第二十五話 長屋話
「それにしてもみーさん、昨日のあれは、お宝になりそうですぞぅ!?」
酔庵は嬉しそうにみそのへ語りかけている。
今二人は、ゆるゆると順太郎の長屋を目指して歩いている。二人の数歩後ろからは、丁稚の幸吉もついて来ている。
昨日のお疲れ様会が余程楽しかったのか、酔庵はみそのの仕舞屋を訪れてから、ずっと昨日の話題に花を咲かせていた。
ただ今は例のラー油を話題に挙げたようだ。
「またすーさんは、そんな事言ってぇ」
すっかり酔庵と、みーさんすーさんの仲になったみそのは、クスリと笑いながら酔庵へ返す。
「いやいや、みーさん。
それが今朝、いただいたラー油を店の田楽へ垂らして食べてみたのですがね。
これがまた絶妙と言いますか、倅なぞも、『これは酒が進むに違いないっ!』なぁんて、鼻息も荒く叫び出す始末でしてに、是非とも豊島屋へあのラー油を卸してもらえるよう、みーさんに頼んで来てくれと煩いくらいだったのですから」
酔庵は上機嫌に今朝の出来事を話す。
「それに、この取り引きが成るようでしたら、今回の順太郎様の道場くらい、豊島屋が後ろ盾になって支援するなどと、大口を叩いていましたよ?
まあ実際、みーさんが考える企てくらいでしたら、豊島屋にとっては何とも無いので、大口とも言えませんがね?」
「またまたすーさんは、お代官様みたいな景気の良い事を。
そんな事されなくとも、ラー油くらいは何とでもしますって」
「いやいや、みーさん。
これは倅の気の変わらぬ内に、話を纏めといた方が得策ですぞ?
何せ小さな道場とは言え、失礼ながら順太郎様は手元不如意、防具などの道具類を誂えるのだって、中々馬鹿になりませんぞ?
何せ、金子はあって困る事はありませんからな?」
みそのが遠慮するが、酔庵は首を振りながら、それを窘めるように語った。
「まあ、とにかく順太郎さんやお百合さんに長屋を見てもらって、そこでもう一度構想を練りましょ?
実際に場所を見ながら話せば、実感も湧いてくるでしょうしね?」
「それもそうですな?
なんだか私の方がワクワクして来ましたぞ、みーさん?」
みそのの言葉に、酔庵は子供のような表情で返し、小さく震えて戯けてみせる。
「ふふ、すーさんも物好きよねぇ」
みそのは呆れながらも、酔庵を見て自分も心なし、ワクワクしているのを感じるのだった。
*
「旦那、人死ですぜ?」
智蔵が人集りから抜けて駆けてくると、眉をひそめながら言った。
「昼間っから物騒なこったなぁ…」
永岡はぼやくように言うと、智蔵の背中を追うように、人集りの中へと入って行った。
「お前が見つけたのかぇ?」
「へ、へい。あっしが店賃を借りに入りやしやら、この弥之助がおっ死んでたんでさぁ」
人集りの先は長屋の裏店の一つで、そこへ入った永岡の問いに、勇み肌な男が悪びれもせずに応えている。
人が一人死んでいる割には、少々開けっぴろげな感じでもある。
「おっ死んでたってぇのは、この格好のまま死んじまってたって事かぇ?」
「へえ、あっしは指一本も触れちゃあいやせんや。
あっしが来た時ぁ、既にこの様だったんでやすよ旦那」
永岡が続けた問いにも、その男は眉をひそめながら、汚い物でも見るような目をして応えた。
死んでいる弥之助と言う男は、へっついに頭を突っ込むようにして、冷たくなっていた。見たところ、血などが出ている様子も無い。
「お前はこの仏さんに金を借りに来たって言ったな?」
「へえ、店賃を貸してやるって言われてたんで、来たんでやすが、見ての通りこれでやすよ。
当てにして来たってぇのに、飛んだ無駄足でやすよ。ったく」
「おいおい、仏さんに随分と酷え言いようだな?
曲がりなりにもお前は借りに来た方だろうがよ?」
「へえ。でも旦那、あっしは無理矢理融通してくれなんて、ひとっ言も言ってやせんぜ?
この弥之助が今日になったら、店賃を貸してくれるってぇんで、一昨日の晩、飲み屋で酒を一杯奢ったんでさぁ。
なけなしの銭だったんでやすよ?
