第二十九話 約束と役不足
「昨日のこったが、ここへ『丸甚』のお加奈とみそのが来たろぃ?
そん時居た胡乱な輩ってぇのは良く来るのかぇ?」
永岡が表の長椅子に腰を下ろすや、注文を取りに来た女将らしき、中年の女に声をかけたところだ。
永岡と智蔵は両国の広小路にある茶店まで、急ぎ足に奉行所から直接やって来たのだ。
永岡の歩みについて来た智蔵は、流石に永岡の隣で少々疲れた顔をしている。
「ああ、あの連中の事ですね…。
今日は未だ来てないですけど、ここ数日毎日のように来てまして、うちも迷惑していたのですよう?
昨日だってうちの娘にちょっかい出したり、他のお客を怒鳴りつけてみたり、散々だったんですから…。
旦那もご存知かと思いますが、みそのちゃんだって怖い思いしたんですよ?
もうあんな連中が来ないように、旦那が上手い具合に計らってもらえませんかねぇ?
あれじゃあ、商売あがったりですよ、全く。お願いしますよ旦那」
永岡に話を振られ、待ってましたとばかりに、女将は日頃の不満をぶちまける。
「なんか思ってたより酷え事になってたみてぇだな?」
「そうですよぅ。
旦那達が寄ってくれないもんだから、番屋へ届けようかって、今日も話してたところなんですからね!」
永岡は、鼻息が見えそうな勢いの女将に気圧されながらも、思っていた以上の悪質な輩だと改めて思うのだった。
「そうかそうか、そりゃ悪かった。なりゃオイラ達が来て正解だな?
そんで、今日はその輩が来てねぇって話しだったが、いつもは何刻くれぇに来やがんでぇ?」
「いつも来る時は、もう今時分には来てますねぇ。
それより旦那、聞いてくださいよ。あいつらと言ったら、長い時なんか二刻以上も居座ってるんですよ!
何とかならないんですかね旦那。どうにかしてくださいよ!」
永岡の問いに応えながらも、女将はまた鼻息を荒げる。
永岡はそんな女将に圧倒されながらも、
「分かった分かった。まあ、先ずは茶ぁの一杯くれぇ飲ませてくんな?」
と、疲れた顔で隣に座る智蔵をチラリと見ながら、取り敢えず女将に茶を所望した。
女将は、「あらいけない。ごめんなさいな」と、慌てて奥へと駆け込んで行く。
そんな女将を苦笑しながら見送った永岡は、
「どう思うねぇ?」
と、ここへ来て初めて智蔵へ話を向けた。
「へい、なんだか良からぬ相談事でもしてんでやすかねぇ?
野郎だけで、二刻以上もこんな茶店に居座ってるってぇのは、どうも解せやせんや」
永岡と女将の遣り取りを聞いていた智蔵が、不審に思った事を口にする。
「そうだよな。いくら酒も出すとは言え、普通なりゃ、二刻以上もこんなとこにゃ居ねえやな?
丁度ここは表通りからも入ったところでぇ。
そこそこ人出もあって、逆に目立たねぇっちゃ、目立たねぇかんな?
それこそ他の客を怒鳴り散らして、この店から遠去けちまったら、後は自分達だけの貸し切りにならぁな。密談するにゃあ格好の場所ってなもんさね。
そこへ来てこの店は酒も出すしな?」
永岡は智蔵と同じく思っていたようで、あれこれと条件を語り、それに同調してみせる。
「でも旦那、そいつらがもう一つ解せねぇのは、一度や二度ならまだしも、そう毎日のようにこの店へ来てるって事でさぁ。
旦那が仰るように、密談するにゃあ良いのかも知れやせんが、自分らの寝ぐらでだって話せやすからね?
そう考えやすと、その連中ってぇのは互いの事ぁ良く知らねぇか、信用してねぇんじゃねぇでやすかぇ?
とにかく、他の奴らにゃ、自分の寝ぐらを知られたくねぇとかなんとかで、どうも希薄な関係の輩なんでやしょうね?」
「そうだな。それこそ賭場で顔見知りになったってぇ、弥之助と三次みてぇにな?」
「へい。あいつらだって金の貸し借りが無きゃ、知ってるのは名前くれぇなもんでやしたからね?」
「ああ、全くでぇ。
名前と言やぁ、奴らの名前くれぇ聞いて帰りてぇな?」
「へい。女将やあの娘なんかは、連中が話してっとこを聞いていやしょうし、耳にしてると思いやすぜ」
「それもそうさな。悪事を働かれる前に、なんとか寝ぐらくれぇ押さえてぇもんだな?」
「やはり、こいつぁ悪事に関わって来やすかねぇ?」
「お前だって、ちったぁ感じてんだろぃ?
