北極星からの使者
駅員のかさついた手が、流れるようにパンチを握りこんだ。ふくらんだオムレツみたいな形にひらいていた刃が身を寄せ合い、離れた時には茶色い切符に三角形の切れ込みが入っていた。磯臭い声に見送られ、私は寂れたホームをとぼとぼと歩く。
段差を覗き込むと、レールが横たわっていた。日に焼けた顔をしている。
鉄の塊を支えるほど固いことは知っているのだけれど、丸みを帯びているせいかひどく柔らかそうだ。燃え立つ夕陽の光を浴びて、ぐねぐねとのた打ち回りたいように見える。右方向にレールを辿って、空色と海色に縁どられた水平線を眺めた。赤茶のレールと輝く地平線は繋がっていて、ああ、私はこれから遠い地へ向かうのだという自覚が胸で弾けた。
思いもかけず切なくなった。
両の足による歩行が力無いのは、肩から下げた頭陀袋と引きずった旅行鞄のせいだと思っていたのに。兄さんに太い縄のようだとからかわれた三つ編みをぎゅっと引っ張る。生え際の皮膚が引きつる。しくしくと痛む場所が、後頭部に移動した。
列車がホームに音もなく滑り込んできた。
太陽も静かに山の後ろに滑り落ちていった。
降車する人はいなく、乗客は私一人だった。左手に黒い海を臨みながら、列車はすぐに走り出した。
ガタゴトと揺れる列車内を進み、お尻の車両の真ん中あたりの部屋に入った。後ろ手に引き戸を閉めようとすると、不意にひときわ大きな揺れが来て、引き戸は勝手に元の位置に収まった。手を挟まなくて良かったと思い、その一方で出端をくじかれたような思いも味わい、私は旅行鞄を乱暴に放った。放った後で急速に後悔し、古紙に包んで入れておいた陶器のコップが割れていないか確かめる羽目になった。丹念にひび割れがないか確かめ、旅行鞄と肩から下ろした頭陀袋を向かい合っている長椅子の一つにそっと置いた。向かい側の椅子に自分の腰を下ろす。一息ついてから、頭陀袋に母さんが詰めてくれたビスケットと水で空腹を満たした。母さんお手製のビスケットはしっとりとした触感を舌に送ってくれたが、明日にはカラカラに乾いてしまっているだろう、死んだ珊瑚の骨みたいに。
そう思うとまた何処かがしくしく痛む気がして、慌てて三つ編みを引っ張った。
隙間風が間断なく出入りする窓から、流れ行く景色をぼんやり観察した。夜の海は、空きっ腹を抱えた狼のようだ。高く深く打ち寄せた波は、獲物がかからなかったことを知ると悲しそうに戻っていく。しばらくすると、健気にも再び襲い掛かってくる。左奥から突き出した小さな半島に設えられた桟橋には、白い小舟が繋がれていた。黒い狼の背中に飛び乗って、慣れた様子で襲撃を逃れている。
その小舟から視線を真上にずらしたところに、青白い北極星が光っていた。
新月の今日は、一層堂々と夜空に君臨している。挑むようにその星を見つめ、薄暗い小部屋で私は目を凝らした。まつ毛が皮膚を叩くのを感じ取れるほど強くまばたきを繰り返し、目を凝らした。
後悔が、わだかまっていた。
(喧嘩なんて、するんじゃなかった)
母さんも兄さんも、いつもは無口な父さんも、気遣わしげに仲直りするよう促してくれたのに。一週間、私は口をへの字にひん曲げたままだった。拗ねることに意地になってしまっていた。私は悪くないのだから、あっちが悪いのだから、と言い張った子どもっぽい過去の自分を蹴飛ばしてやりたかった。とうとう謝らずじまいで、列車に乗り込んでしまった。列車が発車する直前まで、いいや、今だって、あの子が駆けつけて来てくれることを待ち望んでいる。あの子の姿が一瞬でも見えたら、窓から身を乗り出して恥をかき捨て大声で謝る心づもりもあった。
北極星を切実に睨んだ。
北極星からは月の使者が降りて来て、人々の願いを叶えてくれるらしい。故郷の歌が歌っていた。月の使者なんだから月からやって来るんじゃないのか、という当然の疑問は大人たちによって適当に誤魔化された。月から直接地上に下りてくるのは腰痛に響くから北極星で休んでいるのだ、というのが我が家での通説だった。
何だか夢がないとあの子に零した際、あの子の家では月の世界のクーデターによって追放された王子が北極星で王座奪還の時を虎視眈々と狙っている、という壮大すぎる物語が伝わっていると知った。
