第十六話 お疲れの酒宴
「おう、そろそろ帰るとするかぇ?」
「へい、そうしやしょう広太兄ぃ。しっかし今日は散々でやしたねぇ?」
「そう言うねぇ伸哉。こんなんでも大事なお務めなんだぜ?」
「そうでぇ伸哉、留吉の言う通りでぇ。何も無かったら無かったで、こけぇ墨付けられたってぇもんさぁ。
まあ、散々にゃ変ぇり無ぇけどな?」
「そうそう、何も出て来ねぇなりにも、こけぇ来た意味ぁ果たしているんでぇ。
それに面白ぇ土産話も仕入れたじゃねぇかぇ?
まあ、散々にゃ変ぇり無ぇけどよう」
芝組の広太達は、暮六つ(夕方の六時くらい)を知らせる鐘の音を合図に、調べを切り上げる事にした様だ。
時の鐘を聞いた広太の声かけに伸哉が愚痴を零し、留吉と広太に窘められた形だ。
尤も最後には二人とも伸哉を習って、“散々”で締め括るのであったが。
三人は疲れた顔をしつつも、留吉の締めのぼやきで堪らずに声を立てて笑っている。
「はぁあ、笑うしか無ぇやな。
それにしても、そう言やぁそうだなぁ。留吉、確かに例の話しは、ちょいと洒落た土産話になるかもな?」
「そうでやしょう? 土産話の一つや二つ無ぇ事にゃあ、格好がつきやせんや。
関係無ぇ話しでも、例の話しぁ打ってつけでやすよ?
まあ、その前に散々な話しをしねぇとでやすがね?」
一頻り笑った広太が、先ほどの留吉の言葉を拾って返すと、留吉は成果の代わりに土産話くらいはと語り、最後にはまた散々な話しで落として二人を笑わせるのだった。
芝組の一行は、疲れた表情を笑みに変え、賑やかに笑い合いながら歩みを進めている。
普段口数の少ない留吉も、今日は珍しく軽口を飛ばして談笑の中心にいる。
広太はその留吉の軽口を聞きながら、留吉が気を使ってるのだと、笑みを違う笑みへと変える。
そうして疲れた三人は、笑う事によって幾分足を軽くし、薄暗くなった帰路を急ぐのだった。
*
「そろそろ帰りますかね?」
「そうですね。駕籠舁きの方たちも待ちくたびれてるでしょうし、あまり遅くなると、帰ってしまうかも知れませんからね?」
「何もお構い出来ずにごめんなさいねぇ? なんだか今日は先生も嬉しかったみたいだあねぇ、余りあんな事は無いんですよう?
まぁた来てくださいねぇ?」
みそのが酔庵に応え、お玉が言い訳の様な言葉を吐いている。
そのお玉の優しげな視線の先には、気持ち良さそうに眠る庄左右衛門が居る。
みそのたちも目を細めて、大の字で眠りこけるその漢を眺めている。
「是非またお邪魔させて頂きます。庄さんにも、そうお伝えくださいね?」
「そりゃあもう、ちゃあんと伝えておくさぁ。みそのさんは、先生のお手伝いをしてくれるんだろぅ? ほんとに先生を宜しく頼みますよう?」
みそのが庄左右衛門を眺めながら返すと、お玉はみそのの手を握りながら、名残惜しそうに何度もその手を振っている。
「ま、まあ、協力出来る事は協力しますがね?
お玉さんも、余り期待させてしまう様な事は、言わないでくださいよ?」
「何を言ってるんですかぇ、みそのさんはぁ。先生はその気持ちだけで、嬉しいのですよう? ここのところ弱気になっていたみたいですから、若い、しかも女子からの言葉に、先生は気を良くしてるんですからねぇ?」
お玉はそうみそのに返して、コロコロと笑う。
みそのが何を約束して庄左右衛門を力づけたのか分からないが、庄左右衛門はそれが為に気を良くして、つい酒も過ぎたのだろう。
お玉はそんな庄左右衛門の様子が、殊の外嬉しかったらしい。
「ではお玉さん、庄さんを宜しく頼みますよ?
