第四十二話 饅頭無窮
「……なんだか退屈だねぇ広太。
しかも何もしていないのに、お腹だけは空くんだからねぇ。本当に嫌になっちゃうよぅ。
これで隣に饅頭屋でもあれば、言う事ないのだけどねぇ。って聞いてるのかぇ、広太?」
北忠こと北山忠吾が、先程からぐだぐだと話し続けている。
北忠と広太は死んだ乙松の裏店で、佐吉を見張っているところだ。佐吉の裏店には、佐吉と一緒に伸哉が詰めている。
「聞いてやすって、北山の旦那ぁ。
それに饅頭屋でやしたら、表店に一軒あるじゃねぇでやすかぇ。それなのに、わざわざ遠くまで饅頭買わせに、翔太を走らせてるんでやすぜ?
あっしは北山の旦那の思考が解りやせんや」
広太が辟易した顔で応えた。
広太の言う通り、この裏長屋の表通りに面した店には饅頭屋がある。あるにも関わらず、四半刻ほど前に、翔太を両国の饅頭屋へ買いに行かせていたのだった。
「広太、お前の嗜好の方がどうかしてるよ?
そこの饅頭屋の饅頭は昨日食べたけど、あれは饅頭とは呼べないねぇ。
お前はあんな物で舌を満足させちゃいけないよう?
それにお足を出すのは私なんだよ? そりゃ同じお足を出すのなら、美味しい本物の饅頭を食べたいじゃないかぇ?
これでも近場を選んだつもりなんだからねぇ?」
「いえ、旦那、あっしはそう言う事を言ってるんじゃねぇんで…」
北忠の反論に、広太は呆れてしまって言葉が続かない。
「そうだ、広太っ!
あれだよ、翔太が戻って来たら、佐吉に饅頭屋巡りさせてはどうだぇ?
昨日永岡さんがやっていた囮作戦にもなるし、広太の嗜好を正す事も出来るじゃないかぇ?
これを一石二鳥と言うのだろうねぇ。
うんうん、我ながら妙案を思いついてしまいましたよぅ。うん、そうするよ広太っ。
なんだか、急に楽しくなって来たねぇ」
「………」
北忠の盛り上がる様を、広太が呆気にとられながら眺めている。
広太は口をポッカリ開けながら、「思考」と言う言葉を使った自分を悔やむのだった。
*
「おぅ、庄左、よう来たのう。
今日は賑やかで何よりじゃな?」
庄左右衛門がみその達を引き連れて道場に入ると、小柄な老爺が一段高くなっている見所から声をかけて来た。
齢七十三歳になる辻月丹資持だ。
みそのは月丹を見るや、少々拍子抜けしてしまう。
何故ならば、庄左右衛門の大師匠と言う事で、もっと厳めしい風貌を予想していたからだ。
目の前の月丹はと言うと、飄々とした物腰で、厳めしいと言うよりも気安い印象を受ける。
その気安さは容姿にも現れていて、丸顔に白いどじょう髭を蓄え、薄くなった白髪を後ろで束ねて垂らしている。
そしてなによりも、身に付けている着物が何とも草臥れていて、ややもすればみすぼらしくすら見えるのが、より親近感を持たせていた。
庄左右衛門から後で聞いた話しだが、あれでも未だましになった方で、以前は、下の着物が透けるほど擦り切れた羽織を着ていて、その下の着物は所々ほつれていたそうだ。更に冬などは、中綿が裾からはみ出して地面を引きずっているのも当たり前で、まるで乞食と見紛うような姿だったらしい。
そうした月旦は、多くの大名などの門弟が増えてからも、驕り高ぶる事などなく私利私欲を断ち、無欲で質素な生活を続けていた。
纏まった金が入ったとしても、貧しい者へと分け与えてしまうのだと言う。
それだけ他の事には頓着せず、剣一筋に生きていたとの事だった。
見所へ上がったみそのは、間近に見る月丹に親近感を覚えながら笑みを浮かべていると、
「そなたがみそのさんかの?
今後とも庄左を宜しく頼むぞぃ」
と、月丹が相好を崩して声をかけて来た。
「はい。勿論でございます。こちらこそ庄さんにはお世話になっていますので、私が頼む側なのですがね?」
「庄左はいいのう?
若い嫁もらったと思うたら、こんな美しい女子から、庄さんなぞと呼ばれおってからに。全く、堪え性の無い奴め」
みそのの返事を聞いた月丹は、庄左右衛門へ揶揄うように言う。
みそのは美しいなどと言われ、思わず顔を赤らめてしまう。
「いやいや、先生。某がお玉に夢中なのはご存知ではありませぬか?!
