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第十一話 痛く偶然

 


「お嬢さん? お嬢さん? 大丈夫ですかな? ほら、聞こえていますかな?

 幸吉こうきち、まだ人は来ないのかね?

 ちょいとお前も見に行って来なさい」


「承知しました大旦那様」


 幸吉と呼ばれた前掛けの小僧が、ひょろりと細い身体を大きく左右に揺らし、なんとも不器用に走って行く。

 それを見送る事なく、身なりの良い穏和な顔立ちの老人は、目の前に倒れている娘へ再び声をかけている。

 周りには一人二人と人が集まり、それが更に人を呼んでしまい、黒々とした人集りが出来始めていてる。


 老人に声をかけられている娘。

 この娘こそみそのである。

 娘と言うには少々無理がありそうなのだが、この時代では娘に見えなくもない。


 みそのは背中に突然重い衝撃を受け、訳も分からぬまま通りに転がされていたのだ。

 追突の衝撃が激しかったからか、地面に叩きつけられた際の打ち所が悪かったせいか、みそのはそのまま気を失ったままだ。

 しかし、幸いにも手に擦り傷程度しか見当たらず、他の顔や頭などの見えるところの出血は無い様だ。

 ただ頭を打っている可能性がある為だろう、老人はなるべくみそのを動かさない様にして、声だけをかけていた。


「そのお嬢さんは大丈夫でぇじょぶなのかぇ?」

「おぅ、誰か医者呼んでやれや?!」

「爺さんは怪我ぁぇのかぇ?」

「番屋へは誰か走らせたのかぇ?」

一体いってぇ何があったんでぇ?」


 人集りから次々に声が上がる。

 みそのは相変わらず気を失ったままで、老人も必死にみそのへ声をかけている。


「ちょっと通してください。

 ーーーーと、通してください!

 ーーーー通せって言ってやがんでぇ!

 ーーーーーほら、はえぇとこどきやがれっ!」


 一人の男がだんだん口調を荒げさせ、最後には怒鳴りながら人垣を突き飛ばして、人集りの中心へ飛び込んで来た。


「やっぱりみそのさんでしたか…」


 荒々しく現れた男は、女をみそのだと見るや、


「私は医者です。診せていただけますか?」


 と、駆け寄り様に老人へ声をかけ、みそのの脈や眼色を確かめ、手早く傷の具合を確かめ始めた。


「お医者様で御座いましたか?

 これは良いところに駆け付けて下さった…」


 老人はほっとした様に言う。

 直後に安心したからか、すとんと後ろへ倒れる様に尻餅をついてしまう。


「ど、どうでしょうか?」


 尻餅をついたまま、恐る恐る老人が尋ねる。


「そうですね…。

 見たところ、そう大した傷は無さそうです。

 ただ、少し頭を打っているかも知れませんので、念の為、戸板で何処ぞへ運んだ方が良さそうですが」


「そうですか…では、戸板の手配ですね?

 聞きましたかぇ幸吉、お前は戸板の…」


 老人は使いに出した事を失念していた様で、先ほどの前掛け小僧に声をかけようとしてそれに気づき、人垣の隙間から目当ての小僧を探し始めた。


「あなたはみそのさんのお知り合いなのですか?」


「は? …ああ。いえ、知り合いと言う訳では無いのですがね…」


 小僧を探すのに夢中だった老人は、何やら歯切れの悪い返事をする。


「このお嬢さんはみそのさんと仰るのですな?

 貴方様こそ、このお嬢さんのお知り合いと言う訳で御座いますよね?

 駆け付けていただけたのがお医者様で、尚且つこのお嬢さんのお知り合いとは、これは余程運が良かったのでしょうな…。

 とにかく、ありがとう御座います」


 老人は地べたに座り直して頭を下げた。


「いえ、私の方こそ運が良かったですよ。

 このみそのさんは、私の懇意にしているお方の馴染みでして。みそのさんにもしもの事がありましたら、そのお方に顔向け出来ませんからね?

 見つけられて良かったです、本当に。

 ところで、あなたはこの経緯をご存知なのですか?」


「ええ、存じております…。

 このお嬢さんには、本当に申し訳ない事をしてしまったので御座いますよ…」


 老人はみそのを眺めながら、つくづく申し訳無さそうに話す。


「いえね。私が気を抜いて歩いていたせいで御座いましょう。そこの通りで掏摸にやられてしまいましてね…。

 直ぐに気づいたは良かったので御座いますが、私が声をあげましたら、その男が猛然と逃げて行きまして、このお嬢さんに後ろからぶつかって行ったので御座いますよ。

 私には幸吉と言う丁稚がついておりまして、この幸吉が男を追いかけたのもいけませんでした。

 幸吉が声をあげながら追いかけたものですから、その声にあの男が振り返った拍子に、お嬢さんにぶつかってしまったので御座います。

 今思うと掏られるままにして、男の事などは捨て置けば良かったのだと思いましてねぇ。

 このお嬢さんには本当に悪い事をしたと、後悔しているので御座いますよ」


 どうやらみそのは、老人から掏摸を働いた男に突き飛ばされた様だ。

 落ち度と言えば、まんまと掏摸に掏られた事だろうが、それだけでこの老人を責められないだろう。

 しかし、この老人はみそのがこの様な災難に遭った事に、少なからず責任を感じているらしい。


「その様な経緯だったのですか…。

 いえ、あなたは何も悪くは無いですよ。

 全ての元凶はその掏摸の男ではありませんか?

