五話 手伝 と 試行
寝室には当然のようにベッドが二つ並んでいた。
「どちらでも好きな方を使って」と、言われた。
僕がおそるおそる奥のベッドに入ると、しばらくして女の子、ユナさんが、空いているベッドに、これまた当然のように横になった。
同い年くらいの異性と同じ部屋で一夜を共にする。そんな破廉恥な経験をしたことが無い僕は、ある意味、昼間襲われた時よりもドキドキしていた。
ユナさんはすでに寝息を立てている。
まだ数分も経っていないのに、驚くべき寝つきの良さだ。
その安らかな呼吸の音が聞こえるたびに、僕は逆に興奮、いや、恐慌状態に陥った。
僕は雑念を振り払おうと寝返りを打って、ユナさんに背を向けた。
そしてぎゅっと目を瞑る。
別の事を考えよう。別の事……。そう、血について考えよう。僕の崇高で至高な血について。眠れない時、僕はいつもそうしていたはずだ。あんなに気高いものが、僕の全身を流れている様を想像しよう。いいぞ、段々落ち着いてきた。やっぱり血はいいものだ。血といえば、ユナさんの血は本当に綺麗だった。あんな綺麗な血が体内を巡るユナさんは、一体どんな人なんだろう。……ってだめだだめだ。そのユナさんが隣で寝ているんだ。意識を向けたらいかん!
ああだこうだと雑念が溢れてくる。
……僕は元の世界に戻れるのかな。
最後に申し訳程度の郷愁の念を抱いて、僕はようやく眠る事ができた。
「起きてくださ~い。朝ですよ~。梅沢さ~ん」
耳元で発せられたユナさんの大声に、僕は飛び起きた。
寝ぼけ眼の僕に笑顔を見せて、
「おはようございます」とユナさんが言った。
「おはようございます」と僕も言った。
「私、水汲みに行ってきますから、梅沢さんには薪割りお願いしていいですか?」
「は、はい」と返事はしたものの、僕の頭はまだ眠っていたので、その言葉の意味を理解してはいなかった。
ユナさんに、家の裏手にある薪割り場へ案内されてようやく目が覚めた。
振り返ると、すでにユナさんはバケツのようなものを持って、彼方に行ってしまっていた。
まいったな。薪割りなんてやったことないよ……。
とりあえずテレビで見た微かな記憶の映像を頼りに、見よう見まねで手斧を振り下ろしてみた。
狙いがずれて、薪はあらぬ方向へ飛んでいった。もう一度、今度はよく狙って振り下ろす。命中はしたが、斧の刃先が少々入った程度だった。
試行錯誤した結果、力を込めて振り下ろさない方が良い事に気が付いた。
金槌で釘を打つ要領で薪を叩き、刃先が入ったらさらにそれを押し込む。後は手斧にくっついた薪を、同じように土台に打ち付ければ、簡単に薪は真っ二つになった。
コツが解ると、段々楽しくなってきた。
十数本目の薪を叩き割った時、ユナさんが帰ってきた。
「ありがとうございます。食事にしましょう」
出された皿には、よく解らないものが乗っていた。直径二十センチくらいの平たい円形。白色で、粉物っぽい。
皿は一枚しかなく、同じ物を二人で食べるようだった。
ユナさんが、それを一口大の大きさにちぎって食べたので僕もそれにならった。
あ、パンだ。
コッペパンの味と食感だった。ただ単に、形が違うだけだった。
「薪割りやってもらって助かりました。あれ大変なんですよ」
ユナさんは寝起きのままのすっぴんだった。化粧気はなくても、その肌は雪のように白い。けれど、若さと表情のせいか顔には生命力が満ちていた。
「いえ、お世話になりましたからあれくらい……。他にもなんでもやりますよ」
「本当ですか。じゃあ今日からこの家の掃除係は梅沢さん担当でけって~い!」
「はぁ、掃除ですか」
「実は私、掃除が大の苦手なんですよ」
ユナさんは恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「そうなんですか?」
僕は家の中を見回してみた。特に散らかった印象は受けない。
「綺麗に片付いているじゃないですか」
「丁度、おとといに何年ぶりかの大掃除をしたばかりだったんです。昨日現れた梅沢さんは、運が良かったんですよ」
いたずらっぽく、ニシシとユナさんは笑った。
その顔の奥に、昨夜の夕食で使った鍋が洗われずに放置されたままなのを、僕は見つけてしまった。
「さて、私は今日もあの森に用事があって行きますけど、梅沢さんはどうします?」
そう問われても、僕にはやるべき事が何一つ浮かばなかった。
「村長さんの所に行ってみたらどうです? 何か手伝う事があるかもしれませんよ」
「じゃあそうしてみます」
家の前でユナさんと別れると、僕は言われた通り牧場に行ってみた。
村長は牛のブラッシングをしていた。牛達は、その順番待ちをしているかのように、行儀良く一列に並んでいる。
「おはようございます」
「おぉ! ユナんとこの。おはようさん。どしたい?」
「いえ、元の世界に戻る手がかりが何にもなくって、やることがないんです。だから何かお手伝いできることがあるかなぁと思って……」
「ほぉ~そいつぁ助かるわい。そいじゃな、こいつらの糞を向こうの農園まで運んでくれぃ。肥料にすっからよ」
「解りました」
僕はもちろんそんな作業はやったことがなかった。不安ではあったが、村長が親切丁寧にやり方を教えてくれた。