勘働きってぇのは案外馬鹿に出来ねぇぜ?」
「そりゃ言えてまさぁ」
などと、永岡と智蔵が話しているうちに、女将が饅頭を添えてお茶を持って来た。
*
「これはこれは、みーさん。良くぞいらしてくれましたな?
あの後は余り良い気になって呑むなと、お玉に叱られてしまいましてな?
みーさんが来てくれなくなったら、わしのせいじゃと言って責めおるから、困っていたところじゃったのじゃよ…。
まあ、そう言ったところも愛いのじゃがな?」
庄左右衛門がみそのをみるなり喜びの声を上げ、最後は嬉しそうに惚気て、ニタニタと笑っている。
今日は朝から酔庵がみそのの仕舞屋へ訪れ、昨日の内に約束していた庄左右衛門の隠宅へと、二人、駕籠に揺られながらやって来ていた。
今日はいつもの幸吉の代わりに、松吉と言う丁稚が酔庵の供をしていた。
昨日一昨日と、美味い思いをした幸吉にとっては、さぞや残念な事であろう。
それにしてもここのところ酔庵は、みそのの仕舞屋を日参している事になる。
みーさんすーさんの仲は、すっかり深いものになっているようだ。
「なんですかな庄さんは。朝から鼻の下を伸ばしなさって。
みーさんの前なのに、歳を考えなさいな?」
酔庵はだらしなく笑う庄左右衛門に、開口一番、口を尖らせながら文句をつける。
しかし、そんな酔庵にも庄左右衛門は、
「いやいや、すーさんも中々どうして。ここのところ鼻の下の成長が著しいですぞ?
これもみーさんのおかげですな?」
と、余裕の返しで高笑いをしてみせる。
この男が辻月丹の一の弟子で、見事仇討ちまで果たした剛の者だとは、到底思えないから面白い。
みそのもそんな庄左右衛門を見ながら、思わずそのギャップに笑みがこぼれてしまう。
「で、今日も『道場とは』、との堅苦しい話をしに来たのでは無いのじゃろぅ?」
庄左右衛門はみそのの楽しそうな様子を見て、今日は違う話での訪いなのだと察したようだ。
「まあ、庄さん。みーさんは言い出せそうに無いから私が言いますけど、とにかく中へ入れてくれませんかねぇ?
庭先で話すのもなんですからな?」
「おお、わしとした事が…。
そうですな。わざわざ足を運んでもらって、こんなところで話して返す訳には行きませんな?
ささ、どうぞどうぞ」
酔庵が先ほどの意趣返しとばかりに、棘っぽく言い放つと、庄左右衛門は全く気づいていなかったようで、酔庵の揶揄いを間に受け、慌てて二人を中へと促した。
「ほんに先生は、いやですよう」
道場として使われている板間には、お玉がお茶の用意をして待っていて、みその達を案内する庄左右衛門へ、呆れたように声をかける。
言葉とは裏腹にその目は細められ、庄左右衛門が可愛くてしょうがないと言った事が、一目で伺える。
「お玉さん、急の訪で申し訳ありません。
これ、来る途中で購って来たものでして、初めて購うものなので、お味の方は良く分からないのですが、後で召し上がってください。
それとこちらは、庄さんのお酒の肴にでもと思って持ってきました」
みそのは風呂敷から饅頭と佃煮を出し、お玉へ渡した。
酔庵が朝から日参しているので、お得意のデパ地下土産色が薄れているが、手土産としては十分だろう。
お玉は饅頭の包み紙を見るや、小娘のように無邪気に喜んでいる。
「庄さんや、この佃煮も中々ですぞ。
今夜は飲み過ぎないように、気をつけなければなりませんな?」
「そうじゃな、すーさん。また寝てしもうたら、お玉を可愛がってやれんからの?」
「いやですよう先生、みなさんの前じゃないですかぇ…」
お玉が庄左右衛門の軽口に顔を赤らめ、酔庵が苦い顔でそれを見ている。
みそのは、そんな遣り取りに頰を緩めながら、
「今度この前お話ししていました、順太郎さんとお百合さんも連れて来ますね?」
と、口にすると、それを切っ掛けに、その後の順調な流れを語り出した。
庄左右衛門は目を細めながらそれを聞き、時折お玉を弄りながら相槌を挟む。
すっかり楽しい歓談となった。
「そう言えば、今度辻先生にもお会いしたいのですが、お加減は如何なのですか?」
歓談する中、みそのが思い出したように話題を辻月丹へと変え、庄左右衛門に問いかける。
「おお、それは先生もお喜びになりますぞ。
先生は臥せるまででは御座らんので、是非是非、遊びに行ってくだされ。
その時はわしがお供仕りますぞ!」
庄左右衛門も最愛の師匠に話が及ぶと、顔に嬉しそうな皺を作り、みそのの言葉を喜んだ。
「では庄さんの都合の良い日に、是非連れて行ってくださいな」
「おうおう。任せなさいな、みーさん。
わしなぞは暇人じゃで、いつでも良いと言うものじゃが、生憎明日明後日と、客人が稽古に来る事になっててな?
