第二十三話 多忙に果報
「こんにちは、順太郎さん…」
みそのは恐縮しながら順太郎に声をかけている。
みそのが長屋に到着した時、順太郎は裏店の稲荷前で素振りをしていたのだ。
「今日は少し急いでいるので、お百合さんには声をかけずに来てしまったのですけど、これからお話って出来ます?」
「ええ、勿論。
しかし、お急ぎのところ申し訳ないのですが、汗を拭ってから行きますので、先に中へ入って待ってて頂けますか?
中には父上も居りますので、少し話し相手になって欲しいのです」
順太郎は素振りをやめてそう言うと、意味深に笑った。
「いえ、何やら父上は、昨日から難しい顔をしているものですから、みそのさんと話が出来たら、少しは和むのではと思いましてね?」
「そうですか…」
みそのは今朝、永岡から周一郎の話を聞かされていたので一瞬身構えたが、
「なら、しっかりと和ませなきゃですね?
そしたら和ませる時間も要るので、順太郎さんは、しっかり身体を綺麗にして来てくださいね?
汗臭い人とお話するのは、ちょっと…ねぇ?」
と、それを隠すように戯けた調子で続けた。
順太郎は慌てて脇の匂いなどを嗅ぎながら、頻りに首を捻っている。
みそのはそんな順太郎に悪戯っぽく、
「では、ごゆるりと。そしてしっかりと!?」
と、声をかけると、腰高障子を引き開け、中へと入って行った。
「ああ、みそのさんではないですか…」
みそのが中へ入ると、周一郎は何やら書き付けていたようで、筆を片手に顔を持ち上げた。
「こんにちは、中西様。
順太郎さんとお話しに来たのですが、順太郎さんには今、綺麗に匂いを落としてもらってますから、少しお話でもしませんか?」
みそのは悪戯っぽく言って、いつに無い周一郎の緊張を解こうとする。
「ふふ、この狭いとこへ汗臭いのが入って来たら敵わんですからな。
どうぞどうぞ、某で良ければ。こちらこそ話し相手になってくだされ」
周一郎は手文庫を手早く片付けると、みそのに座布団を勧める。
「先ほど永岡殿が見えられましたよ?
順太郎は頃合いを見て、使いに出していたのですがね…」
「そうですか。中西様は大丈夫ですか?」
みそのは周一郎が探るように話している事を察し、あえて知っているのだと言う目で応えると、
「後ほど順太郎さんへもお話しますが、これからの順太郎さんには、中西様の協力が必要になって来ますからね?
中西様には、いつまでも元気で健やかでいて頂かなければ、私の企てが成功しないのです。お願いしますよ?」
と、暗に、早まった事はせぬようにと取れる物言いで続けた。
周一郎は瞑目しながら小さく頷いている。
「中西様なら間違いないって、永岡の旦那も言ってましたよ?
本当にこの企てには、中西様は大事な人材なのですからね!?」
更にみそのが続けると、周一郎の瞑目した目には薄っすらと光る物が生まれていた。
周一郎はそのまま同じように小さく頷いている。
「昨日も一昨日も、私、色々良い物を見て来たのですよ?
聞いてくださいよ中西様…」
みそのは瞑目する周一郎へ、子供が親へ自慢すような口調で語りかける。
どうやら順太郎を待たずに話を始めるようだ。
*
「せっかく綺麗に匂いを落としてくれたのに、本当にごめんなさいね?」
みそのが長屋の前で、順太郎へ手を合わせている。
みそのは順太郎が戻ってくる前に、周一郎へ一頻り話をしてしまい、急いでいる事もあって、順太郎へは周一郎から話してもらう事として、長屋を出て来たところだった。
順太郎へはその際に、明日の予定のみを伝えている。
「い、いえ。取り敢えずは明日、みそのさんをお待ちしておれば良いのでございますね?」
当の順太郎は訳が分からないながらも、知りうる情報のみで応対している。
「ええ、未だ明日以降ってお話しかしていないのですけど、きっと明日で大丈夫でしょう。
お百合さんも連れて、みんなでその長屋を見に行きましょうね?」
みそのはそう言って、順太郎と周一郎を交互に見ながら楽しそうな笑みを浮かべる。
「では、中西様。後はよろしくお願いしますね?」
みそのは戯けた口調で周一郎へ願い、肩を竦める。
周一郎はそれに頰を緩めながら、うんうんと黙って頷いている。
「それでは、慌ただしくて申し訳ないのですが、私はこれで失礼しますね?」
みそのはそう言うと、最後に周一郎と目を合わせ、小さく頷いて踵を返した。
「良い縁に恵まれたのう…」
周一郎がぼそりと言って、みそのの遠去かる背中を眺めている。
「ええ…」
順太郎は、相変わらず訳が分からないながらも、父と一緒にみそのを眺めるのだった。
*
「あら、みそのさんじゃないですか?
