第十七話 酒宴の答
プシュ
「んー、いい音っ」
希美は嬉しそうに声をあげると、ビールを一気にグラスへ注ぎ、いつもの様に真っ白い泡を盛大に作る。
「でも庄さんって、凄い人だったんだなぁ…」
泡が目減りするのを眺めながら、ぽつりと希美は独り言ちる。
あの後はお玉が酒と一緒に大根の漬物を持って来て、ちょっとした酒宴になったのだった。
酒が入った庄左右衛門は口が滑らかになり、酔庵の心地良い相槌もあってか、それともこの話は是非にも聞かせたかったのか、酔庵は庄左右衛門を過去の話しへと誘導し、昔話を肴にした酒宴となったのだった。
実は庄左右衛門はその昔、見事に親の仇討ち成し遂げた男だったのだ。
庄左右衛門は、武州小河内、河野村で暮らしていた。そこで庄左右衛門の父親が、三人の浪人に押し込まれて殺害されたのだ。
そして、その三人は殺害後すぐ様畿内を離れ、逃亡していたのだった。
親の仇を討つ為に村を出た庄左右衛門は、一年後に江戸で三人を見つけ出し、町奉行へ仇討ちの届けを出した上で、何とその三日後には本懐を遂げたのだった。
庄左右衛門はこの仇討ちの前、江戸へ道場を構えて数年の辻月丹と出会っていた。
当時の月丹は、江戸で道場を開いたのを機に、辻無外と名乗っており、未だ無名と言っても良い剣客だった。
しかし、ここから無外流、辻月丹の歴史が始まる事になる。
庄左右衛門は無外に弟子入りし、剣術を学びつつ、仇を探し、仇討ちの準備を整えていた。
これには無外も愛弟子に尽力したと言う。
この愛弟子の仇討ちの噂は、忽ち江戸を駆け巡り、それもあって辻無外の無外流は世に聞こえる様になったのだった。
庄左右衛門は見事仇討ちを成し遂げた後も、この恩師である無外について、剣を学び続けたのだった。
今では辻無外、いや、月丹の高弟として広く知られ、田舎で隠棲する様に暮らす今でも、庄左右衛門に教えを請おうと、遠方から訪ねて来る者が絶えないのだ。
そんな昔話をした庄左右衛門は、酒が進むにつれ、月丹には返しきれない程の恩があると語り、是非ともその恩を返したいのだと、しみじみと続けたのだった。
月丹は近頃、床に臥す日が多くなっている事もあり、庄左右衛門はその思いも募るばかりだと言う。
恩を返すと言う一事で、庄左右衛門が一番に考える事がある。
それは二年ほど前、将軍である吉宗へ、謁見の嘆願を提出していたのだが、未だにそれが成されていないのを実現させる事だ。
謁見の嘆願は流れたと言って良い。
自分の師匠は、誰もが認める剣の腕前のはずなのだが、唯一認められていないのが将軍家なのだとの思いは、以前から庄左右衛門には痼りの様にあった。
これは以前にも将軍へ謁見の嘆願をしていて、それが叶わなかった事があったからなのだ。
吉宗への嘆願は、月丹にとって二度目の将軍謁見の嘆願だったのだ。
庄左右衛門は、非現実的だと分かっていても、その一事を成し遂げる事が、最高の恩返しになると思い詰めていた。
今も庄左右衛門を慕って訪ねて来る者の中で、その一事が叶う為の人脈を探っているのだと言う。
しかし、ここ最近ではそれにも限界を感じていて、すっかり弱気になってしまっていると、自分を責める様に言い、最後はその愚痴めいた言葉を一緒に煽る様に、酒を飲んでいたのだった。
「あんな凄い庄さんの先生なのに、何で新さんは会ってあげないんだろう…。
案外ケチな男ねっ!」
希美は憤懣する様に独り言ちると、綺麗な白い帽子が乗っかったグラスを傾ける。
「うぅぅうううーっまいうーっ!」
みそのの憤懣も、至福の琥珀色が癒してくれた様だ。
蕩けた様な表情で、半分ほど減ってしまったグラスを眺めている。
「あっ、また入れ違いになったらいけないわっ!」
至福の琥珀色に永岡の顔が浮かんだのか、希美は慌てた様に独り言ちると、嬉しそうにグラスを傾けるのだった。
*
「で、忠吾達ぁどうだったんでぇ?」
永岡は智蔵の意味深な笑いに頷くと、今度は北忠に話を向ける。
北忠は丁度鮪をほふほふとやっていたところで、急に自分に話が振られ、目を白黒させてしまう。
「それより、永岡さんも是非試してみてくださいよ?」
慌てて飲み込んだ北忠は、手付かずの小皿を指差して口を尖らせる。
「ああ。まあ、みんなの反応を見てからな?
