第二十四話 締めのうどん
「いやぁ、貴方様が新さんでしたかぁ。
お噂は予々聞いておりましたよ、何せ江戸では知る人ぞ知る、大層粋なお方ですからなぁ。
ささ、どうぞどうぞ…」
酔庵が上機嫌に言いながら、新之助の猪口に酒を満たしている。
あれから程なくして、酔庵が疲れた顔で現れたのだった。
思いの外寄合が長引き、すっかり疲れ切っていたのだ。
しかし、先着していた新之助が、巷を騒がせている謎の浪人『新さん』だと知ると、一気に疲れも飛んだように笑みを浮かべ、今では酒を交わしながら、すっかり打ち解け、上機嫌に話している。
新之助は神出鬼没に江戸の町へ現れては、揉め事を解決したり、困っている者を助けたりと、将軍の職務の傍、町場へと出ては、日頃の鬱憤を晴らしていたのだった。
奉行所でも噂になるほどの事もあり、江戸の町では知る人ぞ知る有名人なのだ。
酔庵もそうした新之助の噂は、以前から耳に入っていたようで、初めてその新之助を目に出来て、少々興奮しているようだ。
「いやぁ、ワシなぞはただ遊んでいるようなものでな?
そう大した事でもないのじゃよ」
新之助は少々閉口しながら返し、酔庵からの酌を受けている。
「いやいや、遊びと言いましても、そうそう出来る事では御座いませんよ。
しかし、本当にみーさんは面白いお人ですねぇ?
例の養生所のお医者様とお知り合いかと思えば、町方のお役人様ともお知り合いで、そしてここへ来て、新さんともお知り合いだなんて、こんな事があるので御座いますねぇ?」
「そうじゃな。こう見えて、このみそのと言う女子は顔が広いでな。
もしかしたら将軍様へも、目通りが許されとるのかも知れんぞ?」
新之助が悪戯っぽく言って、ジロリとみそのを見ると、みそのは眉をひそめて新之助を睨みつける。
内心は冷や冷やなみそのである。
「ほっほっほっほっ、確かに新さんの言う通りで御座いますな?
でも新さん。それは軽口でも何でもなく、もしかするともしかしてで、みーさんは本当に、将軍様へも御目通りが許されるかも知れませんぞ?」
酔庵は新之助の言葉を軽口として流したが、それはあり得る事だと切り返した。
「ほう、それはどう言った事じゃな?」
新之助の相槌に、酔庵は気を良くして語り出す。
「いえ、新さん。みそのさんには、未だ凄いお知り合いが居るので御座いますよ?
そのお知り合いと言うのが、蘭方に明るい御親類で御座いまして、その御仁の作る打ち身に効く薬と言うのが、これがもう大した薬で御座います。
昨日なぞ、私の知り合いの道場へ見学に行ったので御座いますが、その時に小手を打たれて、手を腫らした門人がいたものですから、試しにその軟膏を使ってもらったので御座いますよ?
ふふ。そうしましたら、その門人は瞬時に痛みが引いたと言いまして、その薬の効き目に、大層驚いていたので御座いますよ?
これはもう、その道で天下を取ったようなもので御座います。
この功績と富で、きっとみーさんは近い将来、将軍様からお声掛かりになると思うので御座いますよ」
「ほう、そんな事があったのかぇ?
ワシもその御仁の話しは知っておるから、確かに有り得ん話しでは無さそうじゃな?
そう言えば、その御仁に一度会わせて欲しいと頼んでおったな。
どうなっておるのじゃ?」
新之助は酔庵に感心してみせ、また悪戯っぽく言いながらみそのを見て来る。
「忙しい人ですから、中々都合が合わないのですよう。
新さんも、毎日ここへ顔を出している訳では無いですからねぇ…」
みそのは鷹揚に応えながらも、目では、もうこの話しは終いにしてくれと訴えている。
そんなみそのを見て、新之助が可笑しそうに苦笑した時、
「おう、邪魔するぜぇ!」
玄関口から永岡の声が聞こえて来た。
「なんでぇ、新さんも来ていたんですかぇ?
