第二十六話 念願加奈う
「文句あんのかこの女ぁ!
ジロジロ見てんじゃねぇやい!!」
男が身の毛がよだつ様なドスの利いた声をあげ、みそのを鋭く睨め付けて来る。
「よしましょ、みそのちゃん。
あんなのは放っといた方がいいんだよぅ…」
お加奈がみそのの袖を引きながら、小声を震わせながら窘める。
みそのも何かしようなどと、思ってもいないのだが、男に凄まれて固まってしまっていたのだ。
みそのは酔庵達と別れ、真っ直ぐ両国にある古着屋、『丸甚』へ顔を出し、久方振りにお加奈と再会していた。
近頃は『丸甚』も名が知れて来ていて、江戸中から人が集まるようになっている。
その為、一時ほどの大盛況では無いにしても、安定した客足がついていて、繁盛している事は変わりない。
それもあって奉公人が増えるとともに、お加奈が作業していた部屋も、今では在庫置き場と化し、人が上がってお茶を飲むのも困難になっている。
そんな訳でお加奈は、みそのが顔を見せるや、これ幸いとばかりに手狭な部屋を理由に、みそのを茶店へ連れ出していたのだった。
「でも、なんか嫌な感じよね?」
みそのは恐怖しつつも、お加奈に小声で言って口を尖らせる。
「あんまり見ない方が良いよ、みそのちゃん。
本当、あんなのは放って置くのが一番なんだからさぁ」
みそのがチラチラと男達を見るものなので、お加奈はハラハラしながら、もう一度みそのを小声で窘めている。
男達と言うのは、店の娘の尻などを触って騒いだり、かと思えば、自分達が密談するように話し出すと、他の客の声が煩いだのと文句をつけたりしていた。
先ほども、みそのとお加奈の笑い声が煩いと言って、男が怒鳴りつけて来たところで、みそのがカチンと来てしまい、その目が気に食わないと凄まれていたのだった。
「あれだね?
ちょいと河岸を変えようかしらね?」
眉間に皺を寄せているみそのを気遣い、お加奈が提案すると、
「そうね。あんなのと同じ空気吸うとか、あり得ないわよね?
そうと決まったら、さっさと行きましょ!?」
と、みそのはプリプリと言うや、早速二人は腰を上げたのだった。
「ごめんなさいね、みそのちゃん」
「お加奈さんは謝らなくてもいいのよう。
悪いのはあの男達なんだから、お加奈さんは何も悪くないわよ?
そうねぇ。強いて言えば、永岡の旦那が悪いんですよ。
そうそう、町中にあんな連中をのさばらせておくなんて、町方同心として失格よ!」
みそのの理不尽な落としどころに、漸くお加奈が歯を見せて笑った。
先ほど茶店を出る際も、みそのは男達にねっとりと執拗に睨まれながら、せせら笑いを受けていた。
みそのは茶店を出るなり、ぶるりと身震いさせ、プリプリと歩いていたのだ。
そう言う訳で、否応無く嫌な空気なっていたのだ。
お加奈の笑顔を見たみそのは、漸くいつもの調子を取り戻し、
「そう言えば、甚右衛門さんから何か話が有るって、言われていたのですけど、お加奈は何の話だかご存知ですか?」
と、以前の話を持ち出して、話題を変える事とした。
「ああ、きっとあの事でしょうけど、別に放って置いても良い話ですよ?
最近のあの人は強欲ばりですからねぇ…。
そう言えば、然して急を要する話でも無いのに、妙にそれらしく、みそのちゃんへ話しかけていたわよねぇ?
嫌だ嫌だ。ああも欲の皮が厚いとは、思ってもいませんでしたよぅ?」
お加奈は心底嫌そうな顔をして、首を振りながらみそのに応えた。
「そう言われると、なんか気になりますねぇ?」
しかしみそのは、そこまで言われると返って興を唆られたようで、俄然興味が湧いて来てしまう。
そんなみそのを見たお加奈は、
「ふふ、みそのちゃんも物好きねぇ?
でも今はそんな話なんかじゃなくって、甘い物の話をしません?
