第三十七話 様子見
「帰ったぜっ」
永岡の声で、洗い物をしていたみそのは顔を上げ、いそいそと玄関口まで出迎えに走った。
「ちょっと前まで新さんがいらしていたのですよ?
偶々昔の知り合いの方もいらして、一緒に食事をして行ったので、余り残っていないんですよう。お腹空いてます?
簡単な物しか出来ないのですが、何か用意しましょうか?」
みそのは永岡の顔を見るなり、食事の心配をすると、
「いや、今日は豆藤で食って来たんで、腹は大丈夫でぇ。
それに、偶には役宅に帰らねぇと煩えから、今夜は長居しねぇで帰るとするぜ?」
と、永岡はみそのをホッとさせる言葉と共に、ガッカリする言葉を返し、
「ところで昔の知り合えって、一体誰なんでぇ?」
と、気になった事を口にした。
「いえ、祖母と面識のあった殿様が、ぶらりと寄ってくださったのですよ。
そうそう、聞いてくださいよ。
その殿様に順太郎さんの出稽古先にとお願いしたら、快く引き受けてくださったのですよ!」
みそのは濯ぎで永岡の足を洗いながら応えると、
「ほぅ。そりゃ大したもんだな?
それにしても、良くそんな事気軽に引き受けたもんだな…。
で、その殿様ってぇのは、何処の殿様なんだぇ?」
と、感心しながらも、その奇特な殿様の事が気になったようだ。
「加納久通様と言いまして、なんでも、お城で御用懸りをなさってるとか」
「なっ、何ぃっ! そ、そいつぁ本当かぇ?!」
永岡は御用懸りと聞いて、声を荒げて驚いている。
「ええ、御本人が仰ってましたので」
「………ま、まあ、中でゆっくり話を聞くとするかぇ…」
みそのの当たり前のような物言いに、永岡は口ごもりながら応えると、手早く足を拭って中へと上がった。
「それにしても、お前の知り合えにゃ、大物が多くてびっくりするぜぇ」
永岡は茶を啜りながら、呆れたように口を開く。
「この前は隠居とは言え、あの豊島屋のすーさんだろぃ?
そんでもって、今度ぁ御用懸りの加納久通様と来たもんだ。言ってしまやぁ、新さんだって大物臭がプンプンしてらぁ。
あとどんだけ居るってぇんでぇ?
どうにも末恐ろしくなってくるぜ…」
永岡は、わざとブルリと身震いさせて戯けてみせるも、目は真剣そのもので、みそのの交友関係に恐れを抱いているのは、あながち大袈裟では無いようだ。
確かに新之助は、永岡の推察以上のこの上ない大物であるからして、無理もないだろう。
そんな永岡に苦笑したみそのは、
「皆、偶々知り合いになったたけですよう。それに、一番の大物を忘れていますよ?」
と、永岡に返す。
永岡がだれの事やらと眉を寄せて考えていると、
「梅さんって、すこぶる男前の事ですよう?」
と、悪戯っぽく言って笑った。
「な、なんでぇ揶揄いやがって…。
それにその呼び方をするんじゃねぇやいっ」
永岡は照れ臭そうに言い放つ。
それにみそのは肩を竦めつつも、何かを思い出したのか、
「あ、そう言えば梅さん。今日…」
「お前なぁ、サラッと言やぁ分からねぇとでも思ってんのかぇ?
ったく、その呼び方はやめねぇかいっ」
と、話し出したところで、また永岡に呆れられながら横槍を食らう。
「ふふ、別に良いじゃない、本当に梅さんなんだから…」
「で、今日がどうしたってぇんでぇ?」
みそのが口を尖らせてブツブツ言っていると、永岡がそれに被せて、面倒くさそうに話の続きを促した。
みそのはそれを堪能するようにニコリとすると、
「そうそう、今日なんですが、あの後にあの佐吉って人の長屋へ、仲間の男の人が訪ねて行ったのじゃありませんか?」
と、弁天一家の前で見かけた男の事を問い質した。
「あの後ってぇと、番屋の後だな?