ったく足元見やがって、この野郎は。そりゃ、当てにして借りに来たら、そいつがおっ死んじまってたんだから、どうにも腑に落ちやせんやな?
死んで済まそうなんざ、太え野郎でやすぜ。こんな奴ぁ死んだ方がましでやすよ?
あ、もうおっ死んでやしたね。こいつぁいい気味でぇ」
益々調子に乗って来た男は言いたい放題で、悪びれもせずに鼻で笑っている始末。
「お前が殺ったんじゃねぇのかぇ?」
そこへ智蔵が声を低めて凄んでみせる。
この男の態度が少々癇に障ったらしい。
「な、なに訳の分からねぇ事を仰ってるんでやすかぇ、親分さんっ。
あっしが殺ったんなら、こんなとこに居やせんや。勘弁してくだせぇよ?」
智蔵の脅しが効いたようで、男は少々声音を落として弁解を始めた。
「へへ、そんな事ぁ分かって聞いてんのさぁ。
でもあれだぜ? そう舐めた口で仏さんの事ぁ騙ってやがると、本当にお前が殺った事にして、楽させてもらうぜ?」
「………」
男の弁解する姿に永岡が横槍を入れて、更に男を黙らせる。
「んで、お前は、この仏さんとはどう言った関係なんでぇ?」
「いや、別にどうって言われやしても…。
大した仲でもねぇんでやすよ。
本当、偶に飲み屋で顔合わせるくれぇなもんで、名前くれぇしか知らねぇような間柄でさぁ。本当でやすよ旦那?」
男は先ほどまでとは一転、弱々しい口調で永岡の問いに応える。
「飲み屋で偶に顔合わす程度で、名前しか知らねぇ奴と、良く銭の貸し借りになるもんだなぁ?
本当の事を言わねぇと、オイラも楽する事にしちまうぜ?」
永岡がジロリと男を睨むと、男は観念したように肩を落として話し出した。
「こいつぁ前の話しでやすよ?
今じゃあ、あっしは一切手ぇ切ってやすから、そこんとこ、よろしくお願ぇしやすよ? それじゃねぇと、あっし…」
「いいから話しやがれってぇんでぇ!」
男の回りくどい言い回しに、永岡が待ちきれずにどやしつける。
「へ、へい。あっしとこの弥之助は、ちょいと賭場で顔見知りになったのが切っ掛けで、偶に飲んだりするようになった仲なんでやす。へえ。
一昨日も賭場ですってんてんにされた弥之助が、あっしに集って来たんでやすよ?
あっしだって、すってんてんに近ぇってぇのにでやすよ?
そんなもんでやすから、別にこの弥之助が何してるだとか、そう言った事ぁ知らねぇし、知ろうとも思っちゃいやせんで、あっしは何もこいつの事ぁ知らねぇんでやすよ」
永岡にどやしつけられた男は、ビクビクしながらも必死に言い募った。
「まあ、そんなこったろうな?
でもあれだぜ、お前は少なくとも一昨日、賭場へ出入りしたってこったから、後でその辺の事情を聞く事になっからな?
尻叩かれるくれぇは覚悟しとけよな」
「そ、そんなぁ…」
永岡の言葉に男は情け無い声を出し、がくりと頭を垂れる。
「あ、永岡の旦那じゃねぇでやすかぇ。
それにしやしても、相変ぇらず、お早えお出ましで?
いつも遅くなってすいやせんでぇ、へい」
そうこうしていると、顔見知りの番太郎が声をかけて来た。
誰かが呼びに行っていたらしい。
「おう、ご苦労さん。
オイラ達ぁ、偶々通りかかったところへ行き当たっただけさぁね。
まあ見たところ、仏さんは心の臓の発作かなんかだろうが、念の為に検屍してもらっとくかぇ?
取り敢えず、番屋へ運んでから、沢田さんに繋ぎをつけてくんな」
永岡は番太郎に言い付けると、智蔵に目配せして裏店を後にする。
と、永岡は店から出たところで振り返り、
「おっと、そいつぁ賭場遊びが過ぎるみてぇでぇ。
悪りぃが、ついでにそいつの素性も、しっかり聞き出しといてくんな?」
と、思い出したように付け足した。
「へい、承知しやした永岡の旦那っ」「そんなぁ…」
永岡は番太郎の威勢の良い返事と、情け無い男の声を背中に、今度こそ裏店を後にするのだった。
*
「な、なんか…ちょっと凄過ぎ…ない?
