第四十五話 小言と報告
「随分と遠くに来ちゃったわねぇ…」
みそのはポツリと独り言ちると、長閑な田園風景を見回した。
尾行に集中していたみそのは、武家屋敷や商家が少なくなっている事に漸く気がついたようだ。
今は近くに鬼子母神があるくらいで、見渡す限りの田畑が一面に広がっている。
「ここ、何処なんだろ…」
少し不安になって来たのか、みそのの声音は酷く心細いものになっている。
みそのも後で分かる事になるが、ここは江戸の北西に位置する雑司ヶ谷村である。
尾行していた男、英二は、ここ雑司ヶ谷村にある一軒の百姓家に入って行ったのだった。
「江戸もちょっと歩くと、随分と田舎へ来たみたいになるのよねぇ…」
みそのは不安を紛らわす為か、長閑な風景に癒されるように深呼吸しながら伸びをする。
「さてと。これからどうしようかしら…」
件の百姓家を見ながら独り言ちたみそのは、キョロキョロと何かを探し始めた。
「あ、そうだ。あれなら…」
暫く周囲を見回していたみそのは、何かを思いついたように袂を探り始めた。
「有った有った。ふふ、入れといて良かったぁ」
小さな巾着から取り出したのは、小さな円柱形の塊だ。
みそのはそれを口に咥えて一気に息を吹き込む。
以前に源次郎を呼ぶ為にもらった笛である。
その笛は風が抜けたような音しか鳴らない。
しかし、みそのは気にする事なく、何度も鳴らない笛を吹き続ける。
「永岡殿へ知らせに走ってくれって事で御座るか?」
「ひゃっ」
一生懸命笛を吹いていたみそのの後ろから、源次郎がのっそり現れたのだ。
やはり源次郎は、みそのを見守ってくれていたらしい。
みそのはそうとは分かっていながらも、小さく悲鳴を上げてしまう。
みそのの頼み事を予想して声をかけて来たところを見ると、源次郎は大体の事情もお見通しなのだろう。
「そ、そうね…。
でも、出来たら源次郎さんがここで見張ってて欲しいのですが、こう言う事ってお願い出来ます?」
みそのは源次郎に驚きつつも、早速願い事を口にするも、
「上様からは、無事にみそのさんを見送るよう言付かっておるからのぅ…」
と、源次郎は渋い顔で応える。
「今日は源次郎さんの配下のお方は居ないのですか?」
「居るには居るので御座るが、何か有った時の為に連絡役が必要なので御座るよ。
先日と違い、ちと遠出に御座るで、みそのさんを一人で帰す訳には…」
「今が何か有った時よ、源次郎さん!
連絡に走らせるつもりで、どなたかここで見張って頂けませんか?
入れ違いになったら、せっかく居場所を突き止めたのに、台無しになっちゃうじゃないですか?
ね? お願いしますよ源次郎さん」
源次郎の言葉を遮ったみそのは、そう言って深々と頭を下げる。
「このまま彼奴を捕らえるのでは駄目なのじゃな?」
「そこは永岡の旦那の手柄にさせてあげてくださいな。
源次郎さんには、またご馳走しますから…ね?」
みそのが悪戯っぽく言って見上げると、
「ふふ、仕方あるまい。では約束ぞ?」
源次郎は苦笑しながら言うや、みそのが吹いていたような笛を懐から取り出し、おもむろにその笛を一息吹いた。
すると遠くの方から町人風の男が二人、足早に駆けて来た。
いや、ゆっくり歩いているように見えるのだが、その速度が尋常じゃないのだ。忍び特有の特殊な走法なのだろう。
「お主らもあの百姓家に入って行った男を見たな?」
「はっ」
源次郎が口を開くと、二人は揃って短く返事をする。
「では、ここであの男を見張ってくれ。動きが有ったら、一人がワシに知らせに走れ。いいな?」
「はっ」
源次郎の指示を聞いた二人が返事をすると、ばっと着ていた着物を脱いで裏返し、手拭いでほっかむりして田畑に散って行った。
町人風の着物の裏地はボロになっていて、ほっかむりして背を丸めた姿は、その辺にいる百姓にしか見えない。
みそのは感心しながら呆然とそれを見ていると、
「では参りましょう」
との、源次郎の言葉で現実に引き戻された。
「あ、はい…」
みそのは歩き出した源次郎を追いながら、
「源次郎さん達って、ああして変装しながら私をつけてたりしてるんですか? って言うか、源次郎さんの着物の裏地はどんな感じなんですか? ねえ、源次郎さん?
