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第二十七話 酔い知らせ

 


「あら、源次郎さんじゃないですか!?

 こんなところで出会うなんて、本当に奇遇ですねぇ?」


『丸甚』を後にしたみそのは、歩き出してすぐに前から歩いて来た源次郎に気づき、驚きとともに声をかけたのだった。


 みそのは、あれから暫くの間『丸甚』で、今の仕込みの様子や、日にどのくらい小握りを捌いているのかなど、甚右衛門から色々と話しを聞いていた事もあり、空はすっかりと薄暗くなっていた。

 みそのは、やはり普請の事が気になり、お百合から経過を聞く為に、弁天一家まで戻ろうと思ったようだが、『丸甚』を出た際に空を見上げ、すぐにそれを諦めて、今日は帰路につく事にしたのだった。


「いや、奇遇と言うのとは違いましてな?

 みそのさんを捜しに来たので御座るよ」


「そ、そうなんですか!? それは一体どう言う事です? 何かあったのですか? 新さんが怒ってるとか?」


 源次郎の言葉に驚いたみそのは、矢継ぎ早に問い返した。

 そして、大口を開けてハアハアと暴れていた昨日の新之助の顔を思い出し、途端に不味い顔になっている。


「いやいや、上様は怒ってなどおりませんでしたぞ?

 逆に上機嫌でいらして、良い事を伝えに行くので、美味い酒を用意して待っているように、とのお言葉を託されて御座る」


 源次郎はそう言って笑い、みそのと並ぶように位置を変えると、そのままゆっくりと歩き出した。


「良かったぁ…」


 みそのは安心したように言って、遅れないように源次郎の歩調に合わせる。


「それで源次郎さんは何か聞いていますか?

 って言うか、良くこの広い江戸で私を見つけられましたね? どうやったら分かるんです? やっぱり忍びの極秘事項だったりします? ねえねえ?」


 安心しきったみそのは矢継ぎ早に質問責めをし、源次郎をすっかり閉口させるのであった。



 *



「本当ですか新さんっ!」


「うむ。ワシは嘘はつかんぞ」


「流石新さん、伊達に将軍やってないわよねぇ?