なんだかオイラ達が最後みてぇじゃねぇかぇ。待たせちまってすまねぇな?」
永岡は酔庵の他に新之助が居る事に目を細め、みそのへ遅れた事を詫びると、
「またこいつがオイラを待っていやがったのさぁ。
ったく、昔っから懲りねぇ奴だわな?」
と、隣に居る弘治を見て、ほろ苦くぼやいた。
「いえ、私も丁度今来たところでして。
それよりみそのさん、お怪我が大した事無くて本当に良かったです」
弘治は永岡をチラリと見て苦笑すると、しれっと言いながら、みそのの具合へ話を向けた。
「その節はありがとうございました。弘先生のおかげで、もう何とも無いですよ?
お礼もしたかったので、今日来て頂けて本当に良かったですよ」
みそのは弘治にお礼を言い、喜びを露わにすると、
「では、みんな揃った事ですし、お食事の用意をしますね?」
と、嬉々として支度に取り掛かるのだった。
*
「ほう、これは美味いっ!
この鶏団子はふわっふわで、何とも美味しいですな?」
酔庵が感嘆の声がを上げ、目を丸くしながら同意を求めるように、鍋を囲う皆を見回した。
「うむ、確かに。こんな柔らかい鶏団子は初めてじゃ。
この家で食べるものはどれも美味くて、いつも驚かされるのう」
新之助が酔庵に応えるように口を開き、弘治もそれに同調するように、うんうんと大きく頷いている。
永岡もその様子を見ながら、ニタニタと嬉しそうに笑っている。
「確かにこの佃煮も一味違いますし、私が何よりも驚いたのは、この酒で御座いますよ。
こんな上物は、中々口に出来ませぬ。
皆様はもっと大事に飲んだ方が良いと、先ほどから思っていたくらいで御座いますからねぇ?」
酔庵は隠居したとは言え、元は江戸を代表する酒屋の主人だった事もあり、やはり酒を見る目は鋭いらしい。
口には然程出していなかったが、一口飲んだ時から瞠目していたのだった。
「そうですよね?
何せ酔庵さんは、『豊島屋』のご隠居様ですからね?」
酔庵の言葉に、弘治が然もありなんと相槌を打つと、
「ん? 豊島屋ってぇのは、あの鎌倉河岸の豊島屋の事かぇ?」
永岡がそれに反応して、思わず酔庵に確かめるように呟く。
「ええ、そうなのですよ。
もう隠居して、倅に家督を譲っておりますがねぇ」
酔庵が照れ臭そうにしながも、律儀に永岡の呟きに応えると、
「そうかぇ…」
と、永岡はまた呟くように返して、隣に座る弘治をチラリと見てニヤリと笑った。
「如何なさいましたかな?」
酔庵はその様子を見て疑問を口にすると、
「いやな、今この小川先生も取り組んでる、小石川の養生所ってぇのがあんだろ?
あれなんだがな。お上がせっかく庶民の為に開設するってぇのに、その趣旨が江戸の庶民にゃ中々伝わんねぇみてぇでな? 今じゃ誤解が生じちまって、ちょいと面倒な事になってんのさぁ。
そんで、町方の方でもその理解が進むように尽力しろってぇ、大岡様からも言われているんでぇ。
とは言え、オイラ達が言って回るよりゃ、豊島屋みてぇな大店に協力してもらった方が、よっぽど効率がいいやな。
どうだろ、酔庵さん。一度大岡様に会って、話しを聞いちゃもらえねぇかぇ?」
永岡は大岡から呼び出され、町方の方でも考えて置くように言われていた。
ぼんやりと考えてはいたが、ひょんな事から妙案が浮かんだらしい。
「まあ、こんな老体で良ければ、私は吝かではないですし、何よりも大岡様の助けになるのであれば、喜んで何処へでも出向きますぞ」
酔庵もお奉行の大岡の名前を出されれば、否応無いとばかりに鼻息荒く応えている。
そして酔庵はみそのをチラリと見て、
「それに何と言っても、みーさんがそれで喜ぶのであれば、私はたとえ火の中水の中、将軍様からお咎めがあったとしても、何としても行きますともっ」
と、見栄を張った様な仕草で戯けてみせた。
そんな酔庵の様子に永岡は、
「なんだお前、やけに手懐けちまってるじゃねぇかぇ?
