第二十八話 白いもの
プシュ
希美の大好きな音だ。
希美は目を閉じてそれを聴きながら、ニンマリと笑みを浮かべている。
酔庵が帰ってすぐに、江戸から戻った希美は、大急ぎで冷蔵庫へ駆け付け、冷んやりと冷たい相棒を手に、至福の時へ突入していた。
グラスには琥珀色の上に、絶妙なバランスで真っ白い帽子が乗っている。
「どうしてあんたはそんなに白いの?
ずるいぞ、こうしてやるっ」
独り言ちた希美は、一気にグラスを傾けた。
「ああぁぁあっ! 参ったかっ!!」
何かに勝ち誇ったような顔で独り言ちる希美。
少々末期的なものを感じないでもない。
「でも、そろそろ梅さんも帰って来ちゃうから、今日は一発勝負だからねっ!
とは言いつつ、もう一本飲んじゃおうかしら…」
一気に行き過ぎて、頼り無い量になってしまった相棒を眺めながら、独り言ちる希美。
「私、頑張ったもんねっ!」
先の独り言を後押しするように独り言ちる希美。
今日は長屋を見学し、念願のお加奈にも会え、気になっていた甚右衛門の話を聞けた上に、新之助から良い報告をもらい、酔庵にも順調過ぎる報告を受け、希美としては充実し過ぎたほどの一日だった。
途中、破落戸に絡まれた茶々が入ったが、そんな嫌な思いも霧散するほどの、良いこと尽くめの一日である。
今日一日で言えば、希美が頑張ったのかどうかは疑問だが、気分は頗る良いようだ。
「でも、また待ちきれなくて寝ちゃったら最悪だし、ここはぐっと我慢しないとねっ!」
自らを律するように声高に独り言ちる希美。
どうやら過去の失態が活かされているようだ。
その独り言の後の希美は、ちびちびと愛おしそうに、相棒との至福の時を楽しむのだった。
*
「おう、帰ったぜっ」
永岡の声を聞いて、みそのは内心胸を撫で下ろす。
みそのは、もう一本の誘惑にやっとの事で打ち勝ち、本当に今し方、東京から戻って来たところだった。
「どうしてぇ? なんか青い顔してんなぁ、具合でも悪りぃのかぇ?」
一杯飲んでいるみそのであったが、そんな冷汗ものの思いからか、顔色まで悪くしていたようだ。
「い、いえ、ちょいと今日は色々ありまして、疲れちゃったのかもしれませんね? あ、そうだ、そう言えば今日、お加奈さんところへ行って来たんですが、その時に茶店で凄い嫌な男達に絡まれたんですよっ!
あんなのを野放しになんか、しとかないでくださいねっ!!」
みそのは言い訳をしつつも、今日の茶店での出来事を思い出し、急に憤りが蘇って来て爆発させた。
「な、なんでぇ急に…。
質が悪りぃ連中は巨万といらぁな。流石にそんな連中の事まで言われても、どうしょもねぇやな?」
「なに言ってんですか、あれはきっと人殺しとかしてる口ですよっ!
あんなのが巨万といたら、この江戸は人っ子一人居なくなっちゃいますよっ!!」
永岡の言葉にカチンと来たみそのは、憤って言い返した後に、あの男の顔を思い出して、思わずぶるりと身震いしてしまう。
「なんでぇ、そんなやばい連中だったのかぇ?
で、どんな感じの連中だったんだぃ?」
永岡もみそのが身震いするのを見て、流石に思い直したようで、心配そうに声を落とし、男達の事を聞いて来る。
「どんなって言われると、何とも言えないわよねぇ……。
なんか、一人は目が病的に据わってるって言うか、睨まれただけで殺されるかもって、思っちゃったくらい怖い目をしてたのよねぇ。なんかその目が強烈過ぎて、他の特徴がぼんやりとしちゃってる感じかな…。
まあ、もう一度見たらすぐに分かるはずよ?
そしたら、今度こそちゃんと特徴を掴んで、事細かに説明してあげられるんだけどな」
何とも頼り無い情報を語るみそのだが、永岡は、それだけでも相当危険な男達なのだろうと当たりをつけ、
「いや、そんで十分でぇ。お前、絶対そいつらを捜そうなんて考ぇるんじゃねぇぞ?
お加奈と茶店に行ったってぇからには、両国の茶店なんだな?」
と、みそのに釘を刺し、その男達に絡まれた場所を聞いてくる。
「ええ、広小路にある例のお饅頭の美味しい茶店よ」
「ああ、お前が好きだったとこだな?