さっき食べそびれちゃったもんだから、今度こそ美味しいお饅頭でも食べないと、やってられませんからねぇ? あははははは」
と、お加奈は食い気を優先させると、大口を開けて高らかに笑うのであった。
*
「ほう、やはりそんな事があったのじゃな?
どうも最近物忘れが多なって、困ったものよ。
のう、角兵衛」
「はは」
お加奈が高笑いしている頃、城中では新之助、いや、徳川吉宗が、角兵衛こと、御用懸りの加納久通からの報告を受けていた。
この久通は吉宗が幼少の頃より仕え、吉宗の紀州藩主時代から藩政改革を支えた側近だ。
吉宗が江戸幕府八代将軍となると、久通も紀州藩士から幕臣となり、吉宗について江戸城へ移り、御用懸りとして将軍と老中の間を取り持っていた。
因みにこの御用懸りは、後に呼称が御側御用取次と正式になる。
この御側御用取次は、享保の改革期に江戸幕府に新設された最重要の将軍側近職であり、吉宗が久通を含めた三名の紀州藩士を江戸幕府の側衆に採用し、申次役に任じた事から始まったのだった。
加納久通は吉宗の信頼が厚く、所領も加増を続け、後に一万石の大名に列する事となる。
そして吉宗が大御所となり、江戸城西ノ丸に移ると、久通もこれに従い、西ノ丸若年寄となって、没するまで吉宗に仕え続けたのだ。
正に生涯を通して吉宗に仕えたと言える。
「ところで角兵衛。お主のところへ、出稽古に行かせたい者がおるのじゃが、どうじゃろう?」
「はは。上様の御紹介なれば、喜んでお受けしとう御座りまする。
もしや、その御仁と言うのが…」
「いや、この嘆願書とは別口じゃ。
例の娘の頼みでな? お主しかこんな願いが出来る者はおらんのじゃ。
よしなに頼んだぞ」
「はは」
久通は深々と吉宗に頭を下げる。
どうやら久通も、みそのの事は聞き及んでいるようで、頭を下げているその顔は、合点が行ったような表情を浮かべている。
吉宗はと言うと、みそのの頼みを信頼する家来に託し、ほっと一安心と言った表情だ。
そして、吉宗のそんな表情を見て、久通の柔和な顔には、主君を慈しむ微笑みが薄っすらと広がって行く。
「まあ、この嘆願書も例の娘の頼みなのじゃがな?
思い出したが、これはあれじゃな。
酒井の爺さんが持って来た話じゃったな?
あの男ももう少し若かったら、我らとともに働けたと言うにのう。
惜しい男じゃったのう」
「はは、仰せの通りに御座りまする」
吉宗の言葉に、久通は感慨深げな表情で同意するのであった。
*
「みそのさん、お待ちしておりましたよう。
私が外出から帰りましたら、少し前にみそのさんがいらっしゃって、うちのが連れ出したと言うじゃありませんかぇ。
そのままお帰りになられたらどうしようかと、冷や冷やしておりましたよぅ」
みそのがお加奈と一緒に『丸甚』へと帰ると、甚右衛門が飛びつかんばかりに、店先まで出て来て話しかけて来たのだった。
お加奈はそんな亭主に呆れ、眉をひそめている。
「お前もお前だよぅ?
私がみそのさんに話がある事くらい、分かっていた事じゃありませんかぇ。
それなのに、みそのさんを連れ出すなんて、気が利かないと言うか、もう呆れてしまいましたよぅ」
「みそのさんは私に会いに来てくれたのであって、お前さんの話を聞きに来たのじゃ無いのですからね?
