第十四話 事の相談
周一郎が外出から戻ると、息子の順太郎が井戸端で諸肌を晒し、手拭いで身体を拭っていた。
「今のお方は?」
「ああ、みそのさんのお知り合いで、南町の永岡様ですよ」
順太郎は父親の言っている人物が永岡だと思い当たり、上気した顔で応えている。
周一郎は長屋を出て行く永岡と、すれ違い様に黙礼を交わしていた。
一目で男が手練れと見た周一郎は、その男が黒羽織の八丁堀の格好で、岡っ引きらしい男まで連れていた事に、少なからぬ訝しみを覚えていたのだ。
こんな寂れた長屋に、八丁堀の同心が来る事など滅多に無い事だ。
「あんな手練れの同心が、一体お前に何の用事だったんだ?」
順太郎の言葉で、どうやらあの同心は息子に会いに来ていたのだと理解し、周一郎は益々訝しむ。
「私の剣の腕前を見に来てくださったのですよ。
いえ、例の話しで、みそのさんが私の腕前を知りたかったそうで…」
「ああ、そう言う事であったか…」
順太郎の返事に、周一郎は何処と無く気まずそうに返す。
自分が例の条件を出したせいで、皆を振り回していると感じたのかも知れない。
「それにしても、同心にもあの様なお方が居るのですねぇ…。
世間は広いものです。剣を目指す身としては、これでまた身が引き締まります」
「そうだな…」
「とうかなされましたか?」
周一郎の気の無い返事に、順太郎が訝しそうに問いかける。
「いや、なんでも無い。
それにしても、みそのさんは本気なのだなぁ?」
「ええ、その様です…」
「お前も私も覚悟を決めなければな?」
「…はい」
数瞬の逡巡を見せるも、順太郎は覚悟を持った顔で応える。
周一郎はそんな順太郎にほろりと笑って見せた。
「それにしても、縁と言うものはあるもんなのだなぁ…」
「ええ、大切にしなければなりませぬ」
しみじみとした周一郎の呟きに、順太郎も独り言の様にしみじみと応える。
二人共静かな覚悟を胸に、暫し木戸口の方角を眺めるのであった。
*
「さっきのは、あの兄ちゃんの父親だろうな?」
「あんなしゃんとした浪人で、あの裏店に住まわってぇんでやすから、そうでごぜぇやしょうね?」
「いや、相当な遣い手だったぜ?
あの兄ちゃんの父親じゃなけりゃあ、ちっとばかし問題でぇ。
あんな手練れがそこらにゴロゴロ居やがったら、こっちは堪ったもんじゃねぇぞ?」
「そんなでしたかぇ?
あっしはあの裏店の浪人の割には、物腰に品のあるお方だと思いやしたんで、先ず順太郎さんのお父上で間違ぇねぇと、そう見ていたんでやすがね?」
「まあ、それもそうだな?
へへ、違ぇねぇや」
永岡も先ほど周一郎と木戸口ですれ違った際、一目で相手の腕の程を認めていたのだった。
永岡と智蔵は調べの続きの為、範囲を本所界隈へと広げて歩き出していた。
本所深川界隈は、ある程度当たり尽くしていたからだ。
小さいながらも剣術道場と言えば、ある程度限りがある。
武家屋敷や寺社仏閣も多い事を考えれば、この界隈での剣術道場の数など知れたものだ。
永岡達は取り敢えず切りを付け、調べを本所界隈へと広げる事に決めたのだった。
「でも智蔵、お前はあの父親に何も感じなかったのかぇ?」
「あのお方は見るからに強そうな雰囲気は、出してやせんでしたからねぇ?」
「いや、違ぇんだ智蔵。オイラが言いてぇのは、お前の岡っ引きの勘ってやつさぁ?」
「どう言うこってす?」
「いやな。オイラはあの父親ってぇのが何かの面倒ごとにでも、巻き込まれてんじゃねぇかと思ったのさぁ」
「まあ、確かに一瞬でやすが、あっし達を見た目は、何か警戒するものがありやしたねぇ?」
「だろう?」
「でやすが、あっしらを見て警戒しねぇのは、それこそみそのさんくれぇのもんでやすよ?」
「おきゃあがれってぇんでぇ。ったく、あいつの事ぁ出すんじゃねぇやい…。
でもまあ、そりゃそうさな?
オイラ達見て何とも思わねぇ野郎なんて、よっぽど肝が座ってねぇとな?