 いやぁ、初めて新さんが将軍って実感出来たかもっ!」


「ふふ、良く言うわい。お前さんくらいのもんだぞ、そんな無礼な事を言って許されるのは」


「ふふふ、ごめんなさい。

 でも、美味しい肴付きのお酒を献上している訳ですし、何卒これからも寛大な措置を…」


 みそのは戯けるように言って、頭を下げながら酌をしている。

 そして新之助は可笑しそうにその酌を受け、美味そうに酒を呷っている。

 みそのは、言葉では将軍と実感したと言っているが、その姿からは全く伺えない。


 みそのが源次郎と仕舞屋へ戻ると、既に新之助は勝手に中へ入って待っていた。

 みそのは早速、手持ち無沙汰の新之助へ、酒と肴の佃煮を出してやり、来意である「良い事」を一通り聞いたのだった。


 新之助がもたらした「良い事」とは、先ず一つは、順太郎の出稽古先が、新之助の家来である加納久通に決まり、近々その久通とみそのを引き合わせるとの事だった。

 一度みそのと久通を引き合わせ、順太郎や他の者に対して説明がつく様、二人の関係などの辻褄を合わせるのが、主な目的だとの事だ。

 もう一つは、辻月丹の将軍謁見の件だ。

 こちらは、過去に嘆願があった事を確認した事と、公式では難しいが、新之助自ら月丹の元へと赴くので、その際はみそのも同行せよとの事だった。


「あのラー油だけは勘弁ならんがな?」


 新之助は酒を飲み干すと、みそのを睨むようにして言い、みそのを恐縮させる。

 そして、そんな小さくなったみそのを睨みながら、


「まあ、確かに適量だと美味いようじゃから、今度は上手く使って、また何か美味いものを馳走してくれ」


 と、そう言って新之助は頰を緩めながら、猪口を突き出し酌を求めた。


 そして、新之助は適度に酒を過ごすと、早々に腰を上げて帰っていった。

 息抜きも兼ねて、みそのに逸早く知らせたかったようだ。


「これで順太郎さんの当面の活計も立ったし、庄さんの憂いも少しは軽くなりそうだし、取り敢えずは言う事無いわね…」


 新之助を表通りまで見送ったみそのは、ぽつりと独り言ちると、ほっとしたような笑みを浮かべる。

 そして遠去かる新之助の背中に手を合わせ、


「ごめんね、新さん。本当にありがとね」


 と、ラー油の件を詫び、改めて感謝するのだった。



 *



 今日の永岡達は、暮六つ(夕方の六時くらい)の時の鐘が鳴る随分と前に『豆藤』に集まり、早速一杯やっていた。

 この『豆藤』は智蔵がお上の御用を務める傍、糊口をしのぐ為に初めた居酒屋なのだが、今では女房のお藤が切り回しており、智蔵とお藤の人望も尚の事、料理も酒も美味いと評判で、この界隈では知らぬ者がいないほどの繁盛店である。

 取り急ぎの掛かりの無い永岡は、日頃の疲れを取ろうとの計らいで、今日は早仕舞いをしての酒宴であった。


「今日は何かあったかぇ?」


 永岡は一頻り呑んで食っていた一同に、念の為声をかけた。


「いえ、今日はこれと言った美味しい店にも当たらなかったですし、特に報告するような事は何もございませんでしたねぇ」


「ちっ」


 北忠こと北山忠吾が応え、お約束のように、永岡に舌打ちをさせる。


「あっしらは、聞いていやした神社へ行って来たんでやすが、何も無かったんで、とんぼげえりしてけえって来たんでさぁ」


「なんでぇ広太、おめぇらは、例の話の裏取りしに行って来たってぇのかぇ?」


 広太の言葉に永岡が驚きの声をあげる。


「へぇ。どうせ急ぎでやるこたぁ無かったんで、無駄足も承知で行って来やした」


「悪りぃ事したな?

