第十話 道情心
「へぇー、剣術道場って言っても色々あるのねぇ?」
「ええ、野天でも道場って言ってしまえば、道場ですからね?
そう言う事ですので、一概にこうとは言え無いと思います。
まあ、誰もが想像する道場と言えばと言う、一般的な道場の形はありますがね?」
「私が通っている道場なんかは、その一般的な道場なんですかね?」
今まではみそのがあれこれと質問し、それに順太郎が答える形で話をしていたが、やっとお百合も話に加わって来た様だ。
みそのとお百合は、順太郎の長屋を再び訪れている。
これは永岡が町廻りの間隙を縫い、順太郎の技量を確かめに訪れる旨を伝えるのが目的だったが、行き掛けにお百合に声をかけたところ、案の定お百合も同行を願ったのだった。
「申し訳ありません。お百合さんの通われている道場を存じあげないもので、何とも言えないです。
ただ、門人も多く居る様ですし、恙無く運営されているのですから、間違い無く立派な道場だと言えますよ?」
恙無く道場を運営する。
順太郎は、その一事だけでも尊敬に値すると考えている。
父親の道場の破綻を見て来ただけあり、特に感慨深いのだろう。
「まあしかし、永岡様に私の腕を見て頂くのは良いとして、私が道場を開くと言うのは、やはり早計では無いかと思いますが?」
「そんな事を仰ってましたら、お百合さんといつまでも一緒になれないじゃないですか?
お百合さんがかわいそうよ!」
順太郎の至極真っ当な意見に、みそのは利己的な意見を返す。
これには順太郎も苦笑するばかりで、返す言葉が無いらしい。
「とにかく、未だ他に方法が有るかも知れませんが、この事は真剣に考えてくださいね?」
「ええ、それは勿論の事なのですが…」
みそのの言葉に順太郎は歯切れ悪く応える。やはり自分の将来の事が、自分不在で決められつつある事態に、少なからぬ戸惑いがあるのだろう。
「順太郎さんも何か良い方法を考えて頂き、私達に意見を聞かせてくださいね?」
「はぁ…」
「順太郎さん!」
順太郎の冴えない返事に、みそのが咎める様な強い口調で順太郎を呼ぶ。
「はい」
今度は背筋を伸ばして居住まいを正した順太郎が、みそのへ目を真っ直ぐ向けて厳かに応えた。
「はい、分かっております」
順太郎が元の穏和な声に戻して、もう一度返事をする。
「私はお百合さんを好いております。
恥ずかしい話ですが、これは昨日みそのさんや父上に言われまして、自分でもはっきりと理解した次第です。
ですが、未だその事と道場云々の将来の事とを、繋げて考えられないので御座います。
私は今まで剣術の事しか考えておりませんでした。将来の事に関しましても、今は父上に教授して頂き、己の剣を磨き、何れは武者修行にでも出て、その先々で剣を磨いた末、自分が腰を落ち着けられそうなところに、自然に落ち着くのだと、本当にその様な漠然とした、ふわふわしたものだったのです。
今考えますと、その時々の今しか見えていなかったのでしょう。
しかし、これからは先の事や周りの人、それらを剣と繋げて考えなければならりませぬ。それは理解しておるので御座いますが、今申し上げました様に、今までは剣を如何にして高みに向かわせるかしか、考えて来なかった未熟者に御座います。
誠に不徳の致すところで御座いますれば、暫し考える時間を頂きたいので御座います」
順太郎がみそのとお百合に深々と頭を下げる。
「い、いや、そんな頭を上げてください。
順太郎さんが頭を下げるのはおかしいですよ。
大事な事を勝手に進めてしまっていたのは、私の方なんです。
私の方こそ、順太郎さんの気持ちを蔑ろにしていた様です。ごめんなさい」
みそのも深々と頭を下げると、それに続く様に、隣に座っていたお百合も頭を下げた。
お百合は話の冒頭で順太郎から好きだと言われ、顔を真っ赤に紅潮させている。
「おやおや。また何やら賑やかでしめやかな事態になっておりますな?」
三人が三人、同様に頭を下げているところへ、代書仕事の風呂敷を下げた周一郎が帰って来た。
今日はそのまま出て行く事無く、和かに笑みを浮かべながら部屋へ入って来た。
「父上、どうされたのですか?」
順太郎が頭を上げて周一郎に問いかける。
「いやな。相手先様へ着いてから気がついたのじゃが、肝心の納品する品を忘れておったのよ。
それで慌てて引き返して来たという訳じゃ」
周一郎がバツが悪そうに頭を掻きながら応える。
照れ隠しなのか、みそのとお百合へ目をまん丸く見開き戯けて見せる。
周一郎によって硬かった空気が和み、みそのとお百合は顔を見合わせてクスクスと笑った。
「そう言う訳じゃで順太郎、そこの風呂敷とこれを交換しておくれ」
周一郎は手持ちの風呂敷を翳して順太郎に頼んだ。
どうやら周一郎は、風呂敷を取り違えていたらしい。
ここでもまたみそのとお百合は、堪らずにクスクスと笑うのであった。
「それでは、行って来る」
わざと厳かに言って、胸を張って出て行く周一郎に、みそのもお百合も今度はケラケラと声を上げて笑った。
「父上はあの様に、意外と抜けたところが有るので御座いますよ…」
順太郎は困り顔で説明する。
「昨日も思ったのですが、中西様って、なんか放って置けない感じがありますよね?
