息子の自殺で、私は変わった
私には、三人の子供がいた。
二〇一一年五月。次男が、自ら命を捨てた。享年二十歳。
次男の告別式、夫は、酒を飲み、まともに挨拶もできない。「最後ぐらい、きちんと父親らしくして。」と言ったが、「だらしない父親でいいだ。」と返された。
私は、涙が止まらなかった。長男は、「親より先に死ぬやつのために、泣かんから。」と言った。
長女は、涙したものの、取り乱すこともなく
「(次男が、自ら命を絶ったことに関して)それも(次男にとっては)良かったのかもしれない。」
と言っていた。
次男の中学での卒業式。卒業証書授与。次男の名前を呼ばれたが、返事は、聞こえなかった。
卒業アルバムを見た。個人写真は、かろうじて微笑んでいるように見える。だが、その他の写真は、そっぽを向いていたり、後ろの方で、人の陰に隠れるように写っている。
次男が、中学二年になったある日のことだ。
玄関のチャイムが、鳴った。出てみると、次男の学年主任と担任の先生だった。挨拶もそこそこに、学年主任の先生が、
「お宅のお子さんは、いじめにあっています。」
と言うのだ。
――えっ、なに?
青天の霹靂とは、このことだ。中学一年のときには、担任の先生から「明るくて、みんなを笑わせる、クラスのムードメーカーです。」と言われたのに。思いもよらないことに、言葉を失った。同じ学年の何人かから、暴力を受けている、という内容だった。
名前も教えてくれた。初めて耳にする名前の中に、一人、小学校の同級生のMが入っていた。子供の通っていた小学校は、田舎にあり、一学年に一クラスで、三十名いるかいないかなのだ。Mの名前を聞いて、耳を疑った。
二学年上の長男が中学校在学中は、モデル校として、市内でも評判がとても良く、先生方の指導方針についての勉強会が、開催されるほどだった。先生方を信頼し、安心して、学校に送り出していた。世間では、中学校での「いじめ」や「暴力事件」が、問題になっていたが、それは、他人事として捉えていた。熱心で、良い先生方は、問題のある学校に、転勤になったそうだ。良くするのは、時間がかかるのに、悪くなるのは、すぐなんだ。
何人かから、殴られているなんて、本当だろうか。次男からは、そのような素振りは、見られない。次男の部活の顧問に、尋ねることにした。その先生は、長男の中学三年生の時の担任で、とても信頼でき、生徒の指導を一生懸命してくださる方だった。
「私も(次男が)殴られているところを、何回か、見たことがあります。その都度、注意してきたのですが。」
という返事だった。私は、それを聞いて、ハンマーで、頭を殴られたようだった。学年の違う先生が、何度も見たということは、いったい、どれだけ殴られているのか・・・。それをおくびにも出さず、悟られないようにしている次男、そして、先生に言われるまで、全く気付かず、能天気に、次男に、接していた私。なんということか。
次男の担任の先生に、「どうして、息子がいじめられているのか、原因が知りたい。」と言った。
「・・・息子さんは、皆に殴られても、逃げようとせず、じっとしている。一度、カウンセリングを受けてみてはいかがですか。」
私は、思わず感情的になって、
「カウンセリングが必要なのは、うちの息子ではなく、いじめている方ではないですか。」
強い口調で、担任の先生に、言い返してしまった。
先生の計らいで、Mから話を聞く機会を作っていただいた。
歩いて、十分もかからないところに住んでいるMと母親が、我が家に来た。
「なんでしたかねぇ。」
Mの母親は、笑顔で言った。話は、聞いているはずなのに。とぼけた態度に、腹が立った。なるべく、落ち着こうと努めた。
「先生から、何も聞いてないですか。」
「・・・・・・・・。」
母親では、話にならない。
「(次男を)殴った?」
Mに、直接訊ねた。
「うん。」
「どうして?」
「友達から、(次男が)ボクの悪口を言っとった、って聞いたから。」
「一人で殴ったの?」
「何人かで。」
「グーで? パーで?」
「グーで。」
「どのぐらい?」
「一日に、何回も。」
「一日に、何回も、何人かで、グーで殴ったってこと?」
「そう。」
「(次男に)M君の悪口を言ったのか、確認した?」
「してない。」
私は、居間にいた次男を呼んだ。
「M君の悪口言ったの?」
「言ってない。」
「M君は、(次男が)悪口言ってないのに、友達と一緒になって、グーで、何回も殴ったんだね。小学校から一緒のM君がやったってことが、とても悲しい。これからは、やめてね。」
「うん。」
Mは頷いてくれた。
親子が帰っていったあと、次男と話した。
「いじめられているの?」
「・・・母さんは、勘違いしてる。」
「どうにも辛かったら、転校したっていいんだよ。そんなことは、簡単なことだから。」
「そんなこと、絶対にしないで。」
このような状況にも関わらず、本人がいじめられていることを認めないとは、どういうことか。いろいろ考え、長男と、中学一年になる長女には、この事実を伝えないことにした。
思えば、制服の背中に泥がついていたことがあった。多感な年頃の男の子なんだから、そんなこともあるだろう、ぐらいに思っていた。
次男は、卓球部だった。掃除をしているときに、卓球台で、友人のラケットをつぶしてしまった、と言った。
ある時は、友人がラケットを無くしたので、新しいラケットを買った後、なぜか、無くなったはずのラケットが、次男のカバンから出てきたという事もあった。
私は、何の疑いもなく、自分の不注意で、人に迷惑をかけたんだから、弁償しないとね、とお金を渡した。競技用のものは、ラバーも含めると、二~三万円ぐらいする。次男から、その子の親に電話しないでね、と念を押された。そんなこと言われなくても、個人情報の問題で、電話番号がわからなくて、電話できないけれど。今思えば、おかしな話だ。
中学生になったのを機に、勝手に次男の部屋に入ったり、私物を見ることは、やめていた。が、いじめのことを聞いて、次男にわからないように、部屋に入り、見る事にした。そこの中学では、「日常生活の記録」というものを、毎日、提出しなければいけない。中二になったある日から、たったの一行しか、書かれていなかった。この冊子は、先生が、一言コメントを添えてくれる。もっと内容を増やすように、促していることがあった。しかし、一向に変わらなかった。その後も、やはり、一言だけの記録が続く。丸々一ページが破り取られた所もあった。そして、明らかに、他の人の筆跡で「先生、助けてください。」から始まって、七~八行の文章が見つかった。詳細は、覚えていない。あまりにもおかしいので、それを担任の先生に渡したら、そのまま戻ってこなくなってしまったからだ。教科書にも、落書きされていた。
私は、色々なことに、神経質になった。
運動会。クラス対抗で、皆が横に並び、背でつくった橋の上を、一人が、歩いて、ゴールを目指すという競技があった。次男は、その橋を渡っていく役になった。そして、橋の途中で、落ちて、足をくじいてしまったのだ。その時は、下になっていた生徒が、わざと、次男が足をついた瞬間に、背を縮めて、怪我をさせたのではないか、と疑ってしまった。
次男が、自転車通学停止になったことがある。友人から、「今日は、自転車あって良かったな。」と言われているのを、先生が聞き、徒歩通学のTが、次男の自転車を使用し、帰宅している事が発覚した。貸している側にも、責任が、あるということで、自転車で通学することを停止されてしまったのだ。通常ならば、一ヶ月の停止処分を、「二週間で良い。」と先生が計らってくださったが、「息子にも責任があって、『悪い。』と認めるのであれば、通常通り一ヶ月にしてください。」と頼んだ。
徒歩通学のTは、早めに登校して、掃除をするという処分になった。PTAで、その子のお母さんを知っていたので、電話をかけた。
「自転車で二十分ぐらいかかるのに、毎日、歩くの大変だよね。Tは、一日ぐらいそこまで送って行って、歩かせんといかんわ。」
と、Tの母は言っていたが、見かけたことは、なかった。
「学校のガラスを割ったから、弁償しないといけない。」と次男が請求書を持ってきた。以前なら、すぐに、お金を渡すところだが、学校に確認した。結局、Tに突き飛ばされて、次男が、ガラスにぶつかり、割れた、とのことだった。
