第九話 伝わらない思い
プシュ
部屋に恋しい音が響き渡り、希美の顔は自然にニヤケてしまう。
コクコク、コクコクコクとビールをグラスに注ぎ、 盛大に立った白い泡を見ながら考える。
「しかし、剣術道場って儲かるのかしら…」
希美は嬉しそうに真っ白い泡を見ながら独り言ちる。
「明日にでも江戸の道場へ偵察に行って来ようかしらね…」
少しずつ目減りして来た泡を見ながら、また独り言ちる希美。
「道場専用の物件とかってあるのかなぁ…」
希美は先ず道場を開くと言えば物件だろうと、お百合に大口叩いた手前、先行投資の費用が心配になって来ているのだった。
そんな事を考えながら、今度はゆっくりとグラスの縁から、優しく泡の下にビールを注ぎ入れる。
グラスからこんもりと白い帽子が覗いたのを見て、ニンマリと蕩けた笑みを浮かべる希美。
「広さってどの位必要なんだろう?
一度順太郎さんにも聞いといた方がいいわね…」
相変わらず、当の順太郎不在で先行しているのだから、当然の事ながら順太郎に相談すべきである。
希美はそんな当たり前の事を独り言ちる。
「それにしてもお百合さん、キラキラしてたわよねぇー。
やっぱり恋の力は偉大だわぁ…」
照れ臭そうに、そして嬉しそうに笑うお百合を思い出し、希美は自分まで幸せな気分になって来る。
そんな幸せな気分を実際に味わう為に、希美は最後にまたグラスの縁から、泡を崩さない様に丁寧にビールを注ぎ入れ、満面の笑みで至福の時の準備を終えた。
ゴクリと希美の喉が鳴る。
「ではお先に失礼しまーす」
今時分、永岡達が『豆藤』に着くか着かない頃合だろう。
そう考えての永岡に対する配慮の言葉を吐くと、希美は綺麗に泡立つ琥珀色のグラスを傾けた。
「うわー。今日は歩いたからまた格別だわぁー。
あんたはホント凄いわねっ!」
目を丸くして感嘆する希美。ほぼ毎日行われる行事だ。
「それにしても、周一郎さんは大変だったんだなぁ…」
希美は独り言ちると、もう一度コクコクと喉を鳴らしてビールを飲み、今日の順太郎の話に想いを馳せた。
今日順太郎を訪ね、周一郎から剣術家の条件を聞き出した時、周一郎は、
「父親でも果たせていない事を息子に強要するのは、如何ともし難いのですがな…。
そんな情け無い親で御座るが、順太郎には、それだけの剣の才を見ているので御座る。
ふふ、情け無い上に親馬鹿でも御座ったな」
と、卑下た様に語り、苦笑いしたのだった。
その際に周一郎の名誉の為と、順太郎から出た話があった。
順太郎が語るには、実は周一郎は五年ほど前まで、自分の道場を開いていたと言うのだ。
周一郎は小野派一刀流で学び剣術を修めた、一刀流免許皆伝の腕前なのだと言う。
周一郎は普段こそ穏和な性格をしているのだが、小野派一刀流で学んだだけあり、一度木刀を握ると、龍虎の様に荒々しい剣を使うのだった。
その腕前は小野道場でも誰もが知るところで、自分の道場を開くに当たって、僅かばかりだが門人が付いて来るなど、その腕には定評があった。
しかし、普段の周一郎からは想像も出来ない様な荒稽古の為、門人はそう増える事はなかったのだ。
周一郎の剣の腕の噂を聞きつけ、入門して来る者も少なからず居たのだが、それに負けず劣らず、荒稽古に付いて行けずに辞めて行く者も多かったのだ。
それでも周一郎を慕う門人達も多く、束脩も手頃だった事から、細々ながら道場運営は成されていたのだった。