真剣な顔でその話を信じ切っているあの子に、私は引きつった笑いを見せたきり何も言えなかった。あの子は多分、今でもあの話を信じている。私は何も言えなかった。北の星からは月の使者がやって来るなんて嘘だよ、と私は言えなかった。あの子は恥ずかしがり屋で、それはまだ良いのだけれど、恥ずかしいことがあると白い面を真っ赤にして、猛烈な勢いで突いてくる悪癖があった。随分と昔、その突きを躱したところ、後ろの木の幹に穴が空いたので、私はあの子だけは怒らせまいと誓ったものだった。流血沙汰になどなったら洒落にならない。うっかり怒らせてしまい、突きがくるかと横に避けたら鋭い平手で逆方向に吹っ飛ばされたこともあるので、あの子は全く、予想外の行動ばかりしてくれる。勿論私は、仕返しにあの子の両足を縛って枝にくくりつけ、半日木から吊るしてやった。ざまあみろ。
私の切実な視線は、いつの間にか愚痴めいたものに変わっていた。悲しい気分に浸って悲劇の少女を気取っていたはずなのに、今やあの子への非難で胸がいっぱいだった。むしゃくしゃとして、私は北極星から視線を引きはがした。
気がつけば列車はトンネルに突入していた。土の湿った臭いがどことなく漂っている。潮の臭いは大分薄まっていた。夜空は黒いと思っていたけれど、トンネルという本当の暗闇を抜けると、何て明るいのだろうと驚かされた。窓に付着した露のように、散りばめられた星々が紺色の空を彩っている。遠ざかっていく山影が幾重にも連なって、不思議な曲線を描き、私の視線をたゆたわせた。
窓際で頬杖をついていると、隙間から入り込む夜風が袖を揺らしていく。やがて海と水平線が彼方に消え、静かにそよぐ小麦畑が視界を占めた。小川の側の水車小屋を通り過ぎる。せせらぎと風が二重奏を奏でる。段々畑が丸太小屋をいくつも見下ろしていた。小屋の近くにある家畜小屋の隙間には、丸い豚の鼻が整列しており、列車の動きに合わせて小刻みに膨らんでいた。前方にレールが二方向に分かれている場所があり、列車は丘の上へと乗り出していった。低地を這うレールをしばらくの間眼下に見ていたが、そのうちぐるんと曲がって行ってしまって、ついには消えてしまった。
夜もとっぷり更けた頃、列車は鉄道橋に差し掛かった。天気が穏やかな日が続いていたため水位も低く、赤レンガを積み上げた橋の足を水流が避けていく様子がはっきりと見える。水の流れの変わり目には光の反射量が多くなって、川の底に沈んでいた真珠がいくつも浮かび上がって来たかのようだった。
橋の凹凸を振動で感じ取りながら、私は再び空を見上げ、北の星を探した。探すまでもなく、同じ位置にその星はあった。私は思い立って、両手を胸の高さで握りしめ、目を瞑ってお祈りした。
(月の使者よ、どうか私の元に降りてきてください)
どうかどうか――私は真剣に祈った。学校での及第試験に合格しますようにとお願いした時と同じくらい熱心に念じていた。
何も本当に月の使者に出会いたかったわけじゃない。私はそこまでロマンチストじゃない。それでも必死に祈ったのは、月の使者に願い事を叶えてほしかったからだ。あの子に会いたかった。一目でいいから顔を見て、さようならを言いたかった。生まれた時から、私の一番の友達だったあの子にお別れを言わずして、旅立ちなんてできるものか。
『しけた面してるね』
それがあの子の口癖だった。というか、私に向けた口癖だった。優良の文字が並んだ成績表を見せびらかしながらそう言ってきた時には、さしもの私も殺意が湧いた。思い返しているうちに怒りが込み上げてきたので、祈りの形をとる手についつい力がこもって、不穏な音が鳴った。あの子の笑顔の憎たらしいことと言ったら! 脳内であの子の顔面に高速頭突きを加えていると、またもや憎たらしい声が響いた。
――しけた面、してるね。
ええい、うるさい。何度思い出せば気が済むんだ。もっと輝かしい思い出だってあったはず。これじゃああの子と再会しても、喧嘩を繰り返すだけじゃないか。ねえ聞いてんの、返事しなよ。うるさいなあ、ちょっと黙ってよ、私が今必死にお祈りしてるの分かんないの。声だけじゃなく本体も連れて来てから話しかけなさいよ能無し。へえ、能無しで悪かったなあ。折角来てやったけど、用もないみたいだし僕は帰ることにする。
そこまで来て、私はようやく違和感に気付いた。目を開けて、窓の外を見る。夢か、夢か夢だな、と思いながら一度俯き、もう一度顔を上げて外を見て、顎を落として括目した。いや待って、良くできた幻という可能性もなきにしもあらず。
良くできた幻の可能性のあるあの子の本体が、黄色いくちばしを開いて少年らしい声で、
「間抜け面とはご挨拶だね」
そこで私は確信した。コイツはあの子に違いない。確信すると同時に拳を放ったが、あの子はひらりと優雅に避けてしまった。
「避けないでよ!」
「避けるよ」
「何でここにいるのよ!」
「そりゃあ別れの挨拶を言いに」