ではみそのさん、行きましょうかぇ?」
「はい、すーさん。行きましょ?!」
「庄さんが寝てしまっても、その呼び方で呼んでくださるのですね?」
「もちろん! だって、すーさん庄さんみーさんの仲じゃないですか?!」
「ほっほっほ、これからの楽しみが増えましたよ。
では、宜しくお願いしますよ、みーさん?」
「はい、すーさん」
みそのと酔庵はそう言って笑い合うと、すっかり薄暗くなって来た庭先へ下りる。
そして、もう一度お玉に頭を下げると、踵を返して歩き出した。
「でも、みーさん。今日は本当にすみませんでしたねぇ?」
「何がですか、すーさん?」
「いえ、だって私の方から誘って、駕籠を手配したにも関わらず、私に手持ちが無いんじゃあ、それこそ格好も付かないですからねぇ?」
「なぁんだすーさん、そんな事?
それこそ、そんなのはみーさんすーさんの仲じゃないですか? 気にする事なんて無いですよ?!」
みその達はそんな風に話しながら帰って行く。
お玉はその遠去かる声に頰を緩めながら、庄左右衛門に打掛けを掛けてやるのだった。
*
「おう、やっと帰ったかぇ。遠いとこご苦労だったな?
ほら、腹減ってんだろ? とにかく、なんか腹へ入れちまえや?!」
永岡が疲れた顔で現れた芝組の三人に声をかけた。
既に時刻は夜五つ(凡そ夜の八時くらい)も遠に過ぎ、ここ『豆藤』は飯時を終え、呑兵衛の溜まり場と言った具合に、すっかりと客筋も様変わりしていた。
ここ『豆藤』は、智蔵がお上の御用に携わる傍、口に糊をする為に、女房のお藤にやらせている居酒屋だ。智蔵の人望も然る事ながら、女房のお藤が出す鍋料理が評判を呼び、飯の美味い居酒屋と言えば『豆藤』とばかりに、この界隈では知らぬ者が居ない程の繁盛店になっている。
「へい、ありがとうごぜぇやす。
ーーなんか待たせちまってたみてぇで、面目ねぇこって…」
広太が永岡に返しながらも、じとりとした視線に気づき、詫びを入れて見せる。
広太に重い視線を送る主人は、言わずもがな。
「そうだよぅ広太。お前たちの帰りを、今か今かと、首を長ぁくして待っていたのですからねぇ?
さぞや、それに見合った調べの報告が有るんだろうねぇ?」
北忠こと北山忠吾だ。
北忠は永岡から「待て」と言い付けられ、楽しみの鍋料理はお預けを食らう形だったのだ。
それでも北忠は、今の今までお藤の出す小鉢に舌鼓を打ち、松次や翔太を揶揄いながら、わいのわいのと酒を飲んでいたのだが。
「それとこれとは、ちっとばかし話しが違ぇんでさぁ。北山の旦那もご存知じゃねぇでやすかぇ?
本当勘弁してくだせぇよぅ」
「おや? 広太はもう白旗上げちゃったよぅ。潔いっちゃ潔いんだけど、そんなんじゃ、後の楽しみが減るじゃないかぇ?
ねえ翔太、お前からも何か言っておやりよ?」
「い、いや、あっしは……」
急に北忠から振られた翔太は、お疲れ気味の大先輩を見ながら、困り顔で口籠ってしまう。
そんな翔太に、広太は手で制す様な仕草で応え、空いた席へと腰を下ろす。
「忠吾、お前なぁ。いつまでも無駄口叩いてねぇで、酒を注いでやるくれぇしてやれねぇのかぇ。っ
たく、ちったぁ慰労の心を見せろってぇの」
「お言葉ですが永岡さん。私はなにも、広太たちが何も持ち帰って来なかった事を、咎めている訳では無くてですね。言ってみれば、これが私なりの慰労の心と言うものでして、はい。これは今や私の立ち位置的にも欠かせぬ、儀式みたいなものでもあるのですよ? それに、お腹を空かせたイライラさん、いや、永岡さんが、広太たちの調べが坊主だったと聞いた時、それは恐ろしい事になるかも知れないじゃないですか? そう考えましたら、さり気なく私が先に告白させてやるのも、一つの優しさになるのではと、今気づいたので御座いますよ。故にですね、ただ無駄口を叩いている様に見えましても、無駄口が無駄口にならない様に、上手いこと話しが繋がるはずなのです。こうして世の中は上手く回っているのですから、永岡さん…って、鍋来てるじゃないですかっ!!」
北忠が喋り始めて直ぐ、お藤が鍋の用意をしてやって来ていたのだ。
永岡は北忠を勝手に喋らせておいて、先にやっていたのだった。
今日はねぎま鍋で、広太たちが遅くなりそうだと言うので、鮪は先に湯通ししてあり、永岡の為にネギやセリの他に、豆腐も用意されていた。
くつくつと煮える鍋は、お藤が広太たちが現れたと見るや、予め調理場で火を入れていたのだろう。それぞれの組の前に置かれるや、待ってましたとばかりに取り分け、皆舌鼓を打っていたのだ。
「あら、北山の旦那、何か味に問題でもありましたかぃ?」
丁度不満顔で腰を下ろそうとしていた北忠に、お藤が声をかけて来た。
その手には鮪とネギなどの食材を乗せた、追加の大皿を持っている。
「いえ、いいんですよお藤さん…」
と、北忠は不貞腐れた様に返しながらも、パクリと一口やって顔をニマつかせる。
そんな北忠へニコリと返したお藤は、
「じゃあ、ゆっくり食べてってくださいよう?」
と、大皿を置きながら皆に声をかける。
お藤も今日は皆が探索で駆け回り、疲れ切っている事を知っている。
「あ、お藤さん。そうしましたら、お砂糖を少々いただけないしょうか?」
お藤が戻ろうとした時に北忠が呼び止め、何故か砂糖を所望する。
「北山の旦那は、また何か思いついたんですかぇ?
