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第二十話 軽やかな声音

 


 稽古が一時中断され、一人の若い門人の周りに人集りが出来ている。

 その門人は、恐る恐る蛤の貝へ収められた軟膏を手に取り、今し方打たれたばかりの赤く変色した幹部へ、その軟膏を塗ろうとしているところだった。

 人集りは固唾を飲んでそれを見ている。


 主役の門人が軟膏を塗って数瞬、


「うわっ、これは凄いっ!」


 驚きの声を上げた。


「ど、どうした?!」「何が凄いんだ?!」


 周りからはざわざわと、その真意を求める声が上がる。


「いや、すーっと爽快な感じで、痛みがすっと気にならなくなったのです! これは凄いっ!!」


 主役の門人の言葉に、人集りからは、「おおー」と、唸り声が上がる。

 それを酔庵がニタニタと、算盤を弾いているかの様な顔で眺めている。

 みそのがバツが悪そうにしていると、その酔庵が目を合わせて来て、したり顔で大きく頷いて来る。

 みそのは硬い笑みを浮かべて、それに応えるしかない。


「ほう。そんなに効くとは、うちの道場で常備したいもので御座るなぁ。

 みその殿、この薬を何とか分けてもらえまいか?」


 四郎左衛門しろうざえもんは若い門弟の反応に興味を唆られ、すかさずみそのに薬を所望して来た。


「あ、いえ、あの、この薬なんですが、今はそれしか持っていないのですよ?

 も、もしそれで良ければ、その薬は差し上げますけど、もうそれで持ち合わせは無いので、常備するほどは…ねぇ…」


「いやいやいやいや、それは承知して御座るよ。

 某が言っておるのは、みその殿の親類に頼んで作ってもらえまいか、と言う事で御座る。どうか、みその殿から頼んでもらえんかのう?」


 みそのがしどろもどろになりながら応えはするが、俄然説得力の欠ける。

 四郎左衛門は当然だとばかりに言い、再度頼んで来る。


「わ、分かりました。た、頼んでみます。

 ただ、長崎やら色々と駆け回っている人ですので、いつ帰って来るか分からないのですよ?

 今は連絡が取れたら頼んで置く、と言う事で宜しいですか?」


「それはもう、十分で御座る。

 また新たな売りが出来て、道場も益々繁盛しそうで御座るよ?!」


 みそのは以前にも使った言い訳をすると、四郎左衛門は和かに応え、後半はみそのの耳元で囁く様に言って、片目を瞑るのだった。


「ほうら、言ったではありませんか、みーさん。

 これはもしかしたらもしかして、本当に化ける薬になりますぞ?!

 その親類の御仁には、出来るだけ早く連絡を取って、出来れば材料を聞いて、調薬も習っておいた方が良いですな。

 それに、この薬は他へ教えない様に頼んで置くのも忘れてはいけませんよ。

 みーさんも教わった調薬は、門外不出にしないといけませんからね?!」


 酔庵は目をドルマークならぬ小判形にして、みそのへ鼻息荒く助言する。

 みそのは益々硬い笑みを固まらせ、酔庵の話しを聞いている。


「では、引き続き稽古を始めよ!」


 四郎左衛門が中断していた稽古の再開を告げる。

 新たな道場の売りになりうる軟膏薬の存在が、四郎左衛門の声音を幾分軽やかにさせている。



 今は稽古に四郎左衛門も加わり、道場の熱が一気に上がっている。

 みそのは先程とは別の道場の様になった光景に、道場主である四郎左衛門の偉大さを、改めて感じるのだった。

 そしてみそのは、その軽やかな声音で指導する四郎左衛門に、順太郎を重ねてあれこれ思案に耽っている。


「なんだか見えて来たかも」


 みそのは嬉しげに独り言ちる。

 何やら思案が纏まりつつあるらしい。


「そうでしょう、そうでしょう。

 やはり私の睨んだ通りでしょうに?」


 酔庵がみそのの独り言を耳聡く聞きつけ、誇らしげに 言って胸を張る。


「ええ! 今日はここへ連れて来て頂いて良かったです。

 実は駕籠に揺られてた時は、少し後悔してたんですよ…。

 本当、すーさんのおかげですよ!」


「うんうん、私もみーさんに喜んでもらえて本当に良かったですよ。

 案内した甲斐があったと言うものです。

 それにしても今回は、我ながら流石と言うべきか、感心したと言いましょうか。とにかく、未だ商売人としての勘が働いていましたので、嬉しくなりましたよ。

 何せ銭の匂いを嗅ぎつける鼻は、未だ未だ鈍ってませんでしたからな?