きっと強そうに見えるのに、誠実な感じで、ああ言ったところが有るからなんでしょうね?」
みそのはクスクスと笑いを残しながらも、周一郎へ感じていた物が腑に落ちた様で、思わずその思いを順太郎に伝えた。
「良くその様な事を父上の知り合いの方が言っていましたよ。ついつい面倒を見たくなるらしいです」
「そうですよ、それですよ。ふふふ」
やはり他の人も同じ様に思うのだと、みそのは可笑しくなるのだった。
「ではお百合さん、私達もそろそろお暇しましょ?」
「え? は、はい…」
みそのは先ほど順太郎が言っていた事を踏まえ、一人で考える時間が取れる様、早々に帰る事にしたのだった。
お百合は少々後ろ髪を引かれている様だが、みそのは否応無しに目顔で認めさせる。
「では順太郎さん、もし永岡の旦那が来たら、こてんぱんにやっつけちゃってくださいね?」
「いえいえ。それは…しょ、少々…」
みそのの軽口に、真面目に返そうとした順太郎は、あたふたと口をもごつかせる。
「また来ます、順太郎さん」
「はい、お待ちしております」
お百合が少し熱のこもった目で別れを告げると、順太郎はその目に応える様に、しっかりとお百合の目を据えながら返事をするのだった。
*
「それに、北忠の旦那にゃ気をつけろよ?
ああ見えて強かに自分を通して来やがるかんな?
こっちがしっかりと手綱を握ってねえと、どっか行っちまって何するか分かんねぇぜ?」
「へい、気をつけやす。松次兄ぃも居やすんで、大丈夫だとは思いやす。へぇ」
両国の番屋前で、伸哉と翔太がコソコソと話しをしている。
二人の直ぐ近くでは、広太と留吉、松次の三人が、何やら談笑している姿も見られる。
この五人は朝一から昨日の聞き込みの続きをし、頃合いを見てこの番屋前へ集まって来たのだ。
もうじき此処へは、奉行所から永岡と智蔵、それに北忠が来る事になっている。
伸哉は昨日の内に決められた人割で、北忠と松次と一緒の組になった翔太へ、同心の旦那と先輩手下への接し方を説いていたのだった。
伸哉は昨日痛い目に遭ったばかりなので、尚更熱が入っている。
「あいつぁダメだ。松次は北忠の旦那を手懐けてると思い込んでやがる。
そいつが落とし穴ってヤツでぇ。だっから今、お前に言い聞かせてるんじゃねぇかぇ。
いざって時ゃお前頼りになるかも知れねえんだぜ?」
「なんでやすかぇ、いざって時ってぇのは?」
「いや、そいつぁ俺にも分からねぇや。
ただ、いざって時ゃ北忠の旦那だろうが松次だろうが、お前が手綱を引くんだぜ?」
「な、なんか難しい話しでやんすねぇ?」
「馬鹿、難しいとか言ってんじゃねぇやい。
お前が普通に、危ねぇとか違うんじゃねぇかとか思ったら、それをやめさせるだけの話しよ。いいな、抜かるんじゃあねぇぜ?」
「へい、合点でぇ!」
「何を合点したんだぇ?」
「ひゃっ」
急に耳元で声がしたので、翔太が悲鳴を上げる。
いつの間にか、当の北忠が直ぐ後ろまで近づいていた様だ。
「いえ、今日は北山の旦那に迷惑をかけねぇで、しっかり努めろってぇ気合えを入れてたんでさぁ」
伸哉は何とか北忠に言い繕って返す。
「ふうぅん、そうかぇ。そりゃ有難い事だねぇ。そうしたら、翔太にも付け汁を馳走しなきゃいけないねぇ?」
北忠が細い目を更に細めてニタっと笑う。
「いや、あっしには未だ早ぇんじゃござんせんかねぇ…」
翔太が何か嫌な予感を感じて、怯え気味に北忠に返す。
「そんな事ないさぁ。翔太には頑張ってもらって、楽しぃく町廻りが出来たら…ねえ?
