第三十二話 検屍と見識
「永岡、ちょっと良いかぇ?」
「どうしましたか沢田さん…」
奉行所に出仕した永岡は、同心部屋へと入った矢先、珍しい人物から声をかけられた。
その珍しい人物と言うのは、永岡と同じ定町廻り同心、沢田謙一郎だ。
彼の家は代々検屍に明るく、この謙一郎の代となっても、紛う事なくそれが受け継がれている。
その検屍の腕はと言うと、南北両町奉行所を見回しても、彼の右に出る者はいない。
それは奉行所内では周知の事実であり、謙一郎は自他共に認める、検屍のエキスパートなのだ。
故に、謙一郎は検屍役とも呼ばれ、皆から一目置かれるとともに、指名で検屍を依頼される事が多々あるのだ。
謙一郎も検屍への熱意には只ならぬものがあり、依頼されれば、何処へでも駆けつける気安さを見せていた。
正しく、検屍役に相応しい働き振りをしているのだ。
そんな謙一郎から、出仕早々に声をかけられた永岡は、謙一郎の前に座る北忠を目にし、昨日の水死体についての話なのだと、当てをつけるのだった。
「…って、忠吾が居るって事ぁ、お前が扱った仏さんのこったろうな?」
永岡は北忠に声をかけながら、その隣へと腰を下ろした。
「いえ、永岡さんが来られてから、お話しくださるとの事でしたので、私も何もお聞きしていないのですよぅ」
永岡が隣に座ると、北忠は小声で説明する。
「そんな事ぁ状況見りゃ分かるだろぃ。
で、沢田さん、何かあったんでぇ?」
永岡は北忠に返すと、すぐさま謙一郎へ目を向けた。
「昨日の北忠が検屍した亡骸なんだがな?
確かに北忠の調べ書きは、一見、的を射ていて良く出来たものだったんだが、ちと見落としがあったんでな、あの亡骸は、毒殺された後に川へでも捨てられたと、俺の方で書き替えたのだ」
謙一郎の話しを聞き、北忠が驚きながらも不服そうに、
「えっ、でも私は沢田様の教え通りに、推察したのでございますよ?
見落としとはどう言った事でございますかぇ?」
と、返して頬を膨らませた。
謙一郎は、そんな北忠に苦笑を浮かべながら、
「北忠、お前は亡骸の口の中を検めたかぇ?」
と、北忠を覗き込むように問いかける。
「いえ、そんな事はしませんよ私は。
口の中なんて気持ち悪いじゃないですかぇ?
なんてったって、私は指一本触れてませんからねぇ」
北忠は悪びれもせずに言い立てる。
そんな北忠に、謙一郎は相変わらず苦笑いを浮かべているが、隣で聞いていた永岡は、
「お前、そんなんで調べ書きを書いたってぇのかぇ?
全くお前って奴ぁ、本当どうしょもねぇな…」
と、呆れた声を上げ、諦めたように首を振る。
「それで、口の中に何か毒物が見つかったって言うのですかぇ?」
「いや、毒物があった訳じゃないんだが、舌がかなり爛れててな?
それに、目も殺された後に閉じられたようで、瞼の裏に血痕が残っていたのだ。
北忠は指一本触れてないって事だから、見つけられなくとも致し方ないがな?」
北忠の問いに、謙一郎は律儀に応え、最後は揶揄うように言って頰を緩ませる。
そして、今度は永岡へ目を向け、
「それで、先だっての裏店での事を思い出してな?」
と、別の話しを語り始めた。
「あれも、些少ながら舌が爛れてたんだ。
まあ、爛れてると言っても、昨日の亡骸程の事でも無く、不節制も過ぎれば、あのくらいのものにはなるので、あの時は然程気にもしなかったんだ。
しかしこう続くと、俺も気にかかって来たって訳だ。
下手人は、昨日の亡骸は川へ捨てるつもりだったから、毒にやられて目や耳なんかから出血した血も、川の水で洗い流されると思ったんだろうが、裏店のあの亡骸はそうは行かないから、あの亡骸は毒殺後に、鮮血は綺麗に洗い流してたんじゃないのかとな?