それより先とあれば如何様にも都合がつきますぞ」
庄左右衛門は暇人と言いつつも、庄左右衛門を慕って遠方から稽古を願い、訪ねて来る者が後を絶たない。
如何様にも都合がつくと言えども、それも怪しいものなのだろう。
「では、庄さんも人気者でしょうから、早めに手を打って、三日後なんかは如何ですか?」
「ははは、勿論構わんぞ。三日の後じゃな?
しかしみーさん。わしは人気者なぞでは無いので、心配する事はないですぞ?
まあ、お玉には人気があるのじゃがな!?」
庄左右衛門はみそのに笑いながら快諾し、愉快げに軽口を言ってカラカラと笑うのであった。
*
「では庄さん、三日後、宜しくお願いしますね? すーさんも今日はありがとうございました」
みそのが二人に声をかけ、深々と頭を下げている。
そして酔庵は、頭を下げるみそのを眉をひそめながら見ていた。
先ほどの歓談の最中、今日こそは碁を楽しもうと、庄左右衛門が酔庵を誘っての事だ。
庄左右衛門としては、久しく打っていないのでうずうずしていたのたであろうが、みそのとの行動を楽しんでいる酔庵としては、少々面倒に思っているようだ。
みそのは、明日明後日と客人に稽古をつける庄左右衛門が、その翌日にも自分に時間を割いてくれる事を思い、今日はゆっくりと庄左右衛門に付き合うよう、酔庵にお願いしていた。
そうしてみそのは、先にお暇する事にしたのだった。
みそのは頭を上げると、相変わらず苦い顔をしている酔庵を見て、
「どうせ明日は、豊島屋さんへお伺いする事になっていますし、すーさんとは明日もご一緒する事になるじゃないですか?
最近歩き通しだったし、今日はゆっくり、庄さんと碁を楽しんでくださいな?」
と、宥めるように言う。
昨夜の酔庵と息子の十右衛門との話の中で、みそのを一度、豊島屋へ連れて来るようにとの話になったようで、早速明日行く事を今朝の内に決めていたのだ。
「私は健脚で通ってますから、そんな心配は要らないのでぞ?」
「まあ、健脚すーさんや、今日はもう諦めて、この剣客と碁を楽しみましょうぞ?」
「………」
それでも納得が行かぬとばかりに、みそのへ口を尖らせた酔庵だったが、庄左右衛門の軽口で閉口し、みそのを諦めた形になる。
「ではお玉さん、二人を宜しくお願いしますね?」
最後にみそのは、お玉へ悪戯っぽい笑顔を向けて頼み、隠宅道場を後にするのだった。
*
「どうでぇ広太、なんか聞けたかぇ?」
「永岡の旦那に親分じゃねぇでやすかぇ。
へい、弥之助の素行くれぇは聞けてやすぜ。
今からそこの蕎麦屋にでも入って、腹拵ぇしようかと思ってたところでさぁ。
旦那達もどうでござんしょう? 食いながら話しやせんかぇ?」
永岡と智蔵が田原町界隈へやって来たところ、丁度前を歩く横並びの四人を見つけ、歩みを早めて後ろから声をかけたのだった。
声をかけられた広太は驚きながらも、昼九つ半(凡そ午後一時)と言った頃合いと言う事もあり、昼餉にしようと思っていたようで、永岡達を誘ったのだった。
蕎麦を食いながらの報告となりそうだ。
「っと、旦那。ありゃ、みそのさんじゃねぇでやすかぇ?」
「ん? ああ、そうだな。
ありゃあ、みそので間違ぇ無ぇやな。
そう言やぁ、浅草山谷の先にある、庄さんとか言う剣術家んとこへ行くとか言ってたな。まあ、その帰りってところだろうぜ」
蕎麦屋に入ろうとしたところ、智蔵が向こうから歩いて来るみそのに気づき、永岡へ声をかけて来たのだった。
永岡は、キョロキョロと周りに気を取られながら歩く女が、智蔵の言う通り、みそのだと直ぐに分かり、苦笑交じりに考察を語った。
「ちょいと声をかけて来るんで、先に入っててくんな」
永岡は智蔵達に声をかけると、こちらへ歩いて来るみそのへ駆けて行った。