初めに某がみーさんと呼び、みーさんには庄さんと呼ぶよう、最初に頼んでいただけの事に御座るよ。先生も初めが肝要ですから、そのようになされば宜しいので御座る…」
庄左右衛門は心外だとばかりに、月丹へ言い募る。
「ふふ、庄左がお玉に夢中な事くらい分かっておるわぃ。
戯れ言じゃで、本気にするでない。
じゃが、初めが肝要と言うのは、素直に聞き入れるとするかのう。
何せ、色事に関しては、ワシなぞ庄左の足下にも及ばんからのぅ?」
月丹はニンマリしながら庄左右衛門を窘めるように言い、みそのへ顔を向けると、
「では、ワシは兵さんで頼むわい、みーさん」
と照れ臭そうに、「兵さん」「みーさん」で呼び合うように頼んで来た。
「兵さん」とは、月丹の幼名、「兵内」から来ている。
みそのも、そんな月丹が微笑ましくもあり、
「はい。宜しくお願い致しますね、兵さん」
と、笑顔で答えていた。
みそのに「兵さん」と呼ばれた月丹は、満更でもない笑みを浮かべながら、見所に居る皆へ座るように促した。
月丹は剣一筋で生きて来ただけあり、今まで色事には無縁で妻帯もせずに来ている。
ある日、道を行く芸者見た月丹は、「美しいのう。あれは何じゃ?」と、庄左右衛門に尋ねた事があったと言う。
その一事をとっても、月丹は芸者も知らないくらい、女性とは無縁の生き方をして来た事が伺える。
月丹の人生は、ただ剣一筋に生きて来たのだ。
そうして、みその達は暫く稽古を見学する事となる。
「なんかお元気そうで、安心しましたよ」
みそのが月丹を見ながら、隣の庄左右衛門に話しかけた。
月丹は今、見所から下りて門人に声をかけて回っている。
老齢で肉は落ちているが、背筋を伸ばして道場を歩く姿は矍鑠としていて、七十三歳とは思えぬ凛とした覇気を感じさせる。
「うむ。今日の先生は、調子が良いようですな。
酒井様や山内様が昨年相次いで身罷ってしまわれたので、先生も気落ちしたのでしょう。それからは体力も落ちてしまわれて、臥せる日が多くなっていたので御座るよ。
ワシもあんな調子の良い先生を見るのは、久しぶりで御座る。今日はみーさん達が来てくれて本当に良かった。
先生もお喜びになりますから、これを機に、是非また道場へ顔を見せてあげてくだされ。お願いしますぞ、みーさん」
庄左衛右門は月丹の姿に目を細めながらみそのへ返し、最後は頭を下げてみせた。
庄左右衛門が口にした酒井様と山内様とは、上野厩橋藩(前橋藩)主 酒井忠挙と土佐藩主 山内豊隆の事である。
二人とも月丹に師事する弟子でもあり、後ろ盾にもなっていた。
忠挙は、将軍への謁見を働きかけた立役者でもあり、古くより月丹を支援して来たのだった。
豊隆は、父である前藩主、豊房が、更にその父の豊昌の頃より土佐藩邸への出入りを許されていた月丹を、他の大名へ推薦する事で無名の兵法者だった月丹を、大名、旗本、御家人、その他併せ、五千名を超える門弟を持つまでにさせていた。その息である豊隆もまた、父同様月丹に師事し、同じく支援して来たのだった。
二人とも月丹にとっては、弟子であると共に恩人でもあり、良き理解者でもあったのだ。
「そんな庄さん、やめてくださいよ。
私で良かったら、いつだって顔を見せに来ますから…」
みそのは改まって頭を下げる庄左右衛門へ、慌てて言い返して頭を上げさせる。
「あんな先生の喜ぶ顔を見られて、ワシも嬉しいので御座るよ」
頭を上げた庄左右衛門はしみじみと言うと、月丹はみそのに良いところを見せようと、少々張り切っているのだと続ける。
七十三歳の月丹にとって、みそのは若い娘に違いない。
元々女性に免疫の無い月丹は、みそのと接する事で、尚更に心も浮き立っているようなのだ。
「ふふ、庄さんは本当にお師匠様思いなんですねぇ…。
私なんかで元気になれるのなら、頻繁に顔を見せに来ますよ?
兵さんには長生きしてもらいたいですからね」
みそのは応えながら、一人の門人の前に立ち、袋竹刀を構える月丹を眺めた。
「ほう、中々のものじゃのぅ」
みそのの隣から声が聞こえて来た。
月丹が飄々と門人の打ち込みを捌く様に、新之助が感心しているのだ。
そんな新之助にみそのは、
「新さんも手合わせをお願いしたらどうです?