あの店には、酒や水がぶち撒けられてたんだろ?
そう考えると、あれは血痕を綺麗にする為のものだったんじゃないかぇ?
あの男が酒を飲んでる時に、心の臓の発作を起こして、苦しみながらも水瓶のところまで行って、水でも飲んでる内に事が切れたんだろうってのが、俺があの裏店へ行って推察した筋書きだ。
要は俺も、大酒飲みで心の臓を弱らせてる野郎って、決めつけてたところがあったんだな。
些少だったとしても、あの舌の爛れを、不節制から来たものだと見たのは、そう言った先入観もあって、見立て違いをしてたんじゃないかって、だんだん思って来てる訳なんだ」
語り終えた謙一郎は、顳顬を人差し指で掻いている。
「オイラも昨日の調べで、新たに見えて来た事があるんですよ?
そんで、あの裏店で死んでた弥之助ってぇ野郎も、事故死に見せかけた殺しの疑いが出て来てるんで、今日から調べ直すとこだったんです。
沢田さんもそう思い直してんなりゃ、こいつぁ間違ぇ無ぇ感じですぜ?
ちょいと力ぁ入れて、調べ直すとします」
永岡は謙一郎の見解を聞き、益々その思いを固めて力強く応えた。
「と言う事は、あれですかぇ?
私が昨日検屍したお方は、例の四人の内の一人かも知れない、と言う事ですかねぇ?」
北忠がのんびりと声を上げると、永岡は呆れながら、
「まぁ、そうなんだが、これからそいつを調べんじゃねぇかぇ?
ったく、他人事みてぇな言い方してんじゃねぇやぃ」
と、ぼやいて、北忠の鼻頭を指でビンっと弾くと、北忠は「うっ」と短い呻き声を上げ、鼻を押さえながら後ろへ倒れて行った。
*
「みーさん。倅はあれでがめついところもありまして、無理な願いの一つや二つ言って来ても、何も不思議はありませんからな?
そこはあれですぞ、みーさんは私の事などは気にせずに、遠慮無くお断りになって構いませんぞ?」
酔庵がみそのと肩を並べ、歩きながら話している。
酔庵は、永岡が奉行所へ出仕し、朝四つ(凡そ午前十時)を知らせる時の鐘が鳴った頃に、みそのの仕舞屋を訪れていた。
今日のみそのは、酔庵の息子である十右衛門の招きで、鎌倉河岸にある豊島屋を訪れる事になっている。
酔庵は昨日、庄左右衛門と遅くまで碁を楽しみ、久々に鐘ヶ淵の隠宅へ帰っていたので、今朝は鐘ヶ淵を出て、鎌倉河岸へ向かう途中に、みそのの仕舞屋へ立寄ったのだ。
「それに、わざわざ煙草の土産なぞ良いと言うのに…」
酔庵は眉をひそめながら恐縮する。
先ほど寄り道した、煙草屋での事を言っているのだ。
みそのは、新之助との繋ぎに決められている煙草屋へ寄り、十右衛門への土産を買うついでに、庄左右衛門との約束を認めた結び文を、酔庵に気づかれないように渡していたのだ。
「手ぶらで行くのもなんですし、お煙草がお好きなら、もらっても困らないでしょうからね?
すーさんこそ、そんな事はお気になさらないでくださいな」
みそのは新之助への繋ぎのついでとも言えず、適当に返して笑ってみせる。
「でも、すーさん。本当に豊島屋さんの後も来るのですか?」
「何を言ってるのですかな、みーさん。
そんな面白そうな催しがあるのでしたら、倅のところなぞに行くよりも、余程そちらへ行った方が宜しいくらいですぞ?