あ、もしかして、源次郎さんって女装とかもするんですか?
ふふ、源次郎さんが女装って…。ねえねえ、源次郎さん、どうなってるんですか?
ねえったらっ」
と、いつものようにみそのの質問ぜめが始まった。
源次郎は苦笑いを浮かべながら歩いて行く。
遠出した分、いつもと違って苦笑いでは誤魔化し切れないかも知れない。
*
「お前よう、巳之吉が店を出て姿をくらませたってぇのは、大事なこったろうよ?
それに何が佐吉がだ。佐吉は関係ねぇや、報告はお前の仕事だろうがよ。ったく、言い訳してんじゃねぇやい」
佐吉の裏店では、永岡の雷が落ちていた。
先ほど北忠が、佐吉や翔太も同罪だと言い訳したのもいけない。火に油を注いでしまった形だ。
「ま、ま、永岡さん。この草餅でも食べて心安らかになって…」
「てやんでぃ、このすっとこどっこい!
草餅でも食えだぁ?
ったく、こんなもんばっかに気を取られてやがっから、お前は駄目なんでぇ!」
と言いつつ、永岡は草餅をパクリと口にして、不覚にも一瞬目を細めてしまう。
「ね? 甘味の幸福感が気持ちを落ち着かせてくれますでしょ?
いやぁ、これもいい仕事をする職人の草餅だからこそ、なのですよう?
ここはこの草餅に免じて永岡さ…」
「おきゃあがれってぇんでぇ!
あぁもういい。もうこの話は終えだっ。
ったく、いいか忠吾。これからは何事も気ぃ引き締めてかかるんだぜっ!」
永岡は響かない北忠を諦め、この話を終わらせたらしい。
北忠は神妙な顔で頷きながらも、草餅を頬張っている。
諦めざるを得ない。
いや、話を切り上げたのには他にも理由がある。
広太と伸哉が戻っていたのだ。
実は広太達は、北忠達よりも早くこの裏店へ戻っていた。
戻った時に誰も居なかった為、広太達は佐吉が襲われでもしたのかと思い、探しに出ようとしたところで北忠達が帰って来たのだ。
永岡が心配した通り、危うく入れ違いになるところであった。
とにかく、二人揃ってここに居ると言う事は、英二を見失ったとしか考えられない。
永岡は開口一番、北忠をどやしつけはしたが、先ずはそこのところの話が気になっていたのだった。
「で、お前らは、英二の野郎に巻かれちまったってこったな?」
永岡はやっと二人に話を向ける。
「へぇ、旦那。面目ねぇこって…」
広太がすまなそうに応える。
伸哉もその横で小さくなりながら頭を下げている。
「しょうがねぇやな。
お前ら二人が巻かれちまうんなりゃ、誰がつけてても巻かれちまうさね。
そんだけ尾行に気を使ってたってこったろぃ?
それより、その巻かれちまったとこから英二を手繰って行けそうかぇ?」
永岡は消沈する二人に殊更明るく言って、今後の探索の是非を問う。
「いや、あの蕎麦屋にゃ数度顔を見せてるくれぇでやして、店のおやじも英二の事は何も知らねぇようなんで…」
「そうかぇ。
でもまあ、何度か現れてんなりゃ、また野郎は現れんだろうよ。
とにかく、無駄かも知れねぇが、先ずは一人二人はその蕎麦屋を張るとするかぇ?」
「へぇ、旦那。今からあっしと伸哉で行って来やす」
永岡の言葉に、責任を感じていた広太が意気込んで立ち上がる。
「まあ、待ちねえ。
野郎は昼餉に蕎麦食ったばかりじゃねぇかえ?