担任の先生から、「お金は、私が出しますから、相手のお母さんに、電話しないでください。」と言われた。それも、おかしな話だ。
Kとは、小学校から仲が良く、中学でも、同じ卓球部に所属し、よく行動を共にしていた。次男は、三人の子供の中で、一番に家を出ていくのに、遅刻が、何回もあった。不思議に思い、次男に尋ねると、Kが二人乗りで、自転車通学停止になったから、それに付き合っていた、とのことだった。中学校の近くで、徒歩通学の子が、ふざけて、自転車の荷台に乗っているのを、見かけたことがある。迷惑な話だ、と聞いていた。
Kが「マンガを次男に貸したけれど、汚したから、弁償してほしい。」とか、「次男が、家に遊びに来たんだけど、物が無くなっている。」と言うようになった。ある時、Kから煙草の臭いがした。自販機で買っているのを見かけたことがあり、問いただすと「お母さんに、頼まれたから。」という返事だった。
小学校に通っていた頃、担任から「Kには、自傷行為があり、自分に向かっている攻撃性が、他人に向かう場合もあるから、付き合うのをやめたほうが良い。」と言われたことがあった。家庭環境のこともあり、同情していた。だから、あえて、次男には、そのことを伝えなかった。だが、いじめの問題やらなんやらで、私は、次男に「あまり友達関係に、とやかく言いたくないけど、Kとの付き合いを、やめたほうが良い。煙草を吸ったり、悪いことをしている子と一緒に居たら、何もしてなくても、やっていると思われるし、それは良いことではない。」と言った。それに、次男は、素直に従った。
中学三年生のクラス替えで、暴力を振るっていた子達とは、離れることができた。私は、ホッとしていた。新学年にもなるので、新しい上靴を持たせた。一週間ほどたった時、担任の先生から、連絡があった。上靴が、無くなった、とのことだった。新学期早々、靴下だけでいるのを、先生が見つけて、発覚した。あちこち探したり、声掛けもしてくださったそうだが、出てこなかった。ホッとしたのも束の間だった。次男に、学校内まで着いて行きたいぐらいだったが、それは、無理な話だ。
修学旅行では、「ご飯を食べなかった。」と担任の先生から、報告があった。本人に聞くと、「初日に、お腹が痛くなって、食べられなくなった。」ということだった。なにがあったかは、わからないが、とにかく、無事に帰ってきてくれて良かった。
Kが、学校内で爆発事件を起こした。誰かが作ったものを、学校の授業時間内に、下駄箱で、試してみたというのだ。Kが主犯とは思えなかったが、大きな問題となった。
合唱コンクールを見に行くと、明らかに、口パクだった。「声変わりの最中だから。」と言う。
余談になるが、合唱コンクールは、三年生にとって、中学生活最後のイベントで、お世話になった先生方に、歌と共に感謝の気持ちを伝える場となっていた。甥の中学の合唱コンクールは、とても感動的だった。長男のときには、聞いていて涙がこぼれた記憶がある。
それに比べて、次男の中三の時の合唱コンクールは、お粗末だった。Mが、学生服の前をはだけて、赤いシャツを見せ、チャラチャラと指揮をしていた。そして、おかしくもないダジャレを言い、軽口を叩いていた。一部の保護者は、周りの迷惑も考えず、観客席の一番前で、三脚を立て、ビデオを回している。自分のことしか考えていない。
次男が中二のとき担任だった先生が、学生たちに、頭をこずかれていた。学生たちは、先生を馬鹿にしたように、ケラケラ笑っている。当の先生は、下を向いて、じっと耐えていた。
おかしな学校だ。目にするもの全てに、腹が立ってしょうがなかった。
中二の事件以来、次男は、喋らなくなった。そして、笑わなくなった。理由を聞くと「喋ると良くないことが起きるから。」と言った。
次男は、高校三年間、無遅刻無欠席で、卒業式に、皆勤賞を頂いた。
高校進学時、知っている子が少ない方がよい、と思い、隣の県の公立高校を受験した。ところが、合格発表のときに、愕然とした。同じ中学から、次男を含め男子三人が、合格したのだが、なんと、その中に、Mがいたのだ。そして、残りの一人は、Kの友人のSだった。
MとSは、中三の時に、同じクラスで仲良くしていた。同じ中学から、誰が受験するのかを聞けばよかった、と非常に後悔した。
その高校は、進学校というより、就職率一〇〇%で、県下でも評判が高く、校則に厳しい学校なのだ。私は、三人揃って、卒業式を迎えることができるだろうか、と入学説明会で思った。
入学式、在校生に、私語は、一切無く、粛々と進んだ。生徒たちは、パイプ椅子に座っているのだが、先生の「起立。」の声に、全生徒が、音もなく立ち上がった姿は、圧巻だった。音を立てずに立ち上がるよう、徹底させているのだとか。式は、整然と執り行われた。
各クラスに分かれ、教室に入ると、担任の先生が「入学、おめでとう。まずは、親に、感謝の言葉を述べなさい。」と言った。私は、この学校で、この先生でよかった、と思った。
高校になると、弁当を持っていくのだが、初めの半月程は、手付かずのままだった。
「母さん、オレ、休み時間なにしてるか分かる? 誰とも喋らず、ずっと、本読んどるだよ。」
私は、なんと返事をしてよいのか、わからなかった。
中学と同じ卓球部に所属し、活動が始まった頃から、弁当を食べて帰ってくる様になった。
朝は、家を出る一時間前には、必ず起床し、排泄を済ませ、シャワーを浴び、余裕を持って、登校していた。そして、いつも落ち着いていた。自分から喋るという事は、ほとんどなく、尋ねたことに「はあ。」とか「うん。」と返事をする程度だった。なにを考えているのかわからない感じだったが、文章などを読むと、ちゃんと考えてるんだ、と思った。
休みの日などは、中学の卓球部の子たちが、何人かよく遊びに来て、嬉しそうにしていた。
そして、高校二年に進級。
そこの高校は、二年・三年の二年間は、クラス替えをしないのだ。そして、なんとMとSが、次男と同じクラスになってしまった。二年生には、修学旅行もあるし、心配の種が尽きない。
当の本人が、一番そう思ったに違いないが、口にすることは、なかった。
ところが、Mは、修学旅行の前に退学した。Mの所属する部内で、カツアゲがあったことが、発覚したのだ。カツアゲした仲間に入っていたらしい。自主退学だそうだ。そして、Sも喫煙しているのが見つかり、自主退学した。
修学旅行は、沖縄に行った。「麺類ばかり食べていた。」と楽しそうに話してくれた。そして、自分で作った琉球ガラスを自慢げに見せてくれた。
ひめゆり学徒隊のことは、衝撃だったようだ。集団自決した壕やガマの暗闇は、一生忘れない、と綴っていた。
高校三年の一学期、大事な進路を決める保護者会。たまたま、仕事が休みだったので、父親に出席してもらうことにした。次男の学校での様子など、先生から、直接聞いてもらいたかったし、次男の大切な進路を決めるのに、父親もきちんと関わって欲しかった。その日、次男が帰宅すると、私に「親父には、がっかりした。」と一言だけ言って、自分の部屋に行ってしまった。
一学期最終日。通知表を見ると、体育が十段階の<二>だった。高校入学以来、体育では、ずっと<七>か<八>なのだ。こんな大事な時期に、このような評定は、私には、納得できなかった。学校に行って、担任と体育の先生方から、話を聞く機会を作って頂いた。
この学校には、独自の高校生体操がある。一年、二年、三年と、それぞれに違っていて、試験まである。それに合格しないと、留年になってしまうほど、重要視されていた。体育の先生によると、「高校生体操は、自分で号令をかけながら行うのに、声が小さかった。再試験をするから、自分で、都合の良い時を申告するように、と言ったのに、してこなかったからだ。」との事だった。私は、それだけで<二>と評価されることに、抗議した。他の種目と、総合評価すべきではないのか。
「この大事な時期だからです。社会に出て、大きな声で、はっきりと話ができないといけないのです。」
次男の為を想ってのことだと知り、私は、納得した。
担任の先生からは「保護者会には、お母さんが来て欲しかったです。今日、来て頂いてよかったです。一度、話がしたいと思っていました。」と言われた。三年間、ずっと同じ先生で、私も、気心が知れていた。何もわからずに行った父親では、話ができなかったのかもしれない。