忠吾からは何も聞いてねぇがな…。
で、どう言うこってぇ?」
永岡は佐吉を連れ、北忠達が見張っていた長屋へ駆け付けた時も、近くの自身番で尋問した時も、ましてや豆藤での報告会でも、一言もその話は聞いていなかった。
北忠には伸哉も付いていたので、何か有った場合は、北忠から話が無いにせよ、伸哉から話があっても良いものだ。
そんな訳で、永岡は尚更訝しんだのだ。
「あの後すーさんと弁天一家へ行ったのですが、その時に茶店で絡んで来た男が通りかかったのですよ。
跡をつけようとも思ったのですが、正吉さんとすーさんに止められましてね…」
「当ったり前でぇ!
直ぐ前の佐吉の時に言ったばかりじゃねぇかぇ?
ったく、お前ってヤツぁ懲りねぇ野郎だな」
案の定、永岡がどやしつける。
「でも、結局つけなかったんですから、いいじゃないですかっ。
そんな風に言われるんでしたら、今度は跡をつけますからねっ」
「ったく……。
で、その男が歩ってった先が、佐吉の長屋方面だったってぇ訳だな?
そいつぁ何刻くれえの話しでぇ?」
みそのがプリプリ言い返すも、永岡は呆れるだけで話を続ける事とした。
「八つ半(凡そ午後三時)くらいかしらねぇ…。
旦那と自身番で別れてから、真っ直ぐ弁天一家へ向かいましたので、多分そのくらいだと思いますよ?」
「そうかぇ。なりゃ、未だ忠吾達が張ってる頃合ぇだな…。
そいつぁどんな顔だったか覚えてるかぇ?」
永岡はみそのの返事を聞くと、少し考えるようにしてから男の容姿を問いかけた。
「なんか目つきがが悪い上に、目の下の隈が凄くて、それがなんとも不気味な感じなんですよう。
背は私より少し大きいくらいなんですが、がっちりした感じの身体付きで、如何にも強そうでして、あの茶店に居た人達の中では、一際不気味で、危ない感じの人なんですよ?」
「そうかぇ。きっとそいつぁ巳之吉ってぇ野郎だろうな。
まあ、お前の見立て通り、その巳之吉ってぇのが、一番の腕っ節で極悪人さぁね。
とにかく、野郎の跡なんかつけねぇで正解だぜぇ。きっとあの野郎が、乙松ってぇのと弥之助ってぇのを殺してるんでな」
「そ、そうなんですか…」
永岡の話を聞いて、みそのはぞっとしてしまう。
「まあ、決まった訳じゃねぇが、先ず間違ぇ無ぇだろうよ。
分かったら、またどっかで見かけたとしても、絶対跡なんてつけんじゃねぇぞ?」
永岡が釘を刺すと、流石にみそのも神妙に頷いた。
「それにしても、あのしょうべん長屋の乙松って人は、死んでいたんですねぇ……?
そしたらあの長屋も、これからは正兵衛長屋に戻るんですかね?」
「なに下らねぇ事ぁ言ってやがんでぇ。んなもんどうでもいいだろうよ?
ったく、お前はよぅ。ふふふ」
みそのがふとした疑問を口にして、永岡は呆れた顔で返すも、思わず緊張が解けたようで笑ってしまう。
「でもしょうべんの人が居なくなったのですよ?
しょうべんの人が居ないのに、しょうべん長屋なんて言われてたら、正兵衛さんが可哀想じゃないですかぁ。
そうなったら普通に悪口ですよう」
「そりゃそうだが、こればっかりはしょうがねぇかんなぁ」
「しょうがないって、もう少し正兵衛さんの気持ちになって、考えてあげてくださいよねっ!」
「いや、なんでオイラが、正兵衛の事まで考ぇねぇといけねぇんでぇ。
お前は正兵衛の事ぁ知ってんのかよ?」
「正兵衛さんの事なんて、私が知ってる訳ないじゃないですか!」
「なりゃオイラだって知らねぇさね」
「旦那は町方なんだから、それじゃあ済まされないでしょうよ?」
「いや、いくらオイラだって、そんな事ぁ構ってられねぇやな。
あれだ、その正兵衛ってぇのも、そこら中で小便するような奴なんじゃねぇのかぇ?
