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 第十三話 剣術笑話



 永岡は智蔵と二人、本所深川から本所竪川へと場を移していた。


「気分転換に、ちっとばかし用事を済ませていいかぇ?」


 との永岡の一言があっての事だ。


 永岡は正直、進展の無い調べにうんざりしていた。

 そこでみそのから頼まれていた腕試しを思い出し、運気が変わればとの思いもありながら、順太郎の長屋へ足を向けたのだった。


「この辺りでやすかねぇ?」


「そうだな、長兵衛長屋って言ってたっけか。

 緑町ってぇこったから、この辺りのはずさぁね?」


 間近まで来ているのであろう、永岡は智蔵と話しながら歩いている。

 先ほどその辺にいた子供に、長兵衛長屋の所在を聞いていたのだが、今一要領を得ず、結局はっきりとした所在が分からぬまま、近くまで歩いて来てしまっていた。


「おい坊、ちょいといいかぇ?

 この辺りに長兵衛長屋ってのが有ると思うんだが、坊達はそこが何処にあるんだか知ってるかぇ?」


 路地から走り出て来た子供達を呼び止め、智蔵が腰を屈めて聞いている。

 中には智蔵とそう変わらぬ背丈の子供も居るが、智蔵としてはそうせざるを得ぬのが心情だ。


「おめぇ知ってっか?」

「知らねーぞ、そんなたな

「いや知らねー」

「オイラも知らねーな」

「食いっぱぐれ長屋の事じゃねーか?」


 智蔵に聞かれた男の子が、周りの仲間に問いかけると、子供達は重なる様に次々と声をあげる。


「なんだ、その食いっぱぐれ長屋ってぇのは?」


 一人の男の子が言った言葉に、永岡が眉をひそめて珍妙な声をあげる。


「すぐそこの長屋だぞー」

「あの汚ねー長屋なっ」

「あー食いっぱぐれの事かぁ!」

「食いっぱぐれが長兵衛長屋なのか?」

「叔父ちゃん達は食いっぱぐれに用かぇ?」


 子供達はまた一斉に話し出すが、永岡の問いに答える者は無かった。

 無かったが、永岡は凡そを子供達の言葉で察した様だ。


「そこの長屋かぇ?」


 一人の男の子が指し示す長屋を、智蔵も裏手にある長屋を指して聞き返す。


「うん!」


「そうかぇ、じゃあちょいと行ってみるとするわ。坊達、ありがとうな」


 元気良く応えた男の子の頭を撫でると、智蔵は子供達に礼を言って腰を伸ばした。


「旦那、行ってみやすかぇ?」


「おうよ。この辺りに間違まちげぇねえんだから、あっこがお目当ての長屋にちげぇねぇやな」


 智蔵に応えた永岡は、先ほどのもたついた調べの時とは裏腹にその相好を崩す。


「ふふ、当たりさぁね?」


 永岡達が表通りから中へ入ると、その木戸口には、確かに小さく『長兵衛店』の文字がある。

 永岡はそれを目にすると、智蔵に嬉しげに小さく笑った。

 永岡は鼻歌交じりに表店を抜け、目当ての食いっぱぐれ長屋へと歩みを進める。


「確かに汚ねえ店だなぁ…」


 永岡は遠慮無しに呟いて、偶々井戸の前にいた裏店の女房に睨まれる。


「へへ、悪りぃ悪りぃ。

 悪気はぇんだ、勘弁してくれや。それよかこの店に、中西順太郎ってぇ御仁が居ると聞いてんだが、おめぇさんは何処の店か知ってるかぇ?」


「………」


 永岡の問いかけに、その女房は黙ったまま指をさして応える。

 不機嫌この上無いと言った顔だが、見て直ぐ同心と分かる永岡だ、応えない訳にいかない様だ。

 女房の指し示した店の腰高障子には、『代書』と達筆な文字が書かれている。


「ありがとうよ、助かったぜ」


 永岡は女房に礼を言うや、その女房が指し示した店の前へ歩み寄り、その腰高障子を引き開けた。


「おう、邪魔するぜっ」


 永岡が勢い良く中へ入ると、一人で傘張りをしていた若侍が、少しばかり驚く様な目を向け来た。

 表からの印象とは裏腹に、中は案外小綺麗に片付けられた部屋で、広げた傘が置いてあるにも関わらず、さして散らかっている様にも見えない。


「永岡様、で御座いますか?」


 一瞬の間を置くと、若侍が口を開く。

 正に永岡が目当ての順太郎だ。


「おう、話が早くて助かるぜぇ。

 なんだ、代書ってあったが傘張りをやってやがんだなぁ?」


「いえ、これは私が出来る事をしようと思いまして、回してもらっている内職で御座います。

 父が代書の仕事をして御座います」


「そうかぇ。大変てぇへんだなぁ?

 そんで剣術の方もやってるとなりゃあ、頭が下がるばかりでぇ」


「剣術だけで食べて行けたら、何も言う事は無いのですが…」


 永岡の言葉に、順太郎は鼻頭を掻きながら苦笑いで応える。


「まあ、その為の腕試しってぇ訳なんだろぃ?