ふふ、砂糖ですね? 承知しましたよ北山の旦那。すぐにお持ちしますからね」
お藤は嬉しそうに返して、いそいそと調理場へと戻って行った。
「今日は皆、余り良い話を仕入れて無ぇみてぇだし、時刻も時刻でぇ、食いながら話をするとするかぇ?」
永岡はそう言うと、熱々の豆腐を口に放り込んだ。
すると、
「永岡さん? 広太組は別にして、ウチの組が坊主だなんて決めつけられるのは、少々納得がいきませんねぇ」
と、北忠が永岡に反論する様に口を尖らせる。
「お前は手柄を挙げたら顔に出るんでぇ。
お目当ての輩はスカだったんだろぅ?
ちったぁ話しが聞けたみてぇだが、どうせそんなとこさぁね?」
「まあ……スカと言えばスカなのですが、完全なスカでは無いと言いますか……私としては…ですね…」
そして永岡の返しに、北忠は図星を突かれたのか、北忠は勢いを無くして口籠る。
「そうしやしたら、完全なスカを引いちまった、あっしらの調べから報告しやしょうかぇ?」
北忠の消沈ぶりに、広太が気を利かせて永岡へ声をかける。
「まあ、オイラ達だって今日はスカもスカでぇ。そんな事ぁ気にせずに話してくんねぇ」
「へい。では、ささっと話しちまいやす、へえ」
永岡に返した広太は、舌を濡らす様に酒を煽ってから語り始めた。
「今日のあっしらは、『腕っ節の強え代書屋』ってぇ情報の男を探ってたんでさぁ」
「悪りぃな広太。ぼんやりとした情報でよう。
しかも遠いってぇ言うのにな?」
「いえ、滅相もありやせんや旦那。
それに、こいつにゃ話の続きがありやしてね?
正直あっしもぼんやりした情報で、手こずるんだと思ってたんでやすが、これが実際に調べ始めやしたら、その『腕っ節の強え代書屋』ってぇのが、出るわ出るわでやしてね?
飯も食えねぇくれぇの大漁だったんでさぁ?」
広太が頭を掻きながら、困った様にも見える呆れ顔をすると、
「ほう、そんな事もあるんだなぁ?」
「ほぉうら見なよ、やっぱりだっ!!」
と、永岡と北忠が同時に相槌を打った。
北忠の方は、相槌としては少々力が入り過ぎているが。
「なんでぇ忠吾、いきなりでけぇ声出すんじゃねぇよ!」
北忠をチラリと見た永岡は、それが相槌では無いと看破して、叱りつける様に声をあげて北忠を睨みつける。
「はぇ? いや、すみません、永岡さん。それに広太も…。
いえ、この砂糖を入れると、これがまた中々乙な味に様変わりしましてね? そうだろう翔太?」
「い、いや北山の旦那。あっしは話しを聞いてやしたんで、未だ食ってねぇんでやすょ…」
北忠が詫びを入れながら言い訳し、翔太に同意を求める様に振るも、翔太は勘弁してくれとばかりにぼやいて、身体を小さくするのだった。
その様子を見ながら、伸哉が小さく笑っている。今日は翔太の番だとばかりに、ほっとしているのだろう。
「ったく、いい加減にしやがれってぇんでぇ。
広太、腰を折っちまって悪りぃが、続けてくんな?」
「いや、これ、本当にイケるんですってぇ!?