 でも、無駄にはなってぇさな。ありがとうよ」


 永岡の見渡しながらの労いの言葉に、広太や留吉、松次などは、恐縮しながらも嬉しそうにはにかんでいる。


 広太が無駄足を承知で出向いた先と言うのは、芝の鹿島社から程近い小さな稲荷だった。

 そこは、武者修行に出たとされる斎藤承太郎の金の隠し場所だ。

 これは承太郎が周一郎に語っていた事で、それをながが周一郎から聞いたのだった。


 もしも承太郎に旅先で何かあれば、周一郎へ伝わるように計らうので、そうなった時には、その隠し金を周一郎に譲るとの話だったらしい。

 しかし、周一郎が永岡に語った時には、既に周一郎が確かめに行った後で、その際には隠し金が無かったとの事だった。

 流石に千両は大金、周一郎は、他に隠し場所があるか、それとも武者修行とは言いつつ、その金を元に他国で道場を開いている可能性も語っていた。

 そんな話だった事もあり、永岡は皆の前で話題にはしたが、それを敢えて確かめようとはしなかったのだ。

 周一郎を信じていると言うのもあるが、周一郎さえ救えれば、後は急く必要はないとの判断だった。

 それに、芝まではちょっとした距離である。

 周一郎の話を聞き、無いと知った上で行かせるには、少々申し訳無い気持ちもあった。

 もし確かめに行くにしても、もう少し間を開けてからでも良いと思っていたのだ。


 しかし、永岡も何処かで気になっていた事は事実。

 そんな思いを察してか、自分達の判断で確かめに行ってくれた広太達に、永岡は感謝したのだった。


「まあ、オイラ達も何もぇって言やぁ、何も無かったんだがな。

 変わった事と言やぁ、裏店で一つ人死があったな?」


 永岡は隣の智蔵に問いかけるように目配せすると、


「へい、田原町の裏店の弥之助ってぇ男でやすね」


 と、智蔵が応え、話を引き継ぐように、


「こいつぁ旦那の見立てでは、心の臓の発作か何かってぇ話でな。見つけたのは遊び人の三次ってぇ野郎でぇ。

 念の為だが、おめぇ達の中で、この二人を知ってるもんは居ねぇかぇ?」


 と、皆に言って聞かせて問いかけると、黙って聞いていた翔太がおずおずと、


「えぇと…親分。

 あっしはその死んじまったってぇ弥之助にゃ、荒神一家の時に何度か会ってると思いやすよ。

 田原町の弥之助って言やぁ、多分あいつくれぇしか思い当たらねぇんで、間違まちげぇねぇと思いやす。

 その三次ってぇ男のこたぁ知りやせんがね?」


 と、心当たりがある事を告げた。


「ほう? まあ、今んとこぁ事件でもぇんだが、その弥之助ってぇ男はどんな奴だったんでぇ?」


 珍しく意見した翔太に興を唆られたか、智蔵が続きを促した。


「へい。実のところ何度か会ってると言いやしても、借金の取り立てをしに使いっ走りさせられてただけでやして、そう詳しい訳じゃねぇんでやすよ。

 当時の兄貴達の話では、どうしょもねぇ嘘つき野郎でやすが、本気で脅しつけりゃ、下衆な事でも何でもして、どうにか金を用意する気弱な野郎との事でさぁ。

 そんなんでやすから、気合いを入れて行って来いって言われやして、使いっ走りしてたんでやす。

 まあ、あっしが気合い入れてもてぇしたこたぇんで、何度か使いっ走りした挙句、おめぇは使えねぇってなもんで、兄貴達にど突かれまくったんでやすがね。

 そんなんで最後は兄貴達が回収したんで、あっしは野郎に嘘つかれっぱなしで終わっちまったから、相手を見て態度を変えやがる嘘つき野郎ってえのが、あっしの印象でやすね。

 まあ、何れにしても碌でもねぇ野郎ってこってしょうね。へぇ」


 翔太は当時の事を思い出したのか、途中から忌々しげな口調になりなからも語り終えた。

 そんな憤りを顔に浮かべた翔太を見た永岡は、


「ふふ、おめぇは智蔵んとこへ来て、本当に良かったなぁ?」


 と、笑いながら声をかけると、翔太はニンマリとその表情を変え、大きく頷いた。


「それにしても智蔵、あの弥之助が、そんな碌でもねぇ野郎なりゃ、こいつぁ念の為、明日っから調べてみるかぇ?

 なに、今は掛かりも特にぇんだし、無駄足になっても構うこたぇやな。

 暇潰しに一丁やるとしようぜ?」


「へい、そうしやしょう旦那。

 あっしも何か引っかかるもんがありやしたんで、丁度いい暇潰しになりまさぁ」


 永岡の言葉に、智蔵が大いに賛同する。

 どうやら裏店で死体を見た時から、何とは無しに気に掛かっていたようだ。


「そう言うこった、皆んな。明日は田原町まで繰り出すぜ?」


 永岡は良い暇潰しの遊びを見つけたとばかりに、嬉しそうに一同へ声をかけたのであった。



 *



「どうしたんですか、すーさん。

 今日も鎌倉河岸へ帰るんですか?」


 新之助が帰って程なく、道場候補地である長屋で別れた酔庵が、みそのの仕舞屋へ現れたのだった。

 みそのは、今日は鐘ヶ淵の隠宅へ帰るものだとばかり思っていたので、酔庵の訪いに少々驚いていた。


「ええ。倅にみーさんの返事や、長屋の普請の話をしないといけませんしね?

 そんな訳でして、急に寄るのも悪いとは思ったのですが、帰りがけですし、例の大工のところで話した報告も兼ねて、ここへ寄らせて頂いたのですよ」


「いえ、別にそんな悪いとか言ってないで、全然寄っていただいて構わないのですが…。

 それよりもすーさん、お身体は大丈夫ですか?

 とにかく上がってくださいな」


 みそのは心配そうに言うや、そのまま家の中へと酔庵を促した。

 酔庵はすっかり疲れた顔で、みそのには酔庵が別人に見えるくらいだったのだ。


 そして、酔庵を気遣いながら案内したみそのだったが、酔庵が腰を下ろす際、盛大な腹の虫の声を聞いて、その謎が解けたのだった。

 みそのはクスクスと笑いながら酔庵を部屋に残し、新之助と同様の簡単な肴と酒を出してやった。


「ふぅ、少し生き返った心持ちですよ、みーさんっ?!」


 三和土たたきで作業しているみそのに聞こえるように、酔庵は大声を上げている。


「もう少しで湯漬けとお魚持って行きますからねっ!」


 みそのも負けじと大声で酔庵へ返している。

 昨日の残りの粕漬けを焼き、今朝の残りご飯で湯漬けにするらしい。

 因みに酔庵は、昨日は流石に鍋で手一杯だったらしく、粕漬けは泣く泣く辞退していたのだった。

 みそのは丁度良いとばかりに、嬉しそうに粕漬けを焼いている。


「昨日も思いましたが、堪らん匂いですなっ!

