第四十一話 健脚と剣客
「ごめんくだせぇ。こちらはみそのさんのお宅でやすかぇ?」
戸を叩く音に続いて、聞きなれぬ老爺のような嗄れた声が聞こえて来た。
みそのは自分の名前を呼ばれているだけに、訝しみながらも玄関口へ出てみると、
「ああ、間違ぇ無ぇようでやすね?
あっしは儀兵衛と言うもんでやして、永岡の旦那からこちらへ顔を出すようにと、文をもらって来たのでごぜぇやす」
と、声に違わぬ老爺ぶりの男が、満面に皺を寄せ集めて笑い、みそのへ来意を告げて来た。
儀兵衛と名乗った老爺は、真っ白い総髪と髭を蓄え、優しげな細い目に大きな福耳の持ち主だ。
「あの…」
永岡から何も聞いていなかったみそのは、何の事やらと首を傾げていると、
「あっしは唐辛子売りを生業にしてやしてね。
何でもみそのさんは、唐辛子が入り用になるとかで、文には安く売ってやってくれと、書かれていたのでごぜぇやすよ。あっしも、それだけしか知らねぇのでやすが、何かの手違ぇでやしたかな?」
と、儀兵衛も不安げに聞いて来た。
「ああ、そう言う事でしたか!
いえ、永岡の旦那から何も聞いてなかっただけでして、唐辛子が入り用なのは本当ですよ。
その辺の仕入れをどうしようかと思っていたので、来てくださって助かりましたよう」
みそのは漸く永岡の気遣いを理解して、そう言って儀兵衛を家の中へと招き入れた。
みそのは、「ささ、お上がりくださいな」と、儀兵衛へ上がるように案内するも、
「あっしはここで十分でごぜぇやすよ。注文を聞くだけの事でやすからね?」
と、儀兵衛はそれを固辞して、上がり框に腰を下ろした。
みそのは儀兵衛が一見好々爺のようでいて、どうやら相当頑固そうだと見て取り、クスリと笑みを浮かべると、
「お茶だけでも淹れて来ますね」
と、有無を言わさずに奥へと引っ込んだ。
「はい、どうぞ」
程なくお茶の用意をしたみそのが現れ、儀兵衛へ茶を出してやると、「すいやせん。では遠慮なく」と、儀兵衛は美味そうに茶を啜った。
やはり長らく歩いて来た事で、喉が渇いていたのだろう。
「儀兵衛さんの店は、どちらにあるのですか?」
みそのは茶を飲む様子から、長い距離を歩いて来たのではと思い、茶飲話に所在を聞いてみる。
「へい、あっしは下谷に住んでおりやすよ。
不忍池の近くでやすから、いつの日か物見遊山に訪れやしたら是非ともお立寄りくだせぇ。
とは言っても、狭い裏店でやすけどね? ふふふ」
儀兵衛は自分の店を思い浮かべたのか、自分で言って可笑しそうに笑う。
「ああ、上野の不忍池ですか?
物見遊山ですかぁ…眺めが良さそうですねぇ?
江戸の不忍池ってのも行ってみたいなぁ…」
みそのは、子供の頃に家族で遊びに行った事を思い出し、遠くを見ながらぼそりと応える。
「みそのさんはどちらのご出身で?
不忍池ってぇのは、他にもあるんでやすかぇ?」
儀兵衛は、みそのの「江戸の不忍池」と言ったところに引っかかったようで、首を傾げながら問いかける。
「あ、ああ。いえ、最近遊びに行ってなかったから、江戸と言えば、不忍池って思ってしまって…。
何か変な言い回ししちゃってごめんなさいね…って、それより注文よね?」
みそのは自分の失言に気づき、慌てて言い訳をすると、早々に話を変える事にした。
「うっ、そうでやしたね。あっしの方こそ、呑気に茶を頂いちまってすいやせん。へぇ」
茶を口にしていた儀兵衛は、慌ててみそのへ詫びると、懐から半紙を取り出して腰の矢立を抜き、注文を書き留める準備をした。
みそのは、自分が誤魔化したせいで慌てさせてしまい、申し訳無く思いながらも儀兵衛へ注文の品を伝える。
「八角でやすかぇ?」
「ええ、用意出来るなら、八角とニンニクもお願いします」
「ええ、そりゃ出来ねぇ事もねぇんで、構わねぇんでやすがね…」
儀兵衛は唐辛子以外にもあれこれと頼まれ、それを半紙へ書き留めて行く。
みそのとしては、窓口を一つに出来れば手間が省けるので、取り敢えず言ってみたようだ。
「へい、それじゃあ、三、四日も見てくだせぇ。
揃いやしたら、こちらへお届けすれば宜しいんでやすね?」
儀兵衛は墨が乾くのを待ちながら、みそのへ確認する。
「はい、特に急いでる訳ではありませんので、揃ってから都合が良い日にお願いします」
みそのが儀兵衛へ応えると、儀兵衛は胸を叩いて頷いた。
そして、儀兵衛は残った茶を飲み干すと、半紙を懐へしまってやおら立ち上がる。
「では、確かに受け賜わりやした。あっしはこれで失礼しやす。へぇ」
儀兵衛はみそのへ頭を下げると、みそのの仕舞屋を後にした。
すると、入れ違いのように、酔庵が庄左右衛門を連れて入って来た。
「あら、ご一緒だったのですね?」
みそのは酔庵と庄左右衛門が揃って現れたので、驚きながら二人を迎え入れた。
「いや、あれからちと考えましてな?