良し、明日にも廻ってみっから、お前は暫くの間、あの茶店には近づくんじゃねぇぜ?」
みそのの言っている茶店にピンと来た永岡は、自分が調べると言って、もう一度釘を刺した。
「分かりましたよぅ…。
でも早いとこ捕らえちゃってくださいね?
お加奈さんと贔屓にしてるんですから、行くとこが無くなっちゃうわ?」
「脅したくれぇで、捕らえる事なんざぁ出来ねぇやな?
でも、まあ、お前がそこまで感じたんでぇ、叩けば色々出て来るに違ぇ無ぇ。とにかく明日っから気を入れて廻ってみらぁな」
みそのを安心させるように、永岡は笑顔で胸を叩いてみせた。
「そう言や、色々あったってぇのは、あのやっとう親子の道場の話に進展があったのかぇ?」
永岡は周一郎の事もあり、みそのから聞いていた順太郎の道場の話を振った。
「ええ、凄い進展ですよっ!」
みそのは一転、顔をパッと明るくして、声音も弾ませて応える。
「ほう? なんだか随分と良さそだなぁ。
そんでどうなったんでぇ?」
「先ず長屋を見に行ったんですけどね?
その長屋って言うのが、すっごいボロボロで、最初はどうなる事かと思ったんですけど、すーさんが息子さんを利用して、長屋を丸ごと普請し直すって言い出したんです。
今日はその足で、すーさんの知り合いの大工の棟梁に会いに行って来たんですよ。と言っても、私はそこへは行かないで、お加奈さんとこへ行っちゃったんですがね?
でも帰りにすーさんがうちに寄ってくれて、そこでの話を教えてくれたんですけど、なんだかとんとん拍子に話が進んだみたいで、棟梁の都合もいいって事で、なんと四、五日の内に、普請に取り掛かれるって話なんですって?
もうこれ以上ないくらいの、順調な滑り出しですよ!
中西様も凄く喜んでいたみたいですよ?
もっとも、話が出来過ぎていて、二人とも怖気付いていたみたいですけどね? ふふふ」
みそのは目を輝かせて嬉しそうに語る。
そんなみそのの話しを、頰を緩めて聞いていた永岡は、
「すーさんの息子ってぇのは十右衛門のこったろ?
なんでまた十右衛門が絡んで来んだぇ?」
と、気になった事を口にする。
「ああ、それなんですがね。
あのラー油が豊島屋さんで出している田楽と合うとかで、ラー油の取り引きを条件に、豊島屋さんが道場の後ろ盾になってくれるって、息子さんが言ったそうなんです。それで支援してもらう事になったんですよ。
と言っても事後報告で、今頃すーさんが息子さんと、あれこれ話しているんでしょうがね?」
みそのが永岡に訳を語ると、
「するってぇと、お前が、あのラー油を豊島屋へ卸すってぇ事かぇ?」
と、呆れたように永岡が聞き返し、
「まあ、そうなっちゃう感じよねぇ…」
みそのも同じように呆れた口調で、それに応えた。
「あ、そう言やオイラ、最近唐辛子売りの知り合えが出来たぜ?
もし良かったら、そいつから唐辛子を買ってやってくんな。
きっと安くもしてくれんだろうよ?」
永岡は儀兵衛の顔を思い出し、みそのへ仕入先として教える事にしたようだ。
「ああ、そうか、材料の心配もしなきゃだったわっ。
じゃあその方を紹介してくださいな?
でも、なんか面倒くさいなぁ…」
永岡に言われ、漸くその事に気づいたようで、みそのは永岡に甘えるとともに、今後の事を思うと憂鬱になったのだった。
*
「今日は広太達にゃあ、直接田原町へ向かわせてまさぁ。
まあ、四人も居りゃぁ、あっしらは町廻りしながら、ゆるりと行ってもようござんしょう?」
智蔵が後ろの北忠と松次をチラリと見ながら、永岡へ話しかけていた。
今日は昨日の『豆藤』で決定した調べに赴く事になっている。
ただし、死んだ男が碌でもない男と言うだけで、総動員で調べに当たるまでも無いと言う事になり、結局は人数を絞って当たる事になったのだった。
永岡と智蔵は、広太達が先行している田原町へ赴く事になっているのだが、北忠と松次の二人は別行動する事になっている。
智蔵は心配そうにも気の毒そうにも、松次を見ていたのだった。
「ああ、そうだ智蔵。
昨日みそのから気になる事を聞いたんでな?
