第三話 それぞれの朝
「あれ、店長久々ぁー! また綺麗になりましたぁ?」
「いきなり何言うんだか、雅美ちゃんはぁ……。
てか雅美ちゃんこそ益々綺麗になって、一体何処へ向かってるのよー!」
「ウヘヘヘヘ」
お約束の見返りを求めた挨拶に、希美が律儀に返すと、雅美は気味の悪い笑いで応える。
今日の希美は、朝一で元の職場へ顔を出したのだ。
希美は一年ほど前まで、日本橋丸越の婦人服売り場で店長として働いていた。
辞職してからも、時折こうして顔を出しに来るのだが、雅美が言っていた様に、ここ最近は忙しくて無沙汰をしていたのだった。
希美は江戸と東京との二重生活をする上で、自分なりにけじめをつけたのだった。
当時、怪我を負った永岡の看病をする為、夫や職場の面々に多大な迷惑、不義理を重ねてしまっていたからだ。
永岡と夫、どちらを選ぶかと言う人生最大の決断で、永岡を選んだ事が大いに影響している。
紆余曲折を経て、夫とは半年前に離婚が成立している。実際には会社も有休消化などで離婚成立と同時期、半年ほど前に退職をしていたのだった。
希美は半年ほど前に、大きく人生が変わっていたのだ。
いや、江戸へ赴く様になった時点で、既に大きな変化がもたらされていたのかも知れない。
「その笑い方見たら前言撤回だわぁ……」
「またまた店長ったら負け惜しみ言ってぇー」
「負け惜しみって言うか……まあいいや。
綺麗綺麗、雅美ちゃんはいつ見ても綺麗よねー。っと、こんなもんでいい?
って言うか、今は雅美ちゃんが店長なんだし、そろそろ私を店長って呼ぶのもどうかと思うわよ?」
「うふ、そうね。今や私が泣く子も綺麗過ぎて絶句してしまう店長でしたぁー! って、あれ? 店長ってなんて名前でしたっけ?」
「もういいわよ……」
希美は同年の雅美に諦めを覚える。
しかし、雅美は今年三十八になるのだが、普段からのスキンケアや、日々精進を重ねるメイクテクもあって、見た目には二十代と言ってもおかしくない。
そんな雅美のアンチエイジングぶりは、若いスタッフから化け物扱いされている程だ。
「もしかして店長、メールの返事をしに来てくれたんですか?」
「まあ、それもあって来たんだけど……」
希美の諦めた空気を読んだのか、雅美が希美の来意を確かめて来た。
希美は二週間ほど前に、雅美からヘルプのバイトの誘いを受けていたのだ。
メールでは少し考えさせて欲しいと返していたが、はっきりとした返事は未だしていなかったのだ。
今日はその返事と、デパ地下で買い物するのが目的の希美だった。
「で、やってくれます?」
雅美は懇願する様に上目遣いで聞いて来る。
「うん。余り頻繁には出来ないけど、未だ次の職も決まってないし、せっかくだから引き受ける事にしたわ」
実際は退職金やら失業保険などもあり、本格的な職探しは未だしていない。
それに、お園さんから受け継いだ家に住んでいるので、家賃の心配も無い為、以前からの蓄えを考えても、当面の生活には支障がない。
なので希美は、今後は江戸での生活をメインに考えているのだ。
が、それにしても、何もしない訳にはいかないとも考えていて、そんな時に雅美から誘われていたのだった。
希美は当初、けじめをつける為に辞めた職場と言う事で、この誘いを断ろうとも考えていた。
しかし、若いスタッフの緑ちゃんや花ちゃんからもメールで懇願され、考えを変えて決断したのだった。
今日は返事を待たせてしまった手前、メールでは無く、直接返事をしようとやって来たと言う訳だ。
「やったぁ!