勘違いしてもらったら困りますよ、本当」
甚右衛門の物言いに、お加奈が目くじらを立てて言い立てる。
甚右衛門はそんなお加奈に肩を竦めながらも、
「ささ、みそのさん。少々狭くなってしまったのですが、中へお上がりくださいな」
と、懲りずにみそのを店の中へと案内する。
みそのはお加奈と顔を合わせてクスリと笑い、いそいそと案内する甚右衛門の後に続いた。
店奥の作業部屋兼、在庫部屋兼、客間に案内されたみそのは、嬉々とした甚右衛門に慌ただしく座らされる。
そしてみそのが腰を下ろすや、甚右衛門が嬉しそうに、
「みそのさん聞いてくださいよ。とうとう最近、うちの甚平にも良いのが出来ましてね?」
などと小指を立て、上機嫌に息子の色恋を暴露する。
「へぇ〜。いよいよ甚平さんも身を固める時が来たのですね!
ふふ、甚右衛門さんは、早くお孫さんが見たいんじゃないですか?」
「そうなんですよ、みそのさん。もう早く孫を抱きたくて、うずうずしているのでございますよ?」
甚右衛門は嬉しそうに、みそのへ皺だらけの笑顔を向ける。
当の甚平はと言うと、店先で客の相手をしながら、「余計な事は言うな」と、言わんばかりの目を甚右衛門に向けている。
「みそのちゃん、この人の話は当てになりませんから、話半分で聞いといてくださいねぇ?」
お加奈が眉間に皺を寄せながらお茶を持って来た。
「いえね、甚平とあれこれある訳ではないのですよぅ。
娘さんが甚平に好意を持ってそうなのは、そうみたいなんですが、肝心の甚平の方は、その娘さんには興味が無いみたいでしてね。
どちらかと言うと、この人が気に入ってるだけなんですよう」
と、お加奈がネタばらしをすると、
「私が良いのだから、甚平には有無を言わせませんからな!」
「またそんな事言ってぇ。
私は甚平には、甚平が気に入った娘さんと一緒になってもらいたいので、あなたの意見には反対ですからね!」
と、甚右衛門は向きになり、それをお加奈が真っ向から否定する。
二人の考えは相反しているようだ。
甚右衛門が肩を竦め、お加奈が胸を張っているところを見る限り、甚平には明るい未来がありそうだが。
「そんな事よりみそのさん、少々聞いて欲しい事がご…」
「そんな事って、甚平が可哀想じゃないですか!?」
甚右衛門が話題を変えると、お加奈が噛み付き、また甚右衛門は肩を竦める。
この二人の力関係は、完全にお加奈に分があるようだ。
「分かりましたよう、お前は甚平の事となると、どうしてこうも向きになるのですかねぇ…」
「息子なんだから当たり前じゃないですか!」
「分かりました、分かりました。これではどうにも話が進みませんよ。
甚平の事は後でゆっくりと聞いてあげますから、今はみそのさんと話をさせておくれよ?」
甚右衛門が情け無い顔でお加奈へ頼み込むが、その言い方が気に食わなかったお加奈は、鋭く睨みつけて甚右衛門を縮こませる。
「ふふ。甚右衛門さんは、相変わらずお加奈さんには敵わないのですから、そろそろお加奈さんの言う通りにしておいた方が、いいんじゃないですか?」
みそのは相変わらずの二人の掛け合いに、小さく笑って甚右衛門を揶揄った。
なんだかんだ仲の良いこの夫婦を見ていると、みそのはいつも癒されるのだった。
お加奈はみそのの言葉を聞き、そうだとばかりに胸を張って頷いている。
「そう言う事を言いますと、本当に私の立場が無くなりますから、言わないでおくんなさいよぅ」
甚右衛門が弱々しく苦情を漏らす。
そして甚右衛門は諦めたように首を振り、一つ溜息を吐くと、
「では、本題を聞いてもらいましょうかね?」
と、すっかり消沈気味に話し出した。
「実は小握り屋の話なので御座います。
お陰様で辻売り屋台では好評をいただいていて、今では屋台を三つまで増やして、それぞれの上がりも、そこそこな物になっているのでございますよ?」
「それは結構な話ではありませんか?
流石、甚右衛門さんってところですね?」
みそのはそう言って相槌を打つも、その事は聞き及んでいる事でもあるので、話はその先にあるのだと思い、話の続きを促すような目を向ける。
「いえ、私なんかは、そう大した事などしておりません。全てみそのさんがお膳立てしてくれたようなものですからな?