うふふ、翔太だって付け汁も夢ではないのだよう?」
「へ、へぃ。励まさせていただきやす、へぇ」
「そんじゃいいかぇ、皆んな?!」
恐々と翔太が北忠に応えた時、永岡が皆の注目を集める様に声をかけた。
「昨日の手配り通り、オイラと智蔵は本所方面、忠吾達ぁ下谷方面、広太達ゃちっとばかし遠いいが芝方面でぇ。
オイラと智蔵が一番近ぇとこで悪りぃんだが、それぞれ宜しく頼まぁ」
「へい」「合点でぇ」「へい」「はい、承知しました」
永岡の声にそれぞれが応えて、人集りが三組に別れた。
今日は朝一のみで両国の聞き込みは切り上げ、儀兵衛から仕入れた情報の調べに当たる事になっていた。
仕入れた情報と言うのは、泥沼の加平の盗みに加担したとされる素人の情報だ。
泥沼の加平が儀兵衛に語っていた者の中で、儀兵衛が挙げたのが五人だった。どれも名前や所在があやふやな物が多く、特定して絞れるほどの情報量では無い。
加平も儀兵衛を信頼しているとは言え、そこまで深く話してはいなかったのだ。
しかし、儀兵衛は加平の話に出て来る頻度、その内容の好感度から、五人の候補を挙げていた。
儀兵衛も加平の話を繋ぎ合わせて、それを儀兵衛なりに整理した形なので、永岡には不完全な情報を詫びていた。
ただし永岡にとっては、全く何も無いところからの探索に比べ、地域やその者の愛称、生業を聞けただけでも収穫だった。
そんな訳で、何処何処界隈の何々をやっている男だとか、「亀さん」などの愛称だったりを元に、これから調べに当たるのだ。
「んじゃあ智蔵、オイラ達も行くとするかぇ?」
「へい旦那」
永岡は北忠と松次に翔太、そして広太と留吉に伸哉達が、それぞれ目的地へ歩き出したのを見送ると、智蔵に声をかけて自らも探索へと歩き出したのだった。
*
「お帰りなせぇ、お嬢!
何か御用がごぜぇやしたら、あっしらに何でも言いつけてくだせぇ」
みそのとお百合が弁天一家へ帰って来ると、正吉が若い衆二人と玄関前で駄弁っていた。
正吉は昨日の事もあってか、恐縮しながら声をかけて来る。
「ああ、正吉かぃ。ただ今戻ったよ。
私の事はいいから、お勤めに精を出すんだよ?
あ、お茶だけは部屋へ運んでちょうだいな?」
昨日とは打って変わり、すこぶるご機嫌なお百合。
正吉はどやされるだろうとの予想も外れ、訳を聞きたげにみそのをチラリと見て来る。
すっかり肩透かしにあい、首を傾げながら目を丸くしている。
「じゃあ、みそのさん。部屋でお茶でも飲みましょ?」
お百合はみそのにも声をかけて、家の中へと入って行った。
未だに首を傾げている正吉に、みそのは肩を竦めて笑う。
みそのの笑いは、
『何てったってお百合さんは、好きな人から好きって言われたのよ! そんなの当然でしょ?』
と、心の内で盛大に言っての笑いだ。
それが答えとばかりに、みそのは笑みだけ残してお百合に続く。
そんなみそのを目で追いながら、正吉は首を傾げながらぽっかり口を開けていた。
*
「じゃあ、私はちょいと散歩がてら道場の偵察へ行くわね?」
「何かすみません、みそのさんにそんな事までさせちゃって…」
「いいのよ、帰りがけなんだし。それに好きでやってるんだしね?
ああ、そうそう。伝七親分さんとは入れ違いになってばかりだから、次は約束してからにしないとね?」
「本当に何から何まで甘えちゃってごめんなさい…」
「だからいいのよぅ。それより伝七親分さんの都合、聞いといてね?」
「はい、決まったら正吉を走らせます」
「いいわよ、そんなぁ。
どうせまた明日来る事になると思うし、きっと伝七親分さんの都合だって、分かるのは早くったって明日以降よ?
なので、正吉さんを酷使しないようにね!?」
見送りに出て来たお百合とあれこれ話していたみそのは、最後に正吉の扱い方に釘を刺して歩き出した。
みそのはお百合の部屋でお茶を喫し、長居する事なく帰る事にしたのだ。
元々今日は江戸の剣術道場を見て回ろうと、昨日から決めていたのだった。
しかし、お百合が今回の件を伝七へ話すに当たり、みそのも同席して欲しいと請われていたので、もしも伝七が居る様であれば、話しをする事になっていた。
みその贔屓の伝七なだけに、お百合はみそのの力を借りたかったのだ。
ただ、ここのところ伝七は不在が多く、今日も寄合に出かけ、未だ外出から戻らないと言う。
伝七もみそのに会いたがっている様なのだが、中々そう都合良く事が運ばないのだった。
お百合は道場の件にせよ、父親の伝七の件にせよ、みそのには何から何まで世話になっているので、今も恐縮しきりで、みそのを見送ったのだった。
「あ、お加奈さんのところへも顔出さなきゃだわ」
そもそもみそのは、両国の古着屋『丸甚』のお加奈を訪ねる途中、偶然正吉と再会したのだ。
そして、そのまま今回の件に関わる様になった為、元々の目的であったお加奈への訪いは未だに叶っていないのだ。
みそのは歩きながらその事に思い当たり、思わず声に出てしまった様だ。
思い当たって口に出したみそのは、益々お加奈に会いたくなってしまう。
「先に丸甚へ行こっ…」
と、みそのが口にしかけた時、重く激しい衝撃が背後からみそのを襲った。
みそのは悲鳴すら上げられず、次の瞬間には勢い良く前方へ吹き飛ばされていた。