 それよりも、その男の人相は覚えていますか?

 いえ、私の懇意にしている、みそのさんの馴染みのお方と言うのは、町方のお役人なのですよ。

 みそのさんをこの様な目に合わせた輩は、是非にでも捕らえたいですからね?」


「そうで御座いましたかぇ?

 ーーーそれはそれは…」


 みそのには医者の他に、町方にも馴染みがいるのだと知り、老人は感心する様にみそのを繁々と見る。


「男の人相なので御座いますが、私ももう目が悪う御座いまして、男の顔は良く見えなかったので御座います…。

 それに生憎と、今日ついている幸吉は近目で御座いまして、恐らくあの子も、男の顔は良く見えていないと思います。

 強いて言うので御座いましたら、男の背丈は私くらいで、私よりも随分と体格の良い男だったと…」


 老人も前掛け小僧も目が悪い様で、男の人相は見えていなかった様だ。

 身体的な特徴も、老人が痩せ型で、大きくも小さくも無い平均的な身長の事を考えれば、何処にでも居そうな特徴で参考にならない。

 老人も自分で言っていてそれに思い当たり、最後は頼り無い声になっていた。


「まあ、大抵巾着切りなんて言う輩は、そう特徴のある者は少ないですから…。

 まあ、それも致し方無いでしょう!?」


「こ、弘次こうじさん?」


 老人を慰める様にして言葉を強めた時、二人の間で気を失って寝ていたみそのが、不思議そうに声をあげた。

 みそのの第一声は、医者の昔の呼び名であった。

 この医者は一年程前まで、永岡の手下をしていた弘次こうじであった。

 今は名を元の小川おがわ弘治ひろはるに改めている。


「気づかれましたか、みそのさん」


 昔の呼び名で呼ばれた弘治は、ほっとした声音でみそのに応える。


「あ、小川先生でしたよね…痛っ」


 みそのは名前を言い直しながら身体を起こそうとして、その痛みに悲鳴をあげた。

 弘治は以前の髷を作った総髪から、髪を後ろで束ね、そのまま垂らした結髪に様変わりしている。

 医者然とした身形にも増して、みそのはそれを目の当たりにして思い当ったのだろう。


「倒れた時に打ち付けているのですよ。

 重症では無さそうですが、それでも無理をなさらない方が良いでしょう」


「大旦那様、番人の方々をお連れしました」


 弘治がみそのを窘めた時、使いに出していた幸吉が自身番から人を連れて帰って来た。

 番人達の手には、既に戸板が用意されている。幸吉が気を回しての事だろう。

 この幸吉、身体の動きは鈍そうだが、その辺りの機転は効く様だ。


「おお、幸吉かぇ、待っておりましたよ。

 ほうほう、戸板も持って来てくれたのだね?