今日は両国を廻って、ちょいとそいつを調べてぇのさ。
広太達にゃ悪りぃが、そいつを先に済ませてぇからなんで、そうゆるゆるともしてられねぇぜ」
永岡はそう言って、智蔵が目顔で頷くのを見ると、歩みを早めて北忠達との距離を開けた。
今日の北忠は別行動なだけあり、そんな永岡達に慌てる事なく、ゆるゆるダラダラと歩いている。
「永岡の旦那、気になる事ってぇのは、どんな事なんでやすかぇ?」
智蔵はかなりの速度で歩く永岡に、細かい足の運びで難無くついて来ながら、先ほどの永岡の言葉を聞き返している。
「まあ、胡乱な男達に茶店で絡まれたってぇだけの、話っちゃ話なんだけどな?
ただ、みそのの様子を見る限り、捨て置けねぇ気もしてよぅ。とにかく調べるだけ調べておこうってな訳なのさ」
永岡は少しバツが悪そうに応える。
「いや、みそのさんの勘と言うか、事件に引き込まれる質と言うか、案外馬鹿に出来やせんぜ?」
智蔵が真面目な顔でそう応えると、永岡は同じように思った智蔵に可笑しみを覚え、
「ふふ、だろぃ?
オイラもそう思ったんで足を運ぶってぇ訳さぁね。
まあ、面倒な事にならねぇに越した事ぁ無ぇんだがな?」
と、苦笑しながら応えるのだった。
*
「北山の旦那、どうやら死体が上がったようでやすぜ?」
「おいおい松次。これから昼餉と言うのに、嫌な事を言うんじゃないよぅ。
食欲が萎えるじゃないかぇ?」
「いやいや、冗談で言ってる訳じゃねぇんでやすよ旦那っ」
「分かったから、そんな目くじらを立てるんじゃないよぅ。
でも、本当に時が悪いものだねぇ。
あの道筋を選んだのがいけなかったのかねぇ…でもあそこで曲がらないと、あそこのうどんは食べられなかったし、昨日煮しめ食べた訳だから、今日のうどんは譲れないし、一体私は、どうしたら良かったと言うのですかねぇ…」
北忠こと北山忠吾がぶつくさ言いながら、松次の後をダラダラとついて行っている。
永岡達と別れた北忠は、松次と二人、常の町廻りに繰り出していた。
時折こうして手下を入れ替えながら、北忠の独り立ちに向けて町廻りをしているのだが、手下としては溜まったものでは無い。
毎回この日が来る前夜には、『豆藤』で密かに行われる行事があるのだ。
くじ引きである。
かなり盛り上がる行事なのだ。
言わずもがなだが、昨日は松次が外れくじ、いや、当たりくじを引いた事になる。
松次は昨日くじに当たり、今日は人死に行き当たったのだった。
「松次、死人は逃げる事は無いと聞くよぅ?
どうだろう、やっぱり昼餉を食べてからにしようかねぇ?」
「旦那ぁ…」
北忠が人集りを前にして屁理屈をこね出し、松次がうんざりと顔を顰めながら天を仰いで、お天道様へ助けを求めるように声を上げる。
しかし、意を決したように、
「行きやすぜっ」
と、捨て台詞を吐いて、勢い良く人集りを掻き分けて行った。
「あらら、せっかちだねぇ松次は…」
北忠は呆れたように呟くと、人集りに難儀しながら松次を追った。
「北山の旦那、こっちでさぁ!
溺死みてぇでやすぜ、早く来てくだせぇよ旦那ぁ!!」
松次が、人集りを抜けられずにもたもたしている北忠を、呆れながら急かしている。
北忠は、「分かってるのだけど、これじゃあしょうがないじゃないかぇ…」などと、もごもご口の中で言いながらも、やっと人集りを抜け、松次の隣へ来ると、
「松次ぃ、これはあれだよ。ただ単に川に落ちて死んでしまったのじゃ無いよ?」
と、死体を見るなり言い出した。
「ど、どうしてそんな事ぁ分かるんで?」
松次もいきなりの北忠の言葉に、思わず北忠へ聞き返した。
「だってあれじゃないかぇ。見たところこの仏さんは、顔も赤くないし、お腹も然程膨れてないじゃないかぇ?
ちょいと爪の間を見てごらんよ。きっと川砂とか、そう言ったものは入っていないと思うよぅ?」
「そ、そうなんでやすかぇ?
でも爪は、旦那が見てみりゃいいんじゃねぇでやすかぇ?」
松次は驚きながらも、立ち位置的に北忠の方が死体に近い事もあって、思わず不満をこぼした。
「いや、松次。これはあれだよ?