 これは期待出来ますぞっ!」


 酔庵が粕漬けの焼ける香りにやられ、また大声を上げている。

 みそのはクスクス笑いながら、プツプツと油の弾ける音で更に目を細めた。


 みそのが焼き上がった魚と丼のご飯、出汁を入れた急須を盆に乗せて現れると、酔庵は幸せそうにニンマリと笑顔を浮かべる。


「はいどうぞ、すーさん。

 幸吉さんも遠慮せずにね?」


 みそのが酔庵と幸吉に声をかけると、二人はいそいそと佃煮を飯に乗せ、出汁をかけ回し、サラサラと主従仲良く食べ始めた。


「はぁ〜、これは美味しいですな〜。

 この粕漬けも絶妙ですぞっ!

 幸吉もこんな美味しいものにありつけて、私の供をしていて本当に良かったですな?」


 酔庵が興奮しながら幸吉にも声をかけると、幸吉は薄っすらの涙を浮かべて、言葉無く大きく頷くのだった。

 幸吉は昨日も別室で、鶏団子の塩ちゃんこ鍋の御相伴に与っていたので、役得も良いところなのだ。


「これは本当に生き返りましたよ、みーさん!」


 一頻り食べ終え、腹も落ち着いた酔庵は、本当に生死の狭間から生き返ったような、爛々とした目でみそのを見ている。

 幸吉は片付けくらいやらせて欲しいと言って、今は部屋を出て洗い物をやっている。


「大袈裟なんですからすーさんは。ふふふ」


 みそのは大真面目な顔で言う酔庵が可笑しくて、思わず笑ってしまう。

 そして、みそのは笑みを浮かべたまま、


「で、上手く話が進んだのですか?」


 と、酔庵に今日別れてからの出来事を尋ねた。


「ええ、話は上々でしたぞ?

 まだ倅とは普請の相談をしていないのに何ですが、ほぼ全て決めて来ましたよ、みーさん。

 それもあって、こんな時刻まで掛かってしまったのですがね…。

 そうそう、棟梁の方も時期が良いようでして、四、五日後には普請に掛かれると言っておりましたよ。

 今入ってる店子たなこには、明日にでも言って聞かせないといけませんね?

 まあ、棟梁の話ですと、棟割むねわり毎に順繰りとやって行くそうなので、普請が入っていない棟に避難させながらやれば、店子も困る事は無いだろうと言っておりましたよ。

 空きが多いのも、妙なところで利があると言うものですな?

 道場の方も、棟梁の知り合いに得意なのがいるそうで、床板やらも道場らしいものにすると張り切っておりましたね。

 順太郎様や周一郎様が逆に怖気付いていたくらいですよ? ほっほっほっほ」


 その光景を思い出したのか、酔庵は愉快気に笑った。


「そうですか、それは何よりでしたね!

 でも本当に順調に進み過ぎて、私だって怖いくらいですよ?

 これも全てすーさんのおかげです。ありがとうございます。

 でも、その怖気付いた順太郎さんや中西様の顔は、私も見てみたかったですね?」


 みそのはそう言うと、酔庵に倣ってクスクスと笑う。


「ふふふ。是非とも見せたかったですよう。

 しかし、私も御相伴に与る身と言えなくも無いですからな?

 まあ、これから倅めに自分で言った事を、形にさせるとしましょう。

 みーさんも例のラー油の件は頼みましたよ?」


「ああ、そうでしたねぇ……。

 はい、何とか用意しますよ。でも取り引きと言いましても、どのくらいの量が必要なんですかね?

 それに、何か条件とかがあったりするのですよね?」


 酔庵の言葉で思い出したみそのは、取り引き条件や物量の心配を口にした。


「まあ、量は実際に店で出してみない事には、何とも言えませんねぇ。

 でも倅達の話では、相当うちの田楽に合うそうなので、うちの客筋もきっと気に入ってくれる事でしょう。

 そうしましたら、うちの田楽はかなり売りますんで、それなりの量をお願いする事になると思いますよ?

 まあ、期待していてくださいな。それに、条件の方は私が上手い事やっておきますので、みーさんは安心していてください。

 決して悪いようにはしませんからね?」


「はあ…」


 任せなさいと言わんばかりに胸を叩く酔庵に、みそのは呆気に取られながら返事をする。

 ラー油が変な事にはならなければ良いと、今更ながら怖くなって来るみそのであった。



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