また例の商売繁盛指南でも、したんじゃねぇだろうなぁ?」
と、揶揄い、酔庵もその噂は耳にしていたようで、ここでも目を丸くして驚き、一頻りその話題で盛り上がって、みそのを閉口させた。
「ではそろそろシメにしましょうかね?」
みそのが一声かけて立ち上がった。
今日の鍋は塩ちゃんこ鍋で、作り過ぎたと心配していた鶏団子も、あれこれと歓談しながら、綺麗に皆の腹の中へと収まっていた。
鍋には汁と申し訳程度の野菜しか残っていない。
「おっ、これで雑炊とくりゃあ、くちくなった腹にも余裕が生まれんなぁ?」
永岡は嬉しそうに言うと、他の面々も同じような顔をして頷いた。
「今日はおうどんで締めるんですよ?
ちょいと工夫しましたので、雑炊にも負けず美味しいはずですよ!?」
うどんと聞いて眉をひそめた永岡に、みそのは人差し指を立てながら言い足し、嬉々として用意にかかった。
「ほう。うどんと言っても、やけに細いのだのぅ」
みそのが持って来たうどんを見て、新之助が興味津々に聞いて来る。
「ええ、無理言って細く切ってもらったんですよ?
ここのうどんはツルツルシコシコしてて、そのままでも美味しいんですけど、ちょいと試してみたかったんです」
みそのはそう新之助へ返し、楽しそうに手を動かしている。
みそのはうどんを入れる前に、出汁と一緒に味噌を溶きながら入れている。一見分からないが、この味噌にはすりおろしたニンニクを和えてある。
「おっ、良い香りがして来ましたねぇ?」
弘治も味噌の香りにやられて、思わず声をあげてしまう。
みそのはそれにニコリと応えると、皿から滑らせるようにして、細く切られたうどんを鍋へ落とし込んだ。
「これでもう少し煮立ったら、卵を落としていただきましょ?」
みそのの言葉に、皆ゴクリと喉を鳴らしている。満腹のはずの酔庵も然り。
みそのが『大阪屋』の雁助に依頼した細切りうどんは、締めのラーメンをイメージしてのものだったのだ。
味付けも塩ちゃんこから味噌を加える事で、飽きが来ないようにしている。そして味噌の香りが皆の鼻をつき、新たに食欲を唆る演出にもなっている。
「そろそろいいかしら…」
と、言いながら、みそのは皆の小鉢へと、味噌ラーメン風うどんを取り分けて行く。
そして、予め用意しておいた白髪ねぎを上に乗せると、それぞれの前へと小鉢を置いて回る。
「おぉ、では頂くとするかのう!?」
新之助が待ちきれずに箸をつけようのした時、
「新さん、待ってくださいっ」
と、みそのが慌ててそれを阻止した。
新之助はもとより、永岡や他の面々も箸を止めて、皆一斉にみそのに注目する。
「これが隠し味になるので、是非たらりとやってくださいな?」
みそのは小鉢に入れて置いた調味料を、恭しく両手で持ち、新之助へ差し出した。
「ほう、これが隠し味とな?」
「ええ、ドバッと行っちゃっても大丈夫ですよ!
永岡の旦那もやってみてくださいな?」
新之助が関心するように小鉢を受け取り、みそのが言うようにたっぷり目にかけ、小鉢を永岡へ回す。
永岡も興味津々それを受け取り、新之助に習って白髪ねぎの上からかけ回す。
「ほう、こりゃ綺麗なもんだなぁ?!」
永岡は、白髪ねぎが綺麗な夕焼けのように染まるのを見て、思わず感嘆して笑みをこぼす。
永岡が「ほれ」と、調味料入りの小鉢を弘治へ渡そうとすると、
「取り敢えず、二人の感想を聞いてからにしましょうか?」
と、みそのが奪うようにその小鉢を受け取り、永岡と新之助を嬉しそうに見て笑った。
「もしかして初めて作ったんじゃねぇだろうな?