それか、次に入ってくる店子が、小便ったれに違ぇねぇさね。んなこったから、小便長屋のまんまでいいんじゃねぇかぇ?」
「また適当な事言ってぇ」
「いや、適当じゃねぇって、きっとそうなるさぁね」
みそのと永岡は暫く小便談議を繰り広げ、その後には巳之吉の話に戻るも、永岡は辟易しながら役宅へと帰って行った。
*
「あら、本当に源次郎さんが来てくれたのですね?」
「ふふ、案内するよう、仰せつかってるでな?」
朝五つ半(午前九時頃)くらいだろうか、みそのの仕舞屋に、源次郎がひょっこり現れたのだった。
みそのは昨日、早速今日にでも様子を見に行くと、新之助と約束したのだったが、まさか本当に源次郎が自分の案内に付いて来るとは、思ってもいなかったようだ。
「今、出かけようと思っていたところだったんですよ?
ふふ、相変わらず源次郎さんは、私の行動を把握してるんですね?」
みそのは丁度身支度も済み、これから外へ出ようとしていたところだった。
あまりのタイミングの良さに、揶揄うように言ってみたみそのだったが、源次郎のはにかんだ笑顔を見て、あながち間違ってないのではと、閉口するのだった。
今日は浅草今戸の裏長屋に住む、千太の様子を見に行く事になっている。
あくまで目安箱の目安状の事は伏せて、偶然を装って千太と接触し、事情を聞いた上で、千太の力になってやるのが、新之助から託されたみそのの任務だった。
何せ「しごとくれ」との、簡潔で切な訴えである。
千太の願いは初めから分かっているので、今日のみそのは、千太の暮らしぶりや人となりを見る為に、浅草は今戸町まで足を運ぼうとしていた。
「源次郎さん?
もしかして御庭番って、意外と暇だったりするんですか?」
みそのは、源次郎とならんで歩き出して直ぐ、源次郎へ不躾な問いをぶつける。
「ふふ。まあ、これも立派な務めなのでな、こう見えてあれこれ忙しくしとるのよ」
源次郎も、こうしたみそのにも慣れたもので、頰を緩めてそれに応えている。
「ところで何人体制で私を見張っているんですか? って言うか、源次郎さんの配下って何人いるんですか?」
「ふふ」
「もしかして源次郎さんって、新さんより配下多かったりします?
実は裏の将軍様だったりして? って言うか、源次郎さんってお嫁さんいるんですか? ねぇねぇ?」
いつもの如く、みそのの質問責めが始まり、これにも源次郎は慣れた様子で、含み笑いではぐらかしながら歩いて行くのだった。
*
「佐吉は未だ出かけてねぇようだな?」
「へい、伸哉も未だ佐吉と一緒で、店ん中でさぁ。
何か有りやしたかぃ?」
広太は応えると、次の言葉を待つように永岡の顔を見る。
今永岡達は、佐吉の裏長屋の向かいにある乙松の店から、佐吉の店を見張っているのだ。
広太と翔太は昨夜からここへ詰め、伸哉も同様に佐吉の店へ詰めていた。
昨夜は佐吉を尋問していた自身番を出ると、佐吉も連れて『豆藤』へ向かっていた。
広太達が田原町界隈に探りを入れていたので、その報告を聞く為と、進展した状況を共有する為だ。
佐吉は一人にする事も憚れるので、同行する運びになったのだ。
広太達の報告はどれも同じで、中々苦戦したのは伺えたが、何も成果は得られない、もどかしいものばかりだった。
そんな事もあり、田原町界隈に探りを入れる人数を減らし、伸哉が佐吉の店に、広太と翔太が乙松の店に詰め、訪ねて来るかも知れぬ巳之吉と栄二を、護衛も兼ねて待つ事になったのだった。
田原町には、留吉と松次の二人が今日も出張っている。
永岡と智蔵、それに北忠こと北山忠吾は、この正兵衛長屋と田原町を往き来しながら、様子を見る事になっていた。
北忠は途中で別れて、田原町へ向かっている。
そして先ほど永岡と智蔵の二人が、広太と翔太が詰めている乙松の店へと、やって来たところだった。
「いや、ちっとばかし伸哉に聞きてえ事があるんで、すまねぇが伸哉をここへ呼んで来てくれねぇかぇ?」
「へい、合点でぇ」
永岡の言葉を待っていた広太は、永岡が口を開くや、直ぐさま店を飛び出して伸哉を呼びに行った。
そして、程なく伸哉が顔を出すと、
「へい、なんでござんしょう?