それが順太郎が十歳になった年、事件が起こったのだ。
ある旗本の次男坊が、剣で身を立てる為に入門して来たのだ。
剣で身を立てると言っても、それは入門時に親が言った口実であって、本人にはその気が無い。
本心は剣術道場に通っていると言う、既成事実の為であり、有力旗本として何処ぞへと養子へ送り込む為の、形ばかりのものだったのだ。
実情は、他の有名道場で尽く破門させられた挙句、そうして盥廻しにされた道場も尽き、周一郎の道場に白羽の矢が立った訳だ。
この男、幾つもの道場を破門させられただけあり、稽古にやる気が無いだけでは無く、町場の破落戸並みに素行も悪かった。
平素穏和で生真面目な性格の周一郎としては、何とか更生させたいとの思いに至るのが自然の流れ。
しかし、一度木刀を握れば龍虎の如く荒々しい剣を使う周一郎だ。
故に稽古で更生させるには、少々どころか、かなり荒っぽい事になってしまったのだ。
結局は荒稽古が災いして、その次男坊の腕を折ってしまったのだ。
それが道場閉門への狼煙になった。
息子の身体に傷を付けられたと、その親が様々な嫌がらせをして、道場を潰しにかかったのだ。
有力旗本なだけありその効果は絶大で、忽ち門人も減って行き、急激に道場運営が厳しくなって行ったのだ。
それでもなんとか堪え、細々ながら道場を続けていたのだが、その旗本も執拗に潰すまでは諦めない。
結局三年ばかり持ち堪えたのだが、度重なる嫌がらせによる心労と、困窮による栄養不足で妻が倒れ、それから三月ほどで亡くなってしまった。
周一郎はそれを機に、道場を畳んだのだった。
その後は順太郎と二人、流浪の民として暮らし、その土地土地で見つけた道場の師範などをしながら、なんとか口に糊して生きて来たのだ。
師範などと言っても、やはり一度木刀を握ると、荒々しい龍虎と化する周一郎だ。長続きする訳もない。
それからは順太郎との生活の為、順太郎に稽古をつける以外は木刀を握る事なく、周一郎は剣とは関わりのない、人足仕事などの仕事をしていたのだった。
「なんとかしてあげたいんだけどなぁ…」
物思いに耽っていた希美は、ぽつりと独り言ちると、残りのビールを大事そうに飲み干すのだった。
*
「そのやっとうの兄ちゃんは、いつでもいいってこったな?
まあ、ちゃっちゃか棒振って、やっとう兄ちゃんの腕前見りゃいいんだろ?
そんなりゃお前が居ねぇ時でも構わねぇな?」
「ええ、まあそう言う事になりますね…」
「ならオイラが空いた時にさっと行って来ちまうから、お前はわざわざ行く事ぁねぇや。
腕前の方は、後でお前にちゃあんと伝えっから心配すんねぇ」
みそのは少しがっかりしながら永岡の話を聞いている。
今し方永岡が奉行所へ出仕する前に、昨日の順太郎の腕試しの話を覚えていて、その話しを聞きに寄ってくれたのだった。
みそのとしては、昼間堂々と永岡と一緒にいれると思っていただけに、永岡の言葉はちっとばかし肩透かしだった。
一つ楽しみが減ってしまった心持ちなのだ。
「ところでお前、昨夜はあんな遅くまで何処へ行ってやがったんでぇ?」
「はへっ?」
みそのは朝から酷い喪失感を覚え、すっかり沈んでいたところに思ってもみない事を問われ、奇妙な声をあげてしまう。
「なんつー声出してやがんでぇ。
昨夜お前が居なかったから、出仕の前にわざわざ寄る羽目になったんだぜ?