「(次男は)同級生同士では、話をするのですが、私達には、心を開かない。きちんと話ができないんです。」
高校に入ってからも、ずっと、変わらなかったのだ。
「このまま、就職試験を受けても、面接で、落とされる可能性もありますし、会社に入っても、うまくやっていけないように思います。専門学校など、進学を考えたらいかがでしょうか。」
「私もそれを考えていました。」と答えると、「安心しました。」と言われた。
私は、目に見えないものが視えたり、何か聞こえるなどの経験は、したことがない。しかし、人間一人の力ではどうにもならない、何か別の物に、動かされている、影響を受けている。風が吹いたら、飛ばされる。川に入れば流される、という感覚に似た、目に見えない何かは、存在すると感じていた。
そのため、四柱推命、姓名判断、六星占術、宿曜占星術、西洋占星術、はたまた霊能者などにみて頂いた。「次男は、全体のエネルギーが弱い。今にも消えそうな蝋燭の火の様だ。」と言われた事がある。「十九歳の頃は、運気が下がる。気力が落ちて、家に閉じこもるようになる。社会人になってそうなると、ダメージが大きいから、学生でいたほうが良い。四年でなくても、二年間、専門学校でも良い。そして、就職するなら、大きな企業、トヨタ系が良い。」
「三人に、同じことを言われたら、神様からのお知らせと思いなさい。」という言葉を信じていた。三人に言われた。
そして、実際、私も担任の先生が仰る様に、このまま社会に出ても心配だ。きちんと考えているし、人間としては、悪くない。でも、喋らないと、バカに見えるし、相手に、失礼になってしまう。資格が取れる専門学校に、入るのが良い。そう思っていた。
夫には、「占い師三人に、言われた。」などとは、とても言えない。目に見えないものは、信じないのだ。しかし、次男を見ればわかるだろう。このまま、社会人として、やっていけるかどうか・・・担任の先生にも、言われたのだから。
しかし、夫は、就職しろの一点張りだった。理由は、長男が、大学に行っていて、お金がないから。あの人の判断基準は、お金が、掛かるか掛からないかなのだ。子供の将来を、真剣に考えてくれているのか。担任の先生の方が、ずっと、次男のことを考えてくれている。
長男に、お金が掛かるというが、国立大学に行っていて、その学校は、各学部主席、次主席者の授業料は、半額免除される。大学の寮に、入っていて、アルバイトもしていたので、お金はそれ程掛かっていない。
次男は、学校では、成績が上位にいたし、無遅刻無欠席で、部活もやっている。専門学校だったら、楽に推薦で入れるし、奨学金ももらえる。何の問題もない。
私は、次男に、「お父さんは、就職って言っているけど、専門学校に行ったら。トヨタの自動車整備士の専門学校だったら、一年生の時に、就職先が内定するから、就職したのと同じだよ。」と説明したが、次男は、父親が就職しろと言っている以上、それを覆すわけにはいかない、と思うのか、首を縦に振らなかった。
夏休み、一日体験をするのが習わしだが、就職を希望している企業が、その年は、体験を行わず、仕方なしに、違う企業に行く事になった。
そして、専門学校のオープンキャンパスに行くよう、先生が、取り計らってくれたが、次男は、自ら、それを断ってしまった。
二学期に入ると、就職する者は、すぐに手続きに入る。面接の練習もする。結局、次男はトヨタ系の企業一社に絞り、もし、そこが不採用になったら、専門学校に行く、という事で落ち着いた。
そして、就職試験。私は内心、落ちてくれれば良い。と思っていた。そうすれば、夫にも、「落ちたんだから、しょうがないじゃない。」と言える。
結果、<採用>。
同じクラスから、八人受けたのだが、一人だけ落ちた。同じ卓球部でダブルスを組んでいた子だ。
「採用されて、嬉しいだろうけど、仲の良い子が落ちちゃったら、手拍子で喜べないね。」と言うと、「あいつの為には、その方が良かったよ。」と言った。自分と、重ね合わせているのだろうか。
高校進学のとき、長男と同じ学校を受けても良かった。「違う学校が良い。」と言ったのは、次男だ。長男は、高校入学時より、国立大学を目指していた。早朝学習に参加し、部活をし、帰ってくるのが遅かった。長男の所属していた部は、県内でトップの方で、年に何回か合宿があり、あまり休みがなかった。「大学に行くために、あんなに大変な思いは、したくない。就職に有利な学校が良い。」と言ったのは、次男ではないか。そして、高校入学時より、「入りたい。」と言っていた企業に、採用になったのに、ニコリともしない。
全くもって、どういう事か。
長女もそうだ。中二までは、成績も良く、素直だった。中三になると、全く言う事を聞かなくなった。これが、反抗期というものか。高校進学時、「長男と同じ学校にしようか。」と言うと、「進学しないから、就職に有利な学校に行く。」と商業高校にした。その学校の弓道部は、国体に、毎年出ている強豪校だ。長女は、中学で弓道部に所属し、主将も務めていたので、弓道部に入るよう勧めた。そこでしか経験できない貴重な体験をして欲しかった。自信にもなるし、礼儀を身に着けるのは、社会人になった時に、必ず役に立つ。
しかし、入学後に、弓道部に見学に行くと、私語厳禁だったらしく、「静かなのには耐えられない。」と入らなかった。勉強が疎かになり、資格が取りにくくなるのも理由だったようだ。
長女の通う商業高校は、全国でも五本の指に入るほど、資格取得率が高い学校で、高校生として取れる商業科の資格は、ほとんど取ることができた。
長女の進路について、私は、長女は、変にまっすぐなところがあるので、企業でなく、教師になったらどうかと思っていた。商業科の専門教科の中には、説明が難しいものもあった。同級生から、「先生に聞いてもわからなかったけど、(長女に聞いて)わかった。」と言われる事があった。大学の経済学部に行き、商業科の講師を経て、学校長の推薦にて、晴れて、高校教諭になる。推薦枠もあったし、既に、資格を持っているので授業料が一部免除されるところもある。良いではないか。
しかし、娘は、就職という道を選んだ。成績順で、求人から選んでいく。銀行などは、選ばない。理由は、静かだから。
二〇一〇年四月初旬。
長男は大学生、勉強にも励み、充実した学生生活を送っていた。次男、安定企業に就職し、休むこともなく、一年が経った。長女、第一希望に就職。
色々な事があったが、とりあえず、母親としての責任は、果たした。あとは、子供たちが、それぞれに、自分の判断で自分の人生を送って行ってくれれば良い。私は、妻として、母としてではなく、私個人として、今後の人生をどう進んでいこうか、と考えていた。
四月下旬。昼も少し回った頃、電話が鳴った。出てみると、次男の上司だ。
「お宅の息子さんが、昼の休憩時間の後、いなくなりました。どこかで倒れていてもいけない、とあちこち探しましたがいません。息子さんの自転車が、無いのですが、自宅に戻っていませんか。」
という内容だった。
私は、あまりびっくりしなかった。来る時が来たか。あの子のことだから、きっと、いつもの時間に、何食わぬ顔で帰ってくるだろう。ただ、黙って突然いなくなったら、周りの人が心配するし、迷惑かけるから、それは良くないことだ、と思った。
案の定、辺りが暗くなってから、帰ってきた。様子は、いつもと変わらない。そう、無表情で、何も喋らない。こちらから「会社から、電話あったよ。連絡だけは、してね。」と声をかけた。今まで、公園にいた、という。ゴールデンウィークに入るので、今後の事は、数日経ってから、話をする事にした。
就職を勧めたのは、夫だ。にもかかわらず、企業の方が、「親御さんとも話をします。」と言ってくださったのに、夫は「仕事があるから。」と対応してくれなかった。
<部署を変える>、<夜勤を無くす>、<流れ作業ではない所にする>、<病院に行って診断書を書いてもらい一定期間休む>。企業に留まり続けるという選択肢もあったが、次男は、辞めることを選択した。
「一年間好きにさせて。」