そのお膳立てしていただいたみそのさんへ、お願いがあるのですが…」
そう言って甚右衛門はお茶を啜り、その舌を濡らした。
「現在三つの屋台を切り回しているのですが、その仕込みやらを考えますと、今借りている裏店では手狭になって来ていましてね?
だからと言って、もう一つ裏店を借りるのも能がありませんし、思い切って表店を借りて、そこでも食べられるようにしようと、ここのところ考えているのでございますよ。
しかし、どうも小握りだけでは、心許ないような気もしますし、かと言って、煮しめやらを出す一膳飯屋をやったところで、面白くもないですし、何より流行らないと思うのですよねぇ…。
それに、それなりに流行らそうとすれば、良い板前を雇い入れないといけませんし、それこそ私なんぞが参入するには、敷居が高いでしょうし、難しい事になってしまうと思うのです。
小握り屋みたいに、何か気の利いたものだったり、目新しい他ではやっていないような事だったり、何か工夫が必要だと思っていましてね?
ただ、何と言っても小握り屋だって、みそのさんが手解きした善兵衛の猿真似でして、ただそれを、辻売りにしただけでございましょう?
そもそも私には、そう言った類の才は備わって無いのでございますよ。
それでここは、みそのさんのお知恵をお借りするのが、やはり一番だと思いまして、例えば、その店の運転資金をお借りする形にして、私にも商売繁盛指南をして頂きたいのでございます。
何とかお願い出来ませんかね?」
甚右衛門は話し終えると、上目遣いでみそのを見て来る。
お加奈は承知していた話のようで、眉をひそめながら首を振っている。
「うぅぅん…」
みそのは首を傾げながら唸ってしまう。
甚右衛門は居住まいを正して、そんなみそのの次の言葉を待っている。
「あくまで小握り屋さんの延長で、商売をなさるのですよね?」
待っていたみそのの言葉に、甚右衛門はゴクリと唾を飲み、
「え、ええ。辻売りの屋台は客を掴んでおりますし、そもそもが、その仕込みの裏店が手狭になっての事ですからね。
でも、何か良い考えがあるのでしたら、何でも試してみるつもりでございますよ?」
と、応えているうちに、その声音も明るくなって来る。
「そうですか。でも、あれこれ手を広げるのも、先ほど甚右衛門さんも仰っていたように、料理するお方の力量にもなって来ますから、ここは今の小握りを元にして、何か良い方策を考えるとしましょうかね?」
「本当ですかっ!」
みそのの前向きな言葉に、甚右衛門が歓喜する。
「え、ええ…。
でも、考えはしますけど、流石に表店を借りてまでとなると、少々重荷に感じますし、もしその考えたものが何とか形になりそうなら、そこで初めて表店の話しを進めるって事にしてもらえませんか?」
「ええ、ええ、それは勿論でございますよ。
しかし、商売繁盛の神様が考える事ですから、そんな心配は要らないと思いますけどね?!」
みそのの提案を受け入れた甚右衛門の言葉に、みそのは思わず閉口してしまう。
「これは楽しみになって来ましたぞっ!」
そんなみそのをよそに、甚右衛門は揉み手をしながら、目を爛々とさせて興奮している。
「大丈夫なんですか、みそのちゃん?」
守銭奴となった亭主を呆れるように見ながら、お加奈が申し訳無さそうにみそのへ声をかけて来る。
「え、ええ。何とか考えてみますよ?
でも、古着屋の方は大丈夫なんですか?」
逆にみそのが、甚右衛門の本業の心配をすると、
「ああ。ここはもうこの人は必要無いですからねぇ。
今じゃ帰って来ると、邪魔でしょうがないんですよぅ」
などと言って、お加奈は顔を顰めさせる。
確かに奉公人も増え、見る限り店の方は甚平が切り回しているので、甚右衛門の居場所は無さそうに思える。
「それでこっちに夢中になってるんですねぇ…」
みそのは居場所の無い甚右衛門が、少しだけ気の毒にも思え、眉を下げながら呟くのだった。