先ずはオイラと新さんで、試そうなんて考えかぇ?」
流石に永岡が、みそのに疑いの目を向けると、
「いえ、初めてって訳では無いのですが、久々に作ったものですから、ちょいと思い直したんですよ?
もしかして旦那、疑ってるんですか?
今まで私の作るもので、美味しく無かったものなんてあります?」
と、みそのは逆に永岡を責めるような目で見て、口を尖らせる。
「まあ、お前の作るもんはどれも美味えわな?
新さん、取り敢えずオイラ達で確かめてやっかぇ?」
「そうじゃな?
それよりワシは、この香りが堪らんで、早く食べたくてうずうずしとるのよ」
新之助の言葉に、二人は顔を見合わせて笑い、仲良く一気にうどんをすすりあげた。
「ブォホッブォホッ」「ゴゴッゴゴッ」
勢い良くすすった二人は揃って咽せ返し、のたうち回り出した。
弘治も酔庵も目を丸くして、言葉なくおろおろと二人を見ている。
そしてそんな二人を他所に、みそのはコロコロと笑っている。
「ば、ば、ば、おい、水! 水、水…」
涙目で慌てる永岡を見て、みそのはクククと笑いを堪えながら水瓶に水を取りに行く。
「うわっ!
こりゃ酒は駄目だぞ、永岡殿っ! ガガッガッ、ゴホッ…」
「ブォホッ、新さん遅えよっ! ゴホッゴホッ…」
大騒ぎである。
「はい、お水お待ちどうさまー」
みそのが悶絶する二人に、大き目の椀で水を差し出すと、二人は奪うようにして、ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲んだ。
みそのが用意した調味料は言わずもがな。
「これは、失敗では無いんですよ?
適量をかければ、とても美味しくなるんですからね?」
永岡と新之助が一頻り落ち着き、それを見計らったように、みそのは弘治と酔庵に説明を始めた。
「これはラー油と言いまして、唐辛子の香りを胡麻油に移しているものでして、香りと一緒に辛味も効いてくるのですよ?
唐辛子の他にニンニクやネギ、八角なんかも…」
「そんな事ぁ聞いてねぇやぃ! 唐辛子だったら唐辛子ってぇ、初めっから言えってぇのっ!」
みそのが説明していると、永岡が怒りを露わに怒鳴りつけて来る。
「だって聞かれませんでしたよ?
それにドバッととは言いましたが、いくらなんでも、あんなにかけるなんて思っていませんでしたし、意外と旦那達は辛いのがお好きなんだなぁなんて…」
「な訳ねぇだろうがっ!
ったく、死ぬかと思ったぜっ、覚えてやがれっ!!」
永岡が飄々と応えるみそのをまた怒鳴りつける。
「ほっほっほ、でも、永岡様、これはみーさんの言う通り、適量を加えますと、中々どうして、辛味の中に広がる香りが何とも言えませんぞ?
それに、ただの一味に比べて、味にコクが出てとても宜しい。
うん、これは中々良いものを教えてもらいましたぞっ」
酔庵は二人がやり合っている間に、ちろりとラー油をかけ、味噌ラーメン風うどんを口にしていたようで、永岡へ話しかけ、そして話している内に、鼻腔に香りが広がって来たのか、段々と熱を帯びて語った。
「確かに、酔庵さんの仰る通りですよ。
うん、こいつぁ美味いっ!」
弘治が酔庵に同調すると、力強く極め付けの言葉を吐く。
「でしょう?」
「でしょうじゃ、ねぇってぇんでぇ!」
みそのが弘治の言葉に得意げに胸を張ると、案の定永岡にどやされる。
新之助はと言うと、先ほどの一口が思いの外引き摺っているようで、大口を開けてハアハアと暴れている。
みそのは永岡にどやされて肩を竦めながらも、
「新さん、これで例の話しは思い出せたのじゃないかしら?」
と、皆には分からぬ事を言い、新之助を見ながらニンマリと笑うのだった。