用意に立った。
「お前の方も楽勝だったみてぇだな?」
「ええ。なんせチンピラ一人に三人がかりでしたからね?」
永岡達の方の捕物も、百姓家の灯りが消えたと同時に行われていた。
英二一人とあって、永岡が十手を抜く間も無く、伸哉の手によってお縄になっていたのだ。
こちらもなんとも呆気ないと言っていい。
「で、金の在処は知れたのかぇ?」
「いや、英二の野郎は知らねぇみてぇで、これから巳之吉に吐かせます」
「オイラが聞いてやろうかぇ?」
新田がニヤリと上目遣いに聞いて来る。
永岡は先輩同心に苦笑いで応えると、
「昨日は無駄足踏ませちまったんで、そこんとこは好きにしてください」
と続けて肩を竦めた。
これで巳之吉が吐くのは時間の問題だろう。
「お待たせ致しました」
そこへ茶の用意をした北忠がやって来る。
「おう、ありがとうよ。
お前、昨夜は大手柄だったな?
ちったぁ見直したぜ」
「ええ、ええ。新田さんにもお見せしたかったですよう!
私もやる時はやる男で御座いますからねぇ?
こう十手をすっと抜いてですね、こうしてふわりと相手の斬撃を躱しながらの打ち込み。
いやはや、あれは我ながら神がかっておりましたよ。はい。
そこで、あの亜門と言う男の…」
新田の言葉に気を良くした北忠が、身振り手振りを織り交ぜながら武勇伝を語り出す。
永岡は恨めしそうに新田を見ると、新田はこれも一興とばかりに悪戯っぽく笑ってみせる。
「しかし、あの男はああ見えて元は二本差しに間違ぇねぇぞ?
北忠もその命の恩人を無下にしねぇこったな。
とにかく無事で良かったぜ」
北忠の捻じ曲げられた武勇伝を聞き終えた新田は、それでも嬉しそうに言って笑ってみせる。
「へ? そうなので御座いますかぇ?
亜門は自分で大道芸人と言っておりましたよ?
砂絵をさらさらーって描いて客を集め、軟膏やら小間物を売っているそうですよ?
私も今度購いに行く約束をしましたから、聞き間違いでは無いと思うのですがね…」
「オイラは、元は、と言ったまでよぅ。
今の生業はお前が聞いた通りなんだろうよ。
まあ、ちっとくれぇホラ吹くのもいいが、命の恩人を大事にしろって事さぁね?」
新田の言葉に、北忠はバツが悪そうに頭を掻くのだった。
*
「せ、千太さん。どうしたの…?」
みそのがけたたましく叩かれた戸を開け、玄関口に出てみると、そこには汗にびっしょり濡れた千太が、ぜいぜいと肩で息をしながら立っていた。
「…みその…お…姉ちゃん……」
千太は荒い息に邪魔されながらも、みそのの名前を絞り出す。
みそのは千太にいつでも遊びにおいでと、自分の所在を教えていたのだが、目の前の千太を一目見て、ただ遊びに来たのでは無い事が容易に想像出来た。
そして、お千代を送りに行った時に見かけた、嫌な咳をする千太の父親が頭に浮かび、思わずゴクリと喉を鳴らした。
「……と、父ちゃんが……」
呼吸を乱した千太が懸命に口を開く。
嫌な予感が当たってしまったみそのは、思わず千太を抱き寄せ、落ち着かせるように背中をさする。
「……………」
千太の鼓動が落ち着きを取り戻して行く。
「父ちゃんが血を吐いたんだ…。
みそのお姉ちゃんの知り合いにお医者さんが居たよね?
そのお医者さんに父ちゃんを診てもらいたいんだ!」
今にも泣き出しそうな千太が、みそのの耳元で悲痛な声をあげた。