ほれ、翔太、これをみんなのところへ回しておやり?」
永岡が北忠を軽くどやして、広太へ話しの続きを促すも、北忠は不満顔で砂糖の入った小鉢を回す様、翔太に指示を出している。
一応は北忠は同心だ、翔太も渋々それに従い、北忠が小鉢の砂糖を取り分けた小皿を、皆の前へと置いて回り始めた。
「では大した話じゃねぇんでやすが、続きを話しやすね?」
広太は毒気を抜かれた様に、砂糖の小皿を見ながら口を開く。
「へえ、『腕っ節の強ぇ代書屋』ってぇのは、その定義が曖昧な分、人それぞれでやしてね?
要は聞き込む先々で何かと噂話がありやして、そんな輩がわんさか出て来たってぇ訳でやす。
実際にその代書屋へ訪ねてみたんでやすが、腕っ節の強ぇ奴ぁ皆無でやして、見当違ぇもいいところだったんでさぁ。
あの界隈の代書屋で、腕っ節の強ぇって輩には、粗方会って来やしたんでやすが、その全てがそんな塩梅でやして、今日は諦めて引き上げて来たんでやす」
「そうかぇ、そりゃ大変だったな?
やはり加平の野郎は、儀兵衛には曖昧に話してたのかも知れねぇな? 広太、ありがとよ」
広太の話を聞き終えた永岡が、感想じみた言葉と共に、広太達三人を見回しながら労った。
「いえ、見落としもあるかと思いやすんで、また明日行って、今度は何かしら掴んで来やすよ旦那。
それと、面白ぇっちゃ面白ぇ話が聞けたんでさぁ」
広太は永岡の気遣いに明日の実りを誓うと、一転、にこりと頰を緩めて土産話をほのめかした。
「ほう。なんでぇ、その面白ぇ話ってぇのは?」
永岡も興味を持ったのか、つられて頰を緩めながらそれを促す。
「へい、これはあっしらが訪ねやした『腕っ節の強ぇ代書屋』ってぇ、男の一人が話していた事なんでやすがね。
この男も自分で吹いて回ってるだけで、腕っ節も何もあったもんじゃねぇ男なんでやす。そいつぁ、自分の書く字が優し過ぎるってぇんで、以前は代書屋の仕事も芳しく無ぇ野郎だったんでやすよ。
そんで、そいつがどうして腕っ節が強えなんて言い出したかの言い訳が、ちょいと面白ぇ話しになったんでぇ」
ここで広太は舌を濡らす様に、伸哉が注いでいた酒に口を付ける。
「その男の近所に小さな剣術道場がありやして、前にその先生ってぇのが、飲み屋の女将に頼まれて、品書きを書いてる所に出くわしたみてぇなんでさぁ。そん時その先生が書いた字ってぇのが、妙に女文字っぽいのにも関わらず、女将は意外で面白えってなもんで、やけに気に入ったみてぇでやして、自分も剣術が強ぇってホラ吹いたら、優し過ぎるってぇんで評判が悪かった自分の字も、逆に同じ様に面白がってくれて、評判を上げるんじゃねぇかってぇんで、早速触れ回ってみたら、見事評判を上げたんだそうでやす」
「ほう、面白ぇ事考えやがったな?
まあ、姑息っちゃ姑息だが、背に腹は変えられねぇってヤツだな?」
永岡は広太の話しを聞いて、可笑しそうに言って笑う。
「へい、全くで旦那。でも話しは未だ落ちがあるんでやすよ?」
「ほう、悪りぃ悪りぃ、無粋に先走っっちまったな? で?」
「へい、その男なんでやすが、あっしも旦那と同じ様に、そいつぁ姑息ってぇヤツだと言ってやりやしたら、『承さんばかり良い思いして酷えや』ってなもんで、逆にあっしを責める様に騒ぎ出したんでさぁ?」
広太はここで永岡を見てニヤリとやった。
「ほう、その先生の名前ってぇのが、承さんとなぁ?
そいつぁ面白ぇや、小せえ道場を構える承さんかぇ?
どうも羨ましい話しじゃ無ぇか、なあ智蔵?」
「へい、旦那。旦那が仰ってた通りなのかも知れやせんねぇ?」
今まで黙って聞いていた智蔵が、ニヤリと永岡へ返すのだった。