どうせみーさんの家まで案内するのでしたら、昨日の内に庄さんの家へ行って泊めてもらおうと思いまして、急遽店へは帰らなかったのですよ」
「そうだったのですか。それでお二人お揃いなのですね。
それにしても、昨日は留守にしていてごめんなさいね?
でもすーさん、そのおかげで、また碁三昧で楽しめたんじゃないですか?」
酔庵の言葉を聞き、みそのは昨日の不在を謝るも、揶揄うように目を細めて言うのだった。
「いや、わしは楽しめてませんぞ、みーさん。
このすーさんのおかげで、お玉とのお楽しみが邪魔されたのですからな!」
横で聞いていた庄左右衛門が、不服そうに言い募る。
「また庄さんは、朝からそんな事を言って何ですか。
庄さんの方こそ、次だ次だと言って、中々寝かせてくれなかったではありませんか?」
酔庵は呆れたように言って首を振る。
それに庄左右衛門が口を尖らせて抗弁しようとしたところで、
「分かりましたよ。色々と楽しめなかった事があったにせよ、なんだかんだ言って楽しめたのですね?
とにかくそう言う事にしておきましょ? ふふ。
とりあえずお茶でも飲んでから行きます? それともこのまま出発しますか?」
と、みそのが二人の間に入って窘めた。
今日のみその達は、小石川にある辻月丹の道場へと赴く事になっている。
特に時間の約束をしている訳ではなさそうだが、みそのは念の為、約束を取り付けた庄左右衛門へ伺いを立てたのだ。
「そうですな。先生も早い訪いの方が、体力的にも良いでしょうから、このまま出発するとしましすかな?
なに、すーさんがへばったら、茶店でも入って休めば良かろう?」
庄左右衛門は酔庵を揶揄うように応える。
「へばる訳がありませんっ!
私は未だ未だ健脚でございますからなっ」
酔庵が口を尖らせたところで、みそのも出立の用意の為、一度中へと戻ったのだった。
*
「おう、様子はどうでぇ?」
「へぇ。野郎は朝から一歩も外へは出ていやせんで」
永岡の問いかけに、留吉が答えている。
今日は留吉と松次が、橋場町の巳之吉の裏店を早朝から張っていた。
昨夜永岡は、みそのから聞いた情報を智蔵へ伝え、智蔵が留吉に繋ぎを付けた事で、今朝からの張り込みが決まったのだった。
永岡は奉行所へ出仕した後、智蔵と連れ立ってやって来たところである。
「もう四つも過ぎてやすぜ?
野郎、いつまで寝てやがるんでやしょうね?」
横から松次が愚痴るように言って来る。
朝四つと言えば、だいたい午前十時くらいになる。朝の早い江戸の人々としては、こんな時間まで惰眠を貪るとは、怠慢も良いところなのだ。
「碌でもねぇ野郎だから、未だ寝ててもおかしかねぇが、厠へも行ってねぇんだよな?」
永岡は二人に問いかけると、
「へい、あっしらは六つくれぇにゃここへ来てやすが、それからは一歩も外へ出ていやせんので、厠へも行ってやせん」
と、留吉が答え、松次も横で頷いている。
明け六つは午前六時くらいなので、凡そ四時間ほど見張っている限りでは、何も動きは無いらしい。
「九つまで待って出て来ねぇようなりゃ、踏み込んでみるかぇ?」
留吉の話を聞いた永岡は、智蔵へ話を向ける。
「へい。こうなりゃ栄二との繋ぎは、捕らえた後に口を割らせるでようござんしょう。
九つとは言わず、あと四半刻も様子見て踏み込みやしょう?」
智蔵も、この時間まで厠にも行かない巳之吉を不審に思ったか、前倒しで踏み込む事を提案する。
「そうだな。当の巳之吉が居ねぇんじゃ、堪ったもんじゃねぇさな?