 ま、腕試しがオイラでいいか分からねぇがな?」


「いえ、みそのさんから永岡様のお噂は聞いています。どうぞご教示ください」


「へっ、あの野郎が何て言ったか知らねぇが、そう大層てぇそうなもんじゃぇやな。

 でもまあ、頼まれちまったからオイラで我慢してくんな?

 で、早速で悪りぃがオイラも御用の途中なのさぁ。おめぇさんさえ良ければ、ささっと棒振りしちまおうぜ?

 外の稲荷のめぇで構わねぇかぇ?」


「はい、勿論で御座います。

 お手間を取らせてしまい、本当に申し訳ありません」


 永岡が早口で捲し立てる様に言うと、順太郎は傘を閉じて立ち上がり、父との稽古で使用している二振りの木刀を、壁掛けから掴んで土間へ下りた。


「ほう、使い込まれた良い木刀さぁね?」


 持ち手が手脂で黒光りする木刀を見ながら、永岡は好まし気に順太郎へ語りかける。


「毎日の事に御座いますから、単に使い古されたので御座いますよ…」


 永岡と肩を並べながら順太郎が応える。

 卑下た様に言ってはいるが、順太郎の木刀を見るその眼差しは、木刀への愛着を隠しきれない。


「では参ろうか?」


 稲荷と言っても長屋の敷地にある小さな物だ。

 肩を並べて歩いて、ものの十数秒で着いてしまう。

 永岡は稲荷の前に着くや、顔も言葉もシャキリと変えて木刀を構えた。

 正眼である。


 智蔵は井戸に腰を掛け、その様子を目を細めて静観している。

 今までの永岡の空気がピリリと変わり、順太郎は永岡の構え一つでその腕を看破し、瞬時に胸を借りる思いに構え直す。

 順太郎も正眼だ。


 永岡が順太郎の右目を剣先で捉え、時折ゆらりと誘いをかけるが、順太郎は動けない。

 順太郎の額に汗が一筋流れる。

 数瞬、順太郎はその汗に気を持って行かれた。

 その瞬間を逃さず、今まで待ちの永岡が一気に間合いを詰め、振りかぶる太刀筋も見せぬまま、唸りを上げて上段から木刀を振り落とした。


 永岡の木刀が順太郎の額に紙一重で止まっている。

 数瞬の事だ。


「ま、参りました…」


「まあ、今のは隙があったかんな?

 もう一つ行くとするかぇ?」


 順太郎の言葉に、永岡は戯ける様に返す。

 そして順太郎の額から木刀を引き、間合いを取って構え直す。


「お願い致します!」


 順太郎は気合いを入れる様に声をあげると、もう一度正眼に構え直して永岡と対峙する。

 その顔には心無しか笑みが見え、子供の様に嬉しそうな顔になっている。

 そして井戸に腰を掛けている智蔵もまた、嬉しそうな笑みを浮かべるのだった。



 *



「これはちょいと面白いお話を聞けましたよ?」


 みそのの話を聞き終えた酔庵は、嬉しそうな顔で第一声を上げたのだった。

 みそのは正吉との再会から、事のあらましを話していた。

 お百合が縁談話しを抱えながら順太郎に恋心を抱いていた事。

 そして、少しばかり強引ではあったが、みそのの合力で二人の想いを確かめ合った事。

 それを成就させるべく、その条件を満たす為に、みそのも協力して行く事などだ。


 部屋には未だにみそのと酔庵の二人だけだ。

 そろそろ幸吉が帰って来るだろうと、酔庵は睨んでいたのだが、幸吉は未だに戻っていない。みそのの話は、然程長いものでも無かったのかも知れない。

 しかし酔庵は余程新鮮だったのか、このところ滅多に無い充足感を感じていた。


「それで江戸の剣術道場を巡って、ご自分でも見聞を広めようと言うのですね?」


「ええ。でも実際は、そんな大層な考えも無く、先ずは見学に行ってみようって、ただそれだけの事なんですよ?

 お恥ずかしながら、本当に何も知らないものですから…」


「いえいえ。知らない事を知ろうとする、これは何も恥ずかしい事などではありませんよ?