今まで、辛いことが、沢山あったと思う。だけど、途中で投げ出したことは、なかった。限界なのだ。辞めるつもりでなければ、仕事中、無断で帰ってしまうような行動は、取らないだろう。これからの長い人生の中で、こんな事もあるだろう。運気が悪いのだから、しょうがない。
次男が、子どもの頃の様に、屈託なく笑うようになるのなら、それも良い。
私は、家を出ることを考えていた。もうこれ以上、夫と一緒に住むのは、嫌だった。どこかアパートを借りて、次男のことは気になるので、時々は、家に帰ってこよう。そう思い、隣町に、アパートを借りた。アパートの隣の住人は、若者二~三人で住んでいるのか、夜になると音楽をかけて、うるさくてしょうがない。
一ヶ月しないうちに、違うアパートに移った。新しいアパートでは、二階の角部屋を選んだ。朝日が、窓から入り、とても気に入った。ところが、住んでみて分かったのだが、隣の人の物音が、とても気になる。単身赴任の男性なのだが、ケータイで話している声が、筒抜けなのだ。そこでも、すぐに、限界が来た。
私は、自宅から、二十分程のところにある借家を、借りることにした。周りに緑が多く、交通の便も良かった。そして、時々、自宅に帰った。
次男は、「猫を飼いたい。」、「ボクシングをやりたい。」と言ったが、話が具体的になると、「まあいいや。」と、実現する事は、無かった。職業訓練の話を持ち掛けても、あまり、乗り気では、なかった。
同級生は、大学や就職で地元にいないこともあり、訪ねて来る事は稀になった。自宅で、ゲームやインターネットをして、外に出ることは、ほとんど無かった。
一月。成人式があったが、出なかった。その日は、家に居たくなかったのか、夫に「仕事に一緒に行っても良い?」と言い、夫と共に、出かけて行った。初めて、フォークリフトの操作をしたようで、父親に「うまいじゃん。」と言われ、「本当?」と嬉しそうにしていた、とのことだった。
次男は、父親が好きなのだ。
次男が、五、六歳の頃、家族で動物園に行った。昼食時、私は、三人の子供の食事の面倒に忙しく、自分の食事どころではないのに、夫は、自分の食べたい定食を頼み、酒を飲んでいた。それに腹が立ち、帰宅時、夫がトイレに行っている間に、帰って来てしまったことがある。その時、次男は「お父さんがいない。」と車中で、気が狂ったように泣き続けた。
そんなことも、離婚に踏み切れなかった要因の一つだ。
夫は、月曜日から金曜日までは、正社員として働き、正社員としての仕事が無い土・日・祝日・盆・正月などはアルバイトをしていた。仕事が無いと、朝から酒を飲み、寝ているだけで、不健康になるから、と言う理由だ。
次男は、就職してしばらくすると、父親に「家にお金を入れるから、アルバイトは辞めないか。」と言ったことがあった。それでも、夫は、辞めなかった。次男は、父親と、どこかに出かけたり、一緒に居たかったのではないかと思う。
二〇一一年四月。
長男は、大学院に進学。長女は、就職して、一年が経った。次男は「人の役に立つ仕事がしたい。」と言っていたが、具体的には定まっていなかった。私は、焦ることはないと、三年寝太郎の話をした。
ある日、七輪と練炭が家に届いていた。どうやら、次男がインターネットで購入したらしい。尋ねると、「友達とバーベキューやるから。」と答えた。
そして、車を購入した。父親と一緒に見に行ったようだが、中古車で型の古いものだった。以前、「車は、黒の○○を新車で買う。」と言っていた。現金で買うのに、充分な貯金もあった。一年間、懸命に働いて、散財することなく、かなりの金額が、次男の口座に貯まっていた。中古を買ったというのが、不思議だった。綺麗好きで、自分の物を人が触ると、必ず拭いていたし、シャワーを浴びてからでないと、自分の部屋に行かなかったし、他人が自室に入るのを嫌っていた。そんな人間が、お金もあるのに、わざわざ中古を買うだろうか。嫌な思いがよぎった。
そして、それは的中した。一回目は、失敗した。
私は、しばらく家に戻ることを決め、次男と話をした。「どうしてそんなことをしたのか。」と問うと、「ゲストに誘われた。」と言った。ゲストとはなんだろう。恐らく、インターネットの何かだと思うが、よくわからなかった。
次男は、その時に、Kのことを口にした。Kは、爆弾事件後、少年院に行っただとか、中学卒業後は、上半身裸でバイクを乗り回している、という噂が流れてきた。今までで、一番気の合う友人だったKを、救うことができなかった、と言って、悔やんでいた。そんな風に思っていたのか。
私は、自分の想いを伝えた。「子供が親より先に死ぬという事が、どんなに親不孝なことか。次男が、自殺をしたら、私が、どんなに悲しいか。絶対にしないでほしい。」と訴えた。
しかし、その後も、次男が注文した七輪や練炭が、家に届いた。私が、受け取ったものは、見えないところに隠し、本人には、「荷物は断ったから、もう注文しないように。」と念を押した。しかし、次男は、諦めることなく、違う業者に、注文し続けた。その都度、私は、それを隠した。
次男の車の鍵は、私が管理することにした。夫に、休みを取って、次男と男同士で、どこかに出かけたらどうか、と提案したが、却下された。
ゴールデンウィーク、他県にいる長男に、次男のことを話した。「帰ってきて、次男と過ごしてほしい。」と、そして、「これが、最後になるかもしれない、悔いがない様に。」と付け加えた。
霊能者に、みてもらった。「次男には、狐と、珍しいが、龍がついている。とっておきました。ご先祖様に、守ってもらうように、毎日、仏壇に、手を合わせるように。」と言われた。
五月中旬。
神様と交信ができる、というIさんに、次男の状況を説明すると、フラワーオイルを渡された。次男に飲ませるように、と言われ、次男がいつも飲んでいるお茶に、こっそり混ぜた。それを、次男は、全て飲んだ。
次の日、次男が「一ヶ月ぐらい漫画を描きたいから、一人暮らしがしたい。」と私に持ちかけてきた。フラワーオイルの効果だ、ありがたい、と思った。
「今の状態で、一人暮らしをさせるのは、心配だから、私も一緒で良いなら、良いよ。」
私の返事に、次男は承諾し、その日のうちに、私の借家で生活することになった。中学二年生の時には「母さんは兄ちゃんのことが可愛くて、父さんは〇〇(長女)のことが可愛いんだよね。」と言い、退職してからは、私のことを敬遠するようになり、私が持ちかける話に対して、全て拒否していた。私は、次男が、自分からなにかやりたい、と意欲的になっていること、「私と二人で暮らしても良い。」と言ったことが嬉しかった。
借家に移った次の日。私は、仕事に行った。帰って来るとすぐに、次男から、「自宅に箸を取りに行くから、母さんの車の鍵を貸して。」と急かされるように言われ、私は、車の鍵を渡した。箸を持って、帰ってくると、「明日、仕事なに?」と聞かれた。「休みだよ。」と答えた。
その日、次男は、「カレーが食べたい。」と言った。丁度、レトルトカレーがあったので、「レトルトで良ければ、あるよ。」と二人で、それを「おいしいね。」と言いながら食べた。まるで新婚生活のような幸せな時間だった。これから、次男はどんどん良くなっていくのだろう。次男と二人きりの生活に、ウキウキしていた。
翌日、朝七時頃に目を覚ます。
今日は、仕事もないので、のんびりできる。布団の中でまどろみつつ、寝返りを打つと、すりガラス越しに、向こうの明かりが見えた。そこは、一昨日から、次男の居場所になっていた。ずっと、朝まで漫画を描いているんだ、頑張っているな、と思った。
まずは、台所に行き、口をゆすいで、コップ一杯の水を飲む。次男の様子を覗きに行くと、机の上の電気は、点いているが、姿が見えない。トイレだろうか。声をかけるが、返事がない。玄関にあるはずの次男のスリッパが、無くなっている。そのスリッパは、高校時代に、上履きとして使用していたものだ。高校卒業後も、次男は、ずっと愛用していた。
気分転換を兼ねて、散歩がてら、近くの自販機まで、ジュースでも買いに行ったのだろうか。そんなことを思いながら、台所の椅子に座り、ゆっくりしていた。
次男のいないうちに、どんな漫画を描いているのか、こっそり見てみよう。そう思い、次男の机に行くと、書きかけの漫画の原稿の上に、葉書サイズの白い紙が、置いてあった。何かが書いてある。
いい人生でした
ありがとう
ございました
――えっ! 何? うそ!