ま、とにかくオイラ達ぁちょいと離れたとこから見てらぁ。踏み込む時にゃ来るんで、それまでよろしく頼まぁ」
永岡は智蔵に同意すると、留吉と松次に声をかけて裏長屋を後にした。
留吉と松次は稲荷の隅で見張っていて、それでなくとも目立ってしょうがないのだ。
永岡と智蔵は木戸門を出ると、お互い目配せするようにして頷いている。
二人とも嫌な予感を伝え合っているのだ。
四半刻も過ぎた頃、永岡と智蔵は裏長屋へと入り、留吉と松次が見張っている稲荷へ現れた。
留吉は永岡達に気づいて静かに首を振る。
それを見た永岡は、
「ちっ、やっちまったみてぇだな?
まあ、寝ててくれると良いんだが…」
舌打ちと共に、独り言のようにボソリと言うと、皆に目配せをして件の裏店へと歩いて行く。
永岡は腰高障子に手をかけると、皆に目配せをする。
そして勢い良く腰高障子を引き開けたが、中は永岡が危惧していた通りの、もぬけの殻だった。
「やっちまったな?
って事ぁ、あの野郎は夜中の内に出かけたってこったな?」
半分予想していた結果なだけに、永岡はあっけらかんと嘆いてみせる。
「へい。昨日旦那がいらした時に、そのまま向かえや良かったでやすね…」
智蔵は苦い顔でそれに応え、頭を下げた。
「よしねぇ。こんな上手ぇ事入れ違ぇになるのも珍しいぜ。
それに、あれから出張ったとしても、もうとっくに出てた可能性の方が強ぇや」
永岡は智蔵に言い、
「とにかく、ここは留吉と松次に張ってもらうとするかぇ?
留吉、悪りぃが、向かいの店に話を付けて見張り場を確保してくんな?」
と、留吉へも話を向け、手配りを願った。
留吉は、「合点でぇ」と応えるや、松次を連れて巳之吉の裏店を出て行った。
智蔵は乱雑に敷かれた布団の下などを見て、首を振っている。
ここには布団の他には、酒を飲む為であろう徳利と、湯呑みくらいのものしか置かれていない。
念の為永岡は畳を持ち上げ、何か隠されていないか確かめたが、特に何が出て来る訳でも無かった。
「昨日の話に戻るが、また政五郎んとこでも行ってみるかぇ?」
「そうでやすね。栄二の住処でも分かりゃ、みっけもんでやすからね」
永岡に同意した智蔵は、気を取り直すように首を回すと、
「では行きやしょう、旦那っ」
自らを鼓舞ように威勢良く言うのだった。
*
「ほれ、みーさん。道場はそこですぞ」
庄左右衛門が指し示す先を見たみそのは、その先で木を見上げている男に気がついて、
「あっ、新さんっ!」
と、声をかけながら駆け出した。
新之助はのんびりと、木の枝で羽を休めているメジロを愛でていたのだ。
「ごめんなさいね、お待たせしちゃったかしら?」
「いや、然程待ってもおらんよ。
それに、こいつらを眺めとったんで、待った気がせんかったわい」
新之助は、今も道場の庭木で羽を休めているメジロを見上げて言った。
「なんですかな、みーさん。
新さんもお呼びになっていたのですか?
それならそうと、言ってくだされば良かったのに、そしたら私も、茶店で休憩などとは言い出しませんでしたぞ?」
酔庵がみそのに追いつき、男が新之助と知るや、遅れた理由である休憩の事を恨めしく言う。
「すーさん達を、びっくりさせようかと思いましてね?
ふふ、それに、すーさんは本当に休憩が必要だったと思いますよ?
庄さん、そうですよね?」
みそのは、庄左右衛門に同意を求めるように言って笑った。
みそのはサプライズという事で、二人には新之助が来る事を知らせていなかったのだ。
とは言え、新之助を呼ぶ事が今回の主な企てである。
新之助が将軍、徳川吉宗だとは、二人とも夢にも思わないだろう。これが本当のサプライズと言える。
「そうじゃな、みーさん。
すーさんの健脚はあれが限界じゃったので、茶店での休憩は必須じゃった。
新さんとやらには悪い事をしたがな?」
庄左右衛門はそう言って笑い、新之助に向き直ると、真面目な顔で自己紹介をするのだった。
新之助も自己紹介をし、
「では、ワシも庄さん新さんの仲でお願い致す。はっはははは」
と、新之助は庄左右衛門へ気軽に言うのだった。
「新さんも中々やるようですな?
せっかくですから、先生の体調が宜しければ、是非手合わせを願ってみては?」
庄左右衛門が嬉しそうに言う。
庄左右衛門は凄腕の剣客なだけに、一目で新之助の技量を見て取ったようだ。
「実はワシもそのつもりで罷り越したのじゃよ、庄さん」
新之助はニヤリと嬉しそうに返した。
「では、庄さん。早速案内して頂けますかな?」
酔庵の言葉で、一向は道場へと入って行ったのだった。