それより、お前んとこの話しが先でぇ。
勿体つけねぇで、さっさと話してみろい」
「勿体つけてる訳では無いのですけどねぇ…。
粗方食べ尽くしてから試して、後で後悔しても知りませんよぅ?」
「分かったから、とっとと話しやがれってぇんでぇ」
「はいはい、分かりましたよぅ」
永岡にどやされ、肩を竦めて応えた北忠は聞こえない様に小声で、
「全く、みそのさんは料理上手って聞くのに、この食にずぼらな人へ料理を出してると思うと、何だか遣る瀬無いですよねぇ…」
と、ごにょごにょと不満を述べる。が、
「お前よう、しっかり聞こえてんぜ?
お前に言われる筋合ぇは無えってぇんでぇ。いいからとっとと話しやがれっ!」
永岡にはしっかり聞こえていた様で、北忠は更にどやされる事となる。
「ははは、さっき翔太が言ってたもので…」
「旦那っ!」
翔太はいきなり自分の名前を出されて、悲痛の叫びを上げてしまう。
伸哉はまた、ほっとした顔でその様子を見ながら、それを肴にニタニタと美味そうに酒を舐める。
伸哉は遠出した分、組分けには恵まれたのかも知れない。
「今日の私たちの調べですがね?
私の日頃の行いが良いのでしょうねぇ。運が良い事に、お目当ての『棒手振りの喜っつぁん』こと、棒手振りの喜八って男を、早々に見つけ出したの御座いますよ?」
北忠が鼻腔を膨らませながら、ドヤ顔で永岡を見て来る。
「ちっ…で、それでどうなったって言うんでぇ?」
永岡は舌打ちと共に、面倒くさそうに先を促す。
「まあ、言ってしまえば、この喜八と言う男は、今回の事件には関わりが無かったのですが、とにかく何と言っても、あっと言う間に見つけ出したものですから、喜八から話を聞く時間はたっぷりと有りましてねぇ?
私と松次の巧妙な手管で、見事色々な話が聞けたのですよぅ?」
「ちっ」
北忠は、またドヤ顔で永岡を見る。
舌打ちは永岡では無く、隣に座る翔太のものだった。
「分かったから、いちいち鼻の穴ぁ膨らませてオイラを見るんじゃねぇやぃ!
で、色々な話って言うのは何なんでぇ?」
永岡にどやされ、北忠は思わず鼻を押さえる。
「喜八って男は、加平が表稼業にしている『一休』へ、野菜を売りに来ていた棒手振りだったのですが、まさか加平が盗賊のお頭だったとは露とも知れず、ただ自分の事を良くしてくれる、飯屋の主人としか思っていなかった訳でして、付き合いも野菜を売りに行った時に、長話をするくらいなものだった様です。
私は喜八に、その長話の時に何か加平が言っていたり、喜八が見たものが無かったか、問い詰めたので御座いますよ?」
北忠は鼻を押さえながら、永岡にドヤ顔を向けて来る。
「まどろっこしいなぁ、おい。だからその話ってぇのは何なんでぇ?!」
永岡は北忠のドヤ顔に辟易しながら、先を促す。
「加平が誰かを贔屓にしている話だったり、お店へ親しげな者が訪ねて来ているところなんかを見ていないか、聞いてみたのですがね?