広太兄ぃは、自分の代りに佐吉んとこに詰めていやす」
と、幾分嬉しそうに声をかけて来た。
昨夜から佐吉と二人、狭苦しい裏店にいたせいかも知れない。
「おう、ご苦労さん。いや、昨日の事で聞きてぇ事があってな?
忠吾にも聞いたんだが、あいつぁ余り覚えてねぇようなんで、お前に聞いてみようと思ったんでぇ」
「へい、どう言った訳でごぜぇやすかぇ?」
「ああ。昨日みそのが、巳之吉らしい男を弁天一家の前で見たってえんだよ。
みそのが言うにゃ、その男は、この裏店の方へ歩ってったみてぇなのさぁ。それが大体、八つ半くれぇなんだが、その頃にお前が、それらしい男を見なかったかどうかが聞きてぇんでぇ」
永岡が昨日みそのから聞いた事を尋ねると、
「八つ半くれぇでやすかぇ……。
ああっ!」
「どうしてぇ? なんか思い出したかぇ?」
伸哉が何かを思い当たったように声を上げると、永岡は身を乗り出して聞き返した。
「あ、いえ…」
「なんでぇ伸哉。何でもいいから、旦那にゃ隠し事しねぇで、しっかり話すんだぜ?」
伸哉の戸惑った様子を見て、智蔵が横から声をかけた。
「へ、へい、すいやせん…。
実は昨日の八つ刻を過ぎた頃に、北山の旦那が饅頭を買って来てやるって言い出しやして、四半刻くれぇ抜けてたんでさぁ。
そんで、北山の旦那が帰って来た時の事なんでやすが、あっしが北山の旦那の姿を見つけた時に、北山の旦那の後ろを男が遠去かってったのを見たんでやすよ。
あん時ぁ柄が悪りい野郎だなぁくれぇにしか、思っていやせんでやしたが、今の話しを聞いちまいやすと、やけに急いでる風でもありやしたし、北山の旦那の格好を見て引き返しちまったって、見えなくもねぇでやすね。
あっしは後ろ姿しか見てねぇんで、顔はわかりやせんが、野郎、市松文の派手な態していやしたぜ。
そんであっしも目が行ったんでさぁ」
伸哉が語り終えると、
「そいつだな。
みそのも市松文で目立ってたって言ってたぜ。ったく、忠吾の野郎はどうしょもねぇなぁ。
とにかく、巳之吉はここへ来たのは間違ぇ無ぇだろうよ。
まあ、オイラ達が佐吉を張ってるってぇ、勘付かれちまったんだけどな?」
と、永岡は苦虫を潰したように言って、智蔵を見る。
智蔵も難しい顔で、
「もう現れやせんかねぇ?」
と、永岡の視線に応え、
「念の為、このまま広太達にゃここへ詰めてもらうとしても、ここで捕らえる事ぁ考えねぇで、少し佐吉を泳がせやすかぇ?」
と、続けた。
「そうさなぁ…。
まあ、それが一番だろうな?
佐吉にゃ普段通り、自由にうろついてもらって、オイラ達がそいつをつけるとするかぇ?
そしたら、ここへは広太と翔太が残るんでいいかぇ?」
永岡は智蔵の考えを入れ、人割りを確認する。
「へい、何があるかわかりやせんので、広太は残しといた方がいいと思いやすぜ。
そこへ翔太をつけておきゃあ、何とかなりまさぁ」
「よし。じゃあ早速手配りしようじゃねぇかぇ。
このまま佐吉の店へ行って話そうぜ」
「へい」
話は纏まったようで、永岡達は乙松の店を出ると、佐吉の店へと入って行った。