そしたら店長のシフト決めなきゃだから、早速佐藤マネージャーとミーティングしなきゃ!」
雅美の眼が鋭く光る。
『そっちかいっ!』と、希美は心の内で盛大にツッコミを入れる。
希美は、自分をネタに佐藤マネージャーとの逢瀬を目論む、強かな雅美の思惑に歯噛みするのだった。
*
「どうでぇ智蔵、何か聞けたかぇ?」
「いや、面目ねぇ旦那。これがからっきしなんでさぁ」
今日は投げ文に繋がる聞き込みの為、智蔵は手下を引き連れて早朝から動いていた。
永岡は奉行所に出仕してからの合流で、昨夜の内に、両国の番屋で待ち合わせる事を決めていたのだ。
「いや、元より雲をも掴む様なもんでぇ。気にする事ぁねぇやな」
「ありがとうごぜぇやす。まあ、なんせ投げ文なもんで、この横山町界隈を中心に聞き回る事ぐれぇしか、今のところぁやりようがねぇんでさぁ」
「そりゃそうさ。オイラも無理を言ってる事ぁ分かってるぜ。
広太、お前達にゃ悪りぃが、もうちっとばかし骨折ってくれや」
「へい、旦那。滅相もねぇこって」
番屋には智蔵の他、広太を筆頭に、留吉や伸哉、松次に翔太と言った手下の面々も顔を出している。
永岡は智蔵と話しながら、広太に後を任せると声をかけたのだった。
永岡はこの後、智蔵と一緒に彼らとは別行動をとる頭だったからだ。
「では早速新田の旦那の方へ顔を出すので?」
智蔵が永岡の言葉に思い当たった様に口を開く。
「そう言うこった。泥沼の加平が本物なりゃ、加平やその一味から話しを聞けりゃあ、それに越した事ぁねぇかんな。んな訳で、忠吾も先に行かせてあるぜ」
北忠の名前のところで顔を歪めた永岡に、智蔵は苦笑しながら、
「道理で北山の旦那の姿が見当たらねぇ訳で。
作用でやすね、取り敢えずは、それが早道でござんしょう。
そうと決まりやしたら、早えとこ行きやしょうかぇ?」
と、言葉を引き取って、永岡に急ぎ向かう事を促した。
「では永岡の旦那に親分、あっしらは引き続き聞き込みをしやすんで、繋ぎに翔太を連れてってくだせぇ」
智蔵の言葉を聞いた広太が、翔太を連絡役にと同行させる事を進言する。
「まあ別段急ぎの用はねぇとは思うが、翔太も連れてくとするかぇ?」
「そうでやすね。
翔太、今日は永岡の旦那と一緒だ。抜かりのねぇ様にな?」
「へい、親分!」
永岡の言葉を受けた智蔵が、少し揶揄う様な口調で翔太に言いつけると、翔太は緊張気味に背筋を伸ばしてそれに応えた。
この翔太は一年ほど前から手下に加わった、元はヤクザの使いっ走りの若造なのだ。
最近慣れて来たとは言え、未だ未だ新参者には変わらない。
普段は松次などの下で働いているので、智蔵や永岡と直接関わる事が少ない為に、少々緊張気味になるのは否めない。
「それとも伸哉、お前が一緒に行くかぇ?」
永岡は、ほっとした様な顔の伸哉に悪戯っぽく声をかける。
「い、いや旦那、あっしは心当たりのある聞き込み先がありやすんで、今日のところは勉強の為にも、是非翔太を連れてってやってくだせぇ。へえ」
伸哉はどうも新田の拷問にトラウマがあるらしく、普段の新田との会話も緊張しきりなのだ。
それが、今、正に拷問しているであろう現場に赴くとなれば、その伸哉の心境たるや言わずもがな。
永岡はそんな伸哉を少し揶揄ったのだ。
「ま、そう言う事にしといてやるかぇ?
じゃあ皆んな、聞き込みの方は頼んだぜ!?」
永岡は軽口を終えると、後の探索を皆に頼んで番屋を後にするのだった。
*
「あら正吉さん。迎えに来なくたって逃げたりなんかしないわよぅ?」
「いえ、そんなんじゃ無ぇんでさぁ。勘弁してくだせぇよ姐さん」
お百合との約束の時刻に間に合わないと思い、そろそろ出かけようとしていたところに、弁天一家の正吉が現れたのだ。
「勘弁も何も、下手したら入れ違いになってたかも知れないじゃないですか?
迎えに来るにしても、昨日言っといてくだされば良かったのに……」
みそのは普段、約束の時間より早めに行動する様にしている。
これは未だに不定時法の感覚に慣れない事からなのだが、今日は朝から元の職場へ顔を出していた為、かなりギリギリの出立になってしまっていたのだ。
「いえね。さっきお嬢に言いつけられやして、あっしも慌てて来たんでやすよ。
それに姐さんだったら途中で見つけられやすんで、入れ違いって事ぁねぇと思いやすよ。そればかりはご心配なさらずに。へえ」
みそのの身長は160センチほどあり、この時代の平均身長は女は145センチ程、男でも157センチ程なので、町場では悪目立ちする程にみそのは大柄なのだった。
正吉は、みそののそんな身体的な特徴の事を言っているのだろう。
「もう正吉さんったら。私はほんの少しだけ背が高いだけですよ?