ぐっと言葉に詰まった。喉が鳴って、渦巻いた言葉はそのまま凝り固まって胃の中に落ちていった。あの子は羽を広げて、空高く飛びあがり旋回すると、窓辺に戻って来た。見上げるあの子の全身は大きな扇形をしている。先端だけが漆黒に染まった翼は、貴婦人がこぞって欲しがるほどに優雅で美しかった。けれど、そういった都会の貴婦人達にはとことん縁がない自由さが、あの子のあの子たる所以だった。
底の丸い小舟のような形の目を眇めて、あの子は私を促した。
「それで、言いたいことがあるんだろう」
「あるわよ!」
食って掛かるような威勢の良さに、あの子は僅かに身を引いた。私は顔を突きつけるようにして、一週間募りに募った思いのたけをぶちまけた。
「やっぱり私のおやつを食べたアンタが悪い! でも私も仕返しにアンタの尻尾の羽を抜いたのは悪かった!」
「最後に一言?」
「ごめんなさい!」
言葉の奔流を吐き出し終わると、私は肩で息をしながら口許を拭った。意地っ張りな私にとって、謝罪というのはとんでもなく気力を消耗してしまうのだ。いやもう、これだけ息絶え絶えになってまで謝ってるんだから許してくれるに違いない、と思っていると、案の定あの子は鷹揚に首を振って、よろしいと言った。そして、反省しているのかしていないのか判然としない口調で、僕も悪かった。ごめん。と謝ってくれた。私は勿論、即座に許した。
「これで仲直りね」
「そうだな」とあの子は嬉しそうに笑った。やっぱりあの子も私と仲直りしたかったのだ。嬉しさのあまり、ずっと寄せていた眉間のしわがあっという間に取れた。だけど、明け方が近づいた空を見るにつれ、悲しみが舞い戻って来た。
「もう帰ってしまうの」
「帰りはしない。僕も旅立ってきたところだから。ただ、向かうのはお前とは違う町だけど。今はちょっと寄り道しただけ」
「私は寄り道程度の女なのね」
唇をとがらせると、あの子は体を手前に傾けた。
「しけた面するなよ。そんなしけた乗り物に乗ってるから、そんな暗い気分になるんだ」
「じゃあ、どうしろって言うの。私にはね生憎羽はついて……」
言い終える前に、言葉尻と私の体を、あの子の大きな羽がすくい上げた。ひょいと私を背中に放って、力強く羽ばたく。服の裾と長い三つ編みが翻り、足元から風が吹き抜けていった。私は大いに慌てた。
「どうするのよ! 荷物全部置きっぱなしよ」
「そんなの、あとで駅まで取りに行けばいいさ。僕の方がずっと早く町まで着くんだから」
それもそうか。あっさり納得させられたことを不満に思いながらも、あの子の白く太い首に両腕を回した。上体を起こすと、ガラスで遮られていた景色が、遥か彼方まで見渡せた。振り返れば、私とあの子の生まれた町が、いくつも山を越えた向こうにぽつんとあった。エメラルドグリーンの海と橙屋根に囲まれた私の故郷。ツンと鼻の奥が痛くなる。白い背中に頬をすり寄せてこっそりハンカチ代わりにした。あの子は他のことに思考を巡らせているせいか、気付いていないようだった。
あの子がおもむろに羽を動かし、ゆっくりと高度を下げた。瞬きの音がして、少し強張った声が風に乗って届いた。
「……僕らは」
思い直したように、今度は明快な声で、
「お前も僕も、これから新しい土地で一人でやっていかなきゃならない」
私はおもむろに頷いた。「そうね」。それはもう、避けようのない現実だった。
「僕たちはまだ半人前だから、早く一人前にならないといけない」
「そうよ」
あの子は飛行士に、私は教師に。私たちは、子ども時代を抜け出て、大人にならなければならない。浜辺で無邪気にはしゃぎまわった日々が遠ざかっていく。いつも一緒の「私たち」は消え去って、別々の「あなたと私」になる。。
あの子は、目線を真っ直ぐに、これから暮らす新しい街へと据えたまま、私に言った。
「僕が一人前になったら、最初のお客はお前にしてあげる」
「もちろんタダでしょうね」
「初回限定だけどね」
私はあの子の首をぎゅうと締め上げた。つぶれた蛙のような呻き声が上がる。小さな飛行艇はぐらぐらと不安定に揺れて、乗り心地が大いに損なわれた。
――初回だけなんてケチだ。二回目以降もタダで乗り倒してやる。
何十回も、何百回も。
午後のおやつの代金だけは、私が受け持つつもりだけど。
空が白んできた。地平線が徐々に露わになっていく。大きな時計塔が山麓にそびえているのがうっすら見えてきた。その傍に、小さな教会があるはずだ。そこの屋根裏部屋で、私は今日から暮らしていく。
さようなら、子どもだった私たち。
街を貫く光は、どこまでも目映かった。
学校の課題として提出したものです。