九話 原理 と 窮鼠
僕は朝食を済ませると、そそくさと家を出た。
昨夜の事が、僕の中に羞恥心やら罪悪感やらが混ざり合った、複雑な感情を産み出している。
そのせいで、ユナさんを始め、村の皆さんとは、まともに顔を合わせられない。
苦い記憶を過去にする為に、少しばかりの頭を冷やす時間が、今の僕には必要だった。
という訳で、僕はまた献血ルームがある荒野へと向かった。今日は一人だ。
ユナさんは、昨日採ってきた薬草をマチさんに与えるという用事があるらしい。
「一人で大丈夫?」と、まるで幼児を持つ母親のごとく心配されたが、恥ずかしさで目を合わせられない僕は、言葉少なに「平気ですよ」と答えるのがやっとだった。
途中、またラパの集団と出くわした。ただ、前回とは少し様子が変わっている。
見ると、集団の中心にいる数頭が、毛を刈られ、肌色の地肌を晒している状態なのだと気がついた。
その周りのラパは、彼らを暖めるように、あるいは恥ずべき裸体を隠すように、前にも増して身を寄せ合っていた。
僕は試しに、まだ毛のある一頭の背中に触れてみた。
ふかっふかでふわっふわ。思わずにやけてしまうくらい、最高の触り心地だった。
背後から触れているので、あの大きな目を見る事もない。
綿あめのような体毛と、ちょろんとした尻尾。こうして見ると、ラパも結構愛らしい動物のように思えてきた。
背中を撫でられたラパは「まぁぁ」と鳴いた。
「ごめんね。じゃあね」と言って、僕は森に入った。
氷の塊はすでに溶けて消えていた。それがあった場所の地面が、少しだけ湿っている事だけが、残された存在の証明だった。
四つ目の小さな山はそのままそこに聳えていた。頂では小鳥が羽を休めていて、すでにその山は、この景色、この場所に、馴染み始めていた。
僕は、その近辺に人気が無い事を確認した後、大声で叫んだ。
昨夜産まれた感情を、言葉にはならない声で、空気と一緒に体外へ放出した。
それが喉を通り過ぎる時、改めて昨日の映像が頭に蘇ってきて、少しもだえたが、叫び終えた時には、胸の苦しみは少し和らいだような気がした。
さて、と気を取り直した僕は、昨日の続き、魔法の練習を再開した。
ユナさんに教わった通り、発動前にイメージすれば、魔法はその通りの形となって現れる。
それが、どの程度まで融通の利くものなのか。
それと、もしかしたら他にも魔法を使う上での決まりや法則が隠されているのかもしれない。
そういった事の調査が目的だ。
僕は、陽が傾き始めるまで、ずっと辺りに血を撒き散らし続け、試行錯誤を繰り返した。
その量は、多分、四百ミリリットルの献血一回分にも満たない些細な量だったとは思うのだが、なんだか軽く扱って安売りしているような気がして、自身の血に対して罪悪感を覚えた。
でもそのおかげで、色々と成果はあった。
まず、イメージ練習の方だが、これは概ね上手くいった。
鋭利な部分が一切無く、角も丸めた正方形の箱型の氷ができた。冷凍庫の中に入っていても、違和感のない出来映えだった。その巨大さに目を瞑ればだが……。
竜巻は、その直径を拡げる事で、中心にある台風の目もその分大きくなった。それを利用して、あえて中心点だけに被害を及ぼず、周囲のものだけを吹き飛ばす。という芸当もできた。
そして、地面から平坦な壁も出せた。大きさ、デザイン、縦長、横長、全てイメージ次第で自由自在だった。献血ルームの周りは大きさや高さの合わない歪な塀で囲まれ、砦のようになってしまった。
次に、解った事。
魔法で起こる現象には、僕の思惑がほぼその通りに反映される。
しかし、一度出たものを変化させる事はできない。
例えば、四角い氷を出した後、その一箇所から突然、鋭いツララが伸びてくる。そんなイメージは無効だった。魔法は、棘のない安全な氷を出した時点で、その効力を失ってしまった。
多分、一度出現した後は、もはや魔法とは何の関わりも無いただの氷になっている。だから、僕の意思では無く、自然の法則に則った動きをするのだろう。
そして、発動条件。