頭がグルグルする。指先が冷たくなり、感覚が遠のいていく。何も考えたくない。
――いや、ダメだ。落ち着け。しっかりしろ。
自分のケータイを手に取る。次男のケータイはどこだろう。居間の床に置いてあった。自分のケータイの履歴に、夫の名前があった。深夜に、夫から電話が、入っていたようだ。すぐに、電話をかけると、「今、仕事中。夜中に、次男が帰ってきた。」との事だった。とにかく、家に向かう事にした。
私の車は、駐車場にあった。次男の車は、家にある。どうやら、次男は、ここから歩いて帰ったようだ。
逸る気持ちを、懸命に抑えた。ここで事故ったらダメだ。落ち着け。大きく息を吸い、一気に吐き出す。呼吸をしているのに、酸素が、体に巡っていないみたいだ。
通常なら、ここから車で二十分で着く。しかし、七時を過ぎた時間。通勤時間帯で、非常に混んでいた。全く進まない。早く進め。無事で、いてちょうだい。三十分以上かかっただろうか。家が見えてくる。そして、庭に、次男の車が見えた。いつもと置いてある向きが違った。次男の車の鍵は、私が持っているはずだった。私の車のコンソールボックスを見ると、キーホルダーから、次男の車の鍵だけが、無くなっていた。やられた。箸を取りに行くというのは、口実で、自分の車の鍵を探すのが目的だったのか。
次男の車に、近付いていく。運転席のシートを倒し、愛用の布団を被り、顔だけ出して、次男が寝ていた。
その顔を見た途端、絶叫した。真っ青で、血の気が無かった。車には、ロックがかかっている。窓を叩いて、名前を叫ぶが、応答もなく、全く動かない。
急いで家に入り、私の部屋から、次男の車のスペアキーを持ち、娘に声をかけて、車のドアを開ける。練炭の匂いと熱い空気が飛び出してきた。後部座席には、七輪が二個、そしてヤカンとボールに水が入っており、湯気が出ていた。全てのドアを開ける。名前を叫ぶが、やはり応答がない。上半身の布団を剥ぎ、手を触る。温かいが、脈が無い。娘に一一九番に電話するよう指示した。頸動脈でも、脈拍が測定できず、呼吸していないのを確認する。頬を叩いてみる。応答がない。口から空気を送り込み、心臓マッサージを開始する。隣の奥さんが駆けつけ、
「こんなことしちゃダメじゃない・・・」
心の底から、絞り出すような声で言い、まるで、自分の息子にそうするように、手を擦り続けてくれていた。
救急車が到着し、次男を救急車に乗せる。私は救急車の助手席に座り、病院へと向かった。家のすぐ傍には、保育園があり、そこに三台、他の消防車も駆けつけていた。通勤、通学、通園時間のため、家の周りには、何人か集まっていた。病院に着くまで、「ありがとう。」と言い続けていた。「ありがとう。」と言っていると全てがうまくいくと思いたかった。そうせずにはいられなかった。病院に着くと、医師に「助けてください。」と言った。口では「助けてください。」と言ったが、心の内では(もう無理だ。もし、助かったとしても後遺症が残るだろうし、本人が望んだのだから、このまま逝かせてあげた方が幸せなのかもしれない。)との想いがよぎった。
次男がICUで処置をしている間、廊下のソファーで横になって待っていると、姉、妹、夫がやって来た。そして、次男の死を、医師から告げられた。そして、警察官が何人か来て、同じ内容のことを、時間差で、別々の警察官に聞かれた。そう、私は、第一発見者なのだ。脱力感の中、スローテンポで、呟く様に答えた。医師が診断書を書いている間に、葬儀場の事や、お坊さんへの連絡など、諸々の事は、周りの人がやってくれた。
そして、私は、警察官と借家に向かった。誰かが、私の車も準備してくれていて、警察官の一人が「大丈夫ですか、私が運転します。」と言ってくれた。借家に着くと、警察官同伴で、鍵を開け、中に入った。まずは、遺書の確認。しばらくして、他の二人の警察官も到着した。どのペンで書いたのか、そこにある漫画用のペンで、メモ用紙にフリーハンドで線を描き、インクの色や字の細さを確認しているようだった。
「これで間違いないな。」
警察官は二人で、話していた。そして、写真を撮った。私は「次男の財布が無いんですけど。」と強調した。自殺したという事を、どこかで認めたくなかった。次男の自殺を、止めることが出来なかった。親として失格だ、という十字架を背負いたくない。自らの死を選ぶのは、友人、周りの大人、親と、拠り所となる関係が、築けなかった場合ではないか。母親が、最後の砦として、何としてでも守ってやらなければと思っていた。私は、最後の砦になれなかった。それを認めたくない。もしかしたら、自殺に見せかけて、殺されたのかも、と思いたかったのか。我ながら、支離滅裂だ。
少ない次男の荷物を探す。帽子を取り除くと、そこから、財布が出てきた。次男が、わざとそうしたのかもしれない。そして、財布の中身を確認し、中身をきれいに並べると、また写真を撮った。「自殺で間違いないですね。」と申し合わせ、警察の方々は、引き上げていった。休んでいる暇は、なかった。すぐに、葬儀場へ向かった。
町内への訃報のお知らせは、しない。葬儀は、ごくごく親しい身内で行う。その他、こまごまとしたことを決め、遺影として使用する写真を探しに、家に向かった。
遺影は、いつも目にするものだから、笑っているものが良い。生まれた時からの写真を見ながら、涙がこぼれた。子供の頃は、喘息があり、華奢だった。兄弟や友達と笑っているものが多い。中一までは、リラックスした様子で、影はない。段々と無表情なものへとなっていく。成人式に、写真だけでも撮っておけばよかった。結局、中学の卒業アルバムの個人写真にした。次男に着せるためのスーツを取りに、次男の部屋に入った。次男の部屋は、小ざっぱりとしている。本が何冊か積み上げられていた。本と本の間に、一枚のノートの切れ端が、はみ出ている。あれ?と思い、それを引っ張り出してみると、走り書きがあった。借家にあったものは、清書と言う感じで、字の乱れが全くなかった。しかし、ここに書かれているものは、随分と違った。
――親より先にいくのはもうしわけない。そうしきはしないでほしい。残ったお金は、すべておやじにゆずる。
(後に、次男の口座を見ると、二百万弱のお金が残っていた。)
「葬式は、しないでほしい。」と言われても、そういう訳には、いかないよ。ごく親しい身内だけでやるからね、と心の中で語りかけた。次男の親しい友人に、連絡を取ろうとしたが、次男のケータイは、ロックがかかっていて、連絡の取りようがない。
私は、次男の最後に、同級生や知人に来てもらいたい、と思う反面、自分が冷静でいられるか、自信がなかった。次男は、そのようなことは、望まないだろう。葬儀場に戻り、近親者で、次男の体を拭く。それを次男が見たら「やめろよ。」と言うだろう。その声は、私には、聞こえない。そして、一度しか袖を通していないスーツを着せた。次男は、身長が一八〇センチ近くあり、手足が長く、肩幅があったので、スーツがよく似合う。
一通りのことを終えて、余裕ができ、昨日のことを思い返す。とにかく、私は、ウキウキしていた。次男も落ち着いていた。最後の食事になるならば、手作りのカレーを食べさせてあげれば良かった。次男が中学の時、カレーにチョコレートを隠し味に使うのをテレビで知り、作ってみたことがあった。チョコレートが無く、ココアを入れた。量が多すぎたのか、おかしな味になった。その時に「材料を無駄にするなよ。」と次男に言われ、それ以降、私はカレーを作るのをやめたのだ。あの子は、最後の食事と分かっていて、「カレーが食べたい。」と、私に、言ったのだ。材料が無かったのなら、買いに行けばよかった。なぜ手作りのカレーを食べさせてあげなかったのか。後悔した。
食事の後、入浴し、私は読書をしていた。次男は、机に向かっていた。そろそろ寝ようとする。「寝るの?」と声をかけられ、「うん。」と返事をすると、「ふーん。」と、少し笑ったように見えた。私は、いつもケータイを目覚まし代わりに使用しており、枕元に置くのだが、次の日、休みという事もあり、寝室には、持ち込まなかった。仕事中、マナーモードにしていて、そのままになっていた。次男は、借家に来る時、必要最低限の物しか持ってこなかったので、洗濯しないと、次の日着るものが無かった。そのため、夜に洗濯し、衣類を乾かすために、除湿器をかけていた。それもターボで。
いつものように、ケータイを枕元に置いていれば、夫からの着信に、気づいただろう。マナーモードになっていなければ、気が付いたかもしれない。除湿器がかかっていなければ、玄関の戸が、開いたのに、気付いただろう。箸を取りに行くと言った時、私も行けばよかった。ああ、そうすればこんなことにならなかったのに、とあれこれ思った。