 お前は気が効く子だねぇ。 良くやりましたよ、幸吉」


「ありがとうございます、旦那様。しかし、そのせいで遅くなってしまいまして、申し訳御座いません」


「いや、いいんだよ幸吉。それが無いと二度手間になっていましたからねぇ。

 お前の判断は正しい。そう謝らなくとも良いのですよ?」


 褒められた幸吉は恐縮して見せるが、老人は嬉しそうに丁稚の働きぶりに満足している。

 人集りは、何事も起こらなそうなのに飽きたのか、先ほど老人と弘治が話している間に、一人二人と掃けて行き、今では暇そうな男が二、三人残るのみだ。

 その残った男達は、今ではみそのの容姿をあれこれ語り合い、互いの鼻の下を伸ばしている始末だ。


「ではお願い出来ますか?」


 弘治が自身番の番人達に声をかけると、


「へい、只今」


 と、戸板を持った番人が、すぐ様みそのの横へと戸板を用意した。


「どうれ、ゆっくりと乗ってくださいよぅ?」


「痛、イタタタッ、痛っ…」


 みそのは番人の一人に言われると、小さく悲鳴を上げながらも、言われるままにゆっくりと戸板に乗った。


「では、取り敢えずは自身番へお連れします。

 宜しいのですね、先生?」


「はい、結構です。ゆっくりと慎重にお願いしますよ?」


 番人は弘治の身形で医者と判断した様で、弘治を先生と呼んで指示を仰ぐ。

 弘治はそれに応えると、みそのを気遣う指示を付け足した。


 *


「そうでしたか。

 あの豊島屋としまやさんのご隠居だったとは、これはどうも知らぬ事とは言え、先ほどは失礼を致しました」


「いえいえ。こちらこそ先生があの養生所の小川先生とは露知らずに、すっかり甘えてしまいまして、申し訳無い事をしてしまいました。

 今はお忙しいので御座いましょう?」


 みそのを自身番まで運び、弘治と老人が改めて自己紹介をしていた。

 老人はなんと、鎌倉河岸にある『豊島屋』の隠居であったのだ。

 先代の豊島屋十右衛門と言う訳だ。

 隠居した今は、酔庵すいあんと名乗っているらしい。

 長年酒屋を切り回した末で酔庵である。なんとも惚けた名前をつけたものだ。


「さすが豊島屋さんですね。色々こちらの内情をご存知の様で?」


「いえ、私はもう隠居して随分と経ちますから、情報には疎いので御座いますよ。

 ただ、そんな私にも先生の話が入って来るのですから、それだけ話題になっている、と言う事で御座いましょう?」


「今の私は大岡様の足下を右往左往しているだけでして、大岡様が孤軍奮闘なされているのを、指をくわえて見ている様な物ですよ。

 私などはどうと言う事ではありません」


 今、町奉行の大岡は養生所設置に向け、忙しく駆け回っている。

 そして、その大岡の大車輪の活躍もあり、準備は着々と進み、今や養生所の開設も目前に迫っていた。

 しかし、困窮した庶民を無償で受け入れると言うのが、この度の養生所の設置趣旨なのだが、江戸の庶民はと言うと、


「どうせ新しい薬種の効果を貧乏人の俺たちで試すのにちげぇ《ね》ぇ」

「ただよりこえぇもんはぇやな、俺は死んでも行くもんかぃ」

「そうさ、どうせ殺されに行くだけだよぅ」


 などと、養生所設置に対し懐疑的な意見が多く、町人達からの理解が進んでいないのが実情だった。

 幕府としては、少なからぬ資金を投入して設置する為、養生所を設置したは良いが、人が入らないでは済まされない。

 一任された大岡としても、吉宗からの肝入りなだけに必ず成功させねばならぬのだ。

 大岡は養生所開設目前の今になって、江戸庶民の養生所に対する誤解や、その理解の普及に頭を悩ませていたのだった。


「とは言っても、大岡様が忙しく立ち回っていらっしゃるのに、私が油を売っていて良い訳はありません。

 みそのさんも大した事は無さそうですし、私はそろそろお暇してお役目に戻ります」


 弘治はそう言って腰を上げると、奥に寝かされたみそのの元へ近づく。


「ではみそのさん、私はそろそろ行きますので、みそのさんは暫くここで休ませてもらってください。

 私の方で永岡様に繋ぎをつけておきますので、永岡様を待って帰るのも手ですよ?

 なので、痛みはじきに引くと思いますが、無理をせずにゆっくり休んでいてくださいね?」


「ありがとうございます…。

 でも永岡の旦那はお忙しいですし、私は大丈夫ですから、何もわざわざ知らせて頂かなくてもいいですよ…」


 みそのは横になったまま、顔だけ弘治に向けて応える。

 じきに痛みが引くと言われたが、未だ未だ身体が痛む様だ。

 この状態を見ると、弘治への言葉も強がりに聞こえる。


「とにかく、繋ぎだけはつけておきますから、みそのさんは暫くここで休む事です。

 良いですね?」


 みそのの言葉に苦笑した弘治は、窘める様にもう一度みそのへ声をかける。


「先生、みそのさんの事は私がついて見ていますし、帰りも私がお送りしますから、先生は案ずる事なく、お役目にお戻りください。

 なんだったら、その永岡様と言うお方への繋ぎも、私に任せてください」


「いや、それでは…」


「なに、どうせ私は暇を持て余しているので御座います。それに、繋ぎは手の空いてる幸吉に行かせますから、遠慮する事は御座いませんよ?」


「悪いですよそんな…。

 私は本当に大丈夫なんですよ?

 お二人ともそこまでして頂かなくても、私はなんとかなりますから、どうかお気になさらずにお願いします…」


 二人の会話を聞いていたみそのが口を挟むが、相変わらず横になって顔だけこちらへ向けて話すみその。

 その言は大いに説得力に欠ける。

 みそのの言葉を聞いた二人は、


「では酔庵様、みそのさんをお願いしても宜しいでしょうか?」


「勿論ですとも先生!」


 と、同じ様に苦笑を浮かべながら顔を見合わせ、何処か芝居掛かった物言いで言い合う。

 そして、どちらからとも無く笑いが起こるのであった。



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