スコップで糞をかき集め、手押し車に移す。糞がある程度貯まったら、町の反対側の農園にそれを運ぶ。いたって単純な作業だ。
……やってみると、これが非常に重労働だった。
牧場は広く、牛の数も多い、糞もそれなりに重量があって、集めれば集めるほど手押し車が重くなっていく。
牧場を一回りするだけで僕の全身は筋肉痛になっていた。
しかも牛達は、僕が回収した後も際限なく糞をしていた。
これは何往復もする事になるぞ……。
僕はややうんざりしつつも、とりあえず、今集めた分を農園に運ぶ事にした。
何軒かの家の横をよろけながら通り過ぎ、村の反対側にある農園に辿り着いた。
背の高い植物群の陰に、人の姿が見えたので声をかけた。
「すいませーん」
「あぃ? だれだおめ」
村長と同年代と思しき、黒く日焼けした肌の男性だった。
「あの、村長の手伝いでこれを持ってきました。あ、僕は……昨日からユナさんの所でお世話になっている梅沢という者です」
献血云々、別の世界云々の話は長くなるので省いた。まぁ後で話す機会もあるだろう。
「あぁ、そうなん。わりぃね。んじゃ、その辺に山積みにしといてくれぃ」
僕は言われた通りの場所で手押し車を傾け、満載された糞を落とした。
「まだまだたくさんあったので、もう一回取ってきます」
「おぅよ」
牧場への帰り道、糞から離れたせいか、体に染み付いた臭いが気になった。
村長はまだブラッシングを続けている。牛の列は半分くらいに縮んでいて、すでに終わっている牛は、各々自由行動を楽しんでいた。
ごくろうさん。と言ってくれた村長に、僕は軽く手を挙げた。
そして二セット目に取り掛かる。
三セット目で、糞は大体取り付くしたと思う。牛達も消化が一段落したのか、新たに糞を生産することはしなくなっていた。
僕はまた重い手押し車を押して農園に向かった。
道中は、糞の臭いによる迷惑を懸念して、村を大きく迂回し、なるべく家の近くを通らないコースを選んだ。
肌の黒い人の姿は、農園より奥、湖の近くにあった。
足元には落ち葉の山がある。
僕は所定の場所に糞を下ろし、その後で彼の方に歩いていった。
「お待たせしました。多分これで最後だと思います」
「あんがとね。助かるよ。今からモロコシ焼くからちょっと待ってろよぉ」
「モロコシ?」
とうもろこしの事だろうかと思っていたら、黒い人の隣には、やっぱりとうもろこしが用意されていた。
「そうそう、俺ぁジョウっつーんだ。よろしくねぃ」
「こちらこそよろしくお願いします」
挨拶を済ますと、ジョウさんは小さなナイフを取り出し、自分の指を傷つけた。
指の腹を上に向けて、しばらく血が溜まるのを待つ。
やっぱり他人の血を見ても、何の魅力も感じない。
ユナさんが特別だったんだなぁ……。
頃合を見てジョウさんは血を落とした。
血は足元の葉っぱに当たると、小さな炎に変わった。炎は見る間に周りの葉っぱにも移り、火力を上げていく。
「焼けるまでしばらくかかっから、手ぇ洗ってこい」
僕は言われた通り、湖で手を洗い、ついでに顔も洗った。
「今のは、火を出す魔法ですか?」
戻ってきて僕は尋ねた。
「そうだよぅ。俺に使えんのはぁ、これだけだぁ」
「一種類だけですか?」
「皆そんなもんだろよぉ。別に不便じゃねぇし。指痛ぇしよ」
かっかっか、とジョウさんは豪快に笑った。
「ほれ焼けた焼けた。食ってみろ。食え食え」
ほんのりと焦げ目のついたとうもろこしを渡された。とても熱かったが、その香ばしい香りに食欲を刺激されて、僕はかぶりついた。
「……うまいっすね、これ!」
とても甘かった。チョコやジュースのような人工的な甘味じゃない。自然で優しい甘さだった。
野菜としては規格外に甘く、そして美味しいそのとうもろこしに感動した僕は、一本食べ切るまで休むことなくかじり続けた。
「うめぇかうめぇか。そいつぁよかった」
ジョウさんはまた、かっかっか、と笑った。
「ごちそうさまでした」
食べ終えた僕は、ジョウさんに僕の事情を話した。
ジョウさんの反応は、概ね村長がとったものと変わりがなく、元の世界に帰る方法も、もちろん知らなかった。
「そうですか……」
「あんま落ち込むなよぅ」
「……はい」
ジョウさんは水をかけて火の後始末をした。
「……僕にも、魔法って使えるんでしょうか?」
「そりゃ使えるんでねぇか? 試してみぃよ」
ジョウさんが、さっき使ったナイフを貸してくれた。僕はそれで左手の人差し指の先を小さく裂いた。
「何の魔法ができるでしょう?」
「そうだなぁ……。なんとなく心に浮かんだもんを念じてみんだよ」
心に浮かぶもの……。魔法といったら、やっぱりRPGに出てくるものが浮かぶな。
そうなると、さっきジョウさんが使っていたような、炎を出す魔法かな?
よし、とりあえずそれでやってみよう。
人差し指の腹に、小さな小さな血溜まりができた。多分、世界で一番美しい血溜まりだ。
僕は、炎ぉ! と念じながらそれを落とした。
血は、足元の地面に接すると、途端に高温を発する業火へと姿を変えた。
そして雲に届かんばかりの巨大な火柱が噴きあがった……。
……らしい。