四話 村落 と 名前
もう大分陽の傾き始めた夕暮れ時、僕達はようやく森を抜けた。
長時間歩いたせいで、僕は息も絶え絶えで疲労困憊していた。
それなのに前を歩いていた女の子は、少しも疲れた様子を見せていなかった。
見かけによらず体力があるんだなぁ……。
あんな細い体しているのに。
森を出ると平坦な草原が広がっていた。
勾配もなくて歩きやすい。僕は乱れた呼吸を整えることができた。
「お疲れ様でした。ここが私の住んでいるワコウ村です」
女の子は笑顔で村を紹介した。
1階建ての丸太小屋が六軒。
それぞれの家には畑らしきものが隣接している。
向かって右手側奥には、それらとは比較にならないほど規模の大きい広大な農園があった。
背の高いものから低いものまで、色々な種類の植物達が整列されて植えられている。
その中には見たことのない外見のものも多い。
その農園の奥には、これまた巨大な湖があり、太陽の光を反射して夕焼け色に染まっていた。
反対の左手側には、一部柵があり、柵の中には芝生のような草がぎっしりと生えていた。そしてそれを食べる動物の姿も、小さく見えた。
右が農園なら、こっちは牧場といったところだろう。
近代的とは言わないまでも、衣食住はきちんと整備されているようだった。
「思ったよりちゃんとした村ですね」
「どんなとこを想像してたんですか」
女の子はちょっとだけ笑顔のレベルを落とした。
「私の家はあそこなんですけど、まずは村長に事情を話しておきましょう」
そう言って女の子は牧場の方向へ進路を向けた。
歩いている最中、急に物陰から何かが飛び出してきた。
僕は驚いて「うわぁ」と声を上げてしまった。
「まぁぁ~」と、その何かは気の抜けた鳴き声を出した。
女の子は僕の反応を見てふふっと小さく笑った。
「そうか、パラも見るのは初めてですよね。この子はパラっていう動物で、このもこもこの毛を刈り取ったり、お乳を飲んだり、肉を食べたりしています」
パラと呼ばれたその動物の見た目は、ふわふわした毛に覆われていて、羊にそっくりだった。違うのは尻尾が豚のように細くて小さい事……。
それと、その目。
まるで少女漫画のキャラクターのように、パラの眼球は大きかった。顔の三分の一程度は、その二つの目で占められている。
どうやらパラにはまぶたが無いようで、僕がしばらく見ていてもまばたきは一切しなかった。
動物特有の、何を考えているのか解らない目。しかも、規格外に大きいそれが、じっと僕の事を見ている。それが不気味で怖かった。
「……家畜ってやつですか」
僕はその目に怯えながら言った。
「そう、家畜です。なんだ、家畜って言葉はそっちの世界にもあったんですね。無駄に説明苦労しちゃいましたよ」
女の子は、じゃああれは解りますか。と言って、牧場にいる動物を指差した。
差された動物は、牛だった。
「え……牛、ですか?」
「わぁすごい! そうです牛です。同じのがいたんですね」
「本当に牛で合ってたんですか!」
姿が牛で、名前も牛ならば、多分僕が知っている牛なのだろう。
この世界で初めて、僕の常識の中にいる存在に出会えて、僕は嬉しくなった。
小走りで駆け寄って、その牛に抱きつこうとさえした。
でも、牛の周りには無数の蝿が(蝿という名前かは解らないが)たかっていたので、やめておいた。
近くで見ても、やっぱり牛は牛だった。
小学校の頃に遠足で行った乳搾り体験で見たものと同じ外見。
それが確認できただけでも、良しとしよう。
僕がしげしげと牛を観察していると、女の子がさっきのパラを伴って追いついてきた。
やっぱり目が怖い。
「僕の世界では、乳と肉、牛乳と牛肉は、とてもポピュラーな飲み物食べ物でした」
「あらあら。ここでもそうですよ。本当に同じ生き物みたいですね」
女の子は両掌をぽんと合わせ、嬉しそうに言った。
でもどういうことなんだろう。
知ってる牛がいたかと思えば、見たことも無いパラなんてのもいる。
女の子との会話でも通じる言葉、通じない言葉があるし……。
一体この世界は何なんだ。
牧場の奥には、初老の男性がいた。
この人も、服装はともかく、その外見は日本人そのものだ。
白髪が八割を占めた頭髪に、垂れた目じり。温和そうな人だった。
「村長さん。こちらの方なんですけど……」
そう切り出した女の子の後に続いて、僕はさっき女の子に話した自分の境遇を、再度村長と呼ばれた男性に説明した。