「ああっ、梅さん!」
みそのは、流石に人が駆けて来ただけあり、直ぐにその気配に気づき、それが永岡だと分かると思わず歓喜の声を上げていた。
「あのなぁ、お前。真っ昼間の、しかも道の真ん中で、オイラをその名前で呼ぶんじゃねぇやぃ」
永岡は思わず周りを見渡しながら、小声でみそのを叱りつける。
みそのはそんな永岡を、ニコニコと嬉しそうに見ている。
「まあ、いいやぃ…。
で、お前は、例の庄さんとか言う、剣術家の先生んとこの帰りかぇ?」
永岡は諦めたように首を振ると、先ほどの推察を確かめた。
「凄いっ! 良く分かりましたねっ!」
みそのは目を丸くして驚いてみせる。
そんなみそのに呆れながら永岡は、
「そりゃ、あんなでけえ声ですーさんとくっちゃべってりゃあ、オイラの耳にも入ってくるぜぇ。
んで、これから何処行くんでぇ?」
と、種明かししてみせ、次の予定を聞く。
「なぁんだ。驚いて損しちゃったじゃないですか…」
永岡に種明かしされて口を尖らせるみその。
そして、何か思いついたように、
「これからは、お百合さんとこへ寄って、順太郎さんところにでも、顔を出しに行こうと思っているんですよ。旦那も来ます?!」
と、続けると、嬉しそうに永岡を見上げる。
「馬鹿言うねぇ。オイラは遊んでる訳じゃねぇんだせ?
今は偶々お前を見つけたんで声かけただけでぇ。それで無くともお前の頼みで、両国に寄り道して遅れてんだかんな?」
永岡が呆れたように言うと、
「あ、早速行ってくれたんですね?!」
と、みそのは嬉しげか声を上げる。
「未だ名前くれぇしか分かってねぇけどな?
まあ、そんな訳でこれからオイラは忙しいんでぇ」
永岡は先程の茶店での希薄な収穫も口にしながら、多忙の身を言い放つと、
「でも、どうせお散歩みたいなものでしょ?
一緒に江戸の町をお散歩するのって、あんまりした事ないじゃない?
ね、どうせ一人で寂しいんでしょ?
このみその親分がお供しやすぜ?」
と、みそのは戯けながら、智蔵の真似の十手を抜く素ぶりをして見せる。
「お前なぁ…。
オイラは散歩が仕事ってぇ訳じゃねぇんだぜ?
それに、そこの蕎麦屋に、本物の親分さんと手下達も居るんでぇ。今日のところぁ寂しくもなんともねぇから、みその親分ってぇ妙竹林な輩は遠慮しとくぜ」
永岡は苦笑しながら応えるも、なんとなく智蔵の真似が様になっているみそのに、少し感心するのだった。
永岡は自分に断られ、しゅんとしているみそのを見ると、可哀想に思ったのか、
「お前、飯は食ったのかぇ?
一緒に蕎麦でも食ってくかぇ?」
と、みそのも一緒に昼餉に誘うと、
「ええ。庄さんとこでいただいて来ましたので、お蕎麦はいいかな。
お団子かお饅頭とかにしません?!」
と、みそのはデザートは別腹とばかりに、甘味を誘う。
永岡はそんなみそのの後ろに回り、首を振りながらその背中を押すと、
「そいつぁ、お百合とでも行きゃあいいだろぃ。
ほれ、気をつけるんだぜ」
と、みそのを送り出すように言い放った。
もう埒が明かないと、見切りをつけたのだろう。
「もう…。
じゃあ旦那も気をつけてくださいねっ!」
みそのの言葉を背中に聞きながら、永岡は手をひらひらさせ、蕎麦屋へと入って行った。
「ふふ、私には役不足って事にしとくわ。
でもこんなとこで偶然に会えるなんて、やっぱり運命を感じるわねっ」
みそのは永岡が消えて行った蕎麦屋を見ながら、嬉しそうに独り言ちる。
そしてその景色を満喫したみそのは、足取りも軽く歩き出した。
歩き出して程なく、浅草御蔵に差し掛かった辺りであろうか、みそのは突然歩みを止め、
「あっ」
一人の男を見ながら思わず声を上げた。