私は、次男の行動に全く疑いを持たなかった。明日は、私も休みだし、次男とゆっくり過ごせる。一緒に散歩するのも良いな、と楽しいことばかり考えていた。死を決めた人間が、あんなに穏やかでいられるだろうか。そして、借家から自宅に、歩いて帰るなど、考えも及ばなかった。
思えば、次男にとっては計画通りだったのだろう。私に「一人暮らしがしたい。」と持ち掛けた時から。そして、思いのほか早く、自分の車の鍵を手にすることができ、一旦、自宅に戻った時、夫が夜勤であることを確認し、実行するのは、今夜だと決めたのだろう。
丁度、次男が歩いて自宅に着いた時、夫は、家を出るところだったという。午前零時頃のことだ。やけにすっきりした顔をしているな、ヤバいな、と思ったそうだ。おかしいな、と思いながらも、仕事に行ってしまうのが夫なのだ。実の親が亡くなった時にも、仕事に行った人である。息子の時もそうなのだ。私は、借家がどこにあるか、夫に言っていなかったので、ケータイに出なければ、もう連絡のしようがないじゃないか、という言い分だろう。結局、あれこれ思っても、次男は、戻ってこない。
幸いなのは、最後の日に、私は、次男と、とても良い時を過ごせたということ。それと、次男が、どんな風に借家から自宅まで歩いて行っただろうと思う時、満月から二日目の明るい夜道を、時には、小躍りしながら行ったのではないか、と思えることだ。「やったー! これで思いが達成できる。」そんな気分だっただろうか。
四十九日の間は、まだ魂がこの世に留まっている、という習わしに従って朝・昼・夕と食事を供え続けた。長女の職場は、自宅から車で十分程のところなので、私が用事のあるときは、昼の休憩時間を使って、代わりに供えてくれていた。
ところが、四十九日を過ぎても、どういうわけか、昼の休憩時間は、自宅に帰ってくるようになった。
ある日、私が家に居ると、仕事の途中で、突然帰ってきて、ずっと泣いている。「職場の人に、帰宅することは伝えたのか。」と尋ねると、「伝えてない。」と言う。すぐに職場に連絡するよう促すが、涙が止まらず「無理。」とのこと。仕方なく私が、職場に連絡しなければならない状態だった。
落ち着いてから、話を聞くと、来客に、お茶を出そうと給湯室で準備をしているときに、茶碗を落として、割ってしまったらしい。涙が出てきて、止まらなくなり、とりあえずトイレで収まるのを待ったが、一向に止まらず、それを、誰にも知られたくない、とそのまま帰ってきてしまったそうだ。職場の人たちが、帰った頃を見計らって、私が、代わりに、鞄をとりに行く羽目になった。
そして、「もう行きたくない。」と長女は、言った。直属の上司、事務長、総務の方々が「ここ数年で一番よくやってくれた子だ。いなくなると困る。少し休みを取って、パートでも良いから、出てきてみてはどうか。」と気遣ってくださったが、本人は、首を縦に振ることはなかった。
そして、結局、退職。自宅に籠るようになった。買い物を頼むが、「職場の人に会うかもしれないから嫌だ。」と外に出ようとしない。数か月が過ぎたころ、娘の友人が、家に来た。電話してもメールしても返信がないから、心配になって、わざわざ来てくれたのだという。娘に、それを伝えるが「会いたくない。」と会わなかった。
次男が亡くなったとき、自分を責めた。私の責任だ、母親である私が、ちゃんとしてなかったから。もっと、彼の言葉に耳を傾け、思いやってあげれば良かった。何とか、助けることができたはずなのに、私が、至らなかったからだ。
このままだと、娘まで次男のようになってしまう。何とかしなければ・・・どうすればいいのか、と私は、必死だった。
次男の時は、そのうち、運気が変わり、良くなるだろうと、ジッと、その時を待っていた。同じ二の舞はしたくない。もし、長女も次男の様になってしまったら、私は、生きる気力もなくなり、次男と同じことをするだろう。何でもいいから、とにかくやってみた。私の誘いを、長女が、断ることもあった。しかし、私は、諦めることができなかった。
娘は、フィギュアスケートを見て盛り上がっていたことがあったので、少しでも外に出る機会を作りたい、社会との関わりを持ってほしい、とアイスショーに誘った。一緒に埼玉、名古屋、大阪に行った。大阪に行ったときには、淡路島の神社にお参りして、四国まで足を延ばして、剣山まで行った。
ヒーラーで、ウリエルがサポートしてくださっているというSさんのリーディング、過去世療法、マッサージなどを二人で受けた。過去世療法では、自分が実際に、過去世体験をした。もう一人、リーディングができる方が加わって、その人に、私の過去世に入ってもらい、過去世の自分と会話をする体験もした。
成人式は「行かない。」と言った。私は、なんとしてでも、出席させたかった。ニキビを気にしていたので、一ヶ月ほど前から、肌に良いというドリンクや基礎化粧をし、着物は私が成人式に着たもので良い、と言ってくれたので、着物を丸洗いに出し、美容院や、市内で唯一、昔ながらの写真の撮り方をしてくださる写真屋さんに予約をした。成人式当日、「行ってよかった。」と笑顔で帰ってきたときは、ホッとした。私も嬉しかった。成人式の写真も、私の時よりずっと可愛く撮れている。それも、嬉しいことだった。しかし、その後も、長女は、自ら外に出ようとしなかった。小中学校で、とても仲良くしていた子が、近所のコンビニでアルバイトしていたので、「一緒に買い物に行こう。」と誘ったが、「行かない。」と断った。どうしたら、この状況から脱出することができるのだろう。
そんな時、そのことを打ち明けた知人から、助けてくれる人がいるよ、とある方のことを紹介された。その方を「スワミ」と呼んでいた。私は何もわからず「スワミさん」と呼ぶと、スワミというのは先生という意味だから「さん」はいらないよと教えてくれた。
娘をスワミに会わせなければ、何としてでもと思った。
娘にスワミの話をし、会う日を伝えると、「わかった。」と言った。ところが、その日が近づいてくると「嫌だ。」と言い始めた。それはよくある事らしい。娘ではなく、娘の中にいるバッドスピリッツが、嫌がっているのだという。そして、「家に居てはダメだから。」とおまじないをかけて、家から連れ出し、なんとか、スワミにお会いすることができた。透明感があり、張りのある声で、説得力があった。本物に出会えた、と感じた。
そして、エクソシズムが行われた。悪魔祓いだ。
スワミは、エクソシズムをするだけでなく、自分の身を守るための「オラシオン」を授けてくださった。
その後も、スワミから、色々なことを教えていただいた。アルコールは、理性をなくしてしまうから飲んではいけない。理性が無くなり、泣いたり、喚いたり、怒ったりなど、感情的になると、そこに、バッドスピリッツが入りやすくなってしまうそうだ。肉・魚・卵は、だめ。神は、魂が成長することを一番に願っている。魂の宿っているものを殺すということは、魂の成長をそこで止めてしまうから、神が悲しむ。特に、人間の「食べたい」という欲望のために、命を狩る行為は、カルマになる。よって、肉・魚・卵は、食べてはいけない。植物には、魂は入っていない。野菜などの食べられる植物は、神が人間に与えた、生きるために必要なものだ。
スワミいわく「死体を食べるな。」、死体は、ネガティブなエネルギーを引き寄せるようだ。捻挫など負傷した部位に生肉を貼る、という民間療法は、その作用を利用して生まれたものだそうだ。
そして、ある人から「ベジタリアンになるということは、亡くなった人の供養にもなるよ。」とも言われた。
そのような話を聞いて、私と長女はアルコールをやめ、ベジタリアンになった。日本において、ベジタリアンになるということは、修行である。とにかく色々なものに、旨味成分として、肉や魚のエキスが入っていることが多く、自分で調理したものでないと、食べることが難しい。外食も難しい。それだけでも、最初は大変なことだった。
自分の世界が、なんと狭かったか。もっと、早く知りたかった。いや、きっと、このタイミングでなければ、受け入れることができなかったかもしれない。
娘は、少しずつ外に出るようになり、仕事にも行けるようになった。そして「一人暮らしがしたい。」と言い、隣町のアパートに引っ越した。
私の息子は、なぜ自殺したのか。
魂というのは、小虫、小動物、中型動物、大型動物、そして、人間と成長していくという。そして、人間の中にも、さらに段階があり、ずっと成長していくと、人間に生まれなくても良い、つまり、輪廻転生から外れる状態となっていくという。