なりゃ、今日はもう現れねぇだろうよ。
それよか、明日にゃ繋ぎもある訳でぇ。明日の繋ぎ次第でもいいさな。
取り敢えず佐吉が無事なりゃいいのさ。今日んとこは、これで良しとしようぜ?」
永岡はそれでいいか、と言った具合で智蔵を見やる。
「そうでやすね、旦那。
だが、広太、伸哉。今日んとこは焦る事ぁねぇが、次は下手打たねぇようにしねぇとな?」
智蔵は永岡の言葉に同調するも、二人に釘をさす事は忘れない。
ただ、その目は幾分笑っている。
「その蕎麦屋は美味しかったのかぇ?」
緊張した空気の中、北忠のトボけた声音が響く。
永岡は思わず自らの顳顬を掴み、ガックリと俯いてしまう。
智蔵はやれやれと言った表情で、対比するように永岡と北忠を見ている。
「ま、まあ、美味かったと言えば美味かったでやすね…」
広太が困惑しながらも北忠の問いに答えると、
「なら確実にまた現れるだろうねぇ…。
そうだ! 私もその見張りに加わるよう。
いいですよね、永岡さん?」
と、北忠は自分も見張りに立候補してしまう。
永岡は顳顬を押さえながら俯いたまま、面倒臭さそうに空いた手をひらひらさせる。
「ほら、永岡さんもそれでいいとさ。
安心しておくれよ、広太。私が加われば、もう巻かれる心配は無いからねっ!」
北忠は永岡の仕草を是と見たようで、何の根拠か自信満々に言い放った。
困惑顔の広太の横で、伸哉が永岡と同じ格好をしていた。
*
「あら珍しい。
永岡の旦那なら、みんなと奥で一杯やってますよ」
「ありがとうございます、お藤さん。
では、ちょいと顔出して来ますね」
みそのは智蔵の女房、お藤が切り回している居酒屋『豆藤』に来ていた。
目敏く店先に立つみそのを見つけたお藤が、店先まで出て声をかけて来たのだ。
みそのはお藤に笑みを浮かべながら返すと、『豆藤』と染め抜かれた暖簾を潜って中へと入って行った。
「だからなんでお前は、いつもこんな時ばっか真剣なんでぇ!?
お前の本分は料理人かぇ? それとも鍋の番人かぇ? 違ぇだろぃ?
お前は養子とは言え、歴とした同心じゃねぇ…」
「おょ、これはこれはみそのさんではないですかぇ。ほら、永岡さん。こんな事よりも、大事な事を大事なお方が伝えに来てくださったのではないのですかぇ?」
みそのが顔を出すと、丁度北忠が永岡から小言を言われていたところだった。
北忠は目敏くみそのを見つけ、これ幸いとばかりに話を逸らしたのだ。
毎度の事ながら賑やかな事には変わりない。
「こんな事ってなんでぇ。ったくよう…。
おう、珍しいじゃねえかぇ。ってぇかお前、そんな疲れた顔してどうしてぇ?」
永岡は北忠をひと睨みしてから振り返り、みそのの疲れた様子に、何かあったのだと察したようだ。
「とにかく、ここへ座りねぇ」
みそのが口を開きかけると、永岡がみそのを座らせる。
横にいた智蔵が、
「あっしはお藤に茶をもらって来まさぁ」
と、腰を上げたところで、
「はい、みそのさん。お茶でも召し上がってくださいな」
折良くお藤が盆に茶を乗せて現れた。
お藤も店先で話した時に、みそのが疲弊しているの感じていたようだ。
みそのは礼を言って茶を受け取り、先ずは茶をひと啜りして落ち着かせた。
「旦那、あの茶店に居た仲間の一人で、狐目っぽい人を見つけたんです。
丁度また源次郎さんが居合わせてたので、一緒に跡をつけて行き先を突き止めたんですよ!」
「そりゃ本当かぇ?!
狐目と言やぁ、英二に間違ぇねぇや。丁度と言っちゃなんだが、こっちぁ英二に巻かれちまったとこなんでぇ。
で、野郎は何処ぇ居やがんでぇ?」
みそのの思わぬ報告に、永岡は身を乗り出して聞き返す。
永岡だけでは無く、智蔵や巻かれた当事者である広太と伸哉も腰を浮かしている。
「そうだったのですね。じゃあ、その後に私が見かけたのかも知れませんね?」
みそのは少し誇らしげに微笑むと、
「あの人は、雑司ヶ谷村にある百姓家へ入って行きましたよ、旦那。
お願いしておいたので、今も源次郎さんの配下のお方が見張ってくれていますよ」
と続け、更に誇らしげに胸を張った。
が、身を乗り出していた永岡は、
「お前よぅ。源次郎殿が一緒だってぇから、今回も何も言わねぇつもりだったんだが、そもそも源次郎殿は上様の御庭番だぜ?