 今回は正に、直接この鼻に匂って来たのですけれどもね?! ほっほっほっほっほっほ」


 みそのの言葉に、酔庵は益々気を良くして応え、嬉しそうに肩を揺らして笑った。

 どうやら酔庵は、本題である道場の事では無く、みそのが持っていた薬の事を言っていた様だ。


「いや、あの…」


「みーさん、これからは忙しくなりますぞ?!」


 みそのが何か言いかけるも、酔庵はそれに構わず今後の期待を口にする。

 満足気にニタニタしている酔庵を見ていると、みそのはもう何も言葉が出て来ない。

 その後は、みそのは眉をひそめ、酔庵は眉を下げて稽古を見学している。

 同じ様な角度の眉だが、その意味合いは大分違う様だ。

 みそのは今回、ヒントと厄介事を同時に仕入れたらしい。

 そんな風に複雑に思いを巡らせながら、稽古を眺めていたみそのの耳に、


「それまでっ!」


 四郎左衛門の軽やかな声音が、稽古の終わりを告げるのだった。



 *



「旦那、いいんでやすかぃ?」


「ん? ああ、おめぇもちったぁ聞こえただろぃ?

 ちょいと魔が差しちまっただけさぁな。

 何もしゃっちょこばって捕らえるこたぇやな。

 そんくれぇ融通効かせねぇと、この江戸ぁ牢屋敷で埋め尽くされちまうぜ?

 まあ、お奉行には内密に頼みてぇけどな? それよか智蔵、やっぱおめぇだろうよ?

 オイラが持ってやっから、ちょいとかしてみねぇ?」


「いや、こいつぁ本当に大丈夫でぇじょうぶでやすよ。

 それよか旦那、あっしが言っていやすのは、中西様を捕らえろとか、そう言う事じゃねぇんでさぁ」


「そうなのかぇ? でもこいつぁやっぱ、オイラが持ってやるぜっ」


 永岡はそう言うや、智蔵から千両箱の入った風呂敷包みを奪い取り、それを自らの肩へ乗せた。


 永岡達は周一郎と別れ、両国の自身番から八丁堀へ向かっているところだった。

 周一郎から預かった千両箱を、取り敢えず永岡の役宅に保管しようとの流れだ。


 周一郎とはまた会う約束をしている。

 周一郎の未だ代書の仕事が残っているとの言葉に、永岡も幾分安心しての放免だ。

 暗に命を粗末にしない様にと、言うだけは言ったが、永岡の中には未だ不安が残っているのだ。

 自身番を出て暫く歩き、横山町を抜け緑橋に差し掛かったところで、智蔵が永岡に声をかけて来たのだった。


「そんくれぇ大丈夫でぇじょぶだってぇのに…。

 ふっ、じゃあおねげぇしやすよ、旦那。それに大岡様だって、言ったところで、所払ところばれぇが精々でさぁ。

 それに慈悲深じひぶけぇお方でやすから、旦那と同じ様になさるかも知れやせんぜ?」


「まあ、それもそうだがな?

 でもお奉行は、今ぁ別件で頭悩ませちまってるところでぇ。余計な仕事を増やさねぇでやるのも、オイラ達同心の務めって事さぁね?

 ところで、捕らえる捕らえねぇじゃねぇってぇのは、どう言うこってぇ?」


 永岡は千両箱の収まりを正す様に、風呂敷包みを担ぎ直しながら智蔵へ返す。


「へへ、存外におめぇでやんしょ?

 ふふ、あっしが言いてぇのは、そのおめぇヤツの事でやすよ」


「ほう、こいつの話しかぇ?」


 永岡はずっしりと自分の肩に乗っている、顔のすぐ横の風呂敷包みをチラリと見て、智蔵にニヤリと視線を向ける。


「へい、そいつの話しでやす」


 智蔵もニヤリと永岡へやり返す。


「へへ、聞こうじゃねぇかぇ?」


 永岡は何かを含んだ様な笑みを浮かべると、智蔵に話しの先を促した。

 智蔵は永岡の不穏な笑みに眉をひそめると、


「ふふ、まあいいやぃ…。この金の出所のおたなはご存知の通り、茅町にありやす札差の伊勢屋でござんしょう?」


 と、小さく笑ってから語り始めた。


「あの後の伊勢屋の始末は、旦那もご存知の通り、ひでえもんでやしたじゃねぇでやすかぇ?」


「まあな、ありゃどうかと思うわな?」


「へい。何せ、騒動に気がつかなかったってぇ理由で、住み込みの丁稚や下男下女を、片っ端から追い出したんでやすからねぇ。

 おまけに、給金もびた一文払わねぇって話しでやすぜ? それに、亡くなった下女の家族にも、亡骸を引き取りに来させた後にゃ、もう何の挨拶もねぇってんで、町のもんも皆、あんまりだって噂していやす。