どちらか選べと言われたら、私はそちらを選びますからな!?」
みそのの問いかけに、酔庵は口を尖らせながら言い返し、恨めしそうな顔をする。
これは仕舞屋を出る際に、みそのが今日の予定を話し、これから行く豊島屋では、然程長居が出来ない旨を話していたからだ。
その予定と言うのは、昨日甚右衛門を訪れた際に急遽決まった事で、小握り屋を表店で開店するに当たっての、新しい料理のお披露目会だった。
ただ、お披露目と言っても未だ試作段階で、みそのとしては、もう少し練りたいところなのだが、せっかちな甚右衛門のたっての願いで、どんな物か少しでも早く知りたいとの事で、昨日の今日にも関わらず、お披露目会を催す運びになってしまったのだった。
「それとも何ですかな。みーさんは、この私が鬱陶しくなって来たのですかな…?」
酔庵は哀しそうな目をみそのへ向ける。
「そんなはずないじゃないですか?
ただ、お披露目会と言いましても、未だ未だ試作と言うか、人に見せる程の事でもないので、すーさんに見てもらうのだったら、もう少しちゃんとしてからの方がいいかなって、思っただけですよう」
みそのとしても、昨夜東京で作ったのと、今朝江戸での再現性を試す為に、永岡の朝食に作っただけで、未だ未だ改善の余地があったり、種類を練りたいと思っている。
ただ、永岡の評価は上々で、出された料理をペロリと平らげ、目を剥いて感心していた事を思えば、少なからず自信もあるのだった。
「すーさんったら、変に気を回さないでくださいよねー」
みそのは戯けたような声音で言うと、ひょんな事から付き合いが始まった老爺を、竹馬の友を見るように見て、クスクス笑いながら歩みを早めるのだった。
*
「これはこれは初めまして、私が十右衛門で御座います。
みそのさんには大変お世話になっていると、親父殿からお聞きしておりますので、今日はそのみそのさんとお会い出来て、とても嬉しく思っているのですよ?
とにかく、宜しくお願い致しますね。
それに、うちの者は皆、最近の親父殿は精気が戻ったと、口を揃えて言っておりまして、これも全て、みそのさんのおかげだと思っております。
本当にありがとう御座います」
みそのと酔庵が鎌倉河岸の豊島屋へ到着すると、早速主人の十右衛門が挨拶へ現れ、矢継ぎ早に話してみそのを恐縮させている。
そうして、みそのは小さくなりながらも、十右衛門に案内させるがまま、酔庵と一緒に客間へと通された。
「いやぁ、本当にお会い出来て嬉しいのですよ。
何せ、みそのさんはあの商売繁盛の氏神様だとか、生き神様だとかとの噂の、商売繁盛指南のお方と言うじゃありませんかぇ?
私も親父殿からその話をお聞きしてから、尚更お会いしたくてしょうがなかったのですよ」
十右衛門は腰を下ろすや、また矢継ぎ早に話し出した。
みそのは十右衛門の話を聞きながら、じっとりとした目を酔庵に向ける。
「つい口が滑ってしまいましてな…」
みそのの視線を受け、酔庵はバツが悪そうに小声で言い訳をしている。
この件に関しては、内緒にするとの約束だったのだ。
「いえ、商売繁盛とかそんなのは、本当に話が大きくなっているだけの事でして、そんな噂は本気になさらないでくださいね?
それに、豊島屋さんこそ、商売繁盛を体現しているのですから、それこそ私なんて話しにもならないのですから…」
「いえいえ。この度のラー油でしたか? あれにしたって、十分この豊島屋に、商売繁盛指南をして頂く事になりますぞ?
あれは必ず、売り上げを大幅に増やしてくれるはずです!
いやぁ、親父殿も良い縁を結んでくれました。流石に親父殿と、内心改めて感心していたところなのですよ?