魂は、学びを経験するために、カルマをつくるのだそう。そして、自殺をすると地獄というところで、とても大変な思いをする。それによって、「もう自殺しないぞ。」と固く決意した魂になっていくそうだ。
だから、まだ人間に転生した回数の少ない幼い魂は、自殺を経験しなければいけないのだとか。自殺を経験しなければいけない魂でも、それが、何を意味するのか悟った場合は、しなくても済むそうだ。
その他に、バッドスピリッツに狙われたり、黒魔術にかけられて、自殺にみえるように殺される場合もあるという。
スワミには、タイ人の奥様がいらっしゃる。そして、バンコクの自宅に執事として雇われたアチャンという方がいる。私たちは、アチャン教官と呼んでいる。アチャン教官は、当初、普通の若者に見えたそうだが、スワミに出会い、修行するうちに、実は、とても霊格の高い魂のお方だと判明した。わからない事があると、瞬時に神様のところへ行き、直接お尋ねして、答えを教えてくださるのだ。
私達の個人的な質問にも、答えてくださる時間を与えてくださった。スワミの奥様が、タイ語に訳してアチャン教官に尋ね、その答えをまた奥様が、日本語に訳してくださる。そして、スワミが、私に、よりわかりやすいように説明してくださるのだ。
私は、タイに行き、アチャン教官に「息子はなぜ自殺したのでしょうか。私の愛情が足らなかったからでしょうか?」と尋ねた。「友達が原因。」ということだった。具体的なことは、教えてくださらなかった。アチャン教官は、全てをわかっていても伝えないほうが良い、と判断した場合には、教えてくださらない。「今どうしていますか。」と尋ねると、「まだ、亡くなったところにいる。」ということだった。
よく、死んだらお迎えが来る、というが、肉体が亡くなったら、すぐお迎えが来るというわけではないという。人間として生まれてくるときに、すでに寿命が決まっていて、その日にお迎えが来るのだと。計画通りの寿命で亡くなった魂は、すぐに迎えが来て、行くべきところに連れて行ってもらえるが、寿命より前に亡くなった場合は、きちんとした僧侶が、それぞれの死に方に合ったお経を唱えて、お迎えに来ていただかないといけない。寿命で亡くなった場合は、ゴールドの光、そうでない場合は赤色の光がお迎えに来るという。
息子が、まだ亡くなった場所にいるのならば、たとえ、目にみえなくても嬉しい。そのままでも良いではないか、と思ったが、そのままでいると、バッドスピリッツに食べられてしまう場合もあるから、早く、安全な場所へ連れて行ったほうが良い、ということだった。
亡くなったら、閻魔様のところに行くといわれているが、寿命の前に亡くなった魂は、寿命のときが来るまで、待合室のようなところにいるそうだ。そこには、悪いものがいなくて、安全なのだとか。
次男が亡くなって、二年ほどたっているが、よく、バッドスピリッツに食われずに済んだ。バッドスピリッツは、煩悩がたくさんあり、恨み、怒り、悲しみが強い魂が好物らしい。アチャン教官がいうには、「ただ死にたい。」、それだけだったそうだ。
そして、そのお迎えに来ていただく儀式を、スワミに行っていただくことになった。亡くなった場所で、亡くなった時と同じような状態にしなければいけない。次男は、自宅の庭で、自分の車の中で練炭自殺した。次男が、その為だけに購入した中古車を、私は、すぐに廃車にしようとしたが、長男が「乗る。」と言ったので、そのままにしていた。それが幸いして、あの日と同じ状態にすることができた。亡くなった時のように、運転席の背もたれをリクライニングし、そこに写真を置いた。
スワミが準備を終え、マントラを唱え始めた。バッドスピリッツが寄ってきたらしく、スワミが「殺すぞ。」と言った。再びマントラを唱え、しばらくして、こっちを向いた。
「ここに息子さんがいるから、話しかけてあげなさい。」
「私の息子として、生まれてくれてありがとう。お迎えが来るから、光の方向へ行きなさい。」
といった。そして、再び、スワミがマントラを唱え始めた。するとスワミが「おかしいな、いつもなら迎えが来たら、すぐに行くのになあ。」と言って、私が、大事にしている次男の遺書を持ってくるよう指示した。
三行だけの遺書を、わたしは、大事に取っておいたのだ。そして、スワミは、それをその場で燃やした。
私は、心の中でずっと次男に話しかけていた。私の未練が、息子の出発を遅らせていた。それを断ち切るために、スワミは、そのようなことをした。そうして、やっと、赤い光と共に去っていった、とのことだった。
その後、スワミが企画しているカイラーサツアーに、娘と共に、参加することにした。ヒマラヤのカイラーサという山にはシヴァ神が住んでいるという。シヴァ神は、悪いものを破壊して良いものに再生し、魂を管理していると言われている。そのカイラーサに、次男の遺品を持っていき、今度、生まれてくるときには、強い魂として生まれてくることを願った。
その他にも、亡くなった者のためにできることがある。自分の得た徳分をあげることができるのだという。徳分とは、神様が喜ぶ行いをすることで得ることができる。今にも殺されようとしている生き物を助ける。正しい教えを説く。寺院にお布施をする。お坊さんに食事を供える。そのようなときに、徳分を得ることができるのだそうだ。そして、徳分を得ることができるマントラを授けていただいた。私は、次男のためにできることがあるということが、とてもありがたかった。
そして、今は、タイにおいて、天の扉開きのプジャに参加している。カイラーサに行ったときは、カイラーサの上に、神様の世界に繋がる扉があり、私達が行ったときに、たまたまドアが開いたのだが、タイのそれは、こちらから神様の世界のドアを開けるという儀式で、神様の世界のエネルギーを、直接受けることができるのだ。そうすると、魂は、何段階か成長するのだそうだ。魂の成長を、神様は大変喜ぶので、徳分を得ることができる。
次男が生前「なんのために生きている?」と私に聞いてきたことがあった。そのときは、答えることができなかった。でも、今ならば、答えてあげることができる。
十二年前、首と左膝に無理な力が加わり、左膝が腫れた。それは、どんどん酷くなり、太腿とふくらはぎまでパンパンに腫れてしまった。整形を受診し、血液検査と細胞診により、リウマチと診断された。両手は、握力が弱くなり、雑巾を絞ったり、ペットボトルのキャップを外すのが困難になった。
長女が小六の時で、あと十年あとだったら、と思った。死ぬまで、副作用の強い薬を服用し続けるのは嫌だ、と思い、サプリや漢方薬、民間療法、ハンドパワーなど、九州に何度か足を運んだこともあった。また、ホリスティック医療をしている先生の治療を受けるために、和歌山県まで行ったり、合宿に参加したこともある。
スワミと会い、スワミの心霊治療や悪魔祓い(エクソシズム)を受けるようになり、初めてタイツアーに参加した時、アチャン教官に、「私の病気の原因は何ですか。」と尋ねた。「前世のカルマによって、病気になった。どのようなカルマかは、知る必要はない。リウマチの症状が良くなっても、次々、病気になる。カルマは、今世でなくなる。」との事だった。それならば、しょうがない。このままで良いと思った。治る必要もないとまで思っていた。
ただ、仕事は、したかった。アチャン教官に、「看護師の仕事はできますか。」と尋ねると、「できるよ。」と即答された。足は、びっこを引いている。指は、一部変形し、握力も弱く、手首も肘も痛くて思うように動かない。しかし、アチャン教官ができるというのなら、できるのだろう。私は、どうにも仕事が可能とは思えなかったので、「邪魔をしているのは、何ですか、バッドスピリッツですか。」と尋ねた。「うーん、悲しみ。」という返答だった。
看護師と言う職業柄、死は避けられない。患者さんの何気ない言葉に、耐えられず、涙がこらえきれないこともあった。病気を理由に退職した。身体的にも、精神的にも、踏ん張れないのだ。
息子のお迎え儀式を受け、その際に、スワミから、ここに人が住むことを、土地のスピリッツ達が嫌がっている、と言われた。この土地に移るとき、一応、霊能者の方に視て頂いて、地鎮祭もした。それでもダメだったのだ。この土地には長女が小五の時に越してきた。二月から住み始め、その年の七月に夫が交通事故に遭ってしまった。更にその三か月後、今度は私の膝が痛みだした。全てが土地のスピリッツのせいではないのかもしれないが、この地のスピリッツへのごめんなさいプジャを行っていただいた。その後、スワミから、「家を出たほうが良い。」と言われた。私は、次男が亡くなった後、自宅に戻っていたので、娘のアパートでの同居生活が始まった。
カイラーサには、どうしても行きたかったので、娘にも協力してもらい、プールに行って、歩行訓練などをした。そして、一か月間のカイラーサ巡礼ツアーを無事に終えることができた。