それに昨日は、まぁ、あれだ……とにかく、急に役宅へ帰る羽目になったんでぇ、オイラの都合もちったぁ考えろぃ」
どうやら永岡は、みそのが東京で至福の時を過ごしていた時に、みそのの仕舞屋を訪れていた様だ。
そして、実は昨夜はそのまま、みそのの家に泊まる約束になっていたのだ。
永岡は仕事で外泊すると母親に言付けていたので、急遽夜遅く帰って来た永岡に気づいた母親は、お務めに障りがあったと勘違いして、息子を心底心配したのだった。
永岡もそんな母親を宥める一幕があり、疲れて帰った上に余計な仕事も増え、大いに閉口したのだ 。
みそのはみそので、永岡が泊まりに来る事は弁えていたので、ビールも一本にとどめ、東京に長居する事なく江戸に戻っていたのだが、待てども待てども永岡は来ず、歩き疲れにビールのほろ酔いが効いたのか、うとうとし出し、終いには朝までそのまま寝てしまったのだった。
永岡の事だから忘れてしまったか、何やら探索が進展して、急遽来られなくなったかしたのだろうと、早朝に目覚めた時に永岡の姿が無かったので、みそのはその様に思ったものだった。
「ご、ごめんなさい…」
「まあ、いいんだけどな…」
みそのが素直に謝ると、永岡も言い過ぎたと思ったのか声を和らげる。
「ちょっとお酒飲んだら眠くなって…寝ちゃってたみたいなの…」
「はっ、どうせそんなこったろうとは思ってたぜ…」
みそのの言葉に永岡は鼻で笑って応える。
しかし、もう口調はのんびりとした物に戻っていた。
「んじゃあオイラは行くぜ」
「こ、今夜は?…」
永岡が踵を返そうとした時、みそのが予定を聞く為に呼び止める。
夜の予定なだけにみそのは顔を赤らめている。
「泊まってくかってぇ事かぇ?」
「………」
みそのの仄かに赤らめた顔で察したのか、永岡は照れ隠しの様に戯けた口調で聞き返す。
しかし、いつもの様に戯けた永岡に軽口で返せず、みそのは黙って下を向いてしまう。
「まあ、今日棒振りに行ったら、やっとうの兄ちゃんの報告すんだろうし、いずれにしても寄らしてもらわぁ。
まあ、お前が酒かっくらって、大いびきで寝てなきゃだけどな?」
「もお…」
今朝は昨日と違い、永岡に軍配が上がった様だ。
「んじゃあ散歩にでも行ってくらぁ!」
みそのをやり込めた感に満足したのか、永岡は昨日のみそのを揶揄する様に、景気良く軽口を残して出て行った。
「もぉ…」
みそのは恨めしそうに呟くも、その目は微かに笑っている。
その黒いみそのの瞳には、キラキラと朝日を浴びる永岡の背中が映っている。
「昨日来やがれってぇんでぇー!」
みそのは思わずその背中に啖呵を吐くのだった。
「あっはー。みそのちゃん、それ言うんなら、一昨日来やがれー! よぉーう?
あはははははー。昨日来てどうすんのよぅ。あぁ、そうかいそうかい。みそのちゃんは一日でも早く永岡の旦那とアレしたいから、喧嘩しても控え目になっちまうんだねぇー。あはははは」
偶々通りかかって聞いていたのだろう。お菊がみそのの言い回しに突っ込みを入れ、更に変に勘ぐった解釈を入れて大笑いしている。
「いえ、お菊さん、そんなアレとかじゃないですから…」
「いーのよぉう? 永岡の旦那は凄そうだもんねぇえ?
まあ、いつかは根掘り葉掘り聞くからねぇ、みそのちゃん。
伊達にあたしゃお菊って名乗ってる訳じゃないんだからねぇ?
何があっても聞き出すってぇ付けられた名前なんだい。覚悟しときっ!!
うふふふ、今から楽しみでな…」
「ちょいとお菊さん、朝っぱらから馬鹿でかい声出して何やってんだい。馬鹿でかいのは図体だけにしておきっ!」
「そうだよお菊さん。しかもお菊の菊は花の菊で耳で聞く聞くじゃないからね?
本当こんなでっかい菊は菊に失礼だけどね? あっははははは」
「ちょいと酷いじゃないかい、あんた達っ!
あたしゃこれでも子供産む前は、立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花ってなもんで、菊の花どころの騒ぎじゃなかったんだぃ!
冗談じゃないよ、全く。冗談はあんたらの顔だけにしろってんだぃ!」
「あははははーっ、あたしゃ何言ってんだか分かんなかったんだけど、今の聞いたお若さん?」
「立てばつき臼座ればぼた餅、歩く姿は鏡餅ってやつだろぅ?