ああ、話に出ましたので、ラー油のお取り引きについて、早速話しておきましょうかね? 」
みそのの謙遜もなんのその、十右衛門は上機嫌で話を続ける。
「みそのさんは、あのラー油を安定して卸す事が可能なのですよね?」
「まあ、量にもよりますが、調味料ですし、そう大量に消費する事も無いと思いますから、多分大丈夫だと思いますよ?」
十右衛門の問いに、みそのは少し考えるようにして応える。
「まあ、酒と違ってがばがば飲む訳ではありませんし、確かにみそのさんが仰るように、調味料として使用する限り、そう大量と言う訳では無いと思いますが…。
とは言いましても、この豊島屋での一日の商いは中々のものでしてね? 存外な量にもなると思うのですよ?」
「はぁ…」
十右衛門が語ってニヤリとすると、みそのは恐々と相槌を打つ。
「そこで相談なのですが、それなりの取り引き量もお約束しますので、あのラー油なのですが、なるべくならば、うちだけに卸す事を約束してもらえないでしょうか?
本当ならば、製法をお教え頂きたいところなのですが、私もそこまで面の皮が厚く出来ておりませんからな?」
「十分、面の皮の厚い事を言っておるではないかぇ?!」
十右衛門の言葉に、酔庵が呆れたように口を挟む。
そして、そのまま口を尖らせながら、
「それに、確かにうちの田楽が良く出ると言っても、独占する程の量は見込めんだろうが?
それでは、みーさんが売り損ねてしまいますよ?
あれは必ず売れるはずですから、そんな機会を潰すような真似をするんじゃありません。
そんな歪んだ欲を出すんありませんよ?
豊島屋の商いは、そんなものじゃありませんからね?」
と、酔庵は窘めるように十右衛門に意見すると、
「いえ、親父殿。これはあくまでも、結果から言っているだけでしてね?
今は田楽だけですが、これからはみそのさんに、あのラー油を使った、新しい肴を考案してもらいまして、今後はそれも新しく豊島屋で出して行こうと、思っているので御座いますよ?
そうしましたら、最初の内は特に、うちへ卸すので手一杯になるでしょうから、必然とそうなると言うものでして、この約束は、あくまでもうち以外の酒屋で、真似されるのを防ぐ為で御座いますよ」
と、言い返した十右衛門は、みそのに伺いを立てるような目を向けた。
「いえ、私は別に、ラー油屋さんをやる訳ではありませんので、構わないのですが…」
「みーさん、遠慮してはいけませんぞ。
これは大事な事ですから、ここはきっぱりと、ご自分の意見を言ってくださいな?」
みそのの言葉を遮って、酔庵がみそのを注意する。
「いえ、でも本当に、ラー油屋さんをやりたい訳ではありませんので…。
あ、でも、他でもラー油を使おうと思っていましたっ!?
そうしましたら、私はラー油の小売をしないと言う事にして、豊島屋さんを主な卸し先にして、私の方では、酒屋さん以外の限られたお店へだけに、卸すと言うのはどうでしょうか?
当面はそんな感じでお願い出来ますか?」
「勿論、異存はありませんぞ。私は軌道に乗るまで、豊島屋以外の酒屋で出回らなければ、それで良いのです。
とにかく、暫くの間は、うちだけで味わえるのが肝要なのですよ。はい。
それに、うちでも最初は隠し味として使用して、ラー油を公表するつもりはありませんでしたし、人気が盤石なものになってから、公表するつもりでしたからね?
これは、豊島屋が最初に扱っていたって事が、後々その先見を褒め称えられる事にも繋がりますし、先ずは、豊島屋が最初に初めたとの事実を作れれば、それで良いので御座います。
その後の事でしたら、小売して頂いても一向に構わないくらいですからね?
本当に、初めのうちだけでも良いので御座います」
十右衛門は、みそのの言葉に鼻息荒く応えた。
十右衛門は永久に独占するのでは無く、あくまでも最初の内だけで、豊島屋の名前を上げる事が目的だったようだ。
「それでみそのさん、親父殿から聞きましたが、味噌仕立てのうどんに使用したみたいでしたが、他には何か良い使い道はありませんかな?
出来ればお酒が頗る進む肴なんかが有れば、嬉しいのですが?」
十右衛門は、守銭奴然とした顔を隠すでも無くみそのへ向け、ニンマリの笑うのだった。




