第四十六話 夜の見張り
「それにしても、みそのさんは持っていやすよねぇ?」
「ふふ、そいつぁ言えてるな?」
みそのを見送りながら、智蔵と永岡が『豆藤』の店先で笑い合っている。
小さくなって行くみそのの横には、護衛として広太が付いている。
「それにしても源次郎殿にゃ、随分と世話になっちまったな?
繋ぎがねぇとこ見ると、今のところ動きはねぇんだろうから、早ぇとこ雑司ヶ谷村へ行って引き継ぎしねぇとな?」
みそのから詳細を聞いた永岡は、源次郎に感謝しつつ、未だに現れぬ事の意味を口にしたのだ。
みそのを送った源次郎は、繋ぎの場所で待機していると言う。
「へい、そうしやしょう」
智蔵は永岡に応えると振り返り、後ろに控えている伸哉達に頷いた。
伸哉と松次は、それを合図に先行して歩き出す。
「あのぅ…。佐吉は私達だけで大丈夫なのですかねぇ?」
そのやり取りを見ていた北忠が、心細げに口を開く。
北忠の横には佐吉と留吉、翔太が控えている。
北忠と留吉、翔太の三人で、佐吉の警護に当たる事になったのだ。
「お前よう。オイラは三人でも多いと思ってるくれえだぜ?
まあ、鍋の面倒を見るくれえ真剣にやりゃあ大丈夫さぁね。
留吉、悪りぃが宜しく頼まぁ」
永岡は呆れつつも北忠へ返すと、片手拝みに留吉に願った。
留吉は苦笑いしながらも頷いている。
「翔太。何かあったらお前が知らせに走るんだぜ?」
「へい、親分。合点でぇ!」
智蔵も翔太へ一声かけるが、妙に空元気な声で返す翔太に苦笑いする。
北忠には随分と懲りているのが伺えたからだ。
「とにかく忠吾。お前は留守番してりゃあいいだけなんで、そんな心配する事ぁねぇやな。
翔太もこの時刻でぇ、饅頭屋もとっくに店仕舞ぇしてらぁ。妙な心配はするねぇ」
永岡はそう言うと、智蔵に目配せして伸哉達を追って歩き出した。
「そうだ翔太。お前さぁ、これから八丁堀まで走って、新田さんに来てもらっておくれよ?」
「に、新田の旦那をですかぇ!?」
「い、いや、北山の旦那。そこまでする事ぁねぇんじゃ?」
北忠は少し歩き出したところで、妙な事を言い出して翔太や留吉を困らせる。
「ほら、この握り飯を食べさせてあげたいじゃないかぇ?」
「いやいや、北山の旦那。こんくれぇの事で呼び出しちまいやしたら、永岡の旦那にどやされちまいやすぜ?」
普段は寡黙な留吉が必死だ。
最近北忠と組む事が多い翔太は、苦笑いを浮かべながら頭を抱えている。
「だって、永岡さんがあっちに行っちゃったんだから、こっちにも同心が居た方がいいだろう?」
「いやいや、北山の旦那だって立派な同心様じゃねぇですかぇ?」
「いや、私は所詮養子の身だからねぇ…」
「そいつを今言いやすかぇ…」
留吉は呆れて言葉が続かない。
「やっぱり、新田さん呼んだら駄目かぇ?」
立ち止まって懇願する北忠。
留吉は返答の代わりに、北忠の背中を無言で押しながら歩くのだった。
*
「英二の野郎、ドジ踏みやがったな…」
闇に溶けるような茶の着物を着た男が、畦道に伏せるようにして独り言ちた。
この男の視線の先には、黒い人集りが微かに動いている。
英二が入って行ったとされる百姓家に到着したばかりの永岡達だ。
永岡達も目立たぬように気を使っているはずなのだが、男は相当夜目が利くらしい。
「ふっ、どいつもこいつも使えねぇ野郎ばかりだぜ…」
男はそう言って唾を吐くと、じわりじわりと後退り、音も無く走り去って行った。
この男、目下捜索中の巳之吉である。
巳之吉は内藤新宿の岡場所で遊んだ帰りだった。
時折こうして、佐吉から預かっている金で遊び回っているのだ。
今までは英二を引き連れての豪遊だったが、今日のところは一人で出かけたらしい。
この事を佐吉が耳にしたら、さぞや憤慨する事だろう。
「しっかし、ありゃ町方に間違えねぇな。
ま、英二の野郎が取っ捕まるんなりゃ、それはそれで手間が省けるってもんだぜ…」
充分離れて安心したのか、巳之吉は幾分声音を弾ませながら独り言ちる。