って言うより、お願いしますよ?」
と、悪戯っぽく目を細める。
暗に任務遂行を促しているようだ。
今日の企だては、将軍への謁見が叶わなかった月丹へ、新之助を引き合わせる事である。非公式だが、将軍謁見の願いを叶える為の企だてなのだ。
「おうおう、わかっとる。ワシも楽しくなって来たわぃ」
新之助は月丹から目を離さずに応え、ニンマリと笑みを浮かべている。
新之助の視線の先に居る月丹は、身体の何処にも力が入っていないかのように立ち、門人の強烈な打ち込みに対して、だらりとした姿勢から、最小限の動きでそれを受けている。しかも、どんな斬撃でも全て同じように軽く受け、受ける袋竹刀の場所まで同じところに当てている。
素人目には袋竹刀を振っていると言うよりも、気軽に釣竿でも振っているように見えるのだが、門人が打ち込めば打ち込むほど、飄々と受ける月丹に押されて行き、門人が引けば引くほど、誘い出すように引いて打ち込ませ、再び受けながらも押して行く。何ともつかみどころのない剣風なのだ。
「ふふ、では宜しくお願いしますね?」
思いの外夢中に見学している新之助に、みそのは安心しながら言うと、
「庄さん、新さんも手合わせをお願いしたいそうなので、お取り次ぎをお願いしますね」
と、反対側へ座る庄左右衛門へ願うのだった。
*
「ほう。先ほどとは違い、中々風格のある構えをとるのじゃの?」
月丹の言葉に、新之助は微かに笑みを浮かべてそれに応える。
月丹と新之助は、ニ間ほど離れて対峙している。
新之助は普段とは違い、将軍家に伝わる王者の剣の構えでの対峙だ。
しかも二人とも真剣である。
あれから稽古も一区切りし、今、道場には対峙している二人とみそのしか居ない。
先ほどの稽古で、新之助が願い出た事である。
庄左右衛門も月丹の目配せで、師の曰くありげな思いを察し、酔庵と共に道場を外していた。
「ん? やはりそうで御座ったか…」
月丹は新之助の手にする刀身、鍔元近くに透し彫りされている、葵の紋に気がついたようだ。
月丹は刀を鞘に収め、それを右手に持ち替えてその場に平伏した。
新之助も納刀すると、月丹に近寄りながら、
「そう畏まらんでも良い。ささ、面をあげよ」
と、月丹に顔を上げるように促す。
それでも平伏したままの月丹へ、
「そこのみそのに頼まれてのう?
今日は新之助として来とるのじゃ。非公式じゃで、そう畏まらんでも良いのじゃよ」
と、新之助は口調柔らかに、もう一度告げる。
月丹は恐る恐る顔を上げると、新之助はニヤリと笑い、
「謁見が見送られてしもうて悪かったのう。
あれは酒井の爺さんが持って来とったようなのじゃが、ワシの耳にも入っておった事じゃった。
ワシは毎日剣は振っとるのじゃが、柳生の稽古は碌にせんのじゃよ。
じゃから、柳生の手前もあるで、昔から他流へ目を向けるのは避けとったのじゃ。周りの者も、それを知っておる故、耳に入れる程度で遠去けておったのかも知れん。しかし、今日はみそのの頼みとは言え、足を運んで良かったぞ。眼福であった。
辻月丹資持、あっぱれじゃ!」
新之助はそう言うと、腰の小太刀を抜き、月丹へと差し出した。
「は、はは。有り難き幸せ…」
月丹は言葉を詰まらせながら、両手で小太刀を賜ると、再び深々と平伏した。
「じゃが、あれじゃ。分かっていると思うが、この事はこの三人の秘密じゃからな?
のう、兵さん?」
平伏す月丹に、新之助は戯けた口調で言うと、月丹も新之助の意図を解したように頭を上げ、片目を瞑って笑う新之助に、
「弁えていますとも、新さん」
と、笑みを浮かべながら涙声で返すのだった。
みそのもそんな二人を見ながら微笑んでいる。
*
月丹はこれより六年後、享保十二年の六月に亡くなっている。
自分の死期を悟った月丹は、道場の床上に結跏趺坐しながら、禅僧のように身罷ったと言う。七十九歳であった。
その今際の際に、薄っすらと笑みを浮かべ、この時の事を思い出した事は、みそのと新之助以外、門弟以下誰も与り知らない事である。
みそのは庄左右衛門との約束通り、この日を境に、暇を見つけては道場へ顔を見せに行っていた。
その際に月丹が良く語った事がある。
「みーさんや、ワシは、将軍様への謁見には然程興味が無かったのじゃよ。
あれは酒井様がワシの為を思って、何かと働きかけてくださった事での。ワシとしては、その為に剣や禅を練っていた訳では無いで、正直に言えば、少々面倒くさい事じゃったのじゃよ。
じゃが、みーさん。やはり、日の本一の将軍様から、あっぱれじゃと言われるのは、兵法家冥利に尽きるのう。
これも全てみーさんのおかげじゃよ。感謝しとるよ、みーさん」
みそのはその度に照れ笑いを浮かべながら、
「なに言ってのですか、兵さん。私のおかげなんかでは無く、兵さんの剣術が本物なんだから当たり前の事ですよう。
それに私が放って置いたとしても、その内新さんは、兵さんの噂を聞きつけて駆けつけたに違いないわ。
これは兵さんの努力の賜物ですよう」
と、夫の功労を称える妻の如く、月丹に返していたのだった。
生涯独身だった月丹にとって、晩年を迎えて知り合ったみそのは、その伴侶に近い存在だったのかも知れない。
しかし、今は未だその昔。
みそのと月丹はこれより、みーさん、兵さんの仲で、そして、新さん、庄さん、すーさんと、秘密を共有した新たな付き合いが始まるのだった。




