第三十八話 千佐万別
「こんガキゃあ、ここらでウロチョロするんじゃねぇって、何べん言ったらわかるんでぇ!」
男が未だ小さな子供を突き飛ばしながら、どやしつけている。
「兄ちゃん…」
突き飛ばされた子供に、更に小さな子供が駆け寄って半べそをかいている。
「お千代、兄ちゃんは大丈夫だから泣くんじゃないよ?
それにあの人だって活計がかかってんだから、しょうがないよ。
でも、今日はここらで切り上げようかね?」
突き飛ばされた子供はそう言って立ち上がると、大きな前掛けを持ち上げ、辺りに散らばった紙屑などをその中へと回収して行く。
「おう、クソガキっ、その紙屑は置いてけ!
そりゃ俺の縄張りに落ちてた紙屑だろうがっ、さっさと渡しやがれっ!」
男は子供に詰め寄って凄んでみせる。
「やなこった! これはオイラが拾ったんだぃ!
それにここはおじさんの縄張りなんかじゃないやいっ!
ここは江戸の町なんだから将軍様のもんだぃ。おじさんなんかのもんじゃないやい」
「煩えガキだなぁ、そいつを寄越せって言ってんだろうがっ!
やっぱり痛え目に遭わねぇと分かんねぇみてぇだなっ」
男は逆上し、子供が拾い集めた前掛けの中の紙屑を乱暴にぶちまけた。
「きゃっ」
お千代と呼ばれた女の子が悲鳴を上げる。
「寄越せって事は、やっぱりおじさんのもんじゃないんじゃないかっ!
自分のもんだったら、返せって言うだろっ!
やっぱり、これはオイラのもんだぃ。絶対におじさんなんかにあげないよっ!」
子供は気丈にも言い放ち、男を睨み付けるように見上げている。
「ゴタゴタ煩え事抜かしやがって、こんクソガキゃあ!」
男がいよいよ我慢ならず、手を振りかぶった時、
「やめなさいよっ!!」
一際大きな声が響き渡った。
「相手は子供なのよっ、あんた馬鹿じゃないのっ!?
しかも、完全にこの子の言ってる事の方が正しいわよ。悔しかったら暴力なんかじゃなく、正論で言い返しなさいよねっ!
論破出来ないから逆上するなんて、見苦しいわよっ。最低の男ねっ!」
みそのが駆け付け様、男に猛烈な勢いで吠え立てる。
先ほどの遣り取りを見兼ねたみそのが、堪らずに飛び出して来たのだった。
「こんアマぁ〜。
言わせておけば調子ん乗りやがって、お前も一緒にぶちのめしてやろう…って痛ててててててててててーっ」
男がみそのに掴みかかろうとした時、いつの間にか男の後ろを取った源次郎が、男の腕を捻り上げていた。
「大丈夫? 痛いところはない?」
みそのは男の子の着物についた土を払い、しゃがんだ格好のまま声をかけた。
件の男はすっかり源次郎に任せている。
「うん、大丈夫。ありがとうお姉ちゃん」
「そう? なら良かったわ」
みそのが安心して立ち上がると、
「あのおじさん、どうなるの?」
と、男の子は、源次郎に後ろ手に連れられて行く男を指差して言った。
「たぶん自身番へでも連れて行くんだと思うけど?」
みそのがそれに応えると、
「可哀想だよ。番屋に連れてくのは許してあげてよ?」
と、男の子は男の心配を口にする。
そして、
「あのおじさんだって、活計の為に必死なんだよ。オイラは怪我もしてないし、紙屑だって取られてないんだから許してあげてよ?
ねえ、この通りだよお姉ちゃん」
と続けて、みそのに頭を下げている。
「ふふ、分かったわ。ちょっと待っててね?」
みそのは男の子の優しさが嬉しくなり、そう言うと源次郎の元へ駆けて行った。
みそのは、源次郎と共に浅草は今戸町へと向かっている途中、今の騒動に出喰わしたのだった。
大の大人の余りにも理不尽な振る舞いに、堪らずに口を出してしまったのだ。
「大丈夫よ、自身番へは連れてかないって。
でも、ちょっとだけあのおじさんが懲らしめるってさ」
みそのは子供達の元へ戻ると、悪戯っぽく言って片目を瞑った。
「でも…」
それでも男の子が心配顔で口ごもるので、
「いいのよ。そのくらいの事はしたんだから、ちょっとくらいお灸を据えないとね?