お前に経験を積んでもらいたいが故の、親心みたいなものだよぅ。
何も気持ちが悪いから言ってる事じゃないんだからね?」
北忠の言葉に松次は、『本音が漏れちまってるじゃねぇですかぃ』との言葉を呑み込んで、
「へいへい、承知致しやしたよ旦那。
ありがたく経験を積ませていただきやすぜ」
と、言いつつ死体の爪を検めると、北忠の言葉通り、死体の爪の間には、川砂などの混入物は入っていなかった。
松次はそれを確認すると、北忠へ振り返り、
「殺しでやすかね旦那?」
と、殺人事件を疑った言葉を吐く。
「私が見てた訳では無いんだから、分かる訳無いでしょうよぅ。
そりゃあ松次、幾らなんでも買い被り過ぎと言うものだよう?」
「いや、あっしは北山の旦那のご推察をお聞きしてるんでやして、何も真相を聞いてる訳じゃ無ぇんでやすよぅ?」
松次が北忠の惚けた返しに、勘弁してくれとばかりに困り顔で返す。
「なぁんだ。じゃあ、正解じゃ無くていいんだね?
だったら言うけど、どちらにしてもこの仏さんは、死んでから川に浸かってたんだと思うよ。
でも、だからと言って、殺されたかどうかは分からないねぇ。何せ、川沿いを歩いてて、急に心の臓が苦しくなったかと思ったら、ぽっくり逝っちゃって川に落ちたかも知れないし、うっかり川に落ちてしまって、それで心の臓が、きゅっと止まってしまったのかも知れないしねぇ?
ただ見たところ、首を絞められた痕も残っていないようだし、目立った傷も無いからねぇ。それに目も閉じてるもんだから、殺されてから川に放り込まれたってのも、考え難いから、やっぱり溺死では無いにしても、何かしらの訳があって、急に心の臓がきゅっとなって、死んでしまったのじゃ無いのかね? 可哀想にねぇ」
北忠は推察を語り終えると、眉をひそめて死体に手を合わせた。
松次はそんな北忠に呆気にとられながら、
「はぁあ、北山の旦那は随分と詳しいんでやすねぇ?
正直驚きやしたよ。御見逸れしやした旦那っ」
と、感心の言葉を吐くと、
「およしよ松次ぃ。これは検屍役の沢田様から、茶飲み話に聞いてる事だからねぇ?
沢田様に比べたら未だ未だだよぅ。本物を見るのも、今が初めてだしねぇ?」
と、北忠は隠す事なくネタばらしする。
北忠の話好きが、この時ばかりは功を奏したらしい。
松次は内心、『そう言うこってすかぃ』と、ある意味合点が行くと、
「いやぁ、それでも大したもんでやすよ旦那っ」
と、それでも北忠を褒め称えた。
「だからおよしなさいって、松次ぃ。
でも、あれだね。これは殺しでは無さそうだから、もうここはいいんじゃないかぇ?
松次もお腹が空いてるんだろうし、そろそろ昼餉にするとしようかぇ?」
「いや旦那、せめて番太郎が来るまで待って、旦那が指示出ししてやっておくんなせぇよう?」
北忠の言葉に、松次は慌てて返す。
「そうかぇ?
でも私なんかが指示を出していいもんなのかねぇ……。
松次、永岡さんは今何処なんだろうね? お前、ちょいと永岡さんを探しに行ってくれないかぇ?」
北忠は急に不安になって来たのか、松次に理不尽な願いを言い出すと、
「大丈夫でやすよ旦那ぁ。番太郎を待ちやしょうよぅ?
それに永岡の旦那を捜す方が、却って刻がかかりやすぜっ。そしたら旦那、当分昼餉に行けなくなっちまいやすぜ?」
と、松次が顔を顰めながら、北忠の壺を抑える物言いで応えると、北忠は一瞬考えて、
「確かに松次の言ってる通りだねぇ。
そしたら私もやってみないとだねぇ?」
と、ようやっと前向きに考えてくれたようだ。
松次は、『旦那は同心なんでやすから当然でしょうよ!』との言葉をぐっと堪え、ひたすらほっとした顔で、北忠に頷いてみせるのだった。
そして、番太郎を待つと決めた北忠が、遠巻きに死体眺めながら、
「それにしてもこの仏さんは、本当に真っ白い顔だねぇ。やっぱりこれは、溺死では無いって事だよぅ?
あ、白いと言えば松次、今日の昼餉は、うどんと決めているからねぇ?
昨日が煮しめだったから、そこは譲らないからねっ!?」
と、邪な連想をさせ、意識を昼餉のうどんへと持って行った。
それを聞いた松次は思わず嘔付き、
『最初に食欲が萎えるって言ってたのは、旦那じゃねぇでやすかいっ』
との言葉を、吐き気とともにぐっと呑み込むのであった。