喜八は最初こそ、そんな話は聞いた事が無いし、その様な者が訪ねて来ているところも、見ていないって言っていたのですが、そう言えばと言って、思い出した事を話したので御座いますよ」
北忠は懲りずに鼻を押さえながら、永岡にドヤ顔を向ける。
永岡は諦めた様に手をひらひらとやって、北忠に話の先を促す。
隣の智蔵は苦笑するばかりだ。
「その喜八が思い出した事なんですがね。
ある日、注文以外の野菜を安く仕入れられたもんだから、喜八はこれも一緒に、加平に買ってもらおうと思ったみたいでして、その日は山の様に野菜を担いで、一休へ売りに行ったそうなんです。
しかし、加平は普段扱わない野菜と言う事で、せっかく担いで行った野菜も、全部は引き取ってもらえなかったそうなんです。
でも、喜八が余りにもしょんぼりしていたんでしょうね。最初こそ断られていたのですが、加平は何か思い出した様に、全部引き取ると言ってくれたそうなんです。
そしてその代わりに、店では扱い切れないからと言って、その野菜をある人へと持って行ってくれと、お代だけ済ませて頼んで来た事が有ったそうなんです。
訳を聞けば、『せっかく喜っつぁんも運んで来てくれたんだし、ちょいとお世話になったお方だから、丁度良かったのかも知れないねぇ』なんて言っていたそうで、喜八は嬉々として、その野菜を届けに行ったそうなんですよ。
そして、その届け先と言うのが、裏店で代書屋を生業にしている御仁と言うので、早速訪ねてみれば、その代書屋の御仁が店の前で、剣術の猛稽古をしていたので、喜八は大層びっくりしたそうなんですよ?
永岡さん、『腕っ節の強い代書屋』ってお方と、どうも被りませんか?」
北忠は鼻を押さえるのも忘れ、ドヤ顔で永岡を見て来る。
「ふふ、確かにな?
オイラも今日一日調べ回っていて、そんなこったろうと智蔵とも話していたんでぇ」
永岡は北忠の鼻の穴を覗く様にして返す。
「オイラ達が捜していた『深川の承さん』ってぇ剣術家なんだが、小せえながらも、道場を構ぇてるってぇのに、これがまた何も出て来ねえでな?
幾らなんでも、深川の道場を全て当たって、承さんの承の字も出て来ねぇのは、可笑しな話だろぃ?
そんでオイラは、加平が嘘を言って無ぇにしても、儀兵衛には多少なりに、ぼやかして話してたんじゃねぇのかって、そう考えた訳でぇ。
とにかく他のみんなの話を聞いてみてから、明日っからの調べを練ろうと、考えてたところだったんでぇ」
永岡はそう言って、皆の顔を見回しながら酒を呷る。
「まあ、広太が『深川の承さん』で、忠吾が『腕っ節の強ぇ代書屋』を拾って来たってぇ訳だな?
その『腕っ節の強ぇ代書屋』ってぇのは、オイラも偶々面識があんのさぁ。
こりゃあ一気に話が進んだみてぇだな?」
「へい、こりゃ上々でさぁ」
永岡がニヤリとやると、智蔵も同じくニヤリとやって応える。
「え? すると永岡さんは、その代書屋の御仁をご存知だったのですか?」
「まあな。ひょんな事から、今日はその息子と棒手振りして来たんでぇ?
んな訳なんで、所在は掴んでるんで、お前の案内は要らねぇさな?
明日はお前にゃ、広尾村まで出張ってもらう事に決めたぜ?」
「げっ…」
明日は近場で楽が出来ると踏んでいたのか、北忠は永岡の言葉を聞いて、思わず箸を落としてしまう。
「広太達だって、また明日にゃ芝まで行かなきゃならねぇんでぇ。
『棒手振りの喜っつぁん』がスカだったんだから、お前が残りの、『研ぎ屋の伊佐さん』ってぇのを調べねぇでどうするよ?