本当お久しぶりですね、お元気でしたか?」
「本当ご無沙汰してしまって、申し訳ありませんでした。
私は相変わらずですよ? お秋さんも元気そうでなによりです。
お春ちゃんも元気にしてますか?」
みそのは順太郎達と別れ、お菊の義弟、鮮魚の棒手振りをやっている辰二郎の店へとやって来ていた。
辰二郎は棒手振りへ出かけているようで、今は女房のお秋が一人で、粕漬けの仕込みをしているところだ。
「お春は風邪も引かずに元気にしてますよ?
今は近くへ遊びに出てしまってるんですよぅ。みそのさんが来るのが分かってたのなら、遊びになんか行かせなかったのですがねぇ…」
お秋は娘が息災に過ごしている事を言うと、その不在を残念がった。
「いえ、急に来てしまった事ですし、子供は外で遊んでこそですよ?
でも、相変わらず忙しそうですね?」
みそのはこの時間に辰二郎が居ない事と、店の中の粕漬けの仕込み数を見ながら、それと知れた事を口にする。
「本当にみそのさんのおかげですよぅ。
うちの人なんて、そろそろ表店へ店を構えようなんて、言い出してるくらいなんですよ?
私はこれくらいがいいと思っているんですがね?」
みそのに感謝しながら、お秋は嬉しそうに困った顔をして見せる。
今は裏店を居住用の他に、商売用としてもう一軒借りていて、お秋は一日中、この新しい裏店で作業しているのだった。
以前のジリ貧だった頃を思えば、これでも十分過ぎるほど恵まれていると、お秋は思っているようだ。
「でもそろそろ奉公人を雇わないと、お秋さんも大変でしょう?
辰二郎さんが言うのも、あながち間違っていないと思いますよう?」
裏店に積まれた粕漬けの木箱を見ながら、みそのはしみじみと言う。
「そうなんですか?
私は贅沢な事だと思っていたのですけど、みそのさんが言うのであれば、あの人の言う事も聞いてあげないとですねぇ」
「ええ、聞いてあげてくださいよお秋さん。
だって、これじゃ、お秋さんが先に目を回してしまいますよ?
きっと上手く行きますって!」
最初に会った時と比べれば、随分と生き生きとしているお秋なのだが、その顔には如実に疲れが見て取れる。
みそのは、そんなお秋の疲労を心配したのだ。
それに、木箱の数を考えれば、奉公人を雇っても十分にやって行けるだろうし、人が増えれば、もっと量産出来て販路も広がるだろう。
みそのは何も問題無さそうだと踏んでいる。
「今日は人を招いていて、粕漬けを贖いに来たのですよ?
お秋さんのお勧めをいただこうかしら?」
みそのはやっと来意を告げると、
「あっ! ごめんなさいねぇ。
そうね、そうよね。何が良いかしら…」
と、お秋は慌ててみそのに詫びると、奥の方の木箱を取り出し、あれこれ迷いながらわらわらするのだった。
*
「ふぅー。やっと落ち着いたわね…」
みそのは並べられた食材を見ながら、脱力感と達成感を混ぜたように独り言ちる。
東京で仕入れた酒と佃煮。
そして、お菊が棒手振りから購っておいてくれた野菜に、油揚げと鶏卵。大坂屋でお願いして、帰りがけに寄って購った特注うどんと鶏肉と鶏ガラ。肉はひき肉にしてもらっている。
そしてお秋のお勧めの粕漬け。案の定、お代で揉めた挙句、おまけされたものは、既にお菊へお土産として渡している。
最後に、みそのがニンマリと眺めているものがある。
小鉢に入ったそれは、東京で仕込んで来た秘密の調味料だ。
「ふふ、楽しみね…」
みそのは小さく笑って独り言ちる。
「さてと。ちゃちゃっとやっちゃいますかっ」
みそのは一つ手を打ち、気合いを入れるように独り言ちると、早速作業に取り掛かった。
トントントントンと、小気味良く包丁を鳴らして野菜を切っていると、
「せっかくだから、お菊さんからいただいたのも使わないとね…」
と、土の付いた里芋を手に取った。
そして水を張った桶で軽く土を洗い流し、へっついの火加減などを見ながら、里芋の皮を剥いて行く。
こうしてみそのは、黙々と作業を続けるのだった。
*
「あらら…」
みそのは大皿に移し終わった鶏団子の山を見て、少し引き気味に独り言ちる。
大坂屋で仕入れた鳥ひき肉に下味を加え、更にそこへ、お菊からお裾分けされた里芋を繋ぎに入れたものなので、やけに嵩が増してしまっていたのだ。
みそのは下茹でする前から薄々気づいていたのだが、残してもしょうがないとばかりに目を瞑り、最後まで下茹でを済ませていたのだった。
「あれよね。もしかしたら智蔵親分だったり、源次郎さんだったりが来るかも知れないし、丁度良かったのよね…」
みそのは言い訳を口にし、
「さてと。次は…」
と、その山のような肉団子を見なかった事にするかの如く、次の作業へと取り掛かった。
*
「あら新さん、来て頂けたんですね!
思いの外作り過ぎちゃったから、新さんが来られなかったらどうしようって、ちょうど思っていたところなんですよう」
みそのが一頻り作業を終え、お茶を淹れて一息ついていたところに、新之助がふらりと現れたのだった。
「久々の呼び出しじゃで、顔出さないでどうすると言うのじゃ?