えーと、すーさん?」
みそのは思わず上擦った声で訴えている。
順太郎やお百合、それに周一郎も皆、みそのに振られた酔庵を困惑顔で見ている。
「そう。凄いんですよ、みーさん。
こんなんだから、中々人も入ってくれなかったんでしょうねぇ?」
酔庵は長閑な声で応えながら長屋を眺めている。
今みその達は、順太郎の道場の候補地である、酔庵所有の長屋を訪れている。
しかし、明らかに長屋の様子が可笑しい。
言ってしまえばその長屋は、まさに朽ち掛けているのだ。
みそのは酔庵から話しを聞いた限りでは、ボロいとは言いつつも、精々順太郎の長屋と変わらないくらいの物だと、勝手に解釈していた。
と言うのも、順太郎の長屋もみそのにとっては、相当にアレな感じに映っていたからだ。
順太郎、周一郎親子の店が、さっぱりと整理されていた為、店の中は然した事は無かったが、長屋自体はかなりの哀愁、いや、ボロいものだったのだ。
みその的には、あれ以上の長屋はあまり見た事が無かったと言う訳だ。
順太郎の長屋は当然、ボロい長屋代表と言う事になる。
ただ、上には上があったのだ。
今みその達が目にする長屋は、腰高障子の障子が破れているのは言うまでも無く、戸板やどぶ板は殆ど朽ち落ちていて、屋根も所々朽ちている。
正に朽ち掛けた長屋と言う表現は、妥当であって、全く誇張したものでは無い。
「って言うか、すーさん。本当にここなんですよね?」
「ほっほっほ。まあ、みーさんが言うのも最もですな?
でも、こんなんだから、この立地で空きがあるのですよ、みーさん。
私が持っている他の店は、全て埋まってますからなぁ。
それに空いたとしても、直ぐに埋まってしまうのですよ?
ここだけですよ、ずうっと入らないのは。確かに見れば納得ですな? ほっほっほっほ」
酔庵は他人事のように語り、面白い物を見たかのように、無邪気に笑っている。
そんな呑気に笑う酔庵に呆れつつ、みそのは小声で、
「あのぅ、すーさんや?」
「はいな、みーさん?」
「この空気、ちょいと不味い感じなのですが、この件に関してどうお思いでしょうかね?」
「これはあれですぞ、みーさん?」
「なんですね、すーさん?」
「時期尚早と言うやつでは無いのですかな?」
「それを今言われても、はいそうですな?
とは行きませんぞ、すーさん?」
「うぅぅむ……そうですな。
それでしたら、みーさん。一層の事、発想を変えてみますかぇ?」
「ほうほう、すーさん。それは一体どう言った趣向のものですかな?」
「いえね、みーさん。この店を見てごらんなさい」
「いやいや、すーさん。さっきから見てるから、こんなに不味いかなぁなんて、思っちゃってるのですぞ?」
「いや、だからほらみーさん。一層の事、この店は無いものとして見るのですよ、みーさん」
「無いものってすーさん。凄いのがあるもんですから、もう手遅れですぞ、すーさん?」
「ほっほっほ。そこを何とか曲げてですな、みーさん。立地だけ見てもらいまして、建物は普請し直すって事でほら、頭の中で取り壊して更地にしてご覧なさいな?
そしてあら不思議、丸っと新しいのが建ちましたぞ?
ほら、急に魅力的な風景に見えて来たでしょうに?」
「丸々普請し直すのですか!?」
と、酔庵の口調を真似、戯けながら話していたのだったが、思わぬ酔庵の言葉に、みそのは思わず声音と口調を大きく変えていた。
「そうですよ、みーさん」
事も無げに返す酔庵。
「いやいや、手を加える程度って仰ってたじゃないですか?
それに、それでも申し訳ないと思っていたのに、この為にそんな大掛かりな事なんてされたら、申し訳ないどころの話しじゃないですよっ!」
何ともないように応える酔庵に、みそのは慌てて言い立てる。
「いえ、みーさん。これはあれですぞ?