巳之吉は佐吉から金を預かってからと言うもの、英二と一緒に吉原などでの豪遊で、既に三百両近い金を使っていた。
未だ未だ半分以上の金が残ってはいるのだが、金は放っておけば増える訳では無い。むしろ減る一方なのだ。
最初は仲間を始末して、英二と七三で分ける予定だったが、目減りする小判を見るにつれ、巳之吉は独り占めする事を考えたのだった。
手間が省けると言う事は、最後には英二も殺すつもりだったのだ。
「待てよ。町方があっこに居るって事ぁ、今なりゃ佐吉の野郎は一人かも知れねぇな…」
巳之吉は立ち止まると、思い当たった事にニヤリと右の口角を上げる。
そして懐の合口を確かめるように触ると、方向を変えて歩き出した。
*
「んんーっ………」
目を閉じた希美がグラスを片手に固まっている。
風呂上がりのビールの余韻に浸っているのだ。
江戸から戻った希美は、いつもなら真っ先に冷蔵庫へ走るところをぐっと堪え、シャワーを浴びていたのだ。
今日は小石川にある月旦の道場まで行き、その帰りに雑司ヶ谷まで尾行したのだ。相当な距離を歩いている。
とにかく、シャワーで汗を洗い流したかったのだろう。
長距離を歩いた疲れと、風呂上がりの爽快感。
希美にとっては格別のツマミになっているようだ。
「でも源次郎さんが居てくれて、本当に良かったよな〜」
希美はしみじみとした声音で独り言ちながら、グラスに琥珀色を注いで行く。
「永岡の旦那、ちゃんと捕まえてくれるかしら…とととととと」
遠くを見ながら独り言ちていた希美は、大慌てでグラスの縁から滴り落ちる相棒に口をつける。
「ま、入れ違いにさえなって無ければ大丈夫よねっ」
確信を持って独り言ちた希美は、大きく頷いた勢いのままグラスを傾けて、クピクピ喉を鳴らす。
至福の表情を浮かべながら暫し固まる希美。
「それにしても新さん、中々のものだったわよねぇ…。
兵さんも嬉しそうだったし、なんか私も幸せもらった感じだったわ…」
希美は月旦の道場で、三人だけで行われた稽古を思い出しながら目を細めている。
新之介から小太刀を受け取った月旦の姿が、ありありと蘇って来たのだ。
「あ、そうだ。チャーハンのレシピを纏めとかなきゃっ」
ふと思い出した希美は、忘れない内にと慌てて筆ペンを取るのだった。
甚右衛門には他のメニューの考案と一緒に、作り方を纏めておく約束をしていたのだ。
やる事が多すぎて忘れてしまいそうだと危惧していたが、なんとか思い出したらしい。
その代わりと言ってはなんだが、月旦の道場へ催涙スプレーを忘れて来た事は、すっかり忘れてしまっているようだ。
「ラー油のレシピも書いとかなきゃねっ。
って言うか、沢山作る事になるんだったら場所借りた方がいいかしらね…」
筆ペンを走らせていた希美は、新たに思い出して独り言ちると、
「そうだっ!」
と、弾んだ声を上げ、何かいい事を思いついたとばかりに手を叩く。
そして、残り僅かになった相棒を手にすると、ニンマリしたまま飲み干すのだった。
*
「なあ智蔵。やっぱ新田さんに、乙松の店へ詰めてもらおうと思うんだが、お前、どう思うかぇ?」
永岡は百姓家に目をやりながら智蔵へ声をかける。
百姓家からは細く中の灯りが漏れていて、中の者が未だ寝ていないのが伺える。
もっとも時刻は夜五つ(凡そ午後八時)を過ぎたあたりで、真面目に働く者達は別として、英二などの破落戸にとっては、夜はこれからと言ったところだろう。
今は永岡と智蔵、伸哉に松次の四人で百姓家を見張っていて、未だ広太は駆けつけていない。
伸哉と松次は、永岡達とは百姓家を挟んで反対側で見張っている。
四半刻ほど前には、源次郎の配下と思われる二人の男が目礼して帰って行ったところだ。
「やっぱり旦那も心配になっちまいやしたかぇ?」
「まあな。どうもあん中にゃ、巳之吉は居ねえみてぇなんだよな?」
「へぇ。あっしもそう思ってたところでやすよ。
あんまりにも静か過ぎやすからね?」
「そうだろぃ?