頼むから、その源次郎殿に配下まで使わせるんじゃねぇってぇの。恐れ多いにも程があらぁな。
それに、これはオイラ達町方の仕事なんでぇ。御庭番の手を煩わせたとあっちゃ、町方の格好がつかねぇじゃねぇかぇ?
ったく、こいつがお歴々の耳にでも入ったら、お奉行がお叱りを受けちまうだろうよ」
と、感謝しつつも苦言をこぼす。
「ちょいと旦那っ!
なに小さい事言ってるんですか!
せっかく突き止めたのに、入れ違いになって誰も居なかったじゃ、意味ないじゃないですか!?
源次郎さんだって御庭番とは言え、旦那と同じ将軍様の配下なんですよ?
江戸の治安を守るのに働くのは、全然間違ってないじゃないですか?
それに、源次郎さんは手柄を横取りしようなんて、小さな事を考えてませんから、そんなお歴々の耳に入るようなことなんてありません! もっと信頼して、協力し合ってくださいよねっ!
ここは素直に感謝して、次は源次郎さんのお役目のお手伝いをすればいいんですよっ!
将軍様だって結果さえ出せば、そんな細かい事を気にしませんよっ!
もし将軍様が、こんな事でお歴々と一緒にうだうだ言うようだったら、幕府もそれまでって事よっ。愚の骨頂よっ!」
「おいおい、そこまで言うんじゃねぇやぃ…。
ま、まあ、元より感謝もしてるし、協力もするつもりでぇ。ただ、ちょいとお前に言っといただけだってぇの…」
みそのの勢いに呑まれ、永岡がタジタジになる。
智蔵や広太達も目を丸くしながら二人の遣り取りを聞いている。
「なら、いいんですけどね?」
みそのは少し言い過ぎたと思ったのか、顔を赤らめながらモゾモゾとお茶を啜る。
「まあ、今日のところはみそのさんの機転に甘えましょうや?」
みそのの勢いに呑まれていた智蔵が、気を取り直して進言すると、
「そうだな。切れちまったと思った糸口が見つかったんだ。こいつぁ上手く手繰らねぇとな?
良し、源次郎殿の配下に任せっきりも出来ねぇや。オイラ達もこれから向かうとするかぇ?」
と、永岡も気を取り直して膝を叩いた。
「ひぇっ。こ、これからですかぇ?」
素っ頓狂な北忠の声が上がる。
しかし、永岡はそれが聞こえてないかのように、
「広太。悪りぃがお前は、みそのを送ってってくんねぇかぇ?」
「へい、合点でぇ。
お送りしやしたら、すっ飛んで向かいまさぁ」
と、広太に声をかけると、打てば響くような返答が広太から返って来る。
「あれれ、本当に直ぐに行くのですかぇ?」
あたふたとする北忠をよそに、
「おい伸哉、お藤に握り飯を用意するように伝えてくんな」
「へい、親分。承知しやしたっ」
と、智蔵も伸哉に指示を出し、伸哉は伊勢良く応えて板場へすっ飛んで行く。
「こ、この鍋は……へ?」
伸哉が板場へすっ飛んで行き、永岡はみそのから詳しい場所を聞いているところで、北忠は恨めしそうに程良く煮えた鍋を見ている。
「北山の旦那。出発するにしても四半刻はかかりまさぁ。
鍋を腹に入れる刻はあると思いやすぜ?
ま、シメは諦めてもらわねぇとでやすがね?」
見兼ねた留吉が北忠の耳元で囁いた。
北忠は安堵しながら大きく頷き、そっと特製付け汁の入った小鉢を留吉に手渡した。
留吉は苦笑いしながらも、小鉢を手にみそのの話に耳を傾けるのだった。