指先を振って血を飛ばしている都合上、飛んでいく血が一粒だけとは限らない。細かな粒や、狙い通りに飛んでいかないものも、周りに飛散している。
しかし、それらが魔法を発動することは無かった。
どうやら僕が狙いを定めた位置に、一番近く到達したものだけが、効力を発揮するらしい。
これは最初のイメージによるものである可能性がある。きっと無意識の内に発動するべき場所も設定しているのだと思う。
だから、それすらも明確にイメージすれば、飛び散った血の全てから、四方八方に炎を吹き荒らす事も可能かもしれない。
危険だから試してはいないが。
それと、血を落とす場所にも制限があった。地面や植物、水、それと人体(生物)に触れた場合は、発動するが、石や献血ルームの壁に当てた時には何も起こらなかった。
これもあくまで推測だが、鉱物には反応しないのではないかと思う。
……と、今日解ったのはこんなところだろうか。
まだ陽は出ているが、少し遅くなってしまったので、僕は小走りで村へと帰った。
急いでいるせいか薄暗いせいか、途中、森の中で何度も木の根に躓き、転びそうになる。
そうだ。と閃いて、僕は光の魔法を後方へと放つ。途端に、ぱっと視界が明るくなった。
地面の凹凸や、木々の間の蜘蛛の巣まで見えるようになり、僕は快適に森を抜ける事ができた。
こういう魔法の使い方が、正しいんだろうな。
僕は上機嫌でユナさんの家に帰り着く。今朝感じていた恥の気持ちは、もうほとんど残ってはいなかった。
しかし、家の中にユナさんの姿は無かった。
どうかしたのだろうか思いつつも、とりあえず待つ事にして、どうせ待つならと、散らかされたままの物置部屋を片付けようと考えた。
ランさんがつけてくれたであろう明かりが灯った小皿が食卓の上に置いてあり、僕はそれを持って物置部屋へと移動する。
小皿の周囲の、朧に照らしだされた世界には、大小様々な物が散乱していた。
僕はそれら拾い集め、適当に箱の中に詰めていった。
粗方片付いたところで、部屋の隅に紙切れを見つけた。拾ってみると、それは普通紙よりも固く、厚紙よりは柔かった。
と、そこで玄関の扉が開く音がした。多分、ユナさんが帰ってきたのだ。
僕はその紙を検める事もせず、箱の中にしまい、光る小皿を持って玄関の方へ向かった。
「あぁ良かった。帰ってたんだね。遅いから心配してたんだよ」
「ユナさんこそ、どこ行ってたんですか?」
「湖で水浴び。今日は女の子専用の日なの」
灯りで照らされたユナさんはタオルを持ち、その髪は濡れていた。
肩の辺りで一本に縛られている普段の髪型とは違い、髪は何に束縛される事なく、ありのままの姿を現している。
ユナさんの髪は、肩甲骨の下辺りまで伸びていた。意識してみる事がなかったので、今まで気付けなかった。
黒々として真っ直ぐに伸びた、綺麗な髪だった。
ユナさんは、入浴したことでサッパリとした清々しい顔をしている。
いたって健康的な、普通の女の子だ。それなのに、ただ髪の毛が濡れているというだけで、僕はそこに隠微な色気を感じてしまっていた。
薄闇で、小さな光源のみの限定された視界のせいもあるだろうし、もちろん十六歳という思春期真っ盛りの年齢も大いに関係している。抗いがたく絶対的な力が働いている。
止める事など、できそうにない。
「どうしたの?」と声をかけられるまで、僕は数秒間ぶつぶつとそんな事を考えていて、ユナさんに見惚れてしまっていた。
朝の時とは異なる理由からくる恥ずかしさで、その夜も、僕はユナさんの顔を直視する事ができなかった。
翌日も、また一人で献血ルームのある場所へと向かった。まだまだ魔法についての調査は、完璧ではないと思っている。
ラパ達は、全員毛を刈り取られていた。
いかにも寒そうに見えたが、彼らには別段変わった様子はなく、その双眸にも不満の色は窺えなかった。
僕は毛の無いラパにも触れてみた。
肌自体は柔らかかったが、手触りとしてはザラザラしていた。すでに新しい短い毛が生え始めているのだ。
昨日と同じく「まぁぁ」と鳴かれたので、僕も真似して「まぁぁ」と答えてやった。