どうやらあの百姓家に居るのは、英二一人で間違えねぇみてぇでぇ。
まぁ、こいつぁ着いた時から感じてたんだがな。あとは巳之吉の野郎がこの近くに居るかどうかだな?」
「そんで、とっとと踏み込まねぇで、寝静まってから踏み込もうって段取りだったんでやすかぇ?」
「まあな。流石にこんな静かだと、普通に踏み込んじまったら目立っちまうだろい?
もし巳之吉が近くに居やがったら、その騒ぎで取り逃がしちまうさね」
永岡は暗闇に居るであろう智蔵に笑いかける。
百姓家の細い灯りを見ていたせいで、闇に目が追いついていないのだ。
それでも直ぐに目が慣れて来て、智蔵の輪郭が浮き上がって来ると、
「ま、最初は隠れ家がこんな辺鄙なとこなんで、二人は一緒に居ると思ってたんだがな。
着いてみりゃこの通りさ。
巳之吉の野郎も中々慎重で、近くで様子を見てやがる事も考えたんだが、そんな風に見られてる目も感じねぇのさ。
だからと言って、開き直って今から踏み込むのも早計じゃねぇかぇ?」
と、智蔵の顔を覗き込みながら続けた。
「そうでやすね。
今近くに居ねぇだけで、ひょっこり帰って来るとも限りやせんや。
新田の旦那にゃ迷惑かけやすが、今から松次を走らせやしょう。
万が一巳之吉が佐吉を殺りに行きやがったら、いくら留吉が居るとは言え、北山の旦那じゃ心許ねぇでやすからね…。
へい、じゃ早速松次に声かけて来やす」
智蔵は言うや、するすると闇に消えて行った。
伸哉の方が足が速いのだが、相手が新田とあっては、伸哉を行かせ難かったのかも知れない。
伸哉は新田の拷問を見てからと言うもの、新田の前だと恐怖で碌に喋れなくなるのだ。
「なんもなきゃいいんだけどな…」
すっかり闇に溶けた智蔵を目で追いながら、永岡は独り言ちるのだった。
*
一方、佐吉の裏店の斜前、今は亡き乙松の店では、
「ところで翔太。お前、若いんだからそろそろお腹空いたんじゃないかぇ?」
「いや…あっしは大丈夫でやす…」
と、四半刻ほど前から、北忠と翔太が同じ遣り取りを繰り返していた。
当の翔太は困惑顔を留吉に向け、どうにか助けを求めている。
ここに佐吉が居ないのは、このところ伸哉や翔太などと一緒だったせいで、眠りが浅いと不満をこぼしていた為、今夜は佐吉を一人にさせてやっていたからだ。
そんな訳で、北忠達は皆で乙松の店に詰めての見張りとなっている。
「旦那、この握り飯じゃ駄目なんでやすかぇ?」
留吉は『豆藤』で握ってもらった握り飯を指差しながら、疲れた声で訴える。
これも先程から繰り返している流れの一つだ。
「いや、留吉。どうせなら温かい夜鷹蕎麦を食べたいじゃないかぇ?