それこそ泥沼の加平くれぇなもんさな」
「へい、あとはみそのさんくれぇなもんでぇ?」
「ちっ」
智蔵の軽口に舌打ちで返した永岡は、この話は終わりとばかりに、その歩みを早めるのだった。
*
「それでお前さんは、全く加平を知らないって言うのかい?」
「いやぁ、加平ってぇのは盗人なんでござんしょう?
あっしはケチな野菜の棒手振りでやんすよ?
そのあっしが、どうして盗人なんかと知り合ぇなんでやすかぇ?
しかも盗人のお頭だなんて、そんな事ぁあり得ねぇでやすよ?!」
「そんな事は私も知らないよ。
お前の事は今、本当に今の今、見知っただけなんだよぅ?
今見知ったばかりの男の交友関係なんて、私が知ってる方がどうかしてるよう。
あ、分かったよぅ。お前はあれだろ? こうして禅問答の様に話を堂々巡りにして、何とか逃げ切ろうって魂胆だろう?
案外とお前は油断がならない男だねぇ。全く危ないところだったよぅ。いいかい、そんな小細工は私には通用しないからね?」
「いや、小細工なんかじゃねぇんでさぁ。
それに、意味の分からねぇ禅問答みてぇなのは、旦那が仕掛けてんじゃねぇでやすかぇ?
お願ぇしやすよ旦那ぁ…」
男が「旦那ぁ」と言いながらも、側で見ている松次と翔太へ、助けを求める視線を送っている。
団子屋を意気揚々と出た北忠一行は、団子屋の女将に聞いた男の住処へ難無く辿り着いたのだった。
北忠達が捜していた男と言うのは、『棒手振りの喜っつぁん』と言う下谷界隈を住処にする男だった。
この男も、儀兵衛が泥沼の加平との世間話から抜き出した男で、加平が表稼業として商う煮売飯屋に顔を出す、贔屓の棒手振りと言う事だった。
加平の話には、良くこの男の名前が出て来た様で、
「棒手振りの喜っつぁんには、何とかお店を構えさせてやりてぇんだがなぁ。
今度お勤めにでも誘ってやろうかねぇ?」
と、軽口めいた話をしていたらしい。
儀兵衛はこの男も可能性は薄いと見ていたが、やはり加平から聞く素人の話で、一番多く出て来る名前がこの男と言うのと、やけに可愛がっている話ぶりから、永岡に『棒手振りの喜っつぁん』の名前を出していたのだった。
「北山の旦那、この喜八ぁ本当に知らねぇみてぇでやすぜ?」
「なに言っているんだい松次ぃ。こんな小細工に騙されちゃダメじゃないかぇ?
この手の手妻は珍しくも何とも無いんだよぅ?」
「だから旦那ぁ、小細工でも手妻でも何でもねぇんでさぁ。勘弁してくだせぇよぅ…」
堪らず松次が口を挟むも、北忠の頭は既に頑なに固まっている様で、逆に松次を窘める始末。
『棒手振りの喜っつぁん』こと喜八は、堪ったものじゃ無いとばかりに泣き付いている。
「どうでぇ喜八。もう一度聞くぜ?」
「へ、へい、何でやしょう?」
松次が北忠を宥める様に手で牽制しながら喜八へ声をかけると、喜八は薄っすらと溜まった涙目を向けて来る。
「本当にお前は、煮売飯屋の『一休いっきゅう』を知らねぇんだな?」
「へ? 一休さんって鳥越の?」
喜八は松次から出て来た名前に驚きを見せる。
松次は「ああ、そうでぇ」と喜八に返しながらも、チラリと呆れた様に北忠を見る。
「一休さんなら知ってるも何も、つい四、五日ほど前にも、顔を出してやすよ?
あっしの上得意でさぁ。それがどうしたって言うんで?」
「どうしたもこうしたも、その一休の親父が泥沼の加平ってぇ事よ。
お前は本当に知らねぇんだな?」
「いや、一休さんは承知してまさぁ。
しかし、あっしは親父さんの事ぁ、いっつも一休さんって呼んでやしたんで、親父さんがなんてぇ名前なのかは、知りやせんでぇ。へい…。
でもなんかの間違ぇなんかじゃありやせんかぇ?
あの一休さんが盗人のお頭ってぇのは、どう考ぇても腑に落ちやせんや」
「なに言ってるんだいお前は。仲間を庇おうとしても無駄だよぅ?