まあ、日頃の行いが良いみてぇだから、明日もちょろいんだろうよ。なぁ?」
「はぁ…」
更なる永岡の言葉に、北忠は力無く応える。
儀兵衛が泥沼の加平から聞いた中から、これはと挙げた者は全部で五人居て、永岡はこれに、優先順位をつけて調べを行なっていたのだ。
残りは『研ぎ屋の伊佐さん』と言う、広尾村に住まうとされる男と、なんと『町医者の宗周先生』と言う事だった。
町医者の宗周は、その昔、北忠が深手を負った際にも診てもらった町医者で、永岡も普段から懇意にしている。故に宗周に限って、盗賊に加担する様な事は無いだろう。
その為、先ず宗周は無いと、最初から『町医者の宗周先生』は、調べから除外していたのだ。
「こりゃイケますぜ旦那?」
「ん?」
北忠が消沈していると、智蔵が永岡に声をかけて来た。
見れば智蔵は、永岡に鍋を箸で指して目を丸くしている。
北忠の勧めた小皿の砂糖を鍋に入れた様なのだ。
「どうれ…」
永岡も智蔵が言うのであればとばかりに、鍋からネギを摘んで口へ放り込む。
「う、美味えじゃねぇかぇ…」
口惜しながらも、思わず口をついて出てしまう。
そして永岡が顔を上げると、盛大に鼻腔を膨らませた北忠のドヤ顔だ。
「美味えじゃねぇかじゃ無いですよ、全く。
私は美味しい物しか人に勧めませんので、いい加減信用してくださいよねぇ?!」
消沈していた北忠は、そう言って誇らしげに口を尖らせるのだった。
*
「いつになったら帰って来るのかしら。
全く永岡の旦那は…」
みそのはぽつりと独り言ちる。
当の永岡は、丁度北忠にやり込められている頃合いだ。
みそのも今頃は『豆藤』に居るのだろうと、永岡の所在には見当をつけているのだが、自分の至福の時を早めて待っているので、ついつい愚痴の様な言葉が漏れてしまう。
「すーさんは明日も付き合うって言ってたけど、こんな事に時間を使ってて、本当に大丈夫なのかしらねぇ」
みそのはお茶を啜りながら、気分を変える様に、今日出会ったばかりの酔庵を思う。
酔庵は別れ際、みそのが立替えた駕籠賃を返すとの言い訳を作り、明日も道場見学に付き合うと約束していたのだった。
酔庵としては良い暇潰しなのかも知れ無いが、みそのとしては、事がお咲と順太郎の事なだけに、これ以上第三者を巻き込むのは少し気が引けてしまっている。
それに、酔庵は隠居しているとは言え、豊島屋と言う大店の大旦那でもある。巻き込む巻き込まない以前に、何かしら忙しいのだとも思っている。その証拠に、今日も相談事があると、当代の十右衛門より呼び出されていた様で、出会った時も鎌倉河岸まで行っての帰りだったらしい。
酔庵は今、大川(隅田川)を渡った鐘ヶ淵に隠宅を構えている。
流石に今日は遅いからと、隠宅では無く、鎌倉河岸の店へと帰って行ったのだった。
「それにしても、お加奈さんには中々会えないわねぇ…」
久々にお加奈に会いに行こうと出かけた事が切っ掛けで、今回の流れになっている。
みそのは同い年のお加奈の顔を思い浮かべ、思わずクスリと笑ってしまう。
「今度おにぎり屋さんの事で、相談があるって言ってたのよねぇ。なんだろ相談って…」
最後にお加奈に会いに行った際に、帰り際に甚右衛門から呼び止められ、今度時間を作って欲しいとせがまれていたのだった。
甚右衛門は古着屋で成功しているにも関わらず、握り飯の辻売り屋台もやっている。
これは以前、甚右衛門が親類の搗き米屋に頼まれ、金貸し(商売繁盛指南)をする様に、みそのへ口を聞いていた事があり、それを引き受けたみそのは、新しく利鞘を稼げる握り飯を出す事を提案し、見事繁盛させて見せたのであった。
甚右衛門は間近でその様子を見ていて、自分も辻売り屋台で、早速握り飯屋を始めたのだった。貪欲と言うべきか、なんともフットワークが軽い男である。
みそのもお加奈から、甚右衛門は搗き米屋とも上手く提携し、商売も上手く行っていると聞いていたのだが、ここへ来て、何かしらの問題が発生したのかも知れない。
甚右衛門の困った時の神頼み、ならぬ、みその頼みなのだ。
甚右衛門はそのくらい、みそのに全幅の信頼を寄せている。とにかく何かしらあって、みそのに相談したいに違い無い。
みそのはそんな事もあったので、久々にお加奈の顔を見に行こうと、思い立っていたのだった。
「しっかし、甚右衛門さんもそうだけど、今日は新さんよね!
あのケチくさい男、何て言ってやろうかしらっ!」
永岡を待つ苛立ちからだろうか、先ほどの至福の一杯が影響しているのか、みそのの憤懣が蘇って来る。
新さんとは将軍、徳川吉宗である。
こんな物言いが出来るのは、この江戸ではみそのくらいのものだろう。
「ちょっと将軍だからって、調子に乗ってるんじゃないのっ!」
将軍が調子に乗っているのは、幕閣としては喜ばしいものなのだろうが、みそのには通用しない。と言うよりも、吉宗は特に調子に乗っている訳では無いだろう。
「どうやってとっちめてやろうかしら…」
みそのは悪い顔で独り言ちる。
新之助は今頃、そんな事など露知らず、くしゃみの一つをしているのかも知れない。