私と娘は、お互いに感情的になり、喧嘩が絶えなかった。娘は、子供の頃は、私のことをお母さんと呼んでいた。中三の反抗ばかりするようになった頃から、「オカン」と言う様になった。長男の中三の担任で、次男の部活の顧問でもあり、長女の中二の担任だった先生に、「良くない子と付き合っているから、その子とは、関わらないほうが良い。」と私に忠告してくださった。長女に、その旨を伝えた。「付き合いは、やめないよ。オカンの病気のことが話せた最初の子だから。」と言い、付き合いは、やめなかった。
そして、飲酒が発覚し、保護者が呼び出された。十人くらいで、自販機で酒を買い、小学校で飲んだそうだ。娘は、「一口飲んで、まずくて、もう二度と飲みたくない。」と言っていた。私とは、あまり話をしなくなった。私は、体調が悪く、寝ていることが多かった。外出するときは、杖が必要だった。私も不機嫌なことが多かった。次男から、「怒る材料を探しているみたいだ。」と言われたことがある。神経がいつもピーンと張っていた。この土地に越してきてから、私はずっとそうなのだ。
カイラーサツアー後、最初のタイツアーに娘と二人で参加予定だったが、前日に大喧嘩をし、結局、私一人の参加になった。そして、私は長女と一緒に居ても良くないと思い、新たに借家を探し、一人暮らしをすることにした。運気が悪く、バッドスピリッツの影響を受けている私が探しても、結局悪いところを選んでしまう、ということで、スワミが探してくださった。
体調は、良くなっていった。
スワミと共に、心霊治療を受ける為に、フィリピンに行った。フィリピンの先生は、目の前にいる人だけでなく、その場にいない家族のことまでわかってしまう方だ。私は、頭から釘が一本、左右の腎臓から一本ずつ針が出てきた。バランだ。バランというのは、黒魔術の一つで、物をその人の体の中に飛ばすのだそうだ。「あなたの息子は、黒魔術をかけられて殺された。まだ、悪いものが自宅に居るから、あなたも子供たちも、絶対に、近付いてはいけない。」と言われた。フィリピンから帰り、子供たちにもそれを伝えた。しばらくして、娘は、誕生日を迎えた。友人がプレゼントを持ってアパートに行ったが、娘がいなかったので、自宅に届けたとメモがあり、取りに行ってしまったとのこと。バッドスピリッツは、あの手この手で、隙あらば邪魔をする。あんなに、自宅に近付くなと言ったのに、どうして行くのか。何があっても、二度と行かないように、と念を押した。
その後も、私は、タイツアーに参加した。
タウエースワンの寺院に行った。一年に百体しか作らないという、特別なタウエースワンの像を頂くことができた。バッドスピリッツにとって、タウエースワンは、脅威の存在で、近付くことができない。像をつくるための材料は、三か月間プジャをされ、像を造る職人にもプジャをし、特別な日に作られ、完成後、更に特別なプジャをされた神聖なものだ。そしてアチャン教官が、一人ずつ、タウエースワンに守ってもらうようにプジャをしてくださった。それから、バンコクの寺院で、バッドスピリッツを取ってくださる儀式に、参加することができた。それは、まだ、タイの文字が無い時代から行われている、伝統のある儀式だ。悪いものが、どんどん取れて行ったとの事だった。タイツアーに参加すると、必ず、一人ずつインタビューの時間を設けてくださる。そして、気を付けなければいけないことを教えてくださる。私は、「帰って一か月間は、車で遠出してはいけない。」と言われた。中には、一か月間家から外に出てはいけない、と言われた人もいた。
アチャン教官は、一瞬にして、神様のところに行き、話をしてくるくらい、すごい方なのだ。その方が、やってはいけないという事は、何があっても、守らなければいけない。
一か月後、びっくりするニュースが入ってきた。スワミと、一番長く縁のある方で、私が、一番お世話になった方が、「長い間、ありがとうございました。」と言うメールをスワミに送り、去って行った、という事だった。アチャン教官に言われたことを守らず、バッドスピリッツの影響を受けたそうだ。低級のバッドスピリッツは、人を病気にしたり、怪我をさせたりする。高級なバッドスピリッツになると、考えを変えさせてしまう。神様の勉強をさせないような思考にするそうだ。
それは、ちょうど、我が家のスピリッツハウスのプジャを行う時だった。
それから、しばらくすると、私は、階段を上ることが困難になった。二階にプジャルームがあり、二階のベランダにスピリッツハウスが設置してあるのに、行けなくなってしまった。私は、スワミに言われたことはしているし、スワミから、行ったほうが良いと言われたツアーにも参加している。何が悪くて、私の体は、どんどん悪くなっていくのか。日に日に、体力と気力が無くなっていった。月に一回のプジャにも、参加が難しくなった。「食べなさい。」と言われても食べられない。「痛くても、体を動かしなさい。」と言われるのだが、気持ちが萎えてできない。私は、体重がどんどん減って、身長162センチで体重が38キロになってしまった。
皆に励まされるのだが、「もう死んでしまいたい。」とまで思う様になった。スワミが心配し、電子レンジとオーブンレンジをくださった。とにかく「食べなさい。」と言われた。一人では、限界になり、娘に、来てもらった。電話で話をするだけだったが、直接会って、娘がびっくりした。「こんなに酷いと思わなかった。」と、すぐに世話をするために泊まり込んで、神様やスピリッツハウスにもお供え物を供えてくれた。
私がこのような状態になったのは、バッドスピリッツのせいだ、と判明した。アチャン教官の忠告を守らず、辞めていった人についたバッドスピリッツの影響だそうだ。その人が去っていくとき、その人が関わっていた人は、皆、スワミから去って行った。唯一、残った私は、スピリッツハウスのプジャを受けていたから、なんとか助かった、との事だった。ただ、その影響は、皆無ではなく、体力と気力を奪ったそうだ。そして、スワミの悪魔祓い(エクソシズム)を受け、少しずつ良くなっていった。
娘の援助もあり、杖を二本使用しながらでも、タイツアーに参加することができた。準備をするのに、時間がかかるので、朝六時集合の場合、三時に起きて、シャワーを浴びた。娘は、文句も言わず、手伝ってくれた。帰国後、娘が協力してくれ、毎日、歩行訓練を続けた。月一回のスワミの心霊治療やプジャに参加した。そして、私の為に用意してくださったハーブや、痛みを取るマントラを授けてくださった。
そして、第一回の天の扉開きのタイツアーに、娘と参加することができた。相変わらず、左右二本の杖を使用し、歩みは遅いが、スワミ、奥様、アチャン教官が配慮してくださり、ツアー中、三回行われたプジャ全部に、参加させて頂くことができた。有難い。
帰国後、すぐに、娘に変化が現れた。「お母さん」と呼ぶ様になり、私には、敬語で話し、私の話をきちんと聞けるようになった。
五月に、タイで「運命キャンセル」のプジャを受けることができた。運命とは、カルマを解消するための計画も入っており、プロムという神様が決めているそうだ。このプジャは、特別な日に行われ、プロムに、一旦、カルマ解消のために起こる現象を塞き止めてもらうようお願いする。一人、一体ずつ、神聖な仏像を頂く。その仏像が、何らかの原因で、壊れた時、再び、カルマ解消の計画が動き始めるそうだ。ストップしている間に、徳分をたくさん作ることで、足が一本なくなるところが、骨折で済むとか、場合によっては、もっと軽くなるそうだ。とにかく、そのプジャを受けると、劇的に変わるのだそうだ。
私の体調は、どんどん良くなり、六月から仕事に行けるまでになった。杖は、必要だったが、気持ちが全く違った。踏ん張れるようになった。そして、足を引きずることも時にはあったが、二か月もするとそれが無くなり、杖を使わなくなった。四ヶ月程経った今、小走りできるまで回復している。
先日、職場の霊安室の前で、数人がうなだれていた。中には、次男がかつて勤務していた会社の制服を着ている人がいた。亡くなった方は、自殺したそうだ。以前は、そこの会社の看板を目にするだけで、腹が立ってしょうがなかった。ポスターが貼ってあると、引きちぎりたい衝動に駆られた。そこの会社の制服を着た人を見ると切なくなった。
しかし、霊安室の前を通り過ぎる時、動じない自分がそこにいた。乗り越えた、と実感した。
一年後、娘は納棺師として働いている。
今後も、看護師の仕事を続けながら真の神の叡智を学び、魂を成長させていく。そして、それを皆に伝えていく。
私の学びは、まだまだ続く。