「あらまぁ。そいつぁ難儀やのぉ。そっただ話は聞いた事もねぇけぇ、どうすっこともできねぇけどよ。まぁ食いもんくらいは面倒みてあげっからさ、しばらくはこの村にいていいで。そのうちなんかわかっかもしんねっからよ」
村長の言葉に、ありがとうございます。と僕は礼を言って何度も頭を下げた。
人の優しさにこれほど感謝したのは多分初めてだったと思う。
「じゃあおめぇん家で面倒見てやれ」
女の子に向けて村長は言った。
「はい。最初からそのつもりでしたよ」
「え! い、いいんですか?」
「もちろんですよ。でもその代わり、色々とお手伝いはしてもらいますからね。働かざるもの喰うべからずです」
女の子は笑った。んだんだと言って村長も笑った。僕は戸惑うばかりだった。
女の子の家は村の中で、一番森に近い位置にあった。
どこなく洋風な木製の家具類の中で、入り口近くにあるかまど(のようなもの)だけが浮いた存在だった。
「食事すぐ作りますから、座っててください」
女の子はかまどに木材やら綿毛やらを置き、その上に自分の血を一滴垂らした。
やっぱり、綺麗だ。
血は小さな爆発を起こし、火花が綿毛に引火し、さらに木材へと広がる。
便利なもんだ。
魔法がコンロの代わりになっているわけだ。
女の子は火が起こった事を確かめると、その上に鍋を置き、そこに様々な食材を入れた。
「おいしくなる魔法もかけときますからねぇ」
鼻歌まじりでそんなことを言うので、てっきり鍋の中にも血を入れるのかと思った。
どうやら僕の世界で使われているのと同じで、ただの比喩だったみたいだ。
「さ、できましたよ~」
女の子が料理の入ったお椀を持ってきて、僕達は食卓に向かい合って座った。
「じゃあ手を合わせてください」
僕は言われた通りに合掌した。
「いただきます!」
そんな風習も同じなのか。
僕は苦笑いしつつ、いただきます。と言った。
意外に馴染みやすい世界なのかもしれないな。と思った。
食卓に出された料理、見た目は味噌汁に似ているのに、香りはクリームシチューのそれに近い。
すくってみると、どろっと粘り気があった。
少し警戒しつつも、口に入れてみる。
「ん、うまい! これ、すごくおいしいですよ」
具材の1つ1つがホクホクとしていて、微かな甘味がある。塩味でコクのあるスープが、それをさらに際立たせていた。
誇張やお世辞ではなく、本当に美味しい。
「ふふふ。魔法が効いたみたいですね。どうぞたくさん食べてください。早くしないと、私が全部食べちゃいますからね」
そう言った女の子は、本当にすごいスピードで料理を食べだした。
大きめに切った具材を口に入れる度に、その顔は幸せそうにほころんでいく。
僕も負けじと口を動す。
そういえば昨日から何も食べていなかったから、とってもお腹が減っていた。
僕が三杯、女の子が四杯おかわりしたところで、鍋は空になった。
「ふぅ~。ごちそうさまです。本当においしかったです」
「私も。一人で食べるより誰かと食べた方が美味しいですね」
「この家には一人で?」
「ええ。ずっと……」
まずい質問をしてしまった。
何か適当な事を言って話題を変えなければ。
「そ、そういえば。この料理って何て名前なんですか」
「名前? うーん……名前ねぇ~。そう言われてみれば、何て名前なんでしょうね? いつもご飯とかスープとか言ってましたけど、正式な名前は……あるんですかね?」
僕に聞かれても困る。
まぁ身近すぎて、逆に名前の解らない物は僕にもあるし、そういうものかな。
そうだ、名前といえば……。
「あなたの名前! そうだ、まだ聞いていませんでしたよね。何てお名前なんですか?」
「そういえばそうでしたね。私、ユナって言います」
「ユナ……さん。どんな字ですか」
僕が尋ねると、ユナさんは急にしゅんとしてしまった。
「ごめんなさい。私、字の読み書きはできないんです」
「あ、いや。僕の方こそすいません」
余りにも普通の人と変わらないから、うっかりしていた。ここは(おそらく)日本ではないんだった。
識字率が日本ほど高くはないだろうし、それにたとえ字を書けたとしても、それが僕の知るひらがな、カタカナ、漢字、英語のいずれかである確率はかなり低めだと思う。
空気が重くなる気配を感じたので、僕は努めて明るめに言った。
「ぼ、僕は梅沢って言います」
僕は机の上で人差し指を走らせ、透明な文字で『梅沢』の字を書いた。
「梅沢……さんね。これからよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします。ユナさん」