森に入ってしばらく歩いていると、遠くから草木を掻き分ける激しい物音が聞こえた。
音のした方向に目をやると、以前僕を襲った、巨大な牙を持った犬のような魔物が、猛烈な速度で近づいてきていた。
僕は驚き戸惑いつつも、とにかくナイフで指を傷つけ血を出し、魔法を使える体勢になった。しかし、それからどうするべきかは、何も考えつけなかった。
だが、牙犬の進行方向と僕の現在位置には、若干の誤差がある事に気づく。牙犬は僕を狙っている訳ではないようだった。
じゃあ何を? と牙犬の前方に注意を向けると、そこには、二匹のネズミの姿があった。
ネズミとは言っても、その大きさは三十センチ程にもなろうか。かなり大柄なものだった。
二匹は必死に逃げていたが、体格差のせいで、どんどんと牙犬との距離は狭まっていった。
そして僕から五メートルほど離れた地点で、とうとう捕まってしまった。
一匹は、そのするどい牙に刺し貫かれ、もう一匹は、前足の爪で体を切り裂かれ、その勢いでゴロゴロと僕の方に転がってきた。
それを追って、あるいは僕自身も狙うつもりで、牙犬はこちらに進路を変えた。
その右下から生える犬歯には、絶命したばかりのネズミの死体が垂れ下がったままだった。
僕はすっかり怯えて、足がすくんでしまっていたが、何とか身を守る方法を考えた。
以前とは違って、今の僕には魔法がある。この森に大規模な被害を出さないで済む魔法を……。
頭の中で、それが思い描けたと同時に、牙犬は突進してきた。
僕は「うわぁぁ」と叫びながら腕を振り、二者の間の大地めがけて血を飛ばした。
血は、透明な盾になり、壁になり、屋根になった。
ドーム状の氷を形成したのだ。
氷でできた、出口の無いかまくらだ。
分厚い氷の壁は、見事、牙犬の噛み付き攻撃を防ぎ、そして、そのまま彼をその体内に閉じ込めてもくれた。
牙犬は、不意に現れた壁に激突した事で、左上の牙が折れていた。しばらくの間は、その苦痛に喘いでいたが、やがて怒りの声を上げながら、自らを閉じ込める氷の牢屋を破壊しようと暴れだした。
しかしそのかまくらは、僕が思っていた以上に強固な物で、牙犬がいくら牙や爪をつきたてようと、びくともしなかった。
僕はこの間に逃げようと思った。
でもその時、牙犬の荒振る声とは別の、「キィ……」というか細い鳴き声が聞こえた。
爪で切り裂かれた方のネズミが、まだ生きていたのだ。その声は、もちろん人語では無かったが、助けを求めていることだけは伝わった。
僕はそのネズミを両手で拾い上げると、全力で村の方へと走った。
なんでこのネズミを助けようとしたのかなど、考えもしなかった。助けを求められて、体が勝手に動いたとしか、言いようがない。
息せき切って村に着く頃には、ネズミは目を閉じ、呼吸は浅くなっていた。
深い傷は内臓にまで達しているようだ。出血で僕の両腕は真っ赤に染められていた。
家にユナさんはいなかった。
僕は近くの家のドアを叩いて回った。どこにもユナさんの姿は無かったけれど、マチさんから牧場にいると思う。という情報が聞けた。
僕は疲労を訴える体からの信号を無視して、最後の力で牧場まで走った。
いた……。
ラパの毛を刈り取る作業をしているユナさんの姿が見えた。
まだ距離はあったが、僕はその時点で叫んでいた。
「ユナさーん! 助けて……。助けてくださーい!」
その声に驚いてこちらを振り向いたユナさんは、両手を血に染めた僕を見て、さらに驚いていた。
「この子を……お願い……助けて……あげて…治して……」
息絶え絶えにそれだけ搾り出すと、ユナさんはすぐに察してくれて、自らの血を、僕の腕の中のネズミに与えてくれた。
無残な爪あとは一瞬にして消え去り、出血も止まった。ネズミは弱弱しくも、呼吸は続けている。
助かったんだ……!
ネズミの命を救えた事、久しぶりに見たユナさんの血の神秘性、今さら実感した牙犬に襲われた恐怖感、そして事態が終わった安心感。
そんなごちゃごちゃな想いのせいで、僕は涙を流しそうになった。