もう加平はお縄にして、罪も認めているんだからねぇ?」
松次と喜八の問答に、北忠が詰め寄る様に口を挟んで来る。
それを見た翔太が「まあまあ旦那」と、北忠の袖を引いて窘めに入り、そのまま松次へ目配せして話の続きを促した。
翔太はやっと役に立てた気分なのだろう。
「まあ、旦那の言ってる事ぁ本当でぇ。
泥沼の加平は、既にお縄になって罪を認めてらぁ。お前の知る一休さんってぇのは、盗賊のお頭に間違ぇ無ぇのさぁ」
「そ、そうなんでやすかぇ…」
喜八は松次の言葉でやっと信じた様で、急に恐れをなした様に声を震わせる。
知らなかった事とは言え、泥沼の加平との繋がりが自分にあったのだと、やっと理解した様だ。
「お前は本当に知らなかった様だな?」
そんな喜八の様子を見ながら、改めて松次が声音を緩めて問いかける。
「へ、へい。そりゃあ、一休さんは承知も何も大承知なんでやすが、それが盗人だったなんて、これっぽっちも知りやせんでぇ。
こいつぁ本当でさぁ、信じてくだせぇよぅ?」
「まあ、俺はその言葉を信じてやりてぇんだが、こっちの旦那は信じてねぇのさ。
さっさと知ってる事ぁ喋っちまって、この旦那を納得させねぇとな?」
「へ、へい。あっしの知ってる事なら何でも喋りまさぁ。
いっくらでも喋りやすから、何でも聞いてくだせぇよぅ?!」
松次の北忠を利用した言葉に、喜八は必死な顔で縋る様に返すのだった。
*
「それでみそのさんは、どの様な企てを考えているのですかな?」
酔庵が子供の様な目をして、嬉しそうにみそのへ問いかけている。
今は酔庵の後ろに幸吉も控えていて、番屋の番人達も囲炉裏を囲んで茶を啜っていた。
「どの様な企てって言われますと、なんか悪い事を考えてるみたいじゃないですか…」
「いやいや、これは久々に面白い話を聞けて、欲を抑え切れぬ顔をしてましたかな?
失礼失礼、この老顔は無視してお話くださいな?」
「もぅ、面白がり過ぎですよう……ふふふ」
みそのは呆れた様に言い、それでもニタつきを隠せない酔庵に思わず笑ってしまう。
「これは一組の男女が、どうしたら気持ちを添い遂げられるかの大事な話で、決して面白がる事では無いんですからね?」
「そうでしたな?」
みそのも酔庵につられたか、酔庵と同じ様なニタついた顔で話している為、酔庵は同類を見るような目で戯けて返して来る。
「まあ、しょうがないですかね…」
そんな酔庵の目に気づいたみそのは、それを認める様に悪戯っぽく舌を出した。
「でも、本当に考えはこれからってところなんですよ?
どの様な道場運営をすれば、食べて行けるだけの活計を得られるかは、きっと、それ相応の工夫をしなければいけませんからね?
それはとっても大事な事ですから、しっかり考えて行きませんと。
でも肝心の道場を構えない事には、この話は何も始まらないですからね?
あ、道場と言っても、最初は本当に小さくて良いんですよ。そんな贅沢な事は出来ませんしね?
とにかく、その小さな道場を構える為にも、取っ掛かりとして、先ずは江戸の道場を色々と見て回ろうと思っていた訳なんです。…って矢先にこうなったって訳ですけどね?
まあ道場見学は、立地とか何かと参考になるかも知れないですし、何も知らない私は、とにかく見ておかなくてはと思いまして…」
「ほう、立地の事も頭に入れての見学ですか。益々見上げたものですな?
それにしても道場の運営までも考えるのですかね?
これは流石に私も経験がありませんので、俄然興味が湧きますな?
まあ、剣術道場とは言え、剣の技術を売り買いすると考えれば、商いと同じ事なのかも知れませんな…。
とにかくみそのさんも仰った様に、商いは工夫が大事です。みそのさんがどんな工夫をなさるか、これは見ものですな?」
酔庵はみそのの話を聞いて、益々嬉しそうに相好を崩して応える。
その言葉尻は悪戯っぽく煽る様な物言いだ。
「なんか酔庵さんは、ご自分で企てに交ぜろって仰った割には、やっっぱり面白がってるだけの様な気がするんですけど?」
酔庵の揶揄う様な煽りに、みそのは頰を膨らませる。
「交ざればこそ面白がれるのですぞ?
はっははははは」
みそのの反応に満足をした酔庵は、戯けた口調で返して高らかに笑うのだった。