なんだか美味そうだけど、食い意地が張ってるみたいで言われたくないやねぇ? ひゃはははははー」
お菊の声を聞きつけた裏店のおかみさん仲間、お静とお若がやって来て、みそのに捲し立てていたお菊の肩を掴むと、みそのを援護をするかの如く、二人でお菊を揶揄い出したのだった。もう大騒ぎだ。
「あのぅ…」
目の前で井戸端会議が始まり、置いてけぼりのみそのが所在無さげに呟く。
「へっ、あんたらは昔のあたしを知らないから笑ってられるのさぁ。
あん時のあたしだったら、あんたらなんかは畏れ多くて、話しかける事すら出来なかっただろうねぇ? へぇーんだ」
「何がへぇーんだよ。変なのはあんたの顔だろうが、馬鹿だねこの人は。あははははー」
「あん時のあんたなんて、亭主を見りゃ底が知れるってのが分かんないのかねぇ?
本当に馬鹿だよこの人は。あっははははー」
やんややんやで馬鹿笑いの三人だ。
暫くは続きそうだと覚悟を決め、硬い笑いで追従するみそのであった。
*
「おぅ、待たせちまったな?」
控え所から飛び出して来た智蔵に気づいた永岡が、開口一番で遅れた詫びを入れる。
「いえ、なんでもねぇでさぁ。でも、一体どうしたんでやすかぇ?」
「いや、お奉行に呼ばれちまって、ちっと刻を食っちまったんでぇ」
「大岡様はなんと?」
「いや、例の養生所の話でぇ」
「ああ、弘次、いけねっ。小川先生でやしたね?
へへ、未だあっしも慣れやせんで」
「そうだな。でもオイラ達ぁ弘次でもいいんじゃねぇかぇ?」
「そうもいきやせんや旦那。なんせ、将軍様と大岡様の肝入りでやすからねぇ。
今や小川先生はお偉い先生でごぜぇやすよ?」
「ふふ、まあそうだな。オイラもお奉行から声が掛かった時ゃあ驚ぇたぜ。
しっかし、弘次が腕のいい蘭医だって、どっから仕入れやがったんだかなぁ?
ったく、お奉行の千里眼は恐ろしいぜ」
「へい、全くでぇ」
「待ってくださいよ、永岡さーん」
「ちっ」
永岡と智蔵が話しているところに、北忠こと北山忠吾が間の抜けた声を上げてやって来た。
瞬時に日課となった永岡の舌打ちが聞こえる。
「お前はオイラがお奉行と話してる間、一体なにやってやがったんでぇ!
クソみてぇに時間があっただろうが、遅れねぇ様に準備くれぇ出来るだろうがよ!」
「いやぁ、永岡さんは千里眼の持ち主なのですねぇ〜。これはこれはお見それ致しました」
「なに言ってんだお前は? ったく」
「いや、昨日、思いの外食べ過ぎてしまいましてね。ちゃんと役宅出る前に出して来たのですが、昨日の分を予想以上に蓄えてたのでしょうねぇ。永岡さんがお奉行様とお話しになっている間に、またキュルキュルと催してしまいまして、はい。厠に行ったは良いのですが、これがなかなかどうして出るわ出るわで、厠から出られなかったんですよ。役宅出る前にうんと出して来たと言うのにですよ? 『中の者、未だ終わらぬのか?』と木戸様の声がしまして、流石の私も焦ってしまったのですが、これが便意と言うのは面白いもので、焦りとは裏腹にどっしりと山の如しでしてね。木戸様にせっつかれつつ、そんな便意に感心しておりましたら、信玄公も厠で色々な作戦を練られていたのか、なんて考えていましてね? これは町の安寧を維持するのが仕事の私も、町の安寧の為に何をすれば良いのかなんて、考えていましたら、これが面白い事に色々考えが浮かんでくるもので、流石は信玄公、とまたまたそこで感心する始末でして、これは厠と言う物が、何か崇高な力の源になっているではと思ったので御座いますよ。ならば、厠を沢山作った部屋を用意しまして、そこで会議なんかをしてみたら、次々に妙案が彼方此方から飛び出して来て、存外捗るのではないかなどと考えまして、今度お奉行にでも進言してみようかと、いや、この進言は信玄公にかかっていませんからね? そんな松次の様な駄洒落は私は…あれ? 永岡さん?…」
北忠の話しが長話しになると見越した永岡は、智蔵と二人で既に歩き出していた。
「永岡さーん! 親分さんもー! ちょっと置いてかないでくださいよーぅ!」
北忠は小さくなった二人の背中を見つけ、ちょこまかと小走りで追うのであった。