 盗られた金だってあれでやすぜ。べらぼうな高利貸しの利鞘で上げたもんで、中には貸し元からの金を、空証文作って懐へ入れといて、貧乏な旗本や御家人から巻き上げた俸禄手形で、遣り繰りしてるってもんもへえってるんでやすぜ?

 一万両の内、八千両は奉行所からけえされた訳でやすから、そんなたなにゃあ、それで十分じゃねぇんでやすかねぇ?

 それこそ、金をけぇすんなりゃ、亡くなった下女の家族や、給金ももらえず放り出された奉公人に、渡してやった方がよっぽど為になりまさぁ。なんなら中西様に幾らか渡しても良いくれぇでさぁ。

 って言いやしても、そこまで大っぴらに、好き勝手に分配出来ねぇとは思いやすがね?

 何とかなんねぇんでやすかね、旦那?」


 智蔵は珍しく憤懣露わに永岡へ語った。

 それをニタニタの聞いていた永岡は、


「確かにあの伊勢屋は気に入らねぇやな?」


 と、智蔵を面白がる様に見ながら返す。


「いえ、気に入らねぇのは旦那だけじゃねぇんでやすよ?

 あっしは元より、今じゃ江戸中の伊勢屋が目の敵にしてやすぜ?

 そんくれぇあの伊勢屋は、あれこれ陰で悪評が立ってるんでさぁ」


 智蔵は勢いがついてしまったのか、益々鼻息を荒げて言い立てる。

 江戸と言えば、火事、喧嘩、伊勢屋 、稲荷に犬の糞。

 と、江戸名物として言われるほど、伊勢屋と言う屋号が多い。そんな腐るほど江戸にある他の伊勢屋としては、悪辣で評判を落とす伊勢屋があっては迷惑だ。

 目の敵にしているかは別として、智蔵はそのくらい、江戸中では悪評が高いと言っている。


「おめぇがそこまで言うんなりゃ、こんなのはどうだぃ?」


 永岡はニンマリと鼻息の荒い智蔵を見る。


「やっぱり旦那は、分かっててあっしに言わせたんでやすね?

 ふふ、まあ、ようござんしょう。それで、どんなんでやすかぇ?」


 智蔵は永岡のニンマリ顔に呆れながらも、その話の続きを促した。


「いやな、智蔵がそこまで言うから言うんだかんな?」


「分かりやしたよ旦那。で、どんなんなんで?」


 永岡が揶揄う様に言うと、智蔵は手をひらひらさせながら、苦笑交じりに先を促す。


「こいつぁ加平とは関係ねぇ盗賊か、加平だったとしても、伊勢屋から盗んだもんじゃねぇで、昔の隠し金とかにしちまって、それこそ、お上の懐へへえる様にしちまえばいいのさぁ。

 まあ、そこはお奉行の事でぇ。この金ぁ、掛かりの養生所の資金に回す様、上手く取り計らっちまうにちげぇねぇや?

 そしたら、困ってる江戸の庶民を助けるって意味でも、この金ぁ一役買う事にもなるだろぃ?

 伊勢屋にけえすよりゃよっぽど良いやな」


 永岡が言い終えて智蔵を見下ろすと、苦笑していた智蔵は、うんうんとニンマリ頷いていた。


「まあ、ゆっくりかんげえるとするかぇ?」


 永岡はそう言って歩みを早めた。

 そして肩の風呂敷包みをコンコンっと、良い音を立てて叩くと、


「肩の荷が下りるったぁ、こう言うこたぁ言うんだな?

 すっかり軽くなったみてぇだぜ」


 と、永岡は声音も軽やかに言い捨てるのだった。



 *



「長沼先生も嬉しかったのでしょうが、些かお酒を過ごされておりましたな?