それにあれだよ。この握り飯だって、温かい蕎麦つゆと一緒に食べた方が、絶対美味しいに決まってるんだよう?
あとあれだ。このまま握り飯を頬張ってみなよ。汁物が無くて喉を詰まらせるに決まってるんだよ。私はそんな死に方は御免だからねぇ?」
いよいよ本性を出した北忠は、蕎麦が食べたいとはっきり口にする。
いつものように御託を並べ、強引に押し切るつもりらしい。
「今日は勘弁してくだせぇよ旦那ぁ…」
常に冷静な留吉が涙目になりながら訴える。
が、北忠はそんに甘くない。
「いいかぇ、留吉。武士は今日に生きて今日に死に、翌朝に目が醒めた時にまた生き返るんだよぅ。言い換えればあれだよ?
今日を悔いなく生き切るのが武士と言う生き物なのさぁ。そこのところを分かってもらえないかねぇ?」
「いや、旦那。あっしにゃ武家の事ぁ分かりやせんが、なんか違ぇ話に聞こえるんでやすが…。
少なくとも蕎麦は関係ねぇような…」
「だまらっしゃいっ!」
北忠の突然の大声に、留吉も翔太もビクリと体を震わせる。
いつにない北忠の迫力である。
「武家の事が分からないのなら、生半可に意見するもんじゃないよ?」
今度は優しい声音で諭すように言う北忠。
そしておもむろに立ち上がると、パンっと一つ手を打ち、
「しょうがない、留吉。これから武士の嗜みを見せてあげるよ。
ほら、その握り飯を持って私について来なさいっ」
と、さっさと腰高障子を開けて出て行ってしまった。
「兄ぃ。武士の嗜みってぇのは、まさか?」
呆然と北忠を見送る留吉に、翔太が恐る恐る聞いて来る。
「そのまさかだろうよ…。
お前はここに残って見張りを頼まぁ」
留吉は諦めたように言うと、北忠を追って出て行った。
「はぁ…」
翔太は溜息を吐きながら首を振り振り、
「ありゃ敵わねぇや…」
と、ボソリと独り言ち、腰高障子の隙間から佐吉の店に目を向ける。
翔太の背中を見るに、どっと疲れが出たようだ。
*
「分かったかぇ留吉?
啜り方一つで蕎麦の味もまた一段と変わるだろう?
秘伝だよ秘伝。あれは永岡さんにすら教えていないんだからねぇ?
永岡さんも町役人だから所謂武士ではないけど、そこを差し置いての伝授なんだからね?
特別だよ特別。そこのところをうんと噛み締めなさいよ、留吉」
勝ち誇ったように話す北忠の大声が聞こえて来た。
「やっと帰って来たぜ…。
てぇか、声でけぇなおい…」
北忠の声を耳にした翔太は、呆れながら独り言ちた。
留守は四半刻ほどだったが、一人残された翔太としては、やけに長く感じたようだ。
翔太は気を取り直して腰高障子をそっと開け、二人を出迎える為に外へ出る。
「あ、翔太。お前にもちゃあんとお土産があるからねっ」
翔太を見つけた北忠が、嬉しそうに両手に持った丼を掲げながら声をかけて来た。
蕎麦は帰りに合わせて作らせたようで、丼からは熱々の湯気が上がっている。
北忠は土産と言いつつも丼は二つなので、ちゃっかり自分の分も持ち帰ったようだ。
「あ、ありがとうごぜぇやす旦那。
しかし、もうちっと小さな声でお願ぇしやすよ…」
翔太は小声で感謝しながらも、北忠の声の大きさを窘める。
そして、蕎麦を受け取ろうと北忠に駆け寄ろうとした時、
「危ねぇ旦那っ!」
翔太が大声で叫んだ。
夜目でもはっきりと分かる白刃が、北忠の後ろでギラリと振り上げられたのだ。