私にだって殴りかかろうとしてたでしょう? いいのいいのっ」
と、みそのは殊更戯けたように明るく言って、男の子を笑わせた。
「私はみそのよ。宜しくね?」
「うん。オイラは千太って言うんだ。こっちは妹のお千代だよ。
ほらお千代、みそのお姉ちゃんに挨拶するんだよ?」
「千代だよ。みそのお姉ちゃん、ありがと」
お千代が恥ずかしそうにお礼を言うと、みそのと千太は目を合わせてクスリと笑ってしまう。
*
「本当に乙松を殺ったんなりゃ、許しちゃ置けねぇ…。クソっ、あんの野郎…」
佐吉がブツブツ言いながら歩いている。
佐吉は、永岡から普段通り自由に歩き廻るように頼まれていた。
巳之吉や栄二の警戒を解くのと、あわよくば接触するのが狙いだ。
乙松が死んでいた事を聞いてからの佐吉は、永岡達に協力的で、むしろ自分から進んで役に立とうとしていた。
しかし、最初は自宅待機で巳之吉達が繋ぎに現れるのを待つ作戦だった為、佐吉としては、今朝から物足りなさを覚えていたようで、永岡からこの話を聞くや、やる気を漲らせて二つ返事で承知したのだった。
くすねた金とは言え、その金を騙し取られる上に、唯一と言って良い友まで殺されたのだ。
しかも金は、自分から預かってもらうように頼んだ形になっている。
自分の浅はかさに腹も立つのだが、それ以上に巳之吉と栄二が許せないのだった。
「ったく、俺はなんて間抜けなんでぇ。俺のせいで乙松が…」
相変わらずブツブツ言いながら、佐吉は町を歩いて行く。
佐吉の後ろからは、伸哉が見え隠れしながら跡をつけているのだが、距離がかなり離れているせいもあり、側から見てもそれとは判らない。
自由に町をうろつくとは言え、念の為、要所要所の行き先は打ち合わせ済みだったのだ。
誤って見失ったとしても、次の行き先が判っている為、そこまで必死に跡をつけなくても良い。どちらかと言えば、跡をつけている事が、第三者から判らないようにする事が肝要だった。
永岡と智蔵は佐吉より更に先行して歩いている。
こちらも行き先を予め頭に入れている為、距離は充分に取っている。時折茶店などに入り、佐吉をやり過ごしながら、次の行き先へと先回りしたりしているのだ。
二日後に例の両国の茶店で会う事にはなっているので、それまでに繋ぎがあるとすれば、何か緊急事態があった時だと佐吉は言う。
若しくは、佐吉を殺しに来る時だ。
佐吉は千両もの金を預けているにも関わらず、巳之吉の住処を知らされていない。
これは、仮にこの千両を隠した浪人に佐吉が見つかった時、下手に巳之吉の住処を知っていると、拷問などされれば居場所を吐いてしまうからと、巳之吉から最もらしく言われての事だった。その代わりに小まめに繋ぎをつけ、頻繁に会うようにするとの事だ。
何ともお粗末な契約である。
「野郎を見つけたらどうしてやろうか…。
いや、俺、殺されちまうのか?
いやいやいや…」
佐吉は一瞬、巳之吉に殺される自分が脳裏に浮かぶも、直ぐに首を振って打ち消し、町を歩いて行くのだった。
*
「へぇ、千太さんは偉いのねぇ」
「やめてよ、みそのお姉ちゃん。
偉いとかは、もっと違う事に使うんだよ?