 おかげですっかり薄暗くなって来ましたよぅ。みーさん、先ほど七つ(夕七つ・凡そ午後四時)の鐘も鳴りましたし、他の道場を回るのは明日にしましょうかぇ?」


「いえ、他の道場は、さっきも少し覗けましたし、未だ帰りがけに、何処かしらの道場も覗けるでしょうから、わざわざ明日も時間を作ってもらわなくても大丈夫ですよ?」


 酔庵の言葉に、みそのが鷹揚に応えた。


 みその達は江戸の町をのんびりと散歩するかの様に歩いている。

 みそのの言葉通り、先ほどは稽古の声に誘われて、道場の外から四半刻ほど道場見学もしていた。


 最初に訪れた四郎左右端衛門の道場で、稽古が終わると早目の昼餉に呼ばれ、酔庵が持参した角樽もあってか、なし崩しにちょっとした酒宴となり、酒で気分が良くなった四郎左右衛門に、みその達は中々解放されなかったのだ。

 そんな事もあり、昼八つも過ぎた頃に、やっと四郎左右衛門の道場を後にしたのだった。

 思いの外時間を取られてしまった一行は、身を入れての道場見学などは既に諦めている。

 みそのなど、行き当たりばったりで見つけた道場を、軽くひやかす程度で良い様なのだ。

 そうして一行は薄暗くなりつつある空の下、ゆるゆると散歩を楽しむが如く、帰路についているところだった。


「いや、どちらかと言うと、私は時間を作りたいのですよ、みーさん。

 この際だから、私は最後までお供しますぞ?」


「やっぱり明日何かあるんですか?」


「………」


 みそのは、酔庵をじとっと覗き込む様にして聞き返すと、酔庵は目を逸らして惚けている。

 それを見たみそのは、後ろを振り返り、


「なんか明日の事で、旦那様から言付かってる事があったりします?」


 と、今日も酔庵のお供をしている幸吉に声をかけた。


「はい。旦那様には、今日は大旦那様が隠宅へ帰ってしまわぬ様に、必ず鎌倉河岸まで連れて帰れと、きつく言われております。

 明日は寄合があるそうでして、大旦那様もそれに呼ばれているのでございます」


「幸吉っ!」


 丁稚の素直過ぎる返答に、酔庵が悲痛の声をあげる。

 そして幸吉は、その声にビクリと肩を竦ませる。


「ほら、すーさん。やっぱり用事があったんじゃないですか?

 なんか今日のすーさんは、明日の予定ばかり聞いて来てたから、おかしいとは思ってたんですよねぇ」


 みそのは呆れた様に言いながら、バツが悪そうな酔庵に目を細める。

 酔庵は四郎左衛門の道場に居た時から、「明日は順太郎様を、庄さんに会わせてみるのも良いのでは?」とか、「みーさんに見せたい景色があるのですよ。明日は舟にでも揺られながらどうでしょう?」など、ちょこちょこと今回の事と関係の無い事まで持ち出して、何かと明日の予定を話しかけて来ていたのだった。


「用事と言っても詰まらんものなんですよぅ?

 私ばかりが相談事をされるばかりで、私にとっては何も面白い事など無いのです。

 それに、話しが終わったら終わったで、酒宴なぞ始めて長くなりますし、本当に良い事なぞ無いのですよ…」


 酔庵はしょぼくれた様にして訴える。

 みそのもそんな酔庵が可笑しくもあったが、少々気の毒にも思い、


「でもそれって未だにすーさんが、若い方々に頼られてるって事じゃないですか?

 それって凄い事だと思いますよ? それにすーさん、こう言うのは頼られる内が華ってものですよ?

 だから面倒がらずに、顔を出してあげてくださいよう。もしその酒宴が面倒ならば、酒宴だけ抜けて来ちゃってもいいんじゃないですか?

 もし良かったら、その後はうちでご飯でも食べません?

 すーさんに、私がお疲れ様会を開いてあげますよ。ふふ、今日のお礼もありますしね、ご馳走しますよ?」


 と、みそのは酔庵を元気付ける様に言って、食事に誘ってやった。


「みーさん…」


 酔庵が薄っすらと涙を溜めながら、みそのを呼ぶなり立ち止まってしまう。

 みそのに優しい言葉をかけられて、涙腺が緩んでしまった様だ。


「すーさんったら、もう疲れちゃったのですか?

 このまま立ち尽くしてると、明日の寄合に遅れちゃいますよ?

 寄合に出なかったら、お疲れ様会は無しですからねー!?」


 みそのは殊更軽やかに明るく言い、湿っぽくなりかけた酔庵を笑わせたのだった。



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