 みそのさんの場合、逸早く自らの足を使って知ろうとなさったのですから、良い心掛けと言うものです。

 簡単な様でいて、中々出来る事ではありません。逆に尊ぶべき行いだと思いますよ?」


「いえ、本当にそんな大層な事では…」


「いえ、その様なものなのですよ、みそのさん」


 みそのがむず痒さに耐えられずに、もう一度酔庵に抗弁しようとするも、満面の笑みの酔庵がそれを途中で断ち切ってしまう。


「それでその企てには、この酔庵も交ぜては貰えるのでしょうな?」


「はあ? っ痛ーっ」


 酔庵の思いも寄らぬ言葉に、驚いて身体を仰け反らせたみそのは、奇妙な声と共に悲鳴を上げた。


「只今戻りました大旦那さ…」

「どうしなすってぇ?!」


 悲鳴と同時に腰高障子を引き開けた幸吉は、驚いて固まってしまう。

 通りに出ていた番人も駆け込んで来るなり、慌てた様子で声をかけて来る始末。

 二人共、今は奥で蹲るみそのを目を丸くして見ている。


「い、いえ、ちょ、ちょいと話が盛り上がりまして……ね?」


 思いの外大声を上げていた事に気付いたみそのは、恥ずかしさと痛みを堪えながら顔を真っ赤に染めている。


「ちょいと剣術話に花を咲かせていましてな?」


 怪訝な表情を浮かべる番人に、酔庵は惚けた口調で言って笑うのだった。



 *



「広太兄ぃ、こりゃあ手詰まりってぇヤツじゃねぇですかぇ?」


「おいおい伸哉、おめぇもう諦めちったのかぇ?」


「そうだぞ伸哉、留吉の言う通りでぇ。

 根を上げんのは、もうちっとばかり粘ってからにしろい!」


 伸哉の弱音の様な物言いに、留吉と広太が諌める形で応えていた。

 こちらは芝組である。

 今回の調べの中でも一番の遠方だ。

 その為、この界隈に着いた時には昼九つも近く、道中にあれこれ探索の手配りを決めていた事もあり、現地に到着するや、昼餉も取らずに駆けずり回っていたのだった。

 そうしてそうこうしている内、四半刻前に昼八つを知らせる時の鐘が鳴っていた。

 伸哉は空腹と調べの空振り具合に辟易し、今日は一番の年少の為もあってか、いつもは吐かない弱音を吐いていたのだった。


 そもそも彼らが何を調べているかと言うと、

『腕っ節の強い代書屋』の所在だ。


 儀兵衛が聞いた泥沼の加平の話しの中で、


「芝の代書屋で腕っ節が強いのが居てねぇ、先だって助けられた事があったんだよう」


 と、世間話から話しが膨らんだ事があり、その際に加平は、


「代書屋やってるくらいなら、お務めを手伝ってもらえないかって、ちょいと思っちまってんだよ」


 と話していたと言う。

 ただ、加平は話の最後には、


「まあ、堅気の人間を無理に引き入れるのも何だし、腕っ節が強い割には人が随分と良くてねぇ。

 あれは先ずこっちの世界には向かないのさぁ」


 と、諦めている様子でもあった様だ。


 儀兵衛が可能性は薄いとの見解を添えた上、永岡に話していた候補の一つだ。

 永岡もそれを踏まえ、同心の居ない組である広太達を行かせたのだった。

 しかし、可能性が薄いとは言え手は抜けない。

 永岡は同心が居ない代わりに、広太や留吉、伸哉と言った、手下の中でも熟練の三人を選び、調べに向かわせたのだった。


 しかし熟練を三人集めても、『腕っ節の強い代書屋』とだけの情報では、そもそもの情報自体が薄い上、その定義が人それぞれで判断に困る。

 早速一行がそこらの店屋入り、例の『腕っ節の強い代書屋』の話を聞くも、

「そう言えば、辰さんはめっぽう腕っ節が強いって話しだったなぁ」

 とか、

「市蔵さんは優しい字をお書きになるのに、腕の方は何処やらの免許皆伝らしいって、話しを聞いた事が御座いますよ」

 などなど、思いの外わんさかと、腕っ節の強い代書屋が出てきたのだった。


 しかし実際にその代書屋を訪ねてみれば、辰五郎と言う代書屋は、酒が入るとつい大見得を切るそうで、実際はひょろりとした身体が示す通り、喧嘩などした事のないのだと白状した。

 市蔵と言う代書屋もなんて事は無い、自分の書風が女性的で優し過ぎると言う事から、仕事が中々取れなかった為、実は剣術では強いのだと箔を付けたところ、その優しい書風の評価が急激に上がったのだと言う。

 この様に情報が殊の外多く出て来たのだが、空振りの数も同じだけあったのだった。


「とは言ってもまあ、腹が減っては戦ができねぇってな?

 次から次へとあの調子でぇ。おめぇが言い出さねぇと、切りがえんで飯も食えなかったぜ。

 取りえず、飯でも食うとするかぇ?」


 広太も些か意地になって励んで、引き時を逸していた様だ。

 伸哉に救われたとばかりに応えたのだった。


「確かに腹が減っちゃあ良い案も浮かばねぇや。

 へへ、この手詰まりに、なんぞ妙案が浮かぶかも知れねぇな伸哉。

 飯にしようじゃねぇかぇ飯に」


「へい、飯にしやしょう!

 しっかしこうかんげえると、北忠の旦那は偉大いでぇなのかも知れやせんねぇ?!」


 伸哉の言葉に、


「そりゃちげぇや!」「そりゃあぇな!」


 との声が重なり、三人は顔を見合わせて笑うのだった。



誤字報告ありがとうございます!


青眼→正眼。

中段の構えなんですが、青眼の方がかっちょいいかなって思って青眼にした記憶があったのですが、青眼と明記する前に正眼を使ってましたね……^ ^;

正眼の方が一般的ですし、ご指摘いただいた通り修正させていただきました。

修正出来てると思ってましたが出来てませんでしたね。

今気がつきました(2/23)すみません。


改めてありがとうございましたー!


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