オイラなんか、ただ活計の為にやってるだけなんだから、オイラが偉かったら、他の人達みんな偉くなっちゃうよう。
本当に偉いのは将軍様だけなんだよ」
みそのは千太とお千代と連れ立って歩いている。
歩きながら千太の境遇を何気なく聞いていたのだ。
先ほどは田原町の紙漉き業者のところへ、回収した紙屑を売りに行ったところだった。
千太の話では、紙屑買いや紙問屋などへ売るよりも、多少高く買い取ってくれるとの事だった。
千太は直接紙漉き業者へ紙屑を持って行くと、丁寧に細かく千切って渡していた。
その一手間をかけたからか、子供が兄弟で連れたって来ているからか、業者の者は多少色を付けて、千太から紙屑を買い取ってやっていた。
業者の訳知り顔なところを見ると、千太の境遇を何処かで仕入れて来ているのかも知れない。
千太は五文の銭を手にすると、そんな温情も分かってか、深々と頭を下げて礼をしていた。
千太は、他にも木屑を拾ったり、ドブ浚いや町場の御用聞きなどをして、その駄賃などで活計を立てていると言う。
土地柄、近くに浅草紙(漉き返して作る再生紙)絡みの業者が多数ある為、中でも紙屑拾いは時間が空けばやっているとの事だ。
先ほどの男は紙屑拾いを生業としている男で、言わば商売敵と言う事になる。
男にとっては、千太が紙屑拾いをするようになってからと言うもの、急に売り上げが落ち、生活が苦しくなっていたのだ。
どうやらその憤懣が爆発して、あのような暴挙に出ていたようだ。
千太もそれを理解しているので他でも稼いでいるのだが、やはり合間で出来て、土地柄的にも直ぐに銭になる。自然、その割合は増えてしまっていた。
千太も背に腹はかえられぬと言う訳だ。
千太は紙屑を売った後は、近くに普請している現場があると言い、今はその普請場へ向かっている。
木屑を恵んでもらおうとの事だ。
みそのは、これにもついて廻っているのだ。
源次郎は最初の男を捕らえた時以来、顔を見せていない。
だが、きっと人知れず何処かからこの様子を見ているのだろう。
「千太さんは、随分と将軍様がお好きなのねぇ?」
みそのは千太が度々「将軍様」と、口にするので、たった今も「本当に偉いのは将軍様だけなんだよ」と言った千太に、少し大袈裟な口調で聞いてみた。
「そりゃそうだよ。将軍様はオイラ達の声が聞きたいって、わざわざ目安箱ってのを置いてんだよ?
凄くお忙しいんだよ将軍様は?
中々出来る事じゃないよ。オイラはそれを聞いて、もっと将軍様が好きになったんだ」
千太は鷹揚にみそのへ答える。
それを聞いたみそのは、複雑な思いになりながらも、千太のイメージを壊さぬよう上手くやらねばと、改めて思うのだった。
そして、あれこれと話している内に、お目当の普請場へと辿り着いた。
着いて早々、馴染みの大工が千太を見つけ、
「おう、千坊。今日は惜しい事したなぁ、ちっとばかり前に先客があったばかりでぇ。また今度来てくんなっ」
と、片手拝みに声をかけて来た。
どうやらお目当の木屑などは、同業者が拾って行った後だったらしい。
「うん。でも、せっかく来たから、さっと見て回ってもいいかい?」
「おう、そりゃ構わねぇぜ?
いつもありがとな」
千太は職人に断ると、普請場をせっせと見て回り、吹き込んで来た落ち葉やホコリ玉などを拾って行く。
時折釘などを見つけてはニンマリさせ、せっせとゴミ拾いをして回った。
千太の通った後は綺麗なもので、塵一つなく掃除されて行く。職人が礼を言うのも頷ける。
千太は宣言通り、さっと見て回ると、
「ほら、釘が四本も落ちてたよ?」
と、嬉しそうに曲がった釘を職人に見せて自慢した。
「おうおう、先客も千坊に比べりゃ未だ未だだな?
流石千坊でぇ。ほれ、こいつぁその先客が見落としてったもんでぇ。持ってくといいさね」
職人は千太を誉めちぎり、千吉が見回っている際に取って来た、一尺(30センチくらい)程もある角材の端を手渡した。
どうやらこの職人は、千太が来るのを見越して取っておいたようだ。
「ありがとうっ!」
千太はぱっと顔を明るくして、深々と頭を下げる。
嬉しそうにする千太に、頰を緩めた職人は、
「ほれ、今日はこんなもんも有るんでぇ。お千代坊と一緒に食いねぇ」
と、懐から袋に入った金平糖を取り出して、千太の手に握らせた。
「で、でも…」
千太は中身が金平糖と分かるや困惑してしまう。
「いいんでぇ。ほれ、おじさんの子供達にもちゃあんと別に買って有るんでい。遠慮せずにもらってくんな?」
職人は懐からもう一つ紙袋をだして見せ、遠慮する千太の頭をワシワシと撫でた。
「お千代、金平糖をもらったよ?