偶に息抜きでもせんと、肩が凝って堪らんしのう」
新之助は嬉しそうに言うと、みそのへ笑いかける。
「新さんはお酒の方がいいかしらね?
先にお酒つけちゃいましょうね」
「いや、冷やで良いぞ。ここの酒は十分に美味いでな?」
新之助は、みそのへ返しながら意味深に笑う。
新之助はみそのの秘密を知っているので、この酒の出所も承知しているのだ。
何を隠そう新之助も、元はと言えばこの時代の人間では無い。みそのとは形は違えど、時空を超えて江戸時代へやって来た男なのだ。
新之助の場合はタイムスリップしているので、みそのの様に江戸と現代を往き来する事は無い。
「では毎度同じものですが、これを肴にして始めててくださいな」
みそのは佃煮の入った小鉢と一緒に、徳利とお猪口を新之助へ出してやる。
「いやいや、こいつが良いのだ。うんうん…」
新之助は嬉しそうに頷きながら、早速佃煮を摘んで酒を飲み始めた。
「ところで新さん」
「なんじゃ?」
みそのが切り出すと、幸せそうに舌鼓を打っていた新之助が頭を持ち上げ、その笑みの浮かんだ顔をみそのへ向ける。
「新さんって、無外流の辻月丹先生をご存知ですか?」
「ん? いきなりどうしたんじゃ?」
みそのの突然の質問内容に、新之助が眉をひそめて聞き返すと、
「いえ、つい最近知り合ったお方のお師匠様なんです。で、どうなんです?」
と、みそのは簡単に訳を話して催促する。
「なんだか聞いた事のあるような、無いような名前じゃな?
すまんが、そんなところじゃな。
で、その知り合いの師匠がどうしたと言うんじゃ?
ワシと関係があるのかぇ?」
新之助は覚えが無いようで、引き続き眉をひそめながら、みそのへ聞き返す。
「何それ? あり得ないんですけどっ!
超大物気取りって感じ?!
ちょー感じ悪いんですけどっ!」
新之助の返しに、みそのは急変し、憤怒の声を上げる。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て。ワシは正直に応えとるだけじゃでな?
そう怒鳴られてもワシには話が見えんで…。
そうじゃ、先に訳を話してくれんかのう?」
新之助は困惑しながら憤怒するみそのへ訴える。
「そのお師匠様は三年ほど前に、新さんへ謁見の嘆願を出したんですよ!?」
「三年ほどのぅ…」
「それも覚えてないの?
うっわぁー、ちょー上から目線だわ…。
感じ悪っ」
「………」
みそのの言葉を聞いた新之助だが、それを今一思い出せないでいると、みそのに容赦無く責め立てられる。
新之助は覚えの無い事で罵られ、返す言葉も無い。
新之助は将軍なのだがら上から目線は当然の事である。逆にそれを咎める者は、誰一人として居ないだろう。
それが出来るのは、みそのくらいなものだ。
「ーーと言うと、お前さんが目くじらを立てとるのは、ワシがそのお師匠と会わなかった事に原因があるのじゃな?」
「当たり前でしょうよ、それを除いて何があると言うんですかっ!?
私の知り合いのお方って言うのは、庄さんと言って、その昔、親の仇討ちを見事成し遂げたお方なんですからねっ!
今でも剣も人柄も申し分無いって評判なのよっ!
その庄さんが尊敬して止まないお師匠様なのよ? 分かる新さん?
そんな偉いお師匠様が、わざわざ会って欲しいって言って来たのよ?
会うでしょ普通。
って言うか、会ってくださいって、新さんからお願いするのが道理でしょうよ!? そのくらい凄いお方なのよ新さん?
新さんは将軍とか崇められてるもんだから、普段からちやほやされ過ぎて麻痺してるのよ。ったく、これだから成り上がりは駄目なのよねっ!」
「……これは手痛い。はは」
みそのの理不尽な憤懣に、新之助は肩を竦めて苦笑する。
「いや…。
って言うか、そのくらい、一度は新さんも会って置いた方が良いお方、って言いたかったと言うか…」
頭を掻きながら苦笑する新之助に、みそのも自分が言い過ぎていた事に気付き、言い訳のように続けた。
「そうじゃな。その件はワシも考えるとしよう。
まあ、その過去の嘆願書を探させてみるで、ちいとばかし待ってくれんか?
それで良いかぇ?」
新之助はそう言って、肩を竦めながらお猪口をみそのへ差し出した。
みそのも照れ笑いを浮かべながら肩を竦め、新之助へ詫びるように酌をする。
「果報は寝て待てですもんね?
でも、今お師匠様はご病気と聞いていますから、余り待たせ過ぎずに良い返事をくださいね?」
みそのは酌をしながら言うと、
「ふふ、承知した。
まあ、この一杯がお預けになりでもしたら、堪ったもんでは無いでな?」
と、新之助は戯けたように言い、嬉しそうに猪口を傾けるのだった。