私を何だと思っているのやら…」
「いえ、違ぇやすよ姐さん。あっしが言いてぇのは、姐さんがでけえって話しなんかじゃねぇんでやすよう。
こんなべっぴんを町場で見過ごす事ぁねぇって話しでやすよ」
心外だとばかりに形の良い鼻をひくつかせて、ムキになって抗弁する正吉。
「もう口が上手いんだから正吉さんは……。
まあ、そしたら有難くそう言う事にしておくわ。でもお百合さんったら、相変わらず人使いが荒いのね?」
「そいつをお嬢に言えるのは、姐さんだけでやすよぅ。
さりげなく姐さんの口から進言して頂けやすと、あっしら下の者は助かるんでやすがね。へえ」
正吉は鼻の下を指で擦りながら、縋るようなの目を向けて来る。
「そんな事までは知りませんからね?」
みそのは苦笑しながら言うと、
「では行きましょうか?」
と、正吉を促して家を出るのであった。
*
「おう、永岡か?」
永岡の気配に気づいた新田が、のんびりとした口調で声をあげた。
新田は美味そうに煙管で煙を燻らしている。
「なにやら思っていた状況と違いますね?」
「ふふ、そうかぇ? ちっとばかし期待外れだったってか?」
「まあ、期待してた訳じゃねぇんですが……」
永岡は新田に応えながらも、部屋の中を珍しそうに見回す。
そこには拷問とは程遠い、なにやら長閑な雰囲気にも感じられる景色があったのだ。
「こいつぁ、伸哉を連れて来てやっても良かったかもな?」
「へぇ。伸哉はともかく、なんとも拍子抜けしやすねぇ?」
智蔵は永岡の軽口に首をひねりながら応え、不思議な物を見る様に周囲を眺めている。
智蔵の横にいる翔太も、智蔵の真似をする様に周りを見回している。
彼はただ物珍しいだけの様だが。
「で、どうなってるんで?」
永岡が智蔵に頷き、その答えを求める様に新田に話しを向ける。
「まあ、お前も一服つけるといいさ。
なんて事ぁねぇ話しさぁね。んなもんで、一服つけながら話すに限るぜ」
新田はそう言って、永岡に床几に座る様に促した。
*
「つまり、こいつらは正真正銘の泥沼の加平一味で、間違ぇねぇって事なんですね?」
「ああ、そう言うこった。
だが、肝心の投げ文が誰に依るものかは、心当たりはねぇんだと」
新田から話しを聞き終えた永岡が確かめる様に問うと、新田は正座で瞑目している男をチラリと見ながら応えた。
新田の話しでは、泥沼の加平は拷問するまでも無く、終始協力的に新田の質問に答えたと言う。
今までの盗みの自白。
各地に配置された盗人宿に隠された金の在処。
その金額に至るまで、それこそ拍子抜けする程に綺麗に吐いたのだった。
ただ、永岡と新田が疑った今回の捕物については全く知らなかったと言い、呆気なく捕らわれた事に関しては、元よりこうなった時には、足掻く事無く潔く捕らわれる事を、予め覚悟していたからだと語ったのだった。
住処を探り当てられた時点で、加平にとっては捕らわれたと同じと言う事だった。
“潮時”と言うやつらしい。
「それにしても、気持ち悪りぃくれぇに喋りやがりましたね?」
「最後の盗みで死人を出したのが運の尽きって訳で、自首すらも考ぇてたらしいぜ。
まあ、その店の女中を殺した輩は始末したみてぇだがな?」
永岡の呟きに似た問いかけに、苦虫を潰した様に新田が応える。
盗人の中でも泥沼の加平は、その名前こそ知れ渡ってはいたが、これまでの盗みでは、一度も死人を出した事の無い盗賊一味だった。
殺さず、犯さず、潰さない。
所謂、盗人三カ条を地で行く盗賊なのだ。
盗人三カ条とは、盗みを働く時は人を殺めない、女を犯さない、金を盗まれて難儀する様なところには手を出さず、盗んだ後に店が潰れてしまう程は盗まない。
盗人なりに信条を持った盗賊と言う訳だ。
「始末、ですか……」
永岡はぼそりと言って、未だ瞑想する様に正座している泥沼の加平に目を向ける。
「で、その女中を殺した輩ってぇのは、何者なんです?」
「ああ、そいつは助け働らきを専門にする輩らしくてな。
手が足りなくて助けてもらうことになった、熊手の弥五郎ってぇケチな盗人みてぇだ。
まあ、その弥五郎を紹介した者の事ぁ、知らねぇの一点張りなんだがな?」
永岡の更なる問いに答えた新田は、最後は肩を竦めて片目を瞑った。
仲介役を捜し出したところで、この件に関しては何も進展しそうにないのと、ここまで無条件に語った加平は、この先は仲介役に義理立てして、死んでも吐かないだろうと睨んでの事だ。
「それに、引き込みをやってた女の名前も知らねぇとよ。
要はお縄になった者以外は吐く気がねぇってこったな」
「新田さんも丸くなったもんですねぇ?」
永岡が冗談交じりに言うと、新田は鼻で笑って煙を吐いた。
「オイラも無駄な事ぁしねぇだけさね」
煙草盆に煙管を打ち付けて火種を落とした新田は、そう戯けた口調で言う。
「まあ、喋りたくねぇ事ぁ口を割らねぇが、顔色を見るだけでもその答えが聞けるってもんよ。
お前も聞きてぇ事ぁ聞いて行くといいぜ?」
「ありがとうございます。早速そうさせてもらいます」
新田にそう応えた永岡は、智蔵をチラリと見やると、大人しく瞑想する泥沼の加平の前に床几を置き、ゆっくりとそれに腰をかけた。
新田との話しを聞いていたのか、目の前に座った永岡の気配に気づいたのか、泥沼の加平はゆっくり瞑想を解いた。