ほら、一緒にお礼をするんだよ?」
千太はお千代を呼び付け、職人の前で並んで頭を下げて礼を言う。
職人は益々頰を緩めて、
「おうおう、明日ぁ休みだが、また稼ぎに来てくんな?」
と、二人の頭を同時にワシワシと撫でるのだった。
千太は落ち葉などをゴミ入れに入れると、職人へもう一度礼を言い、普請場を後にした。
普請場を後にした千太は、離れてその様子を見ていたみそのへ近づくと、
「凄い収穫だったよ、みそのお姉ちゃん!」
と、嬉しそうに職人から貰った角材を見せる。
「みそのお姉ちゃんが、オイラにツキを呼んでくれたんだよっ! ありがとう!」
「いや、これは千太さんの日頃の行いが良いからよう。
良かったわね?」
千太にみそのが返すと、千太は嬉しそうにコクリと頷いた。
「この角材はどうするの? これから湯屋にでも持って行く?」
みそのは木っ端としては立派な角材を見て言う。
「うん。これは家に持って帰って、削ってから付け木売りに売るよ。その方が高く売れるしね?
みそのお姉ちゃんはこれからどうするの?」
みそのの問いかけに鷹揚に答えた千太は、みそのの予定を心配顔で聞いて来た。
先ほどから自分達について来ているので、みそのの用事が心配になっていたようだ。
「うん? ああ…今日は浅草山谷の先に住んでる、知り合いのところへ行こうと思ってたんだけど、特に約束もしていないから、せっかく千太さんとお千代ちゃんに出会えた事だし、今日は千太さん達とご一緒してもいいかしら?
それに私、良い普請場を知ってるの。良かったら案内するから行きません?」
みそのは、明日会う予定の庄左右衛門を言い訳にし、酔庵の長屋の普請に思い当たって、千太を誘ったのだった。
「そうなの? その普請場って何処にあるの?」
「それが少し離れてて、深川なんだけどね…。
でも、私の知り合いの普請なので、色々と融通してくれると思うわよ?」
千太は少し考えると、ニコリと頷いて、
「お千代、これから兄ちゃんは、みそのお姉ちゃんと出かけて来るから、これ持って先に家へ帰ってて欲しいんだ。一人で大丈夫だよな?」
と、妹のお千代に言い含める。
お千代も、「うん」と、大きく頷いて、重そうに角材の端切れを抱えた。
「あら駄目よ…。
少し遠出になるから、お千代ちゃんがお留守番なのは分かるけど、お家に寄ってからでもいいのよ?」
それを見たみそのが、慌ててお千代から角材を取り上げて言うと、
「いいんだよ、みそのお姉ちゃん。
家はそんなに遠くないから大丈夫だよ。
でもその代わり、オイラやる事があるから少し付き合って欲しいんだ?」
と、千太は、あくまでお千代を一人で行かせて、その上でみそのへは自分に付き合うように頼んで来た。
「千太さんは未だ用事があったの?
なら普請場はまた今度にする?」
みそのは千太の都合も考えなかった事に、後悔しながら言うと、
「違うんだよ、みそのお姉ちゃん。用事は普請場へ行く為に、これから作るんだよ…」
と、千太はバツが悪そうに応えた。
訳を聞けば、大川を渡った先に言付けやら手紙を届ける、御用聞きに回ろうとの事だった。
千太は普段からこんな御用聞きもしていると言う。
橋の渡り賃を貰っての御用聞きなので、数が纏まれば、片道二文、往復で四文の渡り賃が、御用の数だけ丸々稼ぎになるのだった。
人によっては駄賃も弾んでくれるので、これも千太の活計としての柱になっていた。
「ふふ、そう言う事ね。そうしたら、私はお千代ちゃんを送って来ますから、千太さんは御用聞きに回ってくださいな?
お千代ちゃんを送り届けたら、私はこの辺りで待ってるわね?」
みそのは千太に感心しながらも、そう提案して、千太を恐縮させた。
「じゃあ行きましょっか、お千代ちゃん?」
みそのの言葉に、お千代は、「うん」と、大きく頷いて、二人は仲良く手を繋いで歩いて行った。
千太は、そんなみそのの背中にペコリと頭を下げると、御用聞きへと近くの蕎麦屋へ駆け込んだ。