私にとっても良い話なのですよ?」
「ど、どう言う事です?」
慌てるみそのを、酔庵がしたり顔で窘めるように言うので、みそのは眉をひそめながら問い返すと、
「元々私は、この長屋には人が入らないと聞いていましたので、普請でも入れて、少しでも入るようにしようと思っていたのは、本当の事なのです。
しかし、恥ずかしながら実際に見るのは初めてでして…いえ、初めてってのは、このような様を見るのがででして、昔はもっとましだったのですよ?
まあ、そんなもんだから、ちょっとやそっとの普請では、余り意味を成さないと、たった今、見てみて思った次第でしてね?
だからと言って、丸々普請をやり直すには、長い目で見れば良いのでしょうが、老い先短い私としては、金子が出て行くだけですし、本来なら悩みどころなのですが…。
ほら、先ほどお話したじゃないですか、みーさん。
私の倅が豊島屋で支援するって話ですよ?
あれにこの普請の半分以上は出させまして、私は元の考え通り、ちょいと手を加える程度の持ち出しで済む。そう言う話ですよ?
いや、心配要りませんぞ、みーさん。
豊島屋はこのくらいの事やっても、何とも無いのですからな?
長年豊島屋を切り回して来た私が言うのです。安心してくださいな?
どうです? 私にとっても良い話でしょう?」
と、酔庵は得意げに鼻を鳴らした。
「い、いや…」
みそのは困惑しながら、一緒に酔庵の話を聞いていたであろう、順太郎達へ助けを求めるように振り返る。
「ま、まあ、確かにあの豊島屋さんなら、何とも無いのでございましょうが、それに関して、私としては何とも言いようが…」
みそのに見られた順太郎は、より困惑しながら応える。
「しかし、どうして豊島屋さんは、そこまでして支援をしてくださるのかな?」
横から周一郎が口を開く。
すると、酔庵はニンマリと顔を歪ませ、
「いえね、このみーさんが拵えたラー油ってのがありましてね?
これがまた絶品の調味料でして、これがうちの田楽と合うのなんのって……」
と、誇らしげにラー油のあらましを説明し出した。
「ほう、それはそれは…。
そんなものが御座れば、豊島屋さんとしては、何としても店に置きたいもので御座るな?」
「そうなので御座いますよ、周一郎様。
あれで客の酒量も何割増しになるか、考えるだけで笑いが止まらないと言うものです。
あんな必死に頼む倅を見たのは、倅が子供の頃くらいなものでしたからな? ほっほっほっほ」
話を聞いた周一郎が感想を述べると、然もありなんと酔庵は上機嫌で応じ、愉快げに笑う。
「なんだか、何てみそのさんに言って良いのやら…」
お百合が申し訳なさそうにみそのへ声をかけ、恥じらうように順太郎を見る。
「本当です、みそのさん。
何から何までお世話になり、お礼の言いようもありません。
これに応えられるように、立派な道場にしてみせます」
順太郎はそう言ってお百合にチラリと目をやり、薄っすらと顔を赤らめた。
今後の事を考えて上気したのと、やはり照れ臭さなのだろう。
みそのはそんな順太郎とお百合を見て、
「なんだか、既にこの長屋に決まったみたいですね?」
と、戯けた調子で言って二人を恐縮させ、
「ふふ、では早速頼りになる貸し主さんに、話を通しちゃいましょうね?」
続く言葉で酔庵を喜ばせた。
*
みその達は稲荷前に集まり、あれこれと一頻り立ち話をしていた。
そして話の末、この流れで酔庵贔屓の大工のところへ、普請の相談に行く事になったようだ。
「では、普請の細かい打ち合わせは、中西様がおりますし、よしなに取り計らってくださいね?
すーさんも、任せましたよ?」
「みーさんも一緒に来ればよろしいのに…。それとも私も両国へ行ってみますかな?」
酔庵は恨めしそうにみそのを見て言う。
みそのは自分が行っても普請について何も言える事は無いので、これは良い機会だとばかりに、急遽、お加奈のところへ行く事を思い立ったのだ。
「またすーさんは、そんな事言って…。
最後まで見届けるって言ったのは、すーさんじゃないですか?
普請の段取りは、しっかりお願いしますよ?」
みそのは名残惜しそうにする酔庵を窘めると、その酔庵を苦笑しながら見ている三人へ、
「では、先ほどお話していた感じで、この際ですから道場の事は、思うところは全て相談してみてくださいね?」
と言い残し、足取りも軽くその